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試し読み

【試し読み】好きな人に振り向いてもらうため、M-1優勝をめざす! 上村裕香がおくる大学お笑い小説『ぼくには笑いがわからない』冒頭特別公開!

好きな人をぼくが笑わせたい。
真面目な大学生・耕助は"恋"と"自分のことば"を手に入れるため漫才を始める!
一方、学生お笑いの注目株であるミーレンズのボケ・四郎は、点数をつけられる怖さとたたかっていて――


デビュー作『救われてんじゃねえよ』(新潮社)で話題をさらった新鋭・上村裕香さんによる小説『ぼくには笑いがわからない』がついに発売!

本記事では刊行を記念して、物語の冒頭を特別公開します。
京都を舞台に繰り広げられる、全力青春お笑い小説をどうぞお楽しみください!

上村裕香『ぼくには笑いがわからない』試し読み

第1章 耕助


 バシ、とあささんがしようきちの肩をたたくのと同時に、会場が揺れた。笑い声。並べられたパイプ椅子ごと揺らすみたいな、大きな笑いの波が起こる。
 会場の隅で、ぼくは困惑しながらふたりを見ていた。笑いは粒になって全身に降りかかってくるから、疎外感を生む。周囲の観客たちが肩を揺らめかせるなかで、ぼくだけがぽつんと宇宙に放り出されたみたいに、胸がざわめく。
 ステージの上に立つ日浅さんと将吉が、急に遠く感じられた。小劇場なんて文化的な場所にいることそのものが、ぼくみたいな勉強しかしてこなかった人間には非日常で、身体がついていかない。
「お客さん、おれをバカにして笑ってんでしょ! ひどいなあ。日浅さんも手加減してください。おれ前説なんてはじめてなんすから!」
 黒シャツの脇の色を濃くしてつばを飛ばす将吉は、言葉よりずっと余裕そうだった。十年近く一緒に過ごしてきたおさなじみだと思えないくらい、遠く感じる。ことばが反響する。ステージ上で交わされる日浅さんと将吉のやりとりに、お客さんがまた笑った。
 ぼくにはできないことばの扱い方だった。目を細める。子どもが人気のおもちゃをうらやましげに眺めるように、いいなあって。
 小劇場は大学からかもがわ方面にいまがわ通りを十分ほど歩いた場所にあった。京都の大学生活、というワードで想起されやすい、時間の流れがゆったりしたエリアだ。神社仏閣と古書店、スーパー、大学、飲み屋が集まる学生街。
 小劇場の座席は七割ほど埋まっていた。一般に名が知れていない芸人の単独ライブにしては、上々の集まりなのかもしれない。大学で見かけたことのある学生の姿もあった。自分の場違いさに気まずくなってくる。
 トイレに行くふりをして外に出よう、と席を立った拍子に、持っていたレモンサワーのカップが前の人の肩にぶつかった。レモンサワーが大きく波打ってカップからこぼれる。
「あっ、すみません」
 謝ったと同時に、前に座っていた人がパッと振り返った。
こうすけくん?」
 肩口で切りそろえられた髪が、振り向いた反動で揺れる。
 顔を見て、心臓が跳ねた。さん、と口が勝手に動く。
 汗と制汗剤と香水の混じったにおいがした。長いまつ毛が、頰に影を作っている。会場全体を覆う赤いライトに照らされ、頰が火照って見えた。あるいは、本当に酔っているのかもしれない。百合子さんがお笑いライブに来ているなんて夢にも思っていなかった。心の準備ができていなくて、心臓が跳ねたまま、静かになってくれない。
「百合子さん、レモンサワー……」
 すみません、ともう一度謝る。慌ててカバンを探るけど、ハンカチなんてしやたものは入っていなかった。差し出せそうなものは、カバンの底でくしゃくしゃになっているレシートくらいだ。百合子さんは「大丈夫だよ」と落ち着いた様子でポケットからハンカチを取り出し、肩をいた。
「耕助くんも拭いて。手、ベタベタでしょ?」
「すみません」
「いいってば。ていうか、来てたんだ?」
「はい。将吉に誘われて。あと、日浅さんにはレポート見てもらったりしてお世話になっているので」
「日浅さんって面倒見いいんだ。さんくさいおじさん、って感じなのに」
 百合子さんが半身だけぼくのほうに振り返った格好で、ステージに目をやる。
 ステージに立つふたりは、体格がアンバランスで、妙に漫才師っぽかった。背が低くて少しぽちゃっとしているけれど、目鼻立ちが整っている将吉と、のっぽでせ型の日浅さん。日浅さんは色白で、のっぺりとした薄い顔立ちだ。四十代後半くらいの元放送作家で、うちの大学の出身だからか、頻繁に大学に顔を出しては、OBとして後輩たちを飲み屋に連れていったり、大学の地下でひっそりと営業しているバーでシェイカーを振ったりしていた。将吉がそのバーでバイトをはじめたのをきっかけに、ぼくも通うようになり、知り合った。
 ふたりは会場のお客さんに出身県を聞いては「もしかして、ドイツですか」とまったく的外れな場所を言って、お客さんに「そんなわけないでしょー」と怒られて笑っていた。アットホームな空気で、時折、ゆるい笑いがさざなみのように起こっては消えた。
 ステージから目を離した百合子さんが、椅子から腰を浮かした。
「となり、行っていい?」
「は、はい、もちろん」
 ぼくが答えたときには、百合子さんはぼくのとなりに座っていた。
「耕助くんもお笑いライブとか来るんだね。大学か図書館かアパートの外階段ですれ違うときくらいしか見かけないから、常に勉強してないと死ぬのかと思ってた」
「死なないです」
「いや、わたしも本当に死ぬと思ってるわけじゃないけどね?」
表現ですよね」
「比喩っていうか、冗談? 耕助くんはよく『冗談通じない』って言われるでしょ」
「言われませんよ。そもそも、ぼくに冗談を言う人はいませんから」
「あら……」
 百合子さんは困った顔をして笑った。彼女は近くの芸術大学の四年生で、ぼくと将吉のひとつ先輩だ。油画を専攻しているらしい。ぼくの通う大学の地下で営業しているバーの常連客で、将吉や日浅さんとも仲がいい。初対面はインカレサークルの新歓だったけれど、サークル活動にいそしんでいるのは見たことがなかった。ミステリアスな人なのだ。バーで話すうちに、ぼくと同じアパートに住んでいることが判明し、以来、友人のような付き合いを続けていた。
 彼女の爪の先にはいつも絵の具がついていて、時々つなぎを着ているのも見かける。百合子さんはアトリエで油画を描いていると陶芸科の後輩男子が窓からのぞいてきて集中できない、と愚痴ってから、「でも、絵はいい感じに仕上がってるんだよ。『この作品は芸術だ、芸術はエクスプロージョンだ!』って教授にも褒められて」と髪の毛を指先にくるりと巻きつけ、はにかんだ。さすが、真の芸術家です、すごいですね、センスある、壮大な才能を感じます、と以前将吉に教えてもらった『さしすせそ』構文に沿ってあいづちを打つぼくに、百合子さんが聞いた。
「耕助くんは?」
「ぼくですか?」
「うん。最近はなに勉強してるの? 耕助くん、文学部なんでしょ」
「えーと、いまは言語と身体性の関連についての論文を書いています。言語学者のソシュールはことばを言語ラング話し言葉パロールにわけた。ソシュールの講義ノートをまとめた『一般言語学講義』によると、言語とは言語活動ランガージュという能力の社会的生産物であり、社会体によって採用された必要な慣習の総体である。ぼくにはそれがどうにも居心地が悪い。そこで、ボルノーが『言語と教育』で述べているような『人間とは言語という媒介物によってのみ実在への通路をもつ』という考え方を援用して、この社会においての自己の身体と言語を使用する自己の関係性を……」
「あはは」
 百合子さんが突然、笑い声を上げた。変なタイミングで笑った彼女に、数人の観客が振り返る。ぼくは口をつぐんで、百合子さんの顔を見た。照明の色はいつの間にか変わり、青っぽい照明になっていた。百合子さんの頰が青白く光り、くぼの部分だけがぽっかりと暗かった。
「ごめん、すごい早口だったからおかしくて」
 すっと笑窪が消える。もっと見ていたい、と思った。「でも、あんまりお外で研究の話をまくし立てないほうがいいよ、女の子が好きなのは『知的な雰囲気』であって『き出しの知』じゃないから……」とたしなめられて、反応に困って社交辞令で笑ってくれたんだって、さすがのぼくにもわかる。それでも、もう一度見たいと思ってしまった。百合子さんに、笑ってほしい。
 ぼくが続けてことばを発するより先に、大きな拍手が起こった。
 ステージから将吉と日浅さんがけていく。はやが鳴り、入れ替わるようにスーツ姿の男性がふたり出てきた。日浅さんの知り合いだという今回の主役の芸人だろう。芸人という職業の人を生で見るのははじめてだった。「はいどうもー!」とサンパチマイクに向かって叫び、一礼する。
 黄色いネクタイをしているほうの男が「びやくなかで『さんじようけいはん』です。ぼくが才能のあるほうで」と名乗ってとなりを見る。背の高い男が「……おれが才能のないほうです、って言うしかないやんか! そのフリは!」と男を叩いているフリをする。ポカン、と見ていたら、背の高い男と目が合った。
「ほら、はじめておれたちの漫才観てくれるお客さんもいるんやから。ちゃんと紹介して」
「じゃあ、ぼくが水虫じゃないほうで」
「……おれが水虫のほうです、になるやろ! なんやねん水虫のほうって!」
 百合子さんがとなりで笑い声を上げた。会場のお客さんも、静かに笑う。どう笑っていいのかわからなかったけど、ぼくも口を大きく開けた。目の前で繰り広げられているのは、ことばを使った芸だった。その「ことば」は、口から出る音のことだけを指すわけじゃない。身振り手振り、表情、声音、視線の向き。ぜんぶを使って、目の前のふたりはことばで人を笑わせていた。
 百合子さんの表情をうかがう。笑窪が見えた。頰がパールを載せたみたいに細かくきらめいている。まぶたの裏に、蛍光灯を見つめたあとの光が残像として残っていた。百合子さん、と声をかけたい衝動をこらえて、前を向く。ことばを操れないぼくじゃ、彼女にもう一回笑ってもらうなんて無理だと思った。



