東京から大阪まで、日本の大動脈・国道1号に潜む恐怖を集めた実話怪談集『国道1号線怪談』。
その収録作の中から、怪談界の帝王・夜馬裕さんによるエピソードを、一編丸々全文特別公開!
静かに、確実に忍び寄る戦慄。語りの一行一行が、日常をじわりと侵食していく。
本物の怪談を、その目で確かめてください。
『国道1号線怪談』収録
夜馬裕「されど知るや、一 寸 先の闇の深さを」試し読み(角川ホラー文庫)
突然、耳の奥がキーンと鳴って、周囲の音が遠ざかった。
視界が狭まり、軽い
以前、貧血で失神した時の感覚に似ている。まずい、意識を失うのだろうか。
原因はわかっている。仕事が忙しくて、ここ数日、ろくに眠っていないからだ。
ただ、倒れて救急車などを呼ばれてしまっては、得意先への外回りから帰社する前に、公園のベンチで息抜きしていたことがバレてしまう。
今月は決算期なので、すでに19時を過ぎているが、退社している同僚は一人もいないだろう。期末まであと数日。課せられた予算を達成するのに全員必死なのだ。
なんとか公園を出て、地下鉄の地上出口付近まで
新しい人事担当役員は、「効率的な労務管理」の名の下に、全社員のパソコンを監視するソフトを導入した。おかげで、クリックひとつに至るまで、パソコンで行った全情報が、システム管理部のサーバに二年間保存されるようになった。
通常の社員は問題ないが、自分のようなリストラ予備軍は、人事部とシステム管理部が合同で結成した監視チームから、常時行動を見張られている。先日も外回りの途中に寄ろうとランチの店を数分ネットで検索しただけで、翌日上司に呼び出され、業務時間にパソコンを私的利用した旨で
期末の繁忙期にもかかわらず、真っ直ぐ帰社せずに公園でひと息ついたことがわかったら、今期二度目の譴責処分を受けたうえで、間違いなく減給処分になるだろう。
早くここから移動しなくては。そう思って立ち上がろうとしても、身体がまったく動かない。大げさではなく、指先ひとつ動かすことができないのだ。
一瞬頭に過労死の文字がよぎったが、視界が狭く感じるだけで、意識を失うことはなく、全身に痺れがある以外には、目立った痛みや苦しさもない。
しばらく混乱していたが、久しぶりに経験する「金縛り」だと気づいた時、視界の先にある大噴水の縁から、人間の上半身らしきものが、ずるり、と姿を現わした。
びしゃっ。
湿った音が閑散とした広場に響く。
前に垂れた長い髪と、ノースリーブの服からのぞく丸みを帯びた二の腕。
水から
噴水の前にあるベンチに腰かけて、もう三十分近く休憩しているので、噴水に入った者など一人もいないと断言できる。
だとしたら、今見ているモノは、いったい何だ――。
女は噴水の縁から這い出ると、びしゃっ、と地面に
びしゃっ ズルッ びしゃっ ズルッ
女は、ゆっくりと、でも明らかに自分のほうへ近づいて来ようとしている。
びしゃっ ズルッ びしゃっ ズルッ
噴水からこのベンチまで、30メートルもない。
もう半分ほどの距離まで近づいてきている。
垂れた髪のせいで表情はあまりわからないが、隙間から
怖くて逃げたいのだが、必死に身体を
びしゃっ ズルッ びしゃっ ズルッ びしゃっ ズルッ
女は前腕だけで器用に進むと、いよいよ自分の足元まで這い寄ってきた。
間近で見る女は、上半身こそ赤いノースリーブの服を着ているものの、下半身は濃い霧のように
湿って
微動だにできないまま、冷や汗だけが頰を伝っていく。
女は上目遣いでこちらを強く
冷たく濡れた女の手が、自分の両足首をギュッと
あまりの恐怖と不快感に、胸の内で、声にならない悲鳴をあげ続けた。
やがて足首から全身へ激しい悪寒が走り、意識が遠退くのを感じていた。
