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試し読み

密通の疑いをかけられ、志乃はその理由を聞く。【 蝉谷めぐ実『おんなの女房』試し読み#16】

デビュー作『化け者心中』で文学賞三冠達成!
最注目の気鋭が描く、いびつな夫婦の恋物語。

デビュー作『化け者心中』で小説野性時代新人賞、日本歴史時代作家協会賞新人賞、中山義秀文学賞を受賞。いま最も注目を集める歴史時代作家小説家・蝉谷めぐ実の第2作おんなの女房は1月28日に発売されました。
歌舞伎を知らぬ女房と、女より美しい“女形”の夫。やがて惹かれ合う夫婦を描くエモーショナルな時代小説を、まずは試し読みからお楽しみください。



『おんなの女房』試し読み#16

 何が気に障ったか知らないが、隠したのはなんとなくで、見せて困ることなぞ何もない。志乃は泥だらけの手を差し出して、その手を検分しようと伸びてきた手にぎょっとする。左の小指が一本欠けている。女伊達だてらに博奕ばくちを打つのか、もしや足抜けの花魁おいらんだったり。何かいわくがあるお人には違いがなくて、しかし、女にはそれを気にする様子はない。
「あたしには分かってんのさ。あんたの手はここんとこ毎日泥でべったりだったろう」
 ほら、爪の間も泥まみれ、と志乃の爪をかりかりと搔く。
「それがどうかいたしましたか」
 聞くと、女はふん、と鼻を鳴らす。
「あたしの宿は森田座の『なつまつり浪花なにわかがみ』に出ているのさ」
 志乃は顔を跳ね上げ、目の前のいわく女をじっと見る。
 今この人は、森田座と言っただろうか。それじゃあ、その下にくっついていた夏祭から始まるお題目は芝居のだいで、いや、でも、燕弥の話から拾い上げた演目の名は違っていたはずだ。ならば、この女は噓をついているとそういうわけか。
 だめだめ、その見立ては外れ。前に言ったはずだぜ、しんぞうさん。
 頭のうちに響いた声に、志乃はきしりと奥歯をむ。
 ひとたて目は時代物、ふたたて目は世話物。その間々に大部屋、見習い役者たちの幕が入る。日の出前の明け六つから、日が落ちる暮れ七つ半までぶっ通しでるんでさあ。
 そうか、だから一つの興行に二つの名題があってもおかしくはないのね。
 得心しかけた己に、ああ、と志乃はため息をつく。
 ついでに江戸には三つほど座というものがございまして、と奥役、善吉は森田座の遣いで家にくるたび、何かにつけて志乃に芝居の話をしたがった。なかむら座、いちむら座、森田座のこの三つしかお上の認可を受けておりません。この三つをほんやぐら、その控えにかりやぐらがございまして、本櫓の興行が立ちゆかない、差し止めとなった際にはこの仮櫓が代わって興行を行なってですね、なんて話が深くなってきたぐらいで、志乃は己の両耳にぐっと小指を差し込むことにしている。志乃は武家の女でなければならないのだ。芝居の話なんか頭に詰めて、武家のもとが薄まってはどうしてくれる。
 だから、このいわく女が密通も含めて芝居の話をしようとしているなら、早々に誤解を解いてお帰り願うべきだろう。役者の女房なんぞとお付き合いを深めるなんて、とんでもない。
 志乃は一呼吸置いてから、女に「それで」と静かに話しかける。
「夏祭とやらがどうかいたしましたか」
「それが浮気の証左だって言ってるのよ」
 首を傾げると、女はいきり立つ。
どろよ、泥場!」
「どろば」と聞き返しておいて、ああ、嫌な予感がする。耳をふさごうと思っても、その手をぎゅうと握りしめられては、どうにもできない。
「本当の泥を使っての場面に決まっているでしょう。ほんどろよ、本泥」
「ほんどろ」なんてつぶやきたくもないのに、繰り返してしまうのはどうしてか。
「あのほうすけめ、舞台の本泥のついた手であんたに触れるから、あんたの手もそうやって泥がついてるってえわけだろう!」
 なにからなにまで無茶苦茶だ。
「違います。この泥は先ほど大川にいた時の泥で」
「まだしらばっくれるとは、性根がずんと図太いね。そんなら、いいわ、夜な夜な手を擦りあったお相手とご対面といこうじゃないか」
 女は己のそでまくり上げると、そのまま志乃の手首を取った。
「ご対面って、あの、どこへ」
「芝居小屋ァ!」

(つづく)

作品紹介・あらすじ



おんなの女房
著者 蝉谷 めぐ実
定価: 1,815円(本体1,650円+税)
発売日:2022年01月28日

『化け者心中』で文学賞三冠。新鋭が綴る、エモーショナルな時代小説。
ときは文政、ところは江戸。武家の娘・志乃は、歌舞伎を知らないままに役者のもとへ嫁ぐ。夫となった喜多村燕弥は、江戸三座のひとつ、森田座で評判の女形。家でも女としてふるまう、女よりも美しい燕弥を前に、志乃は尻を落ち着ける場所がわからない。
私はなぜこの人に求められたのか――。
芝居にすべてを注ぐ燕弥の隣で、志乃はわが身の、そして燕弥との生き方に思いをめぐらす。
女房とは、女とは、己とはいったい何なのか。
いびつな夫婦の、唯一無二の恋物語が幕を開ける。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322102000165/
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