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試し読み

【12・21発売】冲方丁最新歴史小説『麒麟児』13日連続試し読み 第2回

本屋大賞作家・冲方丁氏待望の歴史長編『麒麟児』が2018年12月21日に発売となります。5年ぶりの歴史長編となる『麒麟児』で冲方氏が描くのは、勝海舟と西郷隆盛。幕末最大の転換点、「江戸無血開城」を命を賭して成し遂げた二人の“麒麟児”を描く、著者渾身の歴史長編です。

本作の発売を記念して、12月7日(金)より12月19日(水)まで計13日間連続での試し読みを実施いたします。『麒麟児』の「序章」と「第一章」、総計82ページ(紙本換算)、約4万字を発売前にお読み頂けます!

>>第1回から読む。

 二


 焦土戦術というものをいつ学んだかは不明だが、勝はその効果を確信していた。
 フランス人やイギリス人ですら、勝がその戦術の話をすると、はっと息を吞んで青ざめるほどだった。特にフランス人は、過去にナポレオンという王が同様の戦術で無惨な撤退を余儀なくされたという歴史があるとのことで、いっそう戦慄した。
 日本にも同様の戦術についての記録があった。文禄ぶんろく慶長けいちょうの役だ。豊臣秀吉が朝鮮半島に送り込んだ兵の多くが、焦土戦術によって飢えに追い込まれたという。
 侵攻される場所そのものを業火の海に沈める。後には何も残らない。肉を切らせて骨を断つどころではなかった。あらゆるものを捨て去るのだ。歴史を、人々の生活を、築いてきた全てを。それら何もかもを犠牲にする地獄の策だった。
 濛々たる風の中に佇み、勝は笑って呟いている。
「今このとき、ゆいいつ何の心配もいらねえことさね。無事に火が付くか、なんてのはよ。江戸は燃えるぜ。燃えるんだよ。どこもかしこも、あっという間に火炎地獄さ」
 これが今まさに江戸に攻め入らんとする官軍を迎えるにあたっての最後の策だった。本気で抵抗する意志がなければ、交渉もくそもない。意志がないことなどすぐに見抜かれる。
 勝はそう自分に言い聞かせながら、真に頼れる男のことを思っていた。
 あの男なら、すぐに見抜く。
 西郷吉之助さいごうきちのすけであれば、こっちが本気であることを理解してくれる。
 そう信じ、二人の使者を送った。勝はその返事を待ちわびていた。
 東征大総督府参謀たる男の返事を。
 天皇自らが発せられた詔により、東征大総督として有栖川ありすがわの宮熾仁みやたるひと親王を戴き、幕府軍を討伐すべく京都を進発した官軍五万。
 その天地を震撼しんかんせしめる大軍勢を、実質的に率いる勇士。それが西郷吉之助(のちの隆盛)だった。
 勝は徹底的に、この清廉の巨漢に賭けた。独断でそう決めた。西郷なら自分の意図を汲んでくれる。そして、滅亡を目前としたこのときに最後の機会を与えてくれる。
 そう読んで、ひとたび抱いた確信に沿ってあらゆる手を打った。そして、些細な状況の変化で動揺する人々、暴発したくてたまらない人々を制止することに、己の全精力を傾けた。
 今どき二手三手先を読むなど当然のことだ。それができねば時代の変化という激流に吞まれて滅ぶ。それができなかったから徳川幕府は瓦解への道を転げ落ちた。乾坤一擲の大勝負で、負けに負けた。いっそせいせいするほどの負け方だった。
 ここで同じように負けるわけにはいかない。そのために勝は、焦土戦術について自ら言いふらした。イギリス側には抗戦を、フランス側には不戦を告げて牽制しつつ、どちらに対しても、江戸を焼き払う可能性についてほのめかした。
 イギリス公使は、日本最大の輸出品である生糸の貿易が途絶えることを懸念するはずだ。イギリスにとっては見過ごすことのできない被害である。
 むろん、ただ吹聴したのではない。いつでも実行できる準備を整えている。
 焼討手当という名目を主として、二百五十両の軍費を幕府に割かせ、江戸市中で放火の準備をさせたのである。
 最初に頼んだ相手は、新門辰五郎しんもんたつごろうという男と、その配下の火消したちだ。
 辰五郎は、町の火消しであり、鳶とび職であり、顔役であり、俠客きょうかくでもあるという異色の男だ。勝の父と親しく、勝がまだ無役の頃に塾を開いて糊口ここうをしのいでいたときなど、