*
これは、東京都在住の
登場する公園は、1903年(明治36年)に開園し、120年以上の歴史を持つ、日本初の近代的洋風公園としても名高い都立「
日比谷公園は、
洋花・洋楽・洋食という三つの「洋」を日本に伝える文化の発信地の役目も担っており、敷地内には野音の聖地である大音楽堂と小音楽堂のほか、日比谷公会堂、日比谷図書文化館、
また、日本の公園の父と呼ばれた
そして何より、日比谷公園のシンボルとして忘れてはならないのが、小音楽堂前の広場に設置された「大噴水」である。
建造されたのは1961年。水盤が三段に重なった特徴的なデザインで、最下段の水盤は直径30メートル、水は12メートルの高さまで上がる巨大な噴水だ。
大噴水の周りにはたくさんのベンチが設けられ、公園を訪れる人たちの憩いの場として長らく親しまれてきた。田原さんが女を見たのは、まさにこの場所である。
日比谷公園は、長い歴史を誇る公園の割に、心霊的な目撃談や体験談は少なめだ。それでも「夜の公園で女の霊を見た」「広場に無数の人影を見た」という話は、何人かに聞かせてもらったことがある。
一番目撃談が多いのは大噴水なのだが、いずれもシチュエーションがたいへん似ており、「噴水から女が出てくる」という話は、まことしやかに噂されてきた。
私は二年前に田原さんからこの話を聞いた時、貴重な体験談ではあるが、大噴水前の女の話は、「もうじき消えゆく噂」として受けとめてしまった。
というのも、東京都は2021年に「都立日比谷公園再生整備計画」を打ち出しており、開園130年を迎える2033年までに、公園の再整備を段階的に進めることが決定されており、現在の大噴水は取り壊されて、よく似た形のまったく新しい噴水に建造し直されることがわかっていたからだ。
ただ一方で、再整備により1000本近い樹木が伐採される可能性があることや、大噴水や音楽堂など歴史ある建造物を壊して建て替えることには批判の声も多くあり、また一等地の公園を観光資源やイベントスペースとして活用しようという、都の商業的な考え方に反対する意見もあり、計画発表から現在に至るまで、再整備への反対運動や署名活動が頻繁に行われている。
そうした反対運動や署名のニュースを目にする機会が多くなった2024年の秋、田原さんから「また大噴水前で霊を見た」という連絡があった。
以下は、一年半振りに会った田原さんから聞いた話である。
女を見て
期末の大事な時期だったので、部署の風紀を乱したという理由で期内二度目になる譴責を受け、三か月の減給と降格処分が下された。
以来、上司から外回りの営業を禁じられ、部署内の事務や雑用ばかりを命じられるようになった。最近では、若手社員も馬鹿にした口調で、「おっさん、これやっとけ」と当たり前のように雑務を押しつけてくる。
上司や同僚からは「まだ辞めないの?」と嫌味を言われ続ける毎日だが、五十代では一般企業に転職先はなく、また
妻には「仕事を辞めたい」と相談してみたが、「家のローンを支払い終え、息子が大学を卒業するまでは、何があっても今の仕事を続けてくれないと困る。家族を養う約束と責任は果たしてほしい」ときつく言われてしまった。
確かに、結婚を機に妻に仕事を辞めさせ、家事と子育てに専念するよう頼んだのは自分である。家のことは妻にまかせ、思いきり稼いでくればいいと思っていたのだ。
若い頃は営業成績も上位で、それなりに優秀だったはずだ。でも、新しい技術やシステム、考え方についていけなくなった。変化し続けることを求められたが、やがてそれに疲れ、心身を擦り減らしながら周囲から取り残されていった。