 カーテンの隙間から、朝日が差していた。
 ちょうど顔を覆うように差す光のまぶしさに、目を覚ます。枕元にあったメガネを手探りで取って掛ける。メガネのとなりに置かれたハンカチに手が触れた。昨日、百合子さんから貸してもらったハンカチだ。思わず手に取って、そっとにおいをぐ。レモンサワーのベタッとした甘味料と、百合子さんがつけているローズの香水のにおいがする。
 洗濯して返さないと、と思いつつもこの部屋には洗濯機がないので、忘れないように枕元に置いていた。四畳半の部屋は、大半の面積を本棚が占め、梅雨になるとカビ臭くて寝ていられない敷布団と枕、小さなづくえ、実家からもってきたアンパンマンシールの跡が残っているカラーボックス以外にはなにもない。
 本だけはたくさんあった。山積みの洋書と和書が、ソシュールとチョムスキーが、しまやなぎくにが、『言語学への招待』と『ことばとは何か』が、ウィトゲンシュタインとラッセルが、なんの隔たりも順序もなく並べられたり、並べられていなかったりした。大学の近くの古本屋で買ってきたものばかりで、紙はいろせ、ページをめくるたび、カビ臭さに顔をしかめた。しもがも神社の納涼古本まつりで買った古本から虫が湧き、てんやわんやしたこともある。
 ぼくは本棚から一冊本を取り出して目を通し、二日酔いの頭痛を和らげようとした。活字中毒ならではの対処法だ。文字を読めば頭痛が和らぐ。本を棚に戻し、文机に置いてあった胃薬の瓶のラベルの最後の一行まで読み終えたところで、カンカン、と外から階段を降りる音がした。このアパートは壁が薄いので、となりの部屋の人が爪を切る音まで聞こえる。
 ぼくは文机の上に置いていた紙の束を引っつかみ、部屋を飛び出した。予想通り、黒髪ボブの後ろ姿が見えた。
「百合子さん!」
 声をかけると、百合子さんは踊り場で振り返った。まゆの下がった表情でぼくを見る。
「偶然ですね」
 ぼくは息を切らして言った。百合子さんの眉がさらに下がる。
「ええ、昨日ぶり」
「昨日ぶり」
「もっと言うと、一昨日おとといさき昨々日おとといも、こうやって……ここで会ったよね。この踊り場で」
「そ、そうでしたっけ」
「うん。わたしが大学に行こうとすると、耕助くんが降りてくる」
「ハハ、偶然ですね」
 ぼくは冷や汗をかいた。偶然を装って声をかけるのも、そろそろ限界かもしれない。
 昨日あのあと、お笑いライブ中に寝こけてしまったぼくを、日浅さんが「耕助くんはほんまに笑いのわからへん子やな! おっちゃんが教えたるわ!」と連れ出したことから発生した飲み会に、百合子さんは来ていなかった。だから、日浅さんにしこたま飲まされ二日酔いのぼくと違って、百合子さんは今日も元気に一限に間に合う時間に家を出ている。
 ぼくは飲み会でのてんまつを話してから、勇気を振り絞って、持ってきた紙の束を百合子さんに差し出した。
「あの、これ。よかったらもらってください」
 勢いよく出しすぎて、紙を留めた大きいサイズのゼムクリップが百合子さんの手にガチッと当たった。「す、すみません」と謝る。
「なに? コレ」
「ぼくの論文です。ソシュールの理論を下敷きに……」
「あ、昨日言ってたやつだ。えーと、ラングドシャだっけ?」
「惜しいです。ラングとパロール。まあ、この論文の主題はそこではなく、シニフィアンとシニフィエの結びつきを各個人がいかように認識しているのかという記号論的な……」
「わかった、わかった」
 百合子さんが完全にじゃれついてくる犬をなだめる口調で言う。
「わたしが受け取っていいの? わたし、論文なんて読めないし読んでもわからないと思うけど」
「いいんです。ぼくの、気持ちなので。受け取ってもらうだけで」
 ぼくは顔が熱くなるのを感じた。告白してるみたいだ。
「念のためにぼくの電話番号、書いておきますね。いつでも電話してください。教授との面談中以外は出られます。あと試験中と電車乗ってるときとお入ってるときと学会発表で『素人質問で恐縮ですが』って質問されてるとき以外は……」
「わりと出てくれないじゃん」
「い、いつでも! 絶対出ます!」
 論文の余白に電話番号を書き込み、ついでに「この余白はLINEのIDを書くには狭すぎる……」と書いておいた。百合子さんは「余白、そんなに狭くないけど」と首を傾げつつも、論文を受け取ってくれた。階段を降りていく後ろ姿に、ガッツポーズをする。一歩前進だ。

