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試し読み

【試し読み】この旅はわたしたちへのご褒美なのだ。近藤史恵さん『オーロラが見られなくても』大ボリューム試し読み!

美しい街を歩いて、未知の料理と出会い、自分のためだけに時間を過ごす旅。人生に疲れた五人に、心地よい風が吹く。ドラマ「シェフは名探偵」原作者の近藤史恵さんが手がける、おいしくて幸せな旅の短編集『オーロラが見られなくても』。刊行を記念して、冒頭の試し読みを大ボリューム特別公開します! どうぞお楽しみください。

近藤史恵『オーロラが見られなくても』試し読み

遠くの縁側


 どうやってホテルに帰ってきたのか、ほとんど覚えていない。
 ただ、ホテルの部屋に帰って、ちょっと泣いた。
 この仕事だけは、失敗したくなかった。何ヶ月も前から準備をしてきたアムステルダムでのヨーロッパ向けの見本市だった。ランジェリーの本場で、うちみたいに大手メーカーではない日本製の下着が、どれだけ戦えるのかはわからない。だが、何年もかけて、少しずつ販路を増やしてきたのだ。わたしに担当が代わってから、ひとつも新しい契約をまとめられないなんてことにはなりたくなかった。
 いや、仕事自体をしくじったわけではない。これまで取引があったところからも注文をいくつももらったし、新しい取引先との話も、進めることができた。
 一週間続いた見本市が終わりに近づいていて、わたしの気も緩んでいたのだろう。
「全部終わったお祝いに、ちょっと乾杯しましょう」
 現地のスタッフにそう言って入ったバーは、やたら混んでいた。
 あまり飲むと、疲れがドッと出てしまいそうで、わたしは白ワインを一杯だけ飲んだ。英語の得意でない部長のために、テーブルの会話を通訳したり、オランダ人スタッフたちのりゆうちようだが、少しアクセントの違う英語に、必死で耳を傾けたりしていたせいもあるのだろう。
 気づいたときには、ショルダーバッグがなかった。
 パスポートも財布もすべてそこに入っていた。スマートフォンだけはポケットに入れていたが、あとの大事なものはほとんどバッグの中だった。
 バッグがないことに気づいた瞬間、すうっと血の気が引くのがわかった。口に出す前に確かめる。ひざの上に置いていたのを、邪魔だなと思い、椅子の背もたれと背中の間に置いたのは覚えている。だが、今、わたしの背中はそのまま背もたれに触れている。振り返って見ても、そこにバッグはない。下にも落ちていない。
 深呼吸をする。落ち着け、はしもとおと。どこかに置き忘れていないのか。席を立って、トイレに行くが、もちろん、そこにもない。
 バーにいる他の人たちが持っていないか、見回すが、誰もわたしのサドル型のバッグなど持っていない。
 落ち着きがなかったのだろう。現地スタッフのエミリーが英語でわたしに尋ねた。
「橋本さん、どうしたんですか?」
「えっと……、かばんがないかも……」
「えっ!」
 テーブルにいた全員の視線がわたしに集まる。
「なにしてんの、おまえ」
 同僚のづみがそう言う。あらためて大嫌いだと思う。TOEICの点数が高いというけど、お客様との交渉はほとんどわたしに押しつけていた。
 部長が尋ねた。
「パスポートや貴重品はどうしたんだ」
 声が小さくなってしまう。
「鞄の中……です。ホテルのセーフティボックスに少し現金とクレジットカード一枚は置いていますけど」
 部長がまゆをひそめるのがわかった。
「貴重品は、貴重品入れに入れて、直接身につけておくべきだろう」
 それも考えなかったわけではない。だが、女物のタイトなシルエットのパンツスーツだと、貴重品入れの存在がはっきり外からもわかってしまう。かといって、段ボール箱などを持ち上げたりするのに、スカートもやりにくい。
「ともかく、警察に行きましょう」
 エミリーにそう言われて、わたしは立ち上がった。
「橋本は本当にドジっ子だなあー」
 背後から部長がそう言うのが聞こえて、ドッと笑い声が起きた。
 わたしは歯を食いしばった。


