『天地明察』『光圀伝』『はなとゆめ』と歴史小説を書き継いできた冲方丁が、決定版と言える作品を発表した。タイトルの「麒麟児きりんじ」が指し示す人物は、二人いる。幕末の偉人、勝海舟と西郷隆盛だ。この二人が何を成したかは、歴史が教えてくれる。旧幕府軍と官軍との間で開幕する寸前だった全面戦争を、言葉によって止めた。いわゆる「江戸無血開城」はどのように実現したのか? 主人公の生涯を余すところなく追っていった過去三作とは異なり、冲方は今作でこの一点にこだわり作品世界を築き上げた。
 総ページ数の七割弱は、わずか三日間の出来事の記述に割かれている。語り手は、かつ麟太郎りんたろう(のちの海舟)。慶応四年(一八六八年)三月一二日、江戸の自宅で待機していた勝は、伝令の山岡やまおか鉄太郎てつたろうから吉報を受け取った。官軍の実質的な総大将・西郷隆盛が、旧幕府軍側の降伏を認めるための「非戦の条件」七つを示したのだ。幕府中枢の大久保おおくぼ一翁いちおうは、徳川慶喜らと掛け合うために「我らに一日の猶予を与えよ」。日付変わって三月一三日、まずは返事をもう一日待ってくれという要望を通すため、勝は西郷との会談に臨む。そして三月一四日、最終会談で勝が手にしていたのは、七つの条件を何一つ受け入れないとする幕府軍側の書状だった。さあ、ここからどうやって状況を引っ繰り返すか? 武器を持たない会話バトルの始まりだ。
 勝は絶対降伏の姿勢は保ったままで、この条件はこれこれこういう理由で受け入れるのが難しいと率直に告げる。その弁舌に西郷がほのかな理解や共感を示したならば、そこへつけ込んで新たなロジック(言い訳&屁理屈)を次々と繰り出していく。一方の西郷も、相手の立場への理解はあれど簡単には引かない。だが、その毅然とした態度は、会談場の外で耳を澄ましている味方へのアピールでもある……という描写に、作家の筆は乗る。「勝という強敵に対抗できるのは西郷だけ」。味方にそう思わせることができているからこそ、西郷が最後にくだす決断に、味方も付いていけるのだ。この会談は、ガチンコではなく、一種のプロレスだった。だからこそ作家は「麒麟児」の称号を、勝だけでなく、西郷にも与えたのだ。
〈いい風が吹いていた〉という冒頭の一行を皮切りに、作中に風が吹き荒れていることを見逃してはならないだろう。勝と西郷の二人の会談で印象的に挿入されていくのも、溜め息や怒気、笑いと緊張をはらんだ息の描写だ。声に出して言葉を発するということは、相手に向かって息を吐くということ。いわば小さな風を起こすことだ。その風が集まって、歴史が生まれる。勝は、師匠筋に当たる清河きよかわ八郎はちろう佐久間さくま象山しょうざんを「時代を推し進めた、風雲児ってやつさ」と評している。その一語を、自らと西郷に当てはめようとはしない。過去から吹く風に乗るのでも強めるのでもなく、風を束ねることこそが、自らの仕事だと認識しているからだ。
 四月三〇日で平成が終わり、五月一日から新元号の時代が始まる。つまり、歴史が変わる。歴史という名の風と真正面から向き合った、二人の麒麟児の姿には、今こそ学ぶべきメッセージが宿っている。

>>冲方 丁『麒麟児』

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東山彰良『夜汐』(KADOKAWA)
やくざの蓮八は殺し屋・夜汐に狙われる。身を護るべく京都の新選組と行動を共にするが、愛した女からの手紙で心が動く。幕末の政治情勢なんて自分には関係ない、ただ会いたい! 夜汐に狙われ新選組に追われながら、蓮八が女の待つ江戸へひた走る姿を綴る異形の歴史小説にしてロードノベル。

書籍

『麒麟児』

冲方 丁

定価 1728円(本体1600円+税)

発売日:2018年12月21日

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    書籍

    「小説 野性時代 第183号 2019年2月号」

    小説 野性時代編集部

    定価 864円(本体800円+税)

    発売日:2019年01月11日

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