本屋大賞作家・冲方丁氏待望の歴史長編『麒麟児』が2018年12月21日に発売となります。5年ぶりの歴史長編となる『麒麟児』で冲方氏が描くのは、勝海舟と西郷隆盛。幕末最大の転換点、「江戸無血開城」を命を賭して成し遂げた二人の“麒麟児”を描く、著者渾身の歴史長編です。

本作の発売を記念して、12月7日(金)より12月19日(水)まで計13日間連続での試し読みを実施いたします。『麒麟児』の「序章」と「第一章」、総計82ページ(紙本換算)、約4万字を発売前にお読み頂けます!


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 序章 焼却の策


 一

 いい風が吹いていた。
 全身に濃密な潮の香りを浴びているせいで己の肌まで真っ青な海の色に染まりそうだ。
 透き通るような快晴である。だが気分はひどかった。最悪といっていい。
 勝麟太郎かつりんたろう舳先へさきにしがみつくようにしながら、船に波濤はとうがぶつかるたび、胃の腑まで上下に揺れる思いを繰り返し味わっていた。
 船については多くの知識を修めたし、操船の訓練にも何度となく立ち合った。軍艦奉行のお勤めを頂戴する以前から、船を見るだけでわくわくしたものだ。最新鋭の船に乗って異国の地に赴くことを思うと、いまだに血が沸騰するような興奮を覚える。
 だが現実には、船旅は勝に容赦のない試練を与えた。船酔いである。訓練でもどうにもならない。個人の体質によるものだった。これだけは体が慣れてくれるまで如何いかんともしようがない。だが勝の体は一向に船の揺れに慣れてくれなかった。船底で腹這はらばいになろうと、甲板に出て体を動かそうと、ふと息が詰まる感じに襲われるや、次の瞬間にはぞっとするような虚脱感とともに激しい吐き気がこみあげてくるのだ。
 今も、そうだった。いや、こいつはとりわけひどい。勝は、ぎらぎら輝く波濤を睨みつけ、いったいなんだってこんな目に遭うのか、どんな因果の種がこのおれの体に植わっていやがったんだと無窮の空へわめき散らしていた。
 そうしていると空の彼方かなたに人の顔が浮かんで見えた。公家好みの化粧などしている。顔色は悪く、いかにも憔悴しょうすいした面持ちだった。洋服で、お飾りの刀を肩からかけていた。
 大坂おおさかから逃げ帰ってきた、徳川将軍・慶喜公だった。
(頼む、安房あわ――)
 しわがれた声で慶喜の顔が言った。実際のところ慶喜はそんなことを言ってはいない。単なる勝の思い込みである。現実の慶喜は、どれほど窮地に立たされようとも容易たやすく他人を頼る男ではなかった。
 勝にしても、今さら将軍様に安房などと官名で呼ばれることに何のありがたみも感じてはいなかった。
 今や将軍をはじめ幕府高官の官位はことごとく剝奪されている。譜代大名たちの中には自分から官位を捨て、朝廷との縁を切って徳川家につくと吠える者もいる。
 そもそも、幕府高官が官位を失う以前に、勝を無役に等しい身にしたのは慶喜なのである。軍議に参加することはかなわず、おかげで幕府や諸藩の動きをただ傍観するしかなかった。
 慶喜もその周囲の人間も、誰も彼も、思い切りののしってやりたかった。だが言葉が出ない。込み上げてくる吐き気で息が詰まった。
 気づけば海も空も真っ暗になっている。慶喜の顔も見えない。びゅうびゅう吹きすさぶ風の音で耳がどうにかなりそうだ。
 ――こりゃあ、たまんねえや。
 すっと腕の力が抜けた。大波がぶつかってきた拍子に、しがみついていた舳先から振り落とされた。勝は激しい嘔吐おうと感に襲われながら海へと転げ落ちた。
 慌てて水をかこうとして、手が、畳をばしんと叩いた。
 その音で、はたと目が覚めた。
 己がどこにいるのかわからなかった。
 わからないまま、夢を見ていたことは理解した。暗い海に落ちたのではない。そのことに安堵したが、忌々しいことに吐き気は夢から醒めた後も消えてくれなかった。
 がばっと身を起こした。
 今いる場所が、自室であることを確認した。御城でも陸軍所でも、あるいは築地つきじの海軍所でもない。自宅の部屋である。
 確か、夜っぴて市内をかけずりまわったため、ちょっとひと休みしたくて、布団も敷かずに自室の畳の上で大の字になったのだったか。いや待て、御城に行ったんだっけか。
 うろ覚えである。このところ毎日が忙しすぎて、朝に誰と会ったか、夜になるといまいち思い出せなくなることが多々あった。
 それでもなんとか思い出そうとしながら、足早に部屋を出て、かわやへ入った。
 入って後ろ手に戸を閉めるなり、狙い澄まして、げえっと吐いた。
 二度三度と嘔吐えずくうち、気分が良くなってきた。
 もう大丈夫かなと思ったが、念のため最後にいっぺん、おえっとやっておいた。胃液しか出なかった。だが気分はすっきりした。
 念入りに吐いてのち、口元と顔の脂汗を拭い、涼しい顔になって廁を出た。
 我ながら慣れたものである。御城でもお勤め先でも、たいてい気づかれない。家人などは勝が普通に廁に入って出てきただけと思っているから心配もしない。いや、近頃は日に一度は命を狙われるのだから、勝に関しては心配することが多すぎて廁のことまで気にしていられないのかもしれない。