その頃からである。仕事の合間に、日比谷公園へ足を運ぶようになったのは。
変化や挑戦だけで世界は良くなるのか。立ち止まることは許されないのか。
古く歴史ある公園の静かな
女に遭遇したせいで社内の立場が悪化したというのに、
最近では、退社後は必ず公園に寄り、ぶらぶらと散策したり、ベンチに腰かけたりして数時間を過ごした後、終電で帰宅する生活だ。
都の再整備のせいで、取り壊しの予定が具体的に決まってからは、大噴水の前で過ごす時間が多くなった。何十年も稼働したのに、壊して新しいものにされてしまう。大噴水と自分の境遇は、どこか重なるものがあった。
実は、あの女がまた現われてくれないかと、心
自分で死ぬのは恐ろしいが、誰かの手で優しく終わりを迎えさせてほしい。
そんなことをボンヤリ考えて噴水前のベンチに座っていたある晩、
次の瞬間、大噴水を乗り越えるようにして、大きな黒い塊が姿を現わした。
噴水の縁からドサッと地面に落ちたものは、女の姿ではなく、大きな黒い芋虫のようで、それがグネグネと身を
不気味ではあるが、不思議と怖くはない。ただ、あれはいったい何だろう。
よく見ようとして目を凝らしていると、真横から低い男の声が聞こえた。
「女の姿は、怒り、憎しみ、
でもあれは違う。
金縛りのせいで顔は動かせないが、かろうじて目だけは動くので、視線を横に向けると、ベンチのすぐ隣にいつの間にか人が座っているのが見えた。
顔までは見えないが、スーツ姿の男性で、声の雰囲気から若者ではなさそうだ。
「女はただの恐怖。でもあれは救済です。身を
男が穏やかな声で語りかけてくる。
あの黒い塊を、受け入れろということか。
今の自分にとって「救済」というのなら、それはおそらく――。
黒い塊があと数メートルの距離に近づいた時、それを
男は険しい表情のまま手を振りかぶると、思いきり頰を引っぱたいてきた。
バチン。顔を
「叩いてごめんなさい。どうしていいかわからなかったものですから。本当は調査対象に名乗ってはいけないんですが、実はこういう者でして……」
若い男はそう言って、興信所の名刺を差し出してきた。
驚いて話を聞いてみると、男は興信所のスタッフで、毎晩帰りが遅いので女の存在を疑った妻に、浮気調査で雇われているのだという。
興信所の男性は、もう一週間、退社後の尾行を続けており、自分が毎晩公園で時間を
今日は横に座った男と会話をしている。念のため相手の写真を撮影しておこうと望遠カメラを向けたところで、
ベンチには、調査対象と同じ顔、同じ格好の男が座っていたのだ。
まるで分身したかのように、まったく同じ人間が二人並んでいる。
ただ、レンズ越しにはっきり姿は見えているのに、撮影した写真の画像には何も映っておらず、ベンチには調査対象者しか座っていない。
どうするかしばし悩んだが、
若い男から経緯を聞いたところで、改めて周囲を見渡すと、隣に座っていた男も、黒い芋虫のような塊もすっかり消えてなくなっていた。
田原さんは最後に、「きっと、危ないところだったんでしょうね。あの黒い塊に触れるか
大噴水に女が出る話は幾つか聞いたが、黒い塊が出る話は初めて聞いた。
でも、人生に絶望し、生きる気力を失くした人の
これまでも、人の諦めや絶望、虚無感が形を成した黒い塊は、姿を現わし続けていたのかもしれない。本人と同じ顔の男は、さしずめ死の使いといったところか。
私が「無事で良かったですね」と言うと、田原さんは自虐的な笑みを浮かべた。
「私はね、拾った命だと思って、もう会社も辞めよう、退職金を元手に妻と二人で人生をやり直そうと決意したんです。でもその気持ちを妻に伝えたら、『会社を辞めるなら退職金を全額渡して離婚してほしい』『それができないなら、どんなに辛くても定年まで給料を稼ぐのが夫の務めでしょう』と冷たく言われました。何も変わりませんでしたよ。仕事はまだ続けているし、今でも公園にも通っています。でもね、次のチャンスは逃しません」