 夜、晩春の生暖かい風がぴたりと止み、半袖だと肌寒いような時間帯になって、大学の地下にあるバーに顔を出すと、いつも通り将吉がカウンターに立っていた。
「おまえも懲りないよなあ」
 百合子さんに論文を渡したと話すと、将吉はため息をつきながらジンバックを作ってくれた。将吉は理系だから、論文を渡しても「文系の論文は小難しくてわからん」と読んでくれない。百合子ちゃんだってどうせ読まないぜ、というのが将吉の見解だった。カウンター越しに向き合って、反省会をする。ぼくのとなりの席でウイスキーをちびちび飲んでいた日浅さんも首を突っ込んできた。
「百合子ちゃん、絶対読まへんやろ。いまごろ絵の具のついた筆をれいにする紙になってんちゃうの。アレのことなんていうか知らへんけど。絵の具のついた筆を綺麗にする紙にさあ」
「なんで二回言うんですか」
「二回言ったらウケるかなって」
「ウケないです。ぼくの気分が沈むだけです」
「耕助くんはいつもウケてへんなあ」
 大学地下のバーは、教育学部棟の中庭にある階段を降りた場所でひっそりと営業していた。手すりはあかび、階段のコンクリートブロックはひび割れている。階段を降りると、鉄製の扉があり、それを押し開くと革張りのソファがまず目に入る。テレビとPS5と管楽器と酒瓶とロードバイクと本棚とニンテンドースイッチ。まり場になっているタイプの学生の下宿先をそのまま大学の地下に移動させてきたみたいな場所だ。その一角にバーカウンターがあった。将吉がバイトをはじめて、ぼくもすぐに常連になった。
 あめいろのカウンターと、繭玉のような白く丸いペンダントライト。ずらっと並ぶウイスキーとワインの瓶。擦り切れた手書きのメニュー表。どれも、はじめて見たときからはじめて見た気がしなかった。ここを溜まり場にしている一部の学生たちがコンビニで買った酒を持ち込み、どんちゃん騒ぎをしていることもあったけど、ぼくはそこに加わることは少なかった。
 襟付きのシャツを着てシェイカーを振る将吉は、背が低いことを除けば満点にモテ要素満載で、このバイトだって「バーテンダーって女の子にモテるから」という理由ではじめたらしい。堂々としている。実際、将吉から出てくる彼女の名前は週替わりペースで違う。だから、ぼくも将吉には恥を捨ててヘタレな恋愛相談ができるのだ。
 それで、と将吉が身を乗り出す。
「百合子ちゃんはどんな男がタイプなの?」
 ぼくはジンバックを飲み下して、ポカン、と将吉を見つめた。
「考えたことなかった」
「なんでだよ」
「タイプがわかったらなにか得があるの?」
「あるよ、大アリだよ。それがわかんないと話になんないだろ、どういう男が好きかわかんないと、努力のしようもないだろ? やさしい人が好きっハート、ってタイプの女子に少女漫画に出てくるヒーローみたいなオラオラ系口説きで壁ドンしてもムダじゃんか」
「でも、そうやって類型化された性格属性を聞き出してそれに当てはまるペルソナを演じたとして、それで好かれることに意味はあるのかな。生来的にぼくらが持っているアイデンティティを曲げて迎合したとしても、本当のぼくじゃないわけで……」
 ぐちぐちと続けるぼくに、日浅さんがよこやりを入れてくる。
「耕助くんは、自分のこと本物やと思ってんのか?」
「なんですか、その質問」
 けんにシワを寄せて聞き返すと、日浅さんははんそでのシャツの袖をさらに肩口までまくって、あのな、と上半身をカウンターに載せるみたいにして話し出した。
「おれたちみんな偽物やねん。本当の自分を認めてもらおうなんてごうまんや。二十代三十代とテレビの放送作家やって、M-1王者や売れた芸人もいっぱい見てきたけど、全員オーラなんてないねん。明石あかしさんまやビートたけしみたいな一握りの芸人以外はみんな偽物や。おれも将吉くんも耕助くんも。じゃあ、偽物のおれたちはどうするか? 好きな女の子に好いてもらえへんヘタレな男子はどうするか? 動かなあかん。動いて、本物のフリせなあかんねん。おれたちはルアーや。偽物の餌やって獲物には悟らせんと食いつかせる。これはな、迎合ちゃうで。自分を最大化するってことや。ジッとして戦略もないままやったら、百合子ちゃん振り向かせられへんで」
 関西弁でとうとうと言われ、思わず「た、たしかに」とうなずいてしまう。将吉が勝手に作ったジンバックのおかわりを渡してくるものだから、渡されるままに飲んでしまう。頭がフワフワしてきた。思考力が低下して、その通りだ、って気になってくる。
 感銘を受けました、という顔で見つめるぼくに、日浅さんはデコピンをらわせた。
「そんな簡単に納得したらあかんよ。いまのぜんぶしましんすけのパクリやで」
「えっ」
 驚いて固まるぼくと対照的に、将吉が「はあ? 見損ないましたあ。結局日浅さんは他人のことばを借りて生きてるんすね」としんらつな言葉をぶつける。
「これはただ真似してんちゃう、学ぶの語源は『真似ぶ』って言うやろ。おれは島田紳助を真似ることでおっきな学びを得てんねん」
「ああ言えばこう言う……」
「耕助くんもまずは好きなタイプを聞き出して、真似っこからはじめんとな」
 日浅さんは他人の恋路をおもしろがっていることをまったく隠さない、ニヤニヤした顔で言った。空いたビアグラスを突き出して、将吉に「ツケでもう一杯」とねだる。ぼくはなんだか気が抜けてしまって、「そうですね」と素直に頷いた。
 日浅さんの「ことば」は、周囲の人をけむに巻くようであり、社会をスパッと批評するようでもある。論文みたいに事実を積み上げなくても、しゃべりことばだけで人を説得できてしまう。ぼくが持っていないことばだ。
 グラスに残ったジンバックを飲み干すと、腹の奥がカッと熱くなった。酔いが回ってくる。紙ナプキンに『ぼくたちはるあー、すきなたいぷ、きく』と書き殴って、カウンターに突っ伏した。

 ハンカチを返さねばならない、と思いながら、一週間が過ぎてしまった。
 ここ数日は雨が降り続き、教室にいても部屋にいてもそこかしこが薄暗く静まり返っていた。単位は『取る』ものじゃなく『降ってくる』ものだといわれるくらい緩いぼくの大学にしては珍しく、レポート課題を山のように出す教授の授業を終え、疲弊して帰ってくると、アパートの階段で百合子さんと行き合った。
「偶然ですね!」
 ぼくが声をかけると、百合子さんは「いま帰り? 本当に、偶然。よく会うねえ」と目を細めた。赤いキャミソールの上に、薄手のカーディガンを羽織っている。ぼくは百合子さんの表情を見て、慌てて言った。
「今度は本当に偶然です」
「今度は?」
「こ、今度も! 偶然!」
 もっと慌てふためくぼくに、百合子さんが「冗談だよ」と笑う。ぼくはカバンに入れておいたハンカチを差し出した。将吉からアイロンを借りたあって、シワはない。ありがとう、と受け取った百合子さんは、ハンカチを仕舞うのと入れ替わりに、手のひら大の紙を二枚出して、ひらりとぼくの眼前にかざした。
「耕助くん、お笑いライブのチケットが二枚あるんだけど、来週の月曜日ってひま?」
「ら、ら、来週の!?」
「うん。大学のお笑いサークルのライブなんだけどね、すごく好きなコンビが出るの」
「ひまです、とてもひまです!」
「よかった。それじゃあ、コレ」
 はい、と渡されたチケットは二枚だった。
「わたし、ちょうど来週の月曜日バイト入っちゃって。ミーレンズが観たかったんだけど、どうしても行けなくなっちゃったからあげる。空席を作ったら悪いでしょ? 将吉くんと行って。あ、もちろん、違う人とでもいいよ。日浅さんでも、仲のいい同級生でも、彼女でも」
 二枚のチケットは、コンビニで印刷したみたいな薄い紙で、指を滑らせたらスパッと指先が切れてしまいそうだった。パンパンに膨らんでいた期待の風船が、急激にしぼんでいく。「お誘い以外のパターンがあったとは……」とつぶやいた。「うん?」と百合子さんがぼくを下から覗き込むみたいにして聞き返してくる。慌てて首を横に振った。
「ありがとうございます。将吉と行きます」
「よかった。楽しんでね」
 百合子さんが階段を上っていこうとする。彼女なんていないって言い損ねた、と思ったけれど、いまさら言い出せなかった。ぼくはお腹に力を入れて、用意していた質問をその背中に投げかけた。紙ナプキンのメモを見て、何回も頭の中ですいこうしたことばを必死に発する。
「百合子さん、あの、百合子さんは恋愛対象としてどういう人が好きですか?」
 雨どいを伝って落ちてくる雨が階段のトタン屋根に当たって、激しい音を立てていた。急に強くなった雨が、視界をけぶらせる。
「おもしろい人、かな」
 百合子さんの声は、大きくないのにぼくの耳にすっと届いた。
「わたしのこと、笑わせてくれる人」
 じゃあね、と百合子さんが身を翻し、階段を上っていく。白いカーディガンがよく似合うその後ろ姿を、ぼくは見えなくなるまで見つめていた。湿り気を帯びたチケットが、手の中でクニャリと折れ曲がった。



