近藤史恵さんの最新刊『オーロラが見られなくても』の発売にあわせ、池澤春菜さんによるレビューをお届けします。
『オーロラが見られなくても』レビュー
評者:池澤春菜
この本を台湾に向かう飛行機の中で読んだ。
旅は不思議だ。徹底的に宙ぶらりんな時間。旅の間の自分は、通り過ぎる人だ。その場所に属さない、すぐにいなくなる人。飛行機は離陸して着陸するけれど、その間わたしたちはどこの国の誰になっているんだろう。
ここを離れて、また帰ってくる。いや、帰ってこなくてもいい。旅先に留まることもできる。誰でもない人になって、自分を作り直すこともできる。
旅に出ると、自分がどれだけのものを必死に抱え込んで、支えて、繋がろうとしていたかがわかってしまう。そして、それらがなくなった時に、何が自分の核に残るのか。
だから、旅は人を変える。
「遠くの縁側」で乙葉はアクシデントによりアムステルダムから帰れなくなる。たった数日間、仕事でもない、遊びでもない、誰もいないひとりの時間。最初は心細さが勝っていたが、少しずつ乙葉の心が解れていく。
きっかけは揚げ物の自動販売機。商談で来ていた乙葉が、初めて自分で選んで食べたいものを食べたところから、彼女の芯が戻ってくる。スーツを脱いで、スーツから気楽な服に着替えて、できることを少しずつ広げていくうちに、ぺちゃんこになっていた自尊心が元の形を取り戻していく。
わたしも、旅に出て外圧がふっと消える瞬間が好きだ。もちろん別種の緊張や不安はある。でも外圧が消えると、内側から自分を膨らます力がなんなのか、よくわかるようになる。
「すぐに動かなくてもいいし、どこにも行く必要がない。そのことがたまらなく、心地よかった」
当たり前が崩れるのも、旅の面白さだ。一〇年付き合った彼女から別れを告げられ、空虚な気持ちを抱えて旅する翔太は、リトアニアでイクラの乗ったパンケーキに尻込みをする。イクラと言ったら白いご飯だろう、という気持ちが消えない翔太だが、ラトビアに移住した妹と話すうちに、自分の中に頑なな結び目があることに気づく。
「だと思った」「に違いない」「つもりだった」から「試してみてもいいかもしれない」へ。当たり前が崩される瞬間は、不安で、でも爽快だ。
本当に大事なものは、離れたときにこそ気がつけるのかもしれない。「ジブラルタルで会えたら」では、親友の結婚を受け止めきれず、取り残されたような気持ちを抱える岬が、距離を超えて届く思いに気づく。
「海峡を越えるのは思っていたより、ずっと簡単だった」
「オーロラが見られなくても」。恐ろしいほどの夕焼けを見たことがある。台風が来る直前の沖縄、残波岬で。アルゼンチンのメンドーサでは、池に映る夕日で世界中が燃え立つようだった。3週間住んだ台湾のマンションから、帰国前夜に見た淡水河に映る鮮やかな錦色。それらを見るたびに思う。
わたしがいなくても、誰もいなくても、日は沈むし日は昇る、と。
長年の介護から解放されたとき、佳奈には何も残っていなかった。思い切ってアイスランド旅行に来てみたが、見たかったオーロラツアーは中止だった。けれど、同じ氷河湖ツアーに参加していた千尋と話すうちに、佳奈は思いがけない自分の姿を見つける。介護に押しつぶされそうになっていても、身内の心ない言葉に傷ついても、その強さは佳奈の中にあったのだ。誰も見ていなくても空を染める夕焼けのように。
「マイナス十二度のアイスキャンデー」の寒さの描写には、そうそう、と膝を打った。物語の中ではハルビンだが、わたしが経験したのはブルガリアだった。マイナス二〇度でも空気が乾燥しているので、寒さがしみ通ってこない。不思議な体験だった。
かつての会社の同僚郭さんを訪ねた真衣は、心に深い傷を負ったままハルビンの街を回る。どうやっても振り切れなかった辛い思いが、違う世界を見ることで、少しだけ遠くなる。旅の前と後では、何かが少しだけ変わる。
遠くへ行くのは、世界を見るためだけじゃない。
そこに立つ自分を、もう一度見つけるためだ。
五つの物語は、その小さな再生をやさしく見届けてくれる。この本に触れたあなたにも、まだ見ぬ場所へ向かう風が、そっと吹き始めますように。
作品紹介
書 名:オーロラが見られなくても
著 者:近藤史恵
発売日:2025年11月08日
美しい街を歩いて、未知の料理と出会い、自分のためだけに時間を過ごす旅。
人生に疲れた五人に、心地よい風が吹く。
壁も屋根も、街全体が真っ青でまるで夢の中に迷い込んでしまったような、モロッコのシャフシャウエン。二十七歳の岬はここに「自分を少し捨てに」やってきた。グラスにあふれんばかりの生のミントと熱くて甘い緑茶を注いだミントティーや、帽子のような鍋に入ったレモンとチキンのタジン。初めての景色と料理に出会った岬に、予想外の事態が起こり……。(「ジブラルタルで会えたら」)
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