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試し読み

志乃の家に、続々と豆腐が届く。届けに来るのは、奥役の男。【 蝉谷めぐ実『おんなの女房』試し読み#9】

デビュー作『化け者心中』で文学賞三冠達成!
最注目の気鋭が描く、いびつな夫婦の恋物語。

デビュー作『化け者心中』で小説野性時代新人賞、日本歴史時代作家協会賞新人賞、中山義秀文学賞を受賞。いま最も注目を集める歴史時代作家小説家・蝉谷めぐ実の第2作おんなの女房は1月28日に発売されました。
歌舞伎を知らぬ女房と、女より美しい“女形”の夫。やがて惹かれ合う夫婦を描くエモーショナルな時代小説を、まずは試し読みからお楽しみください。



『おんなの女房』試し読み#9

 豆腐を盆にのせて戻ってきたあの日はしようをぽっちり垂らして食べた。次の日も豆腐がご所望とのことだったから、豆腐を崩して酒と醬油でりつけて、さんしようをまぶしたあらがね豆腐にして食べた。飽きませんかと聞いたら、飽きませんとだんさまが言うので、志乃は『とうひやくちん』を購った。百種もの豆腐料理が記された本だが、まあ、あと二、三種ほどでなべしきに様変わりするだろう。そう高を括っていたというのに、まさか、こんなに使い込むことになろうとは。
 醬油染みのついた紙をめくったところで、がらりと格子戸を開ける音がして、志乃は大きなため息を吐く。
「御新造さん、お届けにあがりましたよう」
「またですか」
 はじける声に、志乃は洗い桶に水を張る。抱えて板間まで運んではみたが、桶行列に横入りさせる隙間がない。だというのに、男は志乃の抱える桶の中へといくつもそれを滑り入れる。
「こいつがきたこんちようとお屋さん。一代で成り上がった呉服屋さんです。おな人気が欲しいでしょうねえ。そんでこいつがおうぎちようたに屋さんだ。ここで舐める温燗ぬるうめえのなんのって」
 店の名前は慌てて書きつけたが、この家にはもう桶を置くところなぞどこにもないし、腹の中は骨と肉の間だって隙がない。そう訴えたが、男はその大きいどんぐりをぱちくりとさせる。
「いえいえ、御新造さん。これからじゃあねえですかい」
 この男が胡座あぐらを組むと、家が余計に狭くなったように見えてならない。大柄な上背に合わせて、にっかり歯を出して笑うその口も大きい。
「幕が上がってまだ十日も経っていやしません。森田座にとんでもねえ若女形が出てきたってんで、やっとこさかみがたまで噂が流れついた頃合いだ」
 志乃は己の腹に手を当てた。おそらく腹の虫は昨日か一昨日おとといかで、死んでいる。
「もっともっと届けられるはずですぜ」
 家の中に並べられていく、大量のこの豆腐に押し潰されて。
 この男が突然家を訪ねてきたのは五日前のことだった。豆腐をどっさりと持ってきて、贔屓からの祝儀でごぜえやす。笑みのまま出て行こうとするものだから、袂を引っ張り名を聞けば、ぜんきち、燕弥のおくやくをしていると言う。奥役というのは役者の世話役らしいが、志乃はここで待ったをかけた。夫の仕事を深くは聞かない。次の日にまた善吉が来ても、志乃は女らしく部屋の奥に引っ込んで黙っていた。しかし、豆腐がどんどんと玄関に届けられていく。このままでは布団も敷けなくなってしまう。仕方なく、志乃は応対するようになった。
 土間に座り込む善吉に麦湯を出しながら、志乃は聞く。
「役者への祝儀は、豆腐と決まっているものなんですか」
 えっ、と善吉は茶碗から口を離した。
「決まってやしませんよ。豆腐を祝儀として運んだことなんて初めてのこってす」
「あら、それならどうして豆腐なの」
 尋ねると、御新造さん、と一寸ばかり硬めの声が返される。
「もしや、役者の女房さまでいらっしゃるのに此度の芝居の内容をご存知でない?」
 押し黙る志乃に、善吉は「噓です噓です大丈夫ですよう」とへらりとする。
「そういうお内儀さまもおりやすからね。舞台の上であっても、自分の旦那が誰かと口説き口説かれて、しまいにゃお布団に二人くるまっての濡れ場なんざ見たくないってんで、一生芝居小屋には足を運ばない方もいらっしゃいますから」
「それは当たり前のことでしょう?」
 強い物言いになっていることは己でもわかった。
「旦那の仕事場に女房が顔を出すなんて言語道断でございます」
「なるほどなるほど」善吉の顔が近づいて、目頭についた目やにまでがよく見える。「そういうところが良いんですねえ」
「そういうところ?」
 一人うんうんと頷く善吉に眉を寄せると、「でも、御新造さんはどうなんです?」と善吉はまたもや志乃の顔を覗き込んでくる。
「御新造さんは此度の芝居のお話、聞きたいとは思いやせんか?」

(つづく)

作品紹介・あらすじ



おんなの女房
著者 蝉谷 めぐ実
定価: 1,815円(本体1,650円+税)
発売日:2022年01月28日

『化け者心中』で文学賞三冠。新鋭が綴る、エモーショナルな時代小説。
ときは文政、ところは江戸。武家の娘・志乃は、歌舞伎を知らないままに役者のもとへ嫁ぐ。夫となった喜多村燕弥は、江戸三座のひとつ、森田座で評判の女形。家でも女としてふるまう、女よりも美しい燕弥を前に、志乃は尻を落ち着ける場所がわからない。
私はなぜこの人に求められたのか――。
芝居にすべてを注ぐ燕弥の隣で、志乃はわが身の、そして燕弥との生き方に思いをめぐらす。
女房とは、女とは、己とはいったい何なのか。
いびつな夫婦の、唯一無二の恋物語が幕を開ける。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322102000165/
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