 おもしろいとはなにか、ぼくにはまったくわからない。
 電車を乗り継いで、一時間かけて大阪の劇場に辿たどりついたころには、背中はぐっしょりと汗でれていた。将吉はまだ来ていないようだったので、連絡を入れて中に入る。
 劇場は古びた雑居ビルの二階にあった。エレベーターにはほこりとタバコの混ざったにおいが充満している。エレベーターホールを抜け、開け放たれた扉をくぐると、木戸銭を払う場所があった。カウンター越しの店員の顔は半分ほどしか見えない。チケットを受け取る店員の爪が真っ赤に塗られているのが妙に目に残った。劇場は狭く、席数は十から二十ほどだった。開演までまだ時間があるからか、観客はほとんど入っていない。
 ぼくは一番後ろの端の席に座ると、ポケット国語辞典を取り出した。場内は肌寒いくらい冷房が効いていた。汗が引いていく。国語辞典を捲り、『おもしろい』という語を引いてみた。
 ――興味をそそられて、心が引かれるさま。興味深い。
 ――つい笑いたくなるさま。こっけいだ。
 ――心が晴れ晴れするさま。快く楽しい。
 ――一風変わっている。普通と違っていてめずらしい。
 いくつかの意味が出てくる。どれもぼくの性格とはほど遠いように思えた。ふと横を見ると、トイレに続く鉄製の扉に反射して、ぼくが映っていた。モサッとした黒髪メガネの、無地の黒い丸襟シャツを着た、どこにでもいる大学生。世界には自分と同じ顔の人間が三人いる、というじようとうがあるけれど、ぼくの場合、十人くらいいても驚かない。頭のてっぺんから足先まで平凡だ。興味はそそられないし、つい笑いたくもならない。きっと、ぼくは百合子さんにとって「おもしろい人」じゃない。
 考えれば考えるほど、ぼくには笑いがわからない。
 昨日、アパートに出現したムカデと格闘しながら数えてみたところ、ぼくの小学生時代はお笑い第五世代に当たるらしい。日本でテレビ放送が開始されたのが一九五三年。テレビの普及によって起こった演芸ブームの潮流を引き継いだネタ番組「THE MANZAI」を契機に一九八〇年代初頭に漫才ブームが起こる。演芸ブームが第一世代、漫才ブームが第二世代。ぼくは「エンタの神様」を観ずに新明解国語辞典を読みふけっているタイプの小学生だった。島田紳助が芸能界を引退する以前の、M-1グランプリでサンドウィッチマンやNON STYLEが優勝して、商店街のCD屋にはしゆうしんのCDが山のように積まれていた時期、クラスでは漫才の真似事をするのが流行はやっていた。テレビで人気の芸人のネタを覚えて、休み時間に教室の後ろでふたり並び立って披露する。ちょっと台詞せりふを変えたり、動きをアレンジしたりするやつは「センスがある」ことになり、せんぼうまなしが向けられた。
 なぜか教室の後方に放置されていた運動会用の平均台をお立ち台にして、漫才をするのがお決まりだった。足元は不安定だけど、ちょっとした台といえば平均台くらいしかなかったのだ。
 その日、平均台に乗ったのは女子二人組で、漫才はタカアンドトシの「欧米か!」とツッコむネタだった。ツッコミの子は「欧米か!」を「なんでやねん!」と同じような決まり文句だと勘違いしているみたいだった。
 だから、「寿を握れるようになりたいんだよね」と言われても、「おーべーか!」とボケの子の頭を叩いた。まだ「傷つけない笑い」なんて言葉が登場する以前の、どつき漫才全盛期だ。ぼくは思わず、
「なんで欧米なの?」
 と質問してしまった。熱心に聞いていたわけではないけど、一番後ろの窓際の席に座っていたから、声が聞こえてきたのだ。
「欧米じゃないよね? というか、ちゃんはなんではまさんの頭を叩くの? それは暴力ではないの? 濱井さんはなんで食べてもいない寿司のことを解説するの? なんで寿司を握れるようになりたいの?」
 つい質問を重ねると、女子ふたりは押し黙った。濱井さんの表情がみるみるうちに曇っていくのを見て、「別に責めてるわけじゃなくて」と付け加えたときには、濱井さんは泣き出していた。周りを囲んでいたクラスメイトたちが「耕助が女子を泣かせた!」と囃し立て、友希ちゃんもなぜか遅れて泣いた。ぼくは担任にこっぴどく<外字>られた。教室後方の漫才ブームは、すぐにベイブレードブームに塗り替わった。
 ぼくは過保護で教育熱心な母親と、家庭にとんちやくな仕事人間の父親に育てられた。ベイブレードは買ってもらえなかったし、テレビではNHKの番組しか見せてもらえなかった。いじめられたりはしなかったけど、時折、あのときみんなと同じように笑っていたら、なにか違ったのかな、と教室の窓際の席で考えた。風にあおられブワリと広がったカーテンに顔を完全に覆われ、だれにも表情が見えないのをいいことに、ズッと鼻をすすった。