 お陰で、この吐き癖についてとやかく言われないのが楽だった。
 勝〝安房守あわのかみ〟こと麟太郎、のちの名を海舟かいしゅう。このとき四十六歳。
 小兵だが剣術で鍛えた体躯たいくはどこも引き締まっている。気力胆力は横溢おういつしているといっていい。それなのに、重大な局面が迫ると、決まってよく吐いた。神経が弱いと思われるのがしゃくで人には話さないが、こればかりは船酔いと同じで、どうしようもなかった。
 気がたかぶり、血が沸くと、胃がひっくり返って中身をぶちまけたがるのである。たっぷり吐けば体も気分もすっきりするのが船酔いと違うところだった。吐いた後はなんの異常もない。むしろ士気快然となることの方が多い。
 薄暗い部屋に戻り、再び自室の畳に腰を下ろしたとき、もう寝る気は失せていた。
 ――確か、大船に乗っていた。けしからんほど揺れる大船だったな。
 大海原を見た気がするので、きっと咸臨かんりん丸に乗って太平洋を横断したときの記憶だろう。五年か六年ほど前だったっけか、とひとりごちた。細かい年数はすぐに忘れる男だが船酔いの辛さは骨身にしみている。船内ではほとんど病人のように過ごし、ずいぶん悔しい思いをさせられたものだった。
 それに比べれば、今は心気も澄み、肉体も健全そのものである。むしろ体が火事場の馬鹿力を出そうとして、勢い余って胃をひっくり返してしまうのだ。そう理屈をつけ、勝手に納得していた。
 ――そういや、なんだか、えらく虫の好かねえのが出たような。
 夢で見た誰かの顔を思い出そうとした。ああ、慶喜公か。思い出せてすっきりした。
 ――このおれに、拝むような目を向けていたっけか。
 誇張ではなかった。大坂から江戸に逃げ帰った慶喜は数日にわたり、それまでの態度からは考えられないくらい、人に意見を請うた。相手が誰であれ意見を聞くというので、建白する者が後を絶たなかった。ひたすら休まず聞き続けたため、ただでさえ弱っていた慶喜がいっそう憔悴するさまを小姓たちがしきりに心配したという。
 勝は割と最初の方に意見を述べた。御城でではなく浜の海軍所でである。そのとき自分は何を口にしたか。
「大政奉還の大義を救い給わん」
 確かそんなようなことを言った。私心私欲を排して公に尽くし、上下の身分を廃して真に有能な者たちによる大会議で国政を再生させ、外国を打ち払う「攘夷じょうい」などという絵空事を忘れて、諸外国と対等たる開国を実現すべきである。いつも自分が考え、人に話すことを、そのまま慶喜相手にも述べた。
 それが、約二ヶ月前のことだ。
 勝の言を、慶喜が真面目に受け取ったかどうかはわからない。だがその後、慶喜が断行した城内諸役の大異動において、勝は軍艦奉行から海軍奉行並に昇進させられ、かと思えば陸軍総裁に任ぜられた。
 陸軍所は、幕府の主戦主張派の筆頭格だった。主戦の根拠は、フランス人を教師として迎えていることにある。フランスは幕府支援を約束し、慶喜に官軍との決戦を促そうとしていた。
 勝はといえば、そんなフランスが大嫌いで、陸軍所の面々を心底うとましく思う、和議交渉派の一人である。その勝を、あえて陸軍総裁に据えた。慶喜の意図は明白だった。
 フランスを切れ。主戦派を切れ。何とかこれ以上の戦を止めろ。和議にこぎ着けろ。
 これまでの自分の働きを漠然と思い返した。ついでに今日の日付も思い出した。勝にしては珍しいことだった。いつも暦というものに無頓着で、大事なことを記録しておこうとすると、たいてい日付がわからなくなり、適当に書くという悪癖があった。
 だが今は、ほんの数日、あるいは数刻で、状況が一変しかねない危急のときである。そのせいで普段はいい加減な勝の日付感覚も正確だった。
 ――慶応けいおう四年(一八六八年)の三月十二日。
 勝は立ち上がって雨戸を開けて縁側に出た。明け始めた空の下で、びゅうびゅう風が吹いている。思わず、不敵な笑みが浮かんだ。
(――いい風じゃねえか)
 江戸の空っ風だ。からからに乾き、濛々もうもう砂塵さじんを巻き上げ、ときに土くじりなどと呼ばれる旋風と化す。この大都市が築かれて以来、ちょっとした火種を、たびたび大火災へと変貌へんぼうさせてきた風だった。
 ほこりっぽい風の中に歩み出て、くっくっと笑った。
「こいつはよく燃えるぜえ。なあ、おい」
 軍艦にまつわるお勤めのおかげで天候を読むすべには長けている。雨になる気配はない。少なくとも数日は空っ風が吹き続けるだろう。
 江戸を業火で包むには、もってこいの天気だった。
 
(第2回へつづく)
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書籍

『麒麟児』

冲方 丁

定価 1728円(本体1600円+税)

発売日:2018年12月21日

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    書籍

    『天地明察(上)』

    冲方 丁

    定価 596円(本体552円+税)

    発売日:2012年05月18日

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