本稿を執筆するにあたり、私は2025年2月に田原さん宛てに下書き原稿を郵送して確認を依頼したのだが、3月に奥様から電話連絡があり、田原さんは1月にお亡くなりになっていること、死因は心不全であったこと、2024年の12月頃から、「俺は大嫌いな会社からも、冷たい女房からも逃げて、あっち側へ行くんだ」という内容のことを、とり
亡くなった日、田原さんはいつもよりも早く帰宅すると、改まった雰囲気で奥様に「世話になった」と頭を下げ、そのまま寝室で横になった。
ちょうど0時頃に田原さんの大きな
「
そう頼まれたので、補足として奥様から聞いた話を記しておきたい。
まず、夫は一切家事や子育てをしない人で、すべて私に押しつけてきました。
精神的に辛い時も、病気の時も、「お前の仕事だ」と何ひとつ手伝ったり、助けてくれたことはありません。「そのかわり稼いでくる」と威張っていたのだから、会社の居心地が悪いからといって、意地でも勤め上げるのは当然のことでしょう。
まるで自分が、夫を追い詰めた冷血漢のように書かれるのは心外です。
夫婦仲は冷めていましたが、本気で離婚しようとは思っていませんでした。夫がきちんとこれまでの態度を見つめ直し、本当の意味で手を取り合っていくつもりなら、私はそれで構わなかった。でも夫は、自分のことを省みようとはしませんでした。
それに、夫の魂が救われたとは思えないんです。確かに寝室に入る前は、穏やかで幸せそうな顔をしていました。でも最期の顔は、恐怖と苦痛に襲われたのか、白目を
あんな顔をして亡くなった人間が、穏やかな死や救済を受けたはずがありません。
夫は弱さに負けて、何か恐ろしいものに魅入られてしまったんでしょう。だからこの原稿を読んだ人は、万が一にも夫と同じような救済を望まないでほしいんです。
奥様からの願いは、筆者である私からの願いでもある。
静かな虚無や暗闇は、傷ついた心にとって、最後の救いに思えるかもしれない。
でも、私たちは忘れてはならないのだ。
日比谷公園の大噴水は、2025年2月26日から、惜しまれつつも本格的な取り壊しがはじまった。原稿を執筆している2025年4月現在では、2026年度中にノズルや照明を追加して、多彩な演出ができる新しい大噴水が完成する予定だ。
田原さんが新しい大噴水をどう思うかはわからない。それでも本書を手に訪れて、亡き田原さんのことを
(他の国道1号線怪談は本書でお楽しみください)
作品紹介
書 名:国道1号線怪談
著 者:吉田悠軌 夜馬裕 黒木あるじ 村田らむ 大島てる 田中俊行
発売日:2025年06月17日
通る者すべてを呑み込む実話怪談アンソロジー。
見慣れた道、見知らぬ恐怖。
東京から大阪まで、東西を結ぶ日本の動脈・国道1号。
この道は、古の東海道を受け継ぎ、時代を超えて人々の恐怖を映し出す。
東京・日比谷公園の噴水から這い出る黒い塊。
神奈川・鶴見に出没する謎の“猿”。
静岡の海岸沿いに眠る首塚の祟り。愛知の神社に伝わる禁忌。
三重・1号線沿いの忌まわしい事故物件。滋賀・琵琶湖に沈む数々の事件。
京都・市内で忽然と消えた道。大阪・淀川の河川敷に埋められた闇――。
恐怖は、確かにこの国道に息づいている。
道を辿るごとに、異形があなたの日常を侵食する。
気鋭の怪談作家たちが紡ぐ、戦慄の書き下ろし実話怪談集。
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