「悪い悪い、遅れた!」と将吉が入ってきたのは、二組目の漫才が終わったころだった。
 お笑いサークルの大学生がやっている自主公演だからと、あまり期待していなかったけれど、学生たちが披露するのはテレビで見たことのある「漫才」に似たもので、でもなんだか、どのコンビを見ても同じことばを話しているように感じられた。
 将吉の後ろからひょっこりと日浅さんが顔を出す。ぼくが「なんで日浅さんまで?」と聞くと、日浅さんは「邪険にせんといてよ」とわざとらしく泣き真似をした。将吉が口を挟む。
「おれが呼んだの。解説役」
「そうそう、おっちゃん学生お笑いにも詳しいねん。業界で顔も広いし!」
 うさんくさ……と半目になっていたら、将吉が「うさんくさ!」と声に出して言った。自分が呼んでおいてひどい言い草だ。日浅さんがぼくのとなりに、将吉がそのひとつ横に座った。
 次のコンビの名前がステージ上のスクリーンに映し出される。ひとりの男子学生だけがヒョコヒョコと出てきた。ざわっと会場が揺れる。男子学生はマイクの前に立ち、しゃべるわけでもなくステージ袖をうかがっている。十秒、二十秒と経つごとに、会場のざわめきが大きくなった。一分が経過し、ざわめきが最高潮に達したタイミングで、男子学生はボソリと、
「これがホントの『とうを待ちながら』」
 と照れたように言った。ドカンと爆発するみたいにウケた。内輪ウケ、ってやつだろう。相方は後藤くんというらしい、それのなにがおもしろいのだろう? とぼくは首をひねった。後藤くんはすぐに相方そっくりのヒョコヒョコした歩き方で出てきて、「お待たせ、エストラゴン」と男子学生と腕を組んだ。男子学生はエストラゴンというらしい。珍しい名前だ。
 となりを見ると、日浅さんは足を組んで、その上にひじを乗せ、体を縮こめるようにして舞台を見ていた。いつものひようきんな空気はなりを潜め、生まれてから一度も笑ったことなんてないみたいな、冷めた目をしている。将吉はさっそく船をいでいた。
 学生コンビが五、六組、出てきては漫才を披露し、舞台袖に消えていって、また出てきた。最後に出てきたのが、「ミーレンズ」というコンビだった。何組ものコンビに「名前と顔だけでも覚えて帰ってください」とアピールされて疲弊していた頭でもコンビ名が聞き取れたのは、百合子さんからその名前を聞いていたからだった。百合子さんの好きなコンビだと思うと、見る目が変わる。
「ど、どうもー、ミーレンズのさかもとろうと」
「ヤーレンズのサトウです」
「ヤーレンズではないですー」
「ラーメンズのばやしけんろうですー」
「ラーメンズの小林賢太郎でもないですー。ミーレンズです、お願いします」
 ふたりが出てきてあいさつするだけで、前列から黄色い歓声が上がった。「サトウくーん!」と名前を呼ぶ客までいる。
 サトウと名乗った男は背が高く、いかにもモテそうな彫りの深い顔立ちをしていた。鼻の付け根にシワを寄せてしゃべる癖が、神経質そうな雰囲気を醸し出している。四郎はマッシュルームカットの金髪で、前髪で目が完全に隠れていた。言葉を詰まらせながら、自信なさそうに話す。揃いのタイトなスーツがどちらも板についていて「漫才師っぽさ」が他のコンビより強かった。
「学生お笑いの注目株やな。去年、M-1の三回戦進出したらしい。背の高いほうのサトウくんがいま四年生で、金髪の子が三年生やったかな。卒業後は芸人養成所行って……、五年後にはM-1で敗者復活ステージくらいまで行ってんちゃう?」
 横から日浅さんが解説を入れてくれる。M-1の三回戦進出、のすごさがピンときていないぼくに「二回戦を通過できるアマチュアは〇.三パーセント」とスマホで検索した画面を見せてくれる親切さだ。
「おれ、サッカー選手にもなりたかったけど、野球選手にもなりたかったんだよ」
 サトウが言うと、四郎が「し、小学生の夢らしくていいですね」とオドオド返事をした。
「ホームラン打って『このホームランは彼女にささげます』ってやつやりたい」
「いいですね」
「だから四郎、ボール役やって」
「えっ、ボール、えっ、そういうのって普通は彼女役やってって言われるものじゃ……痛い痛い痛い!」
 四郎がワシッと頭を摑まれ、悲鳴を上げると、会場で笑いが起きた。将吉も起きてケラケラと笑い声を上げている。
 そういうものか、とぼんやり舞台を見つめた。ピッチャーとバッターに扮したふたりがみ合わないことばの応酬を見せたり、四郎が見えない球審とめだしたりして、サトウが怒る。会場はそれ以前に出てきたどのコンビのときより盛り上がっていた。百合子さんは彼らのことをおもしろいと思うらしい、という情報がなければ、ぼくも素直に笑えたのだろうか。
 終演後、席を立とうとすると将吉に止められた。
「こういう学生の自主公演では、たいてい演者が終演後に客席回って挨拶するんだよ。感想言ってやりな」と教えてくれる。席で待っていると、出演していた学生が入れ替わり立ち替わりやってきて公演に足を運んだことへの礼を述べた。日浅さんは本当に業界で知られている人らしく、学生たちは彼に気づくと頭を下げる角度が深くなった。
 ミーレンズのふたりも日浅さんに気づくと「このあいだはごちそうさまでした」と口々に言った。知り合いらしい。ステージ上のふたりはタイトなスーツも相まって「漫才師」の雰囲気が強かったけれど、近くで見ると爪先が黒くなったスニーカーを履いていて、自分と同じ大学生なんだな、と思った。
「おれらの漫才、どうでした」
 サトウが額の汗を乱暴にぬぐって、日浅さんに聞いた。自分に自信がある人の尋ね方だ、とぼくはひるんでしまったけど、日浅さんは「えー? ええんちゃう? おれもう現役の放送作家ちゃうし、わからんわー。耕助くんどうやった?」と軽くいなして、ぼくに水を向けた。
 突然話を振られ、ぼくはろうばいしながら、まず一番気になっていたことをサトウに聞いた。
「あの、あなたは野球選手になりたかったんですよね。なんでならなかったんですか?」
 ミーレンズのふたりは目を大きくして口元をぐっと突っ張らせた。「夢はいつ、あきらめたんですか」と質問を重ねると、サトウの眉間にシワが寄った。
「え、もしかして漫才観るのはじめて? おれたちハジメテ奪っちゃった?」
 サトウが言う。「おもんない返し」と日浅さんがつぶやいた。ぼくにだけ聞こえる音量だ。サトウのとなりで「漫才童貞卒業おめでとう、でいいのかな?」と四郎が拍手する。「こっちもおもんない」とまた日浅さんが言う。なんて大人だ、とぼくは顔をしかめた。
「耕助、漫才はウソなんだよ」
 将吉が日浅さんをけるように身を乗り出し、ぼくの顔をまっすぐ見て大真面目に教えてくれる。
「漫才って……フィクションなんですか?」
「せやで」
 日浅さんも間髪をれずに答えてくれる。ぼくは「なるほど」と深く頷いた。その反応は漫才の歴史を調べる過程で予想できていた。でも、とミーレンズのふたりに向き直る。
「ぼくも、どうやら漫才は虚構の演芸文化であるってことを、理解してはいるんです。ただ、それならば、なぜ漫才である必要性があるのかがわからないんです。漫才の歴史は平安時代の『せんまんざい』からはじまり、娯楽性を高めていったわけですよね。でも、近世から続く『万歳』が現代のいわゆる『しゃべくり漫才』の形式になるまでには、ひとつの隔たりがある。たまえんたつすながわすてまるなどが活動した時期までは、言葉と歌舞を融合した芸能形態をとっていた。それが、なぜ現代の立ち話の形態になったのか。立ち話であるなら、そこに虚構性を伴う必要があったのはなぜなのか。そして、なんでぼくたちはその虚構性を暗黙のうちに『了解』しておもしろいと思っているのか」
 それが、わからないんです。
「一九七〇年代以前の漫才は、師匠から引き継いだり、漫才作家が書いたりした台本を背広姿で演じる『形式化された漫才のことば』による漫才だった。落語と同じ形式ですね。でも、漫才ブームによって漫才のことばは若者の、あるいは生活者のものになった。ビートたけしや島田紳助が標準語ではなく生活に根差したことばを使うことによって社会制度への疑義を明らかにした地平に、現代漫才の言語は立脚している。サトウさんも四郎くんも、舞台上のことばといま話すことばは同じものじゃないですか。じゃあなんで虚構である必要があるんです?」
 昨日読んだ漫才の起源や漫才ブームを言語学的に考察する資料を思い出しながらぼくは話した。わからないと口に出すと、むしろすっきりした。わからないって、わかりたいってことだ。
 黙り込んだミーレンズの代わりに、日浅さんが口を開く。
「耕助くん、もうそれがボケやん」
 にやーっと、意地悪な笑みを浮かべて、日浅さんはぼくの表情をつぶさに観察するみたいにして話した。
「笑いを学問的に語るって、一周回っておもろい。もっと聞かせてや。おっちゃん、八〇年代の漫才ブームには一家言あるで。……でもなあ、たぶん耕助くんがほしいモンは、ソコにはないんちゃうかな。理論も歴史も分析も考察も、おもろいの本質からどんどんズレる。虚構とかしゃべくりとか立ち話とか、そんな難しいことちゃうくて、一番ウケるもんを、一番興行で金稼げるもんを求めた結果が、現代のお笑いやろ。この子らは、ウソついてるつもりない。だって『漫才ってそういうもの』やから。漫才イコールM-1イコール一千万! やろ?」
「結局金なんすかあ?」と将吉が聞いた。
「そりゃそうや、芸事はぜーんぶお金のため、当たり前やんか」
「なんだよー日浅さんらしいけどさあ」
 日浅さんの言葉をしやくし、ぼくは「なんで、と問うことがナンセンスってことですね。興行元の、あるいは観客の望む笑いがそうだった、ってだけで。ことばを『為政者のもの』、『生活者のもの』と分類して問う行為そのものが結論を急ぎすぎているという見方もできます」と返事をした。「そういうことちゃうねんけど」と苦笑される。
 ミーレンズのふたりはずっと黙ったままぼくらの会話を聞いていた。
 ぼくと目が合うと、四郎は真ん丸い目で「こ、耕助くん、すごいね。なんか、見てる世界が違う」と手を握ってきた。白くて、肉が適度についた手だった。称賛なんだろうか、と一瞬思ったけれど、褒め言葉として受け取っておくことにする。
 サトウはハンサムな顔のまま、眉間のシワをさらに深くして「あんた、年間何本漫才観てんねん。そんなん言うなら、千本は観てるんやろな」とすごむように言った。ぼくは四郎と握手したままの体勢で、お笑いマッチョイズムヤンキーだ……とガクブルした。日浅さんだけが、いつものニヤニヤした顔でぼくらを見ていた。



