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レビュー

【解説】松本自身の考え方が生身のまま書かれている――『日光中宮祠事件 新装版』松本清張【文庫巻末解説:保阪正康】

松本清張『日光中宮祠事件 新装版』(角川文庫)の刊行を記念して、巻末に収録された「解説」を特別公開!



松本清張『日光中宮祠事件 新装版』文庫巻末解説

解説
さか まさやす(作家)

 本書に収録の作品9編は、まつもとせいちようが作家として最も売れっ子になった頃に、小説雑誌などに掲載した作品のようである。一読してわかる通り短編か中編の作品で、読み進むと理解できるが、いずれの作品でも執念やおんねんがテーマになっている。私たちの日常生活は、ある意味でこうした心理的なこだわりを捨てる、あるいは忘れることで、心理状態のバランスを保っている。奇妙な言い方になるのだが、執念にこだわっていると、現実には日々の生活のバランスが崩れて、まさに犯罪者になりかねない。
 松本作品の登場人物は──少なくとも本書に登場する主人公は不幸にも大半が犯罪者になるのだが──当初は、現実生活の中では自分の胸にその怒りを内在化させて、他者にはいらち、不満をうかがい知れぬように振る舞う所作を身につけている。その段階から具体的な行動にしようすることに、ストーリーの面白さがあるように思う。つまり松本作品は庶民の日常心理を土台に据えつつ、その不満をさまざまな形で現実化して読者を満足させるのであった。そこが興味をもたれる所以ゆえんであろう。
 本書に収録されている作品も推理小説の枠組みに入るのであろうが、例えば「小さな旅館」などの作品を読むと、娘婿に対する屈折した感情により、その殺害に至る心理描写が語られる。主人公は娘に対する愛情が強い分、その婿に対する憎しみが募っていく。娘が彼を愛すれば愛するほど憎しみは増していくのである。こういう心理を描いていく松本の筆調を見ていくと、主人公の老人は、「日本書道文化史」という書をまとめたいとの気持ちを持っており、このような小道具の用い方が巧みなのが松本の作品の読みどころと言っても良いのである。
 殺人を犯す老人の計画が、どのように進んでいくか、を淡々と説明していきながら、書道文化史の取材という文化人の端くれに位置するその状況も巧みに語っていく。娘婿とその愛人を殺害する描写もかなり細かく書いている。読者はこの部分を読む限りでは、松本の筆調が他の作品と比べてはるかに細部にこだわるなあと思うだろう。娘婿の死体を埋めるために土を載せていく場面では、「この土の色は妙に白っぽい。黒土でも赤土でもなかった」とさりげなく書いている。実はこの「白っぽい」土が伏線になっているのである。完全犯罪の手順が説明されていくのだが、後に娘婿の上衣が発見された時、そのポケットから発見された白っぽい土を専門家が鑑定すると、意外なことがわかってくる。地質学者の調べでは、「東京の江古田かいわいにのみ見られるいわゆる『江古田泥炭層』の土」というのである。
 この作品のように伏線の張り方、さりげなく完全犯罪が失敗していくプロセスをストーリーの軸に据えながら、松本は主人公が「日本書道文化史」の脱稿を夢想する表現でこの作品を終わらせている。奇妙な言い方になるのだが、松本作品が世間に幅広くけんでんされるのは、実はこの主人公の心理や想念にあると言えるのではないか、というのが私の見方なのである。実際に松本作品はひとつの執念やこだわりにけている主人公が軸になっていて、執念そのものが生きる目的となっている。そのような我執の人間は、いつの時代にも、そしてどのような場にも必ず存在する。
 あえての推論になるのだが、松本の作品は戦争を生身で体験した人物が持ち得た人間観であったように思う。さらに推測を重ねるならば松本は、一人の衛生兵として戦場に向かった体験から人間の本質を見たのであろう。その初期、中期の短編、中編にはそれが顕著に表れている。この書は作家としての初期から中期への時代だと思えるのだが、それだけにその人物像は松本の戦時下体験から生み出されたと言っても良いであろう。
 この書のタイトルになっている「日光中宮祠事件」についてもそれが指摘できるのである。
 この事件は、昭和21年5月に日光市で飲食店兼旅館を営む人物が、一家5人を殺害して家に火を放ち無理心中をしたとされていた事件である。この事件が10年後に殺人事件として立件されたわけだが、それを追憶する県警の刑事部長と警部の回顧談として描かれている。ここで松本が言わんとしているのは、無理心中ではなく、殺人事件であり、再捜査を行うべきだと主張する一住職の執念と、それを受け入れて10年後の捜査に乗り出した刑事たちの、やはり執念の話である。
 戦争の時代を引きずっていた甘い捜査、さらには在日の朝鮮の人たち、それに戦後の混乱期の世相などが巧みに描かれていて、松本としては、警察署長などの見込み捜査やとうてい科学的とは言えない捜査方法を批判、あるいは否定したかったのであろう。この作品のポイントは最初に警察署長が無理心中と決めつけた事実が、捜査の方向をじ曲げたことである。それに対して被害者の一族ともえんせき関係にある住職は一貫して警察に来ては「これは無理心中ではない」と訴え続けている。住職の嘆願書を受け取った地検でさえ、何の手も打ってはいない。松本なりの表現であろうが、
「検事は嘆願書をよんでも、《ええ、面倒くさいや》と横を向いて、煙草でもすっていたのであろう。」
 と書いている。この小説は二人の刑事が、時間を経ているとは言え、丹念に事情をすくい上げ、しかも小切手の引き出しなどを調べて犯人を追い詰めていくというストーリーである。その描写はかなり細かい。松本自身、こうした方面に関心を持っていくことで、作家としての視点を拡大していこうとの思いもあったのであろう。事件が解決した後に残った感想はなるものなのか。松本は、「科学捜査が進歩しても、神でない捜査官に誤りがないとは言えないだろう。問題は捜査官の妙な面目や威厳の保有意識である」と書く。
 むろんこれは松本自身の旧体制批判の本音である。この頃の作品にはこうした松本自身の考え方が生身のまま書かれていることに特徴がある。もとより作家としての正直な感想であり、怒りでもある。本書はこのような表現に出会うことが意外に多いのだが、それはとりも直さず作家松本清張が自身の表情を読者に垣間見せていることでもあった。本書に触れる楽しみとは、そうした表現がいかに松本の地肌そのものであったかを確認できるという点も含まれていることに注目しても良いであろう。
 本書のようにまだあまり知られていない松本作品には、それに応じた楽しみがあることを知っておくべきであろう。本書の役割はその点にもあると記しておきたい。

作品紹介



書 名:日光中宮祠事件 新装版
著 者:松本清張
発売日:2025年11月25日

惨たらしい一家6人心中事件の真相とは? 迫真のノンフィクション・ノベル
10年前、日光市におこった一家無理心中事件に疑惑!
土地の一住職の熱心な懇願により、警察はついにこの事件の再捜査に踏み切った。
10年のブランクのため難航する捜査。事件直後、現場から消失した小切手の行方は?
捜査線上に浮かび上がった謎の朝鮮人は?
終戦後の混乱期にみられた警察の強引な捜査に、鋭い批判の目を向けた表題作ほか
「情死傍観」「特技」「山師」「部分」「厭戦」「小さな旅館」「老春」「鴉」を収録。
松本清張の傑作短編集!

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322508000318/
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