「おぇの喧嘩上手は、おとう譲りだねぇ」
 勝の剣の達者なのを、そんな風に誉めてくれたものだ。
 父が別宅でぽっくり逝ってからも、辰五郎はとりわけ勝によくしてくれた。
 勝は、辰五郎宅を訪れ、己の役目と、講じねばならない策、そしてまたなぜそのように思い至ったかを、じっくり語って聞かせた。辰五郎はじっと勝を見つめ、
「おれや子分どもでよけりゃ、いつでも御用に役立ててくれ」
 やがて、どっしり腹の据わった調子でそう告げた。
「請け合ってくれますか? 大変な仕事ですよ。歴史に汚名が残る」
「何を言うんだい。お前ぇさんのその高い志が、どうして汚名になるかね。汚名といやぁ、今の将軍様と旗本連中だろう。味方を残して江戸に逃げ帰って来た将軍様と、女子どものように閉じ籠もって隠れている旗本連中に比べりゃ、お前ぇさんこそ武士の鑑だ」
 武士身分などいずれ消滅すると公言する勝としては、いろいろくすぐったい言葉だ。
 ともあれ、市中では将軍敗走の風聞が広まり、女子どもを連れて逃げ出す者が後を絶たず、
「江戸を戦に巻き込む慶喜など切腹してしまえ」
 という痛烈な批判が、往来で口にされているときに、徳川方の勝を信じてくれたのである。
 勝は彼らに感銘を受けるとともに、
 ――いよいよ実現させちゃならん策になってきやがった。
 実行を準備すればするほど、巻き込む者の多さに、我ながら戦慄した。
 火消しほど、街のどこに火を放てばいいか熟知している者はいない。彼らは火消しであると同時に大工でもあった。延焼を防ぐために、的確に家屋を破壊し、また再建する。どこが江戸の弱点か知り抜いていた。
 火の動きを読めるということは、救助すべき場所も、そのすべも知っているということだ。勝は、彼らに火薬と油を渡し、放火の準備をさせると同時に、大量の船を用意させ、江戸の住人を速やかに火から逃す算段も講じさせていた。
 むろん新門辰五郎だけでやれるわけがない。勝は市中の親分とか親方と呼ばれるような者たちに片っ端から会いに行った。
 吉原よしわら金兵衛きんべえ元氷川もとひかわ権二ごんじ赤坂あかさか薬罐やかんはち清水しみず次郎長じろちょう草苅くさかり正五郎しょうごろう――いずれも名の知れた俠客や、頭と呼ばれて子分に慕われている人物たちである。男だけでなく女にも頼んだ。松井町まついちょう松吉まつきち八百松やおまつ深川ふかがわのおこんといった、いわゆる顔の利く女たちだ。それ以外にも会った者を数えればきりがない。
 その全員に、勝はきっぱり腹を割って頼んだ。
「官軍が攻め込んできて、江戸が火の海になったときは、お前さんの助けが必要なんだ。どうか市中の人々を助けてやってくれ」
 そして、具体的な救助方法や経路を相談して回った。もちろん慶喜の身の安全も考えている。いざとなればイギリス船に乗せて亡命させる手配もしていた。
 こうした焦土戦術の周到な準備が、薩摩側に漏れないわけがない。江戸市中にうごめく薩摩の密偵たちは、勝が本気で江戸を焼こうとしていることに衝撃を受けただろう。ただちに官軍の将たる西郷に報せたはずである。
 幕閣の面々もこの勝の動きには目を剝いた。だが、誰も止められなかった。最終的には、和議のためにそうしているのだと、勝が猛烈な気魄きはくを込めて説き、押し通したのだ。
 慶喜が短期間で幕閣の改造を断行したことも、勝にはありがたかった。特にフランスを切る役目を与えてくれたことで、かつて慶喜から受けた手痛い仕打ちに対する思いも解消されている。
 フランスはなんとしても幕府に戦わせたがった。徳川家をはじめ、諸藩が内乱で疲弊してくれた方が、彼らにとっては都合が良いに決まっている。幕府の味方をするのでも、どこの藩の援助をするのでもいい。フランス軍を進駐させ、あわよくば自らの傀儡かいらい政権を打ち立てられれば万々歳だからだ。
 この煮ても焼いても食えないフランスに助けを求めたのが、他ならぬ幕府の主戦派だ。もっともこちらは慶喜が排除を決めただけでなく、勝手な皮算用が原因で、見事に失敗してくれている。
 なんでも、税関の収入を抵当にし、フランスから借款して軍資金に充て、フランス軍も招き入れて薩長を討とうという計画があったらしい。だが結局これはフランスの甘言に過ぎなかった。軍資金を集めるよう命じられた者たちは、フランス滞在中の外国奉行に従って彼の地に渡ったものの、金など集まらなかった。