「百合子さんに美術館のチケットを渡すのだ!」
 ぼくは叫んだ。
「突然なんだよ」
 バーに響き渡る声量に、将吉が顔をしかめる。ウォッカトニックを二杯作り、ひとつをぼくの前に置いた。もうひとつのグラスをぼくのグラスにカチンと当て、自分であおる。
 カウンターの奥の壁に設置されたレコードプレイヤーからは、ジャズが流れていた。レコード盤がいくつも棚差しされていて、カウンターの端に座る客に将吉がときどき「なにがいいっすか?」と聞いた。ぼくはジャズなんてさっぱりわからないので、聞かれることもない。
 端っこの折れた美術館のチケットを見つめ、うう、と情けない声を出す。百合子さんを誘いたい一心で購入した美術館の入場券を、展覧会がはじまっても渡せていなかった。
「なんで美術館なんだよ、おまえ、絵なんてわかんの?」
「わかんないけど……あさあきらのポストモダン論の講義は受けてたよ」
「またお勉強かよ。そんなんだからおまえは好きな女の子ひとり落とせずに……」
 将吉がレイ・チャールズの盤をセットしながらぼくに説教をはじめようとしたそのとき、バーの扉が開く音がした。ベルなんてついていない重い鉄の扉だけど、開くと空気圧が変わって体に響く音が鳴るのだ。
「あれ、今日は日浅さんいないのね」
 入ってきた百合子さんは、いつもの、と将吉に注文すると、自然にぼくのとなりのスツールに腰掛けた。百合子さんの座る右側だけが熱をもつ。肩が触れそうになって、ぼくは慌てて身を引き、百合子さんに正対するようにスツールを回した。将吉にいけ、いけ、と目で指示され、腹を決める。
「百合子さん、このあいだはライブのチケットありがとうございました。それで、お返しなんですけど、美術館のチケットがありまして、二枚。よかったら」
「わ、モネ展? わたしモネ大好きなの」
「よかったら、ぼくと一緒に行きませんか。ぼくは会期中の土日、いつでも行けます!」
「……ちょっと待ってね」
 百合子さんの前にカルーアミルクが置かれる。百合子さんは口をつけて、バッグから出した小さな手帳を捲った。髪を耳にかけて、テーブルに肘をついた姿勢でぼくに目を向ける。
「その期間は油画の制作で忙しいから、また今度。ごめんね」
 それは、明らかに自分がどう見られているかわかってやっているつやっぽい仕草で、鼻白んでもおかしくはないのに、ぼくの胸は締めつけられた。ぼくだって、いい加減わかっている。百合子さんが全然ぼくのことなんて相手にしてないって。でも、どうしてもあきらめきれなかった。
 考えるまでもなく、体が動いていた。
「あの、ぼくたち! 最近コンビを組んだんです!」
 ぼくは強引にバーカウンターの向こうに立つ将吉の肩を摑んだ。
「はあ?」
 明らかに嫌そうに振り向いた将吉に、話を合わせてくれ、頼む、と何度もウインクする。ラーメンおごるから、な、ラーメン、とアイコンタクトで伝えると、将吉は「餃子ぎようざ定食つけるからな」と口頭でぼくに宣言し、「そうなんですよ」と話を合わせてくれた。アイコンタクト、幼馴染だからせる業だ。
「コンビって、まさかお笑いの?」
「もちろん! 芸人目指してるんです。本気ですよ、おもしろくなりたいんですぼく」
「えーっ、幼馴染でコンビ組むって、すごい素敵!」
 百合子さんの食いつきのよさに顔が紅潮する。
「なので、今度、漫才の練習見てくれませんかっ?」
 バシ、と耳元で音がしたと思ったら将吉に肩を摑み返されていた。万力のような握力で肩を握られる。焼肉、焼肉、と口パクで伝えると、「寿司も奢れ」とはっきり発声して要求される。必死で頷いた。肩にかかる手の力が弱まる。
 百合子さんが胸の前で両手を握り、ワクワクと聞いてくる。
「もうネタ書いてるの? 見たいなあ」
「もちろんです。実は、百合子さんにチケットもらってお笑いサークルのライブを観にいってから、ぼくも漫才してみたいって欲求がムクムクと湧いてきたんです。ミーレンズよりおもしろい漫才したいって」
「じゃあじゃあ、サッカーの漫才作ってよ。耕助くんがストライカーで、将吉くんがキーパーやるの」
「ぼくもちょうどまったく同じことを考えてたんですよ! 将吉が三人に分身したり、ぼくが自分の身長の三倍の高さまで跳んでオーバーヘッドキックしたりして」
「超次元サッカーかよ」
 将吉が鋭くツッコむ。「わあ、漫才みたい!」と手を叩く百合子さんに乗せられて、「練習したんです。三日三晩徹夜で」とウソをついた。すいすいと口からでまかせが出てくることに、自分でも驚いた。
 百合子さんは終始ご機嫌にカルーアミルクとピーチフィズを飲んで、一時間ほどして帰っていった。ぼくは「アパートまで送りますよ」とスツールから腰を浮かせたけれど、「将吉くんとネタ合わせしないとダメでしょ?」と押し戻された。
 百合子さんのいなくなった店内で、ぼくは頭を抱えた。なんであんなでまかせを言ってしまったんだろう。将吉はぼくの前にチェイサーのグラスを置き、「ラーメンと焼肉と寿司な」と言って、ぼくの頭をぐしゃっとでた。
「なんでおまえは百合子ちゃんのことになるとそう向こう見ずなのかねえ」
 髪の毛をぐしゃぐしゃに乱された。頭皮が引っ張られる。ぼくの優秀な脳細胞が死ぬだろ、と言い返す元気もなかった。毛根は、死んでもいい。

 百合子さんとはじめて会ったのは、インカレサークルの新歓のときだった。
 当時二回生だったぼくは、知り合いが少ないのをいいことに手当たり次第にさまざまなサークルの新歓に新入生のフリをして潜り込み、タダ飯にありつくのを日課にしていた。
 下鴨神社から南に下り、川とたか川というふたつの川が合流する地点にある、鴨川デルタと呼ばれる場所。岸に桜が咲きほこり、絶好の花見スポットとして利用されるそこには、新歓のために大勢の大学生が集まってブルーシートを広げていた。飲みサーAが退いたと思ったら飲みサーBのブルーシートが敷かれ、隙間を飲みサーCが埋め……と陣地争いの様相を呈していた。
 日はとうに暮れ、夜闇が忍びよる時間だった。両側を川に挟まれた鴨川デルタは春だとは思えないくらいに冷え込み、ブルーシートに座っているとガチガチと歯が鳴った。ぼくは取り分けられたスーパーのオードブルの骨つき肉と大袋の菓子とメロンソーダを黙々と食べて飲んでいた。
 ふいに、となりにどっかりと腰を下ろした男性の先輩に、
「ガリ勉くん、テキーラショット対決しようよ!」
 と絡まれた。ぼくは「ひゃんへふか?」と口いっぱいに骨つき肉を頰張りながら聞き返した。サークルの副部長だという茶髪の男はれつが回っておらず、すでに相当飲んでいることがうかがえた。腕を肩に回されそうになり、酒くさい息から逃れるように身を引くと、急にげきこうした。
「オレのテキーラが飲めねえのかよ、ざいおさむみたいな顔しやがって!」
 泥酔だった。肩に乗っかる腕が重い。
「ぼくはしいて言うならさかぐちあんに似ていると思いますが……」
「坂口安吾ってだれ? AV女優? いいからテキーラ飲めよ」
「飲みませんって」
 プラスチックのショットグラスになみなみと注がれたテキーラを口元に押しつけられる。典型的すぎるアルハラに逆に感動さえ覚えるが、ぼくは未成年である。
「ぼくは法律を守るタイプの国民なんです!」
「おーえらいなあ、飲めよ」
 テキーラを挟んで揉み合うぼくらに、周囲から「飲め飲めー」「ガリ勉えらいぞー」「タイプとかじゃなくて法律は全国民守れー」とヤジが飛ぶ。こうえんより重いものを持ったことがないぼくの腕力はすぐに限界を迎えた。
 ふっと抵抗を緩めた次の瞬間、後ろから手が伸びてきた。まばたきをする一瞬の間に、ぼくの目の前からショットグラスが消えた。振り返ると、肩のあたりまである黒髪を耳にかけながら、テキーラをクイと一口で飲み干す女性の姿があった。一学年か二学年、先輩に見えた。オフショルダーのニットから覗く肩が、ブルーシートを囲むように置かれたポータブル照明を反射して、艶やかに光っていた。
 副部長が「なんだよ百合子お。こいつの味方すんのかよお」と絡む標的を変える。百合子と呼ばれた女性はにっこりと笑って、「新入生に絡んでんじゃねえよクソインポ野郎」と副部長をビンタした。パシーン、といい音が鳴った。
 きれいな顔に似合わない暴言に、周囲の学生たちが沸く。「百合子ー」「百合子かわいいよ百合子ー」「百合子さんぼくにもビンタして唾かけて……」と口々に声が飛んできた。ぼくはなにも声を発することができなくて、でもなにか、なにか湧き上がってくる感情を表現したくて、拍手した。鴨川デルタの開けた空間に、ぼくが手を叩く音が間抜けに響く。すぐに拍手の輪は大きくなった。遠くのレジャーシートで飲み食いしていた人たちも、おそらくなにがなにやらわからないまま雰囲気にまれて手を叩いた。
 百合子さんはやっとそこでぼくのほうを見た。
 ピンクのキラキラしたものが、まぶたの上で光っていた。りんぷんみたいだ、と思う。拍手の輪の中心にいても、少しも動じていなかった。ぼくが助けてくれたお礼を言い、名乗って「大学では言語学を勉強していて、あ、でも有名なソシュールの記号論的な考え方よりは、『普遍文法』の概念を提唱したチョムスキー的な価値観を再考して……」とたどたどしく自己紹介すると、よろしく、と握手をしてくれた。やわらかな手だった。
「耕助くんは真面目なんだね。かわいい」
 にや、と片頰だけ上げるように笑って、百合子さんは言った。脳からじゅわっとなにか甘くて黄色いハチミツみたいな液体が分泌されたみたいに、甘美な気持ちになる。
 恋が突然はじまるのだとしたら、きっと、ぼくの恋はその瞬間にはじまった。