 他の人よりも失敗が多いなんて思ったことはない。
 ただ、小柄で丸顔で、童顔で、「なんかそういうキャラ」という扱いばかり受けていた。二十代の頃、取引先を訪ねたとき、「営業部のマスコットです」などと言われたこともある。そこで、笑みを浮かべずにいるなんて、よほど心の強い人しかできないのではないだろうか。
 抗議しても「褒めているんだ」「可愛がっているんだ」と言われる。
 嫌われるよりいいと思って、自分を慰める。三十を過ぎれば、さすがにマスコットではなくなったが、ドジで、からかってもいい人間という扱いは変わらない。他の人が失敗したときには誰もそんなことは言わないのに。
 だから、失敗はしたくなかった。なのに、こんなことになってしまうなんて。
 エミリーの力を借りて、警察に紛失届を出した。合間に電話でクレジットカードも止める。
「帰国するだけでしたら、パスポートの再発行ではなく、帰国のための渡航書でなんとかなるでしょう。パスポートの再発行だと十日くらいかかりますけど、渡航書なら一日か二日で出るはずです」
 放心していて、エミリーのはっきりした英語を聞き取るのも難しい。だが、彼女が警察に同行してくれて、本当に良かった。
「ありがとうございます。一緒にきてくれて」
「でも、明日あしたは仕事なんです。大丈夫ですか」
 今日はもう大使館は開いていない。本当は明日帰る予定だったから、航空券の変更手続きもしなければならない。だが、大使館なら日本語も通じるだろう。
 これ以上、彼女を頼るわけにはいかない。
「もちろんです。今日は本当に助かりました」


 送ると言ったエミリーを断って、トラムに乗って帰った。帰るまでにいくらお金がかかるかわからなかったから、タクシーも使いたくはなかった。
 降りる停留所を間違えて、しばらくアムステルダムの街を歩いた。もう八時を過ぎているのは確かなのに、アムステルダムの街はまだ夕刻みたいで調子が狂う。
 運河沿いにボートハウスが並んでいる。橋には美しい花が植えられていて、まるで絵はがきの写真みたいだ。
 美しい街なのに、少しも心は動かない。
 ただ、知らない街を歩くのだから、明るい方がいい。真っ暗なら不安で心がつぶれそうになっただろう。
 パンプスでずっと立ち仕事をしていたせいで、足は痛み続けた。まるでシンデレラの姉みたい、なんて思ってしまう。
 ガラスの靴が入らないように、この街はわたしにふさわしくなかった。
 泣きそうになりながら思った。
 もてさんなら、こんな失敗はしなかっただろう。


 茂木さんと最後に連絡を取ったのは、一ヶ月前。このアムステルダムの見本市にわたしが行くことに決まったから、彼女にその報告をした。
 去年までは、彼女がやっていた仕事だった。英語が流暢にしやべれて、華やかで、いつも笑顔で弱音を吐かない彼女。わたしより四つ年上なのに、同い年みたいに気さくに話せるけど、あこがれていて、うらやましくて、少しねたましくて。でも、大好きだった茂木さん。
「アムスの見本市、今年はわたしが行くことになりました」
 そうメッセージを送ると、すぐに返事が来た。
「本当? 橋本さんなら絶対わたしよりうまくやれると思う。頑張ってね」
 噓だ。あなたみたいには絶対にうまくやれない。そう言いたい気持ちをみ込む。
 彼女はもうこの会社とは関係のない人で、彼女相手にだだをこねても、ただ甘えているのと変わらない。
「アムステルダムで、おいしいものってありました?」
「うーん、毎日、ホテルと会場の往復だったし、晩ご飯もホテルのレストランとか、近くの日本食レストランだったからなあ。あんまり期待しない方がいいと思う」
 そう言われても、それほどがっかりはしない。おいしいものを聞いたのは、彼女ともっと話がしたかっただけだ。自分がグルメだなんて思わないし、緊張する場所で食事をするのは好きじゃない。
 もちろん、まずいものを食べるくらいならおいしいほうがいいけれど、毎日ファストフードやインスタントラーメンを食べていても気にならない。身体のことを考えているから、最低限の自炊をしているというだけだ。
 茂木さんはわたしよりもずっとおいしいものが好きだった。一緒にランチに行って、たくさん店を教えてもらった。ひとりではもう行く気にならない。後輩を誘うときだけ、茂木さんに教えてもらった店に行く。
 お土産を買っていくというのはおかしいだろうか。そう考えていると、かわいい犬のスタンプが送られてきた。
 吹き出しに「ファイト!」と書いてある。
 そのスタンプを見ながら考えた。彼女は後悔したり、寂しくなったりしないのだろうか、と。