 フランスから軍資金と兵を調達するという策を主導していた元陸軍奉行・小栗忠順おぐりただまさは、この事態に蒼白となった。それでも慶喜に主戦を説いた。
「どうか軍艦を大坂に進め、反撃の狼煙のろしを」
 そうこいねがったが、あっさり慶喜に罷免された。
 勝は、この小栗らの失敗を、
「国家万年の幸い」
 と断言した。
 小栗はかねて勝の外国の知識と先見の明を買って大いに誉めていたらしいが、このときはあたかも仇敵きゅうてき同士であるかのように論を異にしている。
 慶喜のそうした幕閣の改造は、単に和議の下準備に終始しなかった。譜代大名・外様大名を解任し、旗本だけを家臣としたのである。
 ただ穏健派で固めるというのではないということを、勝は見抜いていた。勝と同じように政権から遠ざけられ、このたび復帰した大久保おおくぼ一翁いちおうなどもそうだ。
 慶喜の狙いは、幕府解体だった。自ら、徳川家を一大名とすべく家臣団を再編したのである。それは、幕府の秘中の秘たる策であった、
 ――大政奉還。
 その一事を貫くためであると勝は知っていた。慶喜が内心を他者に語ることはなかったが、それでもわかった。だからこそ、勝もここまで尽力する気になれた。
 たとえ、その幕府の秘策が、このとき考えうる限り最悪のかたちで潰されかけており、他ならぬ慶喜自身がその失敗の原因を作ったといっていい状況であっても、
 ――大政奉還こそ大義にして正義。
 勝は、慶喜の真意を汲んだ上で、そう信じた。
 逆に、その真意を汲めず、ことの意味がつかめなかったのが、少し前の幕閣の面々であり、また会津藩や桑名藩といった佐幕、即ち幕府の補佐に徹しようとした諸藩だった。
 慶喜の考えの全てとはいわないが、おおよそのことを勝は理解している。
 ――幕府も諸藩も、瓦解寸前。侍という身分など、いずれ消えてなくなる。それが時流である。
 それが慶喜の考えだった。勝も同感だった。勝が頼りにする西郷もそのはずだった。
 将軍自ら、幕府の限界を訴える。もし正しくその態度が共感を呼んでいたなら、事態はまったく違った様相を呈していたはずである。
 その理想は、真に能ある者たちによる大会議で国の未来を決める体制を作ることだ。
 柔軟で清新な共和制が実現していたかもしれない。
 そうなれば諸藩が一致団結した武力を背景とし、尊皇攘夷などという馬鹿馬鹿しいうたい文句を綺麗さっぱり忘れ、諸外国との対等な開国をなしえていただろう。
 勝はいっときその夢を見た。たとえ現実には、ぼろぼろにほころんでいても、正しい義であると信じることができた。それこそ、勝がこれまで困惑させられどおしだった慶喜という男がくれた、最高の褒美だった。
 それに比べて、新政府が天皇を最高権力者として新しい国を作るとする〝王政復古の大号令〟は、関わる者たちの私利・私欲・私怨しえんが強すぎた。慶喜と幕府、会津と桑名に対する、憎悪の産物だった。すでにして、参集する者たちの欲得の大鍋と化していると勝は見た。
「あんたも、実際そう思ってるんじゃねえのかい?」
 勝が、昇りゆく太陽に背を向けるようにして呟いた。
 官軍の錦旗きんきをかざし、西から大軍を率いて迫る男に向かって。
 西郷吉之助という男に、実際に面と向かって言ってやるつもりだった。
 自分の焦土戦術ですら、大義に欠けた政権が生まれて横暴を尽くすことに比べれば、大した被害とはいえない。これから誕生する新政権が、慶喜の首をね、かつて敵対した者をことごとく殺戮するような愚昧ぐまいなしろものならば、徳川も薩長も関係なく、いずれみな諸外国の餌食となる未来が訪れるほかないのだと。
 勝から笑みが消えた。口の中の埃を唾と一緒に吐きだした。
「なあ、これで、おしまいにしようや」
 ここで、この国の内戦に終止符を打たねば、ここで終わらねば、皆殺しだ。国の終わりだ。胸中で呟きながら我知らず西方を睨んでいた。冷徹な殺気に満ちた顔だった。
 徳川幕府、その最後の年において。
 風は唸りを増して吹き、町を焼く火を待ちわびるようであった。

 
(第3回へつづく)
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