 ぼくは図書館に引きこもって『笑い』という名前のついた書籍を片っ端から読んだ。
 なにかを学ぶとき、ぼくはぼうばくとした海に足をつけている自分を想像する。船はない。一歩ずつ、海水を足先でかき分けるようにして進む。海の向こうになにがあるのか、あるいはなにもないのかさえわからないまま、足を波にさらわれたり、遠くの雷鳴に身をすくませたりする。
 ベルクソンは、笑いは社会的機能であり、「なによりもまず矯正である」と述べた。アリストテレスは『動物部分論』の中で「人間だけが笑う動物である」と述べ、トマス・ホッブズは笑いは「人に対して抱く突然の優越感」から生じると言った。
 ぼくの体は潮風でザラザラとして、のどは渇き、足先は貝の破片で切りでもしたのか、踏み出すたびに痛む。海岸線は遠い。日浅さんの言うように「理論では辿り着けない」のかも。それでもぼくは、来た道を引き返そうとは思わなかった。
 百合子さんと約束したネタ見せの前日、ぼくの古びた四畳半の部屋に泊まりにきた将吉は、「ぼくには漫才が書けない」というぼくの嘆きを、「だろうな」と当然のように受け止めた。
「でも、漫才をすることはできる気がする」
「なんで?」
 ぼくはこの数日間に図書館で読んだ哲学書について事細かに話し、今日の昼間に考えついたぼくらの漫才の形式を告げた。将吉はずっと苦虫を嚙みつぶしたような顔をしていた。
「ぼくが一発ギャグを言うから、それにツッコんでほしい。ぼくらの普段の会話は、意識せずとも漫才の類型に沿ったものであることがあるでしょう。自然な会話の中で笑いが生み出されていくことは、『ことば』を得るという意味では理想形じゃない? カントは『判断力批判』の中で知性と不合理について書いてる。笑いは不合理で、知性とは遠い存在だ。知性を裏切るにはまず知性を磨かなければいけない。で、将吉はちょうどよく頭がよくて、ちょうどよく常識的で、ちょうどよく合理性をもっている。ぼくが不合理なことを言うから、そのちょうどいい合理性でもってそれを打ち消しにかかってほしいんだ」
「おれはバカだからよくわかんねえけどよお」
「将吉はバカじゃないよ」
「鋭いことを言うヤンキーの決まり文句だよ。おれはバカだからよくわかんねえけどよお、失敗すると思うぜ」
「何事も挑戦だよ」
「なんでそういうときだけ前向きなんだよ。女子の前ではヘタレなくせに」
 将吉はあきれたように言い、敷きっぱなしの布団に寝転がった。将吉が動くたび、カビ臭い空気が部屋に充満する。文句を言われたけれど、「梅雨なんだからしょうがないだろ」と開き直った。連日続く雨に、窓が結露しカーテンにも畳にもカビが生えていた。ぼくは仕方なく備え付けのエアコンを除湿モードで入れて、就寝態勢に入った将吉の肩を揺さぶった。
「ねえ、笑える小話を考えたから聞いてよ」
 将吉は寝転んだまま顔をこちらに向け、深くため息をついた。
「耕助、その話し出しは最悪だぞ。ハードルを下げるんだよ、フツーは」
「となりの家のおばあちゃんが、パンジーの植木を持ってきてくれたんだ。腰の曲がった、小柄で、白髪をお団子頭にしたおばあちゃん。断れなくて受け取ったら、次の日も持ってきて。次の日も、次の日も。二週間もしたら、ベランダも玄関先も埋まってさ。困って、となりのベランダにこっそり返すことにしたんだ。もらって、戻す。またもらう。循環が続いて、二週間後くらいかな。見覚えのない植木鉢が増えてて、ベランダを見てたら、シワだらけの手がヒョイって伸びてきて。おばあちゃんもぼくのベランダに、植木鉢、戻してたんだよね」
「……こわっ!」
「えっ」
「うすら怖い話? うすら怖い話を聞かされたの?」
「おかしいな、不合理性の実践をしてみたんだけど。身体のかんを身体の器官の振動によって感じてない?」
「ない。どこに笑う要素があったんだよ! おまえおかしいよ! おかしいってのは、笑えるってことじゃなくて、頭がヘンってこと! もうほんとおまえ……」
 将吉は布団の上で鼻をつまんで寝そべっているとは思えない真剣な表情で言った。
「おまえ、笑い向いてないよ」
 そんなこと、ぼくが一番知っている。ぼくはどうしようもなくなり、「もう寝ようか」と客用布団を出した。昼間に干しておいた布団からは、お日様のにおいがした。

 台所のコンロ前に立って、百合子さんが腕を揺らす。フライパンの中で米と卵がかき混ぜられ、油が跳ねる。半袖でショートパンツ姿なのに、百合子さんは跳ねる油に無頓着だった。
 ショートパンツから伸びる白い太ももを盗み見ていたら、将吉にバシッと背中を叩かれた。「なんだよ」とむくれるぼくの背中をもう一度叩いて、将吉は「視線がエロいんだよ、むっつりスケベ」とからかった。
 百合子さんにネタを見てほしいと頼んだとき、ぼくはてっきり大学地下のバーかどこかで見てもらうものだと思っていた。「耕助くん、炒飯チヤーハン好き?」と電話がかかってきたのは今日の昼で、あれよあれよという間に百合子さんの家にお邪魔することが決まっていた。
 スケベじゃない、スケベだろ、と意味のない押し問答をしているうちに、料理が完成したらしい。百合子さんが「はーい、できたよー」と皿を持ってきてくれた。
 卵と白ネギ、細切れの焼き豚が入ったシンプルな炒飯だ。油でつやつやと光る米粒に喉が鳴る。平皿に盛る前におわんを使って成形したのか、町中華で出てきそうな出来栄えだ。「おれ急に腹減ってきた!」と将吉が騒ぐ。ぼくもいっしょに騒ぎながら、一方でそれどころじゃないくらいに緊張していた。
 百合子さんの部屋は、ぼくの部屋とまったく同じ間取りのはずなのに、まったく雰囲気が違った。床には肌触りのいいカーペットが敷き詰められ、背の低いベッドと座椅子はベージュで、部屋全体の色が統一されている。南側の壁はキャンバスと絵の具、デスクで埋まっていて、敷かれた新聞紙には色とりどりの絵の具がついていた。部屋のどこにいても油絵の具のツンと鼻を刺すにおいがする。
「実家からお米とネギがいっぱい送られてきてね、食べきれなくて困ってたの。助かった」
 百合子さんが麦茶を飲みながら言う。ぼくと将吉は炒飯を口一杯に詰め込んで、競うように食べた。飲み込むと同時に、口々に「おいしいです、天才、町中華の店を開いたらひやくまんべんの覇王になれます」と褒めたたえた。
「よかった。炒飯はお母さんの得意料理なの」
「へー、彼氏に作ったりするんすか」
 ゴフッ、と将吉のことばにせて、米粒がテーブルに飛ぶ。「うわっ、きたねえ!」と将吉がティッシュを取ってくれた。テーブルを拭いて、麦茶を飲んでもせきがおさまらない。百合子さんが「大丈夫?」と背中をさすってくれた。
「料理、普段はあんまり作らないかな。大学生なんてみんなそうじゃない? 絵を描いてるときは寝食なんて忘れちゃうし。わたしのエネルギーはモンエナとお笑いだから」
「ハハ、カッケー」
「ってことで、期待してますよ、おふたり」
 百合子さんがスプーンをぼくと将吉に向けて揺らした。
 彼氏なんていないよって、否定しなかったな。そう思ったけど、突っ込んで聞く勇気はなかった。
 三人とも炒飯を食べ終わると、急に部屋の空気が張り詰めてきて、だれからともなく「じゃあ、そろそろ」と言い出した。将吉はこのあいだ前説で舞台に立っていたけれど、ぼくは人前で漫才をするのなんて生まれてはじめてだし、百合子さんも先日の前説を除けば、学生お笑いのサークルに入っているわけでもない、素人の知り合いの漫才を見るのははじめてらしい。
 ぼくと将吉は、意を決して台所のシンクを挟むようにして離れて立つと、ベッドに腰掛ける百合子さんに向かって「はいどうもー」と出ていった。
 ここにはない、この世界にまだ存在していない出囃子と、観客の拍手が耳の奥の奥で聞こえる。黒いサンパチマイクは高性能で、横の音も上の音も拾い、舞台には明るすぎて目が痛くなるほどの照明が降っている。その照明の下に、ぼくと将吉は揃いのタイトな黒いスーツ姿で立って、漫才をはじめる。そんな想像をする。
 でも実際には、この部屋にはマイクもないし、ぼくたちは着古したパーカーを着て、白熱電球の下で、ひとりの観客の前に立っている。
「鏡が割れてミラーれない」
 ぼくはなんの前振りもなく、自己紹介もせずに言った。
「なんですか突然」と将吉が反応する。将吉にはネタを伝えていなかった。昨晩話した作戦だ。
「医者がいなくて気のドクターだ」
 百合子さんのことをまっすぐに見て、ことばを発していて、それなのに頭の中では発していることばじゃないイメージがぼんやりと思考の表面をかすめては消え、掠めては消えた。
 百合子さんの期待に満ちた顔を前に、ぼくは脇汗をダラダラ流しながら、必死で口を動かした。
「ぬいぐるみを売ってる店はトーイ」
「あ、おもちゃのトイと遠いをかけてるわけですね」
「ウクライナはもう暗いな」
「いつまでやるの? もうダジャレいいですって」
「ウクライナ戦争はやめるべきだ」
 将吉がどう反応していいのかわからない、という顔でぼくを見た。一拍空いた間を埋めるように、ぼくは大きな声で言った。
「全世界の戦争はやめるべきだ」
「思想が強いな!」
「えーと、終わりです」
「なにが!?」
 将吉は心底驚いたように、となりに立つぼくを見て、電灯のひもの先にくくりつけられたフワフワの毛玉みたいなぬいぐるみチャームに鼻先をぶつけた。百合子さんが「え、おおー?」と困惑した顔でパチ、パチ、と拍手をしてくれる。ぼくは止まらない脇汗と闘っていた。鼻先に当たった反動でまた顔にぶつかってくる毛玉ぬいぐるみチャームに襲われながら、将吉が戸惑った声を出す。
「なにそれ? ネタ飛んだの?」
「いや、飛んでない。ぼくなりの理論があって……」
「理論ってなに」
「ダジャレを四つ言ってから、自明の事実を発することで緊張と緩和を起こすっていう」
「緩和と緊張になってるから。順序が違うから。おれはどうツッコめばよかったの。戦争とか、日常会話でも触れづらいところになんで果敢に挑んじゃうの」
「あ、『思想が強い』ってツッコミは違うと思ったな。現代を生きる人間として『戦争はやめるべきだ』と表明することは思想が強いなんて言葉で片づけてはいけない。そもそも文学とは大きな論理に対しての小さな説であって、内的言語の働きを用いて社会に疑義を呈することに意義があり……」
「耕助がいまやりたいのは文学じゃねえだろ、漫才だろ」
「漫才と一口に言っても、ファルスに分類するかコメディに分類するか風刺に分類するかでも違うよ。それは文学に限りなく近い存在である場合もあるでしょう。狂言にも『座頭物』という盲目の人をなぶりものにする喜劇があるし、とりろうだって『日曜娯楽版』で食糧難やインフレを風刺コントにしたし、坂口安吾は『日本文化私観』で……」
「理屈はいいって! なんでダジャレ四回言って『やめるべきだ』キリッ、なんだよ!」
「だってカントが『笑いとはある張り詰めた期待が、唐突に無に転化することによって生じる情動である』って本に書いてたから。ダジャレを繰り返すことによって高まった期待を、ごく普遍的な正しい論理によって打ち消し無に転化させることによって情動を生じさせることができるという計算のもとで……」
「おまえは一生本を読むな!」
 将吉がアパートの薄い壁を突き抜けて、三軒となりの家まで聞こえたんじゃないかってくらいの声量で叫んだと同時、アハハ、と鈴を転がしたような笑い声が聞こえてきた。見ると、百合子さんがお腹を押さえて笑っていた。
「おもしろい!」
 ぼくの脇汗が、ぴたりと止まった。
「ふたり、そうやって言い合ってるほうがおもしろいよ、漫才になってるよ」
「えっえっ? いまの? マジっすか?」
 将吉がニヤついて聞く。
「うん。耕助くんのネタは正直あんまりわかんなかったっていうか、シュール系? って思ったけど、ふたりが話してるのはおもしろい。ね、もう一回やってよ」
「もう一回?」
「おまえは一生本を読むな! ってやつ」
「それは『もう一回やって』って言われてできるものじゃないんじゃないですかね」
 そう言いながらも、将吉はもう一度、今度は五軒となりの家まで響き渡る声で「おまえは一生本を読むな!」と叫んだ。リクエストされて、もう一回。さらにもう一回。近所から苦情が来そうだ。ヒヤヒヤするぼくと裏腹に、百合子さんは変なツボに入ったようで、いつまでもお腹を抱えて笑っていた。