 ホテルに帰ってもほとんど眠れなかった。
 明日、他の社員は帰ってしまうし、現地スタッフに甘えることもできなくなる。ひとりで大使館に行って、手続きをして、ひとりで帰ってこなければならない。
 海外旅行は何度か行ったことがあるけれど、だいたい飛行機とホテルがセットになったパック旅行で、ひとりで行動したことなんてほとんどない。
 部長におびと、報告のメールを送り、日本の総務部にも事の次第をメールで報告する。
 ベッドの中でうだうだスマートフォンをいじっていると、メールの着信があった。まだ午前二時を過ぎたばかりなのに、と思って気づいた。
 日本時間なら、朝の九時だ。メールは総務のとよおかさんだった。
「災難でしたね。飛行機の変更はこちらでやっておきます。オープンチケットにしておくので、帰国の目安がついたら、連絡ください。ホテルの延泊はそちらでお願いします。ホテル代は旅行保険で出ると思うので、帰ってから精算してください」
 頼もしいメールで泣きたいような気持ちになる。
「帰国のための渡航書」を申請するためには、戸籍謄本が必要だから、母に電話をかけた。幸い、兄が休みで家にいるから、これから市役所に取りに行ってくれるという。帰ったらなにかお礼をしなくてはならない。
 戸籍謄本は、メールでの添付で大丈夫だというから、すぐに取りに行ってもらえば、朝起きて、すぐに大使館に行ける。
 解決の糸口が見えたことで、ほっとしたのか、わたしはいつのまにか眠っていた。


 スマートフォンの着信音で起こされた。
 寝ぼけながら、電話に出る。部長からだった。
「大丈夫か? 昨日はどうだった」
 わたしは事の次第を説明する。そういえば、本当は今日の午前中に、アムステルダムを出て、帰国する予定だった。
 ひとり取り残される心細さに、心臓がぎゅっと縮んだような気がするが、自分のせいなので仕方ない。
 電話をしながら、タブレットでメールの受信トレイを確認する。兄から添付ファイルつきのメールが届いていた。兄はウェブ制作の仕事をしているから、添付画像の質なども問題ない。
「じゃあ、まあ気をつけて帰れよ。観光でもして」
「本当にご迷惑をおかけしました」
 電話では見えないのに、自然に頭を下げてしまう。優しい人だということは知っている。もっと怒られても不思議はなかった。
 じわりと涙がにじむ。こんなことでは、来年からは別の社員が、アムステルダムにくることになるだろう。茂木さんの代わりは、わたしが埋めたかった。
 電話を切って、日本大使館の場所を調べる。アムステルダムにあるとばかり思っていたのに、日本大使館があるのはデン・ハーグという街だった。アムステルダムから特急で一時間くらい。
 ここにきてから、ひとりで列車に乗ったこともない。不安だが、行かないわけにはいかない。
 わたしは、自分の頰を両手でたたいて、気合いを入れた。
 身支度をして、ちょうど同僚たちの出発する時間に、ロビーに降りた。みんなを見送ってから出発する。朝食を取るよりも、早く手続きをして安心したかった。
 九月のアムステルダムは、やや肌寒く、薄手のコートが必要なほどだった。トラムで中央駅に向かい、苦労しながら自動券売機で切符を購入する。ようやく列車に乗って、大きく息をついた。
 またしばらくドジっ子の称号がついてまわることになるだろう。そう思うと、ためいきが出る。茂木さんみたいに、頼もしい女性に生まれたかった。
 窓の外の景色に目をやる。車内は新しく清潔だが、窓はやけに汚れている。街の壁にはスプレーで描かれた落書きがたくさんあり、どこかすさんでいる。アムステルダム中心部の、美しい観光地との対比が噓のようだ。
 今日は金曜日だから、即日発行ができなければ、帰国は月曜日以降になるだろう。土曜日と日曜日、わたしはたったひとりで、アムステルダムに取り残される。
 部長は観光でもしろと言ってくれたけど、なにを見ればいいのだろう。
 有名なのは、アンネ・フランクの家と、ゴッホ美術館。だが、どちらも長蛇の列だと聞く。まあ、時間はあるのだが、あまり気は進まない。
 美術に興味があるわけではないし、ゴッホはひまわりの絵を描いた人ということくらいしか知らない。こんな気分の時、アンネ・フランクの家を見ると、よけいに気持ちが沈んでしまいそうだ。
 なにより、ひとりで店に入って、なにかを注文して食べるということ自体が、不安なのだ。日本ででさえ、好きじゃないし、できればやりたくない。これまでアムステルダムで入ったレストランは量も多く、ひとりできている客も少なかった。あそこでひとりで食べる勇気などない。スーパーでサンドイッチでも買って、ホテルで食べるしかない。
 考え込んでいるうちに列車はデン・ハーグに到着した。大使館までは歩いて三十分かかるから、タクシーに乗る。
 英語は問題なく通じ、十分ほどでタクシーは大使館の前に到着した。
 大使館に入れば、日本語が通じる。少し全身の緊張が緩む気がした。
 書類に記入し、戸籍謄本の画像を見せる。手続きはスムーズに進んだが、やはり渡航書の発行は月曜日になるらしい。
「月曜日の午後にきていただければお渡しできます」
 大使館の職員はそう言った。スキポール空港は、デン・ハーグから三十分くらいだから、帰るのは月曜日の夕方以降になりそうだ。
 大使館を出て、総務の豊岡さんにメールをする。日本時間では夜の七時、もう帰っているかもしれないと思ったが、すぐに返事が来た。
「直行便ではないんですけど、午後六時発の便が取れそうです。パリで乗り継いで、翌日朝のはね着です」
「じゃあそれでお願いします」
 帰る目安がついたと思うと、ようやく安心できた。
 ホテルに電話して、月曜日までの延泊をお願いし、電話を切る。問題はぽっかり空いた、二日間だ。ホテルと、見本市会場の往復だけで観光する暇などないと聞いていたから、ガイドブックも持っていない。
 天気も悪くないので、帰りは駅まで歩くことにする。
 童話に出てくるような中心部と、ビルなどが多いその周辺との雰囲気がはっきり分かれたアムステルダムと違って、デン・ハーグは落ち着いたヨーロッパの街だった。
 シックで趣のある建物と、緑の豊かな街路樹。歩くのもなんだか楽しい。
 安心したせいか、ひどくお腹がいてきた。歩いているうちに、レストランはいくつか見つけたが、なかなか入る勇気が出ない。
 店の外に出ているメニューはオランダ語表記だし、ちょうど昼食時間で、混んでいる。入りあぐねて、歩いているうちに駅に到着してしまった。
 駅にはスーパーがあったから、サンドイッチでも買って列車で食べるか。そう思いながら駅構内に入ったとき、見慣れないものが目に飛び込んできた。
 ガラスの扉の小型のロッカーみたいなものがずらっと並んでいる。近づいてみると、中にはフライかカツのようなものがひとつずつ入っていた。
 なんだこれは?
 そう思いながら、まじまじと見ていると、背の高い白髪の男性が、そのロッカーに近づいた。扉の横に硬貨を入れ、扉を開ける。中から紙皿に入った揚げ物を取りだして、一口かじった。そして、わたしに向けて親指を突き出して見せた。
 まるで「おいしいよ」とでも言いたげだ。
 つまり、これは、揚げ物の自動販売機なのだ。空腹だったこともあり、ぜん興味が出てきた。なにより、食べるのに気を張らなくてもいい。
 いちばん多い、俵形の揚げ物のところに硬貨を入れる。ドアを引っ張ると簡単に開いた。紙に包まれた揚げ物は熱い。温度をキープするようにできているのだろう。
 一口囓る。クリームコロッケだ。熱々のホワイトソースがとろりと口の中にあふれる。
 お腹が空いていたので、あっという間にひとつ食べてしまった。もうひとつ別の種類らしきものを買う。今度は中に焼きそばのようなものが入ったコロッケ。ジャンクだが、アジアの香りがして、元気が出る気がした。
 揚げ物をふたつも食べたせいか、お腹はいっぱいになったが、今度はビールが欲しい、なんて考えてしまう。自分の単純さに笑ってしまう。
 落ち着いたところで、列車の時刻表を見ると、十分後にアムステルダム行きの列車が出るのがわかった。わたしは急いで、切符を買いに走った。
 列車に乗ってからスマートフォンで検索すると、コロッケの自販機はオランダではよくあることがわかった。アムステルダムにもたくさんあるらしい。
 今度はビールを買って、飲みながらコロッケを食べてやる。栄養のバランスなんて、日本に帰ってから考えればいいのだ。
 そう思うと、ゆううつな気持ちが少しだけ晴れた。