 タバコとライターを持った百合子さんのあとに続いてベランダに出ると、外は霧雨が降っていた。目を凝らさないと見えないくらいに細い雨だ。日が落ちてからは気温が急激に下がり、半袖で立っていると二の腕に鳥肌が立った。百合子さんは平気そうな顔で、
「わたし、暑がりなんだよね。京都の夏はほんとゆううつ
 とシャツの襟元を引っ張ってあおいだ。
 将吉は夕飯を食べて眠くなったのか、ソファで居眠りしていた。百合子さんに合わせて頷きながらも、ぼくの心は大雨の直後の鴨川のように荒れ狂っていた。ひとみはその大雨が上がるころに陸に上がってくる天然のオオサンショウウオの瞳みたいによどんでいる。絶対にウケるという確信があったわけじゃないけれど、これでも三日三晩考えて、カントを見習って、ベルクソンに師事して、計算に計算を尽くしたネタだったのだ。
「どうだった、はじめての漫才。楽しかった?」
「楽しくはないです」
 百合子さんがタバコの先に火をつけて、ぼくにも「一本いる?」と聞いてくる。吸ったことがなかったけど、格好つけて頷いた。百合子さんはタバコをぼくの指に挟み、「はい、軽く先端を吸って。い、そうそう」とライターで火をつけてくれた。口の中に苦みを感じた、と思ったら、喉に空気が貼りついて、盛大に咽せる。
 口の中で溜めて吐いたらいいよ、というアドバイスに従い、煙を肺まで落とさないように注意すると、もう咽せることはなかった。百合子さんにはいつもカッコ悪い姿ばかり見せている気がする。でも、そのカッコ悪い姿をこそ、百合子さんは笑ってくれた。
「楽しくはなかったですけど、それはぼくがおもしろくなかったからだと思います。スベったから。そうじゃなかったら、笑ってもらえたら、うれしかったかもしれません」
「人が笑って、うれしくない人なんているの?」
「演芸文化の中には社会的に差別を受けてきた人々が見世物になる形で興行が成り立っていたものも伝統としてはあるわけですし、お座敷芸者としての『芸人』はうれしいうれしくないなんて価値観に生きていたかというと疑問ですよね。その文脈から言うと、舞台に立つ人が全員『観客が笑うことイコール絶対的にうれしい』と認識していると断定することは難しいかもしれませんね。留意すべきは、現代社会において『芸人』という職業を名乗っている人々は『見世物興行』の系譜にいるという認識はないだろうことで」
「どの系譜にいるの?」
「テレビ」
 ですかね、と言おうとしたのに、百合子さんが肩にもたれかかってきて、甘いにおいがして、左側がやわらかくて、はわわ……とあとが続けられなくなった。ごめんね、眠たくなっちゃった、と百合子さんが小さく謝った。なんて人だ、とぼくは思った。肩に百合子さんの頭が乗って、鎖骨を髪が滑ってくすぐったい。横を向いた百合子さんの唇が炒飯の油でてらついているのが見えた。なんて人だ、ともう一度思ったときには、
「あの、百合子さん、M-1で優勝したらぼくとキスしてくれますか!」
 と勢いだけで叫んでいた。部屋にいる将吉を起こしてしまったかもしれない。
 百合子さんは突然の大声に体をビクッと震わせ、ベランダの錆びた手すりに手を伸ばして、霧雨に手のひらをかざした。「梅雨ってなんか鉄のにおいするよね」と肩のあたりからぼくの顔を見上げて言って、急に体を起こしたかと思うと、ぼくの顔に顔を近づけた。
「いいよ」
 驚いて目をつぶる。おでこに冷たく柔らかい感触があって、ハッと目を開けたときには、百合子さんは部屋に戻っていた。雨は、まだ止みそうになかった。

(気になる続きは、本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名:ぼくには笑いがわからない
著 者:上村 裕香
発売日:2025年12月01日

『救われてんじゃねえよ』の新鋭がおくる、大学お笑い小説!
ナイチンゲールダンス ヤスさんから熱いコメントが到着!
「大学お笑いの解像度が高すぎる。 全員いた。 やっぱこれくらい拗らせとかなきゃ。」

好きな人をぼくが笑わせたい。真面目な大学生・耕助は“恋”と“自分のことば”を手に入れるため漫才を始める! i n 京都

************

朴念仁で惚れっぽい、でもめっぽう頭はいい京都の大学生・耕助は、
想いをよせる芸大生・百合子に自分が書いた論文を渡して気を惹こうとするが、
好きなタイプは「おもしろい人」「わたしのこと、笑わせてくれる人」と言われて撃沈。
おもしろいとはなにか、ぼくにはまったくわからないのだ―――。

百合子は学生漫才注目株のコンビ・ミーレンズが好きだと知り、
耕助は幼馴染の将吉とコンビを組んでM-1を目指すことにする。
まずは芸能養成所に入ろうとするが、苦学生で学費の支払い能力がないとみなされ落ちてしまう。
悩んで入った餃子屋で、副店長が売れない芸人だと知り弟子入りするが――。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322405000675/
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