 安心したせいか、ホテルに帰り着くとベッドに倒れ込んで、しばらく眠ってしまった。目が覚めたときには、もう夕方だった。
 ゆっくり寝たせいか、疲労感がようやく抜けたような気がする。
 街に出て、コロッケの自販機を探して、ビールを買って一緒に食べよう。そう思うと、街に出る元気が出てくる。
 スーツではなく、スウェットとウエストゴムのワイドパンツに着替える。飛行機の中や部屋でリラックスするために持ってきた服装だが、もう窮屈なスーツを着る必要はない。
 ホテルの近くには、コロッケの自販機はなかったが、駅からトラムで通る途中で見かけた。トラムは二日間乗れるチケットを買ったから、明日までは乗り放題だし、明後日あさつても一日券を買い足すつもりだった。
 仕事用の鞄ではなく、ナイロンの斜めがけバッグを手に、トラムに飛び乗る。停留所の名前は覚えていないが、見覚えのある景色になったから、そこで降りた。
 たぶん、ここをずっと歩いて行くと、お土産物店やデパートのある通りに出て、そこにコロッケの自販機があったはずだ。他に予定はないから、多少迷ったってかまわない。ドジっ子なんてからかう人もいない。
 そう思って歩き出したとき、ふと、狭い路地に人が並んでいるのが見えた。
 なんだろうと思って近づく。親しみのある匂いが漂ってくる。揚げたじゃがいもの匂いだ。
 駅の売店くらいの小さな店では、どうやらフライドポテトを売っているようだった。
 えんすいけいに丸めた紙に、たっぷりとフライドポテトを入れて、小さなフォークを刺したものを手に、若いカップルが列から離れる。
 お腹がぐう、と鳴った。コロッケは昼間食べたから、夜はフライドポテトでもいいかもしれない。
 量が多いから、これだけで充分だろう。
 どんどん列は進んでいく。大量に揚げて、それを取り分けるだけだから、さばくのも早いはずだが、それでも列ができているところを見ると、人気店なのだろう。
 わたしも列に並んだ。すぐにわたしの番が来る。
「小さいのひとつとハイネケンひとつ、お願いします」
 注文を聞いた若い店員さんが尋ねた。
「ソースは?」
 見れば十種類以上のソースのメニューがある。
「ええと、塩で」
 そう答えると、店員さんは軽く首をすくめた。
「ソースで食べなきゃ。うちのマヨネーズはとてもおいしいよ」
 マヨネーズと聞いて、わたしは目をぱちくりさせた。ケチャップならまだしも、フライドポテトにマヨネーズなんて聞いたことはない。
 だが、「郷にっては郷に従え」だ。わたしはマヨネーズをお願いすることにした。
 山盛りのフライドポテトの上に白いマヨネーズがかかっている。お金を払って、ハイネケンとポテトをもらうと、両手がふさがってしまう。
 立ったまま食べるのは難しそうだ。路地を通りぬけると、そこにはまた運河があった。
 運河沿いに、ベンチがあったから、そこに腰を下ろす。苦労しながらハイネケンのプルトップを開けて、一口飲んだ。
 ビールはキンキンに冷えているわけではないが、肌寒いからちょうどいい。熱々のポテトにマヨネーズをつけて口に運んだ。
 うなってしまった。マヨネーズは日本のマヨネーズと全然違う。酸味が少なく、少し甘くてクリーミーだ。たしかにフライドポテトによく合う。芋自体も、とても美味おいしい。
 運河を眺めながら、ビールを飲み、フライドポテトを食べた。前を通っていく人もいたが、誰もわたしのことなど気にしない。そのことがひどく心地よかった。
 思った通り、小サイズでも全部食べるとお腹がいっぱいになってしまった。残ったビールを飲みながら、その場でぼんやりする。
 すぐに動かなくてもいいし、どこにも行く必要がない。そのことがたまらなく、心地よかった。
 なぜか、また茂木さんのことを思い出した。


 真夏になる前、茂木さんの新居に遊びに行った。
 彼女が仕事をやめてから、三ヶ月後のことだった。
 彼女は、東京から特急で二時間半くらいかかるところに引っ越していた。駅から車で二十分くらい。バスは本数が少ないからと、彼女は駅までわたしを車で迎えにきてくれた。
 古い平屋の一軒家は、彼女が自分で壁を塗ったりして、改装したのだと聞いた。
 広い庭と、家庭菜園があって、愛想の悪い、雑種の犬がいた。
 山がすぐ後ろにそびえ立っていた。かんとう平野で生まれて、関東平野で育ったから、こんな山の近くに住むなんて、なんだか想像もできなかった。住む人のいなくなったしんせきの家を譲り受けて、働きながら休日に手を加えたのだと聞いた。
 彼女は家のかぎを開けた。
「いらっしゃい。さすがにここまで遊びにきてくれる人はなかなかいないから、うれしいよ」
「こちらこそ、お邪魔してしまって……」
 遊びにきてね、というのは、もしかしたら社交辞令だったのかもしれない。それでもわたしは知りたかった。
 茂木さんが今、どんなふうに生きているのか。わたしが憧れていて、わたしの欲しいものをすべて持っているように見えた彼女が、それをぽいっと捨てた末に、なにを手に入れたのかを。
 六月、梅雨の晴れ間だった。東京はもう蒸し暑かったのに、そこはひんやりとした風が吹いていた。
 庭に面した縁側に、座布団を敷いて、わたしは座った。茂木さんが、麦茶を運んでくる。
 庭には大きな木がある。これが何の木なのかはわたしにはわからない。そんなことに関心を持たない生活をしてきた。
 菜園にはとプチトマト、そして青唐辛子が植えられてた。
 茂木さんはわたしと並んで座った。愛想の悪い犬は、おそるおそる近づいてきて、また部屋の奥に走って戻っていった。
「まだわたしにもそんなに懐いてないの。元野犬だからさ。でも、逃げようとはしないから、ここが安全だということはわかってるみたい」
 茂木さんはそんなことを言った。わたしが買ってきたクロワッサンを一口食べる。
「ああー、やっぱり都会のパンはおいしいねえ」
 そう言ってからわたしに笑いかける。
「田舎でびっくりしたでしょ」
 わたしは首を横に振った。
「でも、涼しくて驚きました」
「ほとんど山だからね」
 風が吹いていて、とても静かで、そして寂しい。まわりに家もあるが、都会みたいに密集はしていない。
 部署のエースだった彼女が、いきなり辞めると言いだしたとき、みんな驚いた。前年度の評価で、あきらかに仕事のできない男の同僚が、彼女より上の評価をつけられていたことが関係しているのだと言う人もいた。部長は、「結婚して子供を養わなければならないのだから、給料を上げてやらないと可哀想だ」と言ったという話が流れてきた。
 そのことをいきなり聞くのははばかられた。茂木さんが尋ねた。
「みんななんか言ってた?」
「最初のうちは……寿だろう、とか……」
 今はみんな忘れたようにもう茂木さんの話はしない。わたしは尋ねた。
「今はお仕事は?」
「ここから車で一時間くらいのところに、博物館があって、そこの契約職員をしている。わりと仕事は楽しいよ。大学で取った学芸員の資格が、ようやく役に立ったみたい」
 だが、契約職員なら、収入は前より減っているはずだ。口には出さなかったが、わたしの考えたことは伝わったようだった。
「東京の高い家賃を払わなくてもいいし、美容院もたまにでいいし、流行はやりの服も最新のコスメも、別に必要ないし、おいしいレストランも、もういいかなって思った。人生いつまで続くかわからないしね。自分のために時間を使いたいと思ったの」
 それが、この田舎の家で、懐かない犬を飼って、家庭菜園をしながら暮らすことなのだろうか。わたしには少しもわからなかった。
 茂木さんのようになりたかった。あなたに憧れてた。ずっと前を走っていて欲しかった。その気持ちを表に出さないくらいの分別はある。彼女は笑った。
「もちろん、評価のことは本気でむかついたし、ガラスの天井があるのは確かだし、そういうのがなければ、もうちょっとだけあそこにいたかもしれないなとは思うけど、でもそれだけじゃないんだよ」
 愛想の悪い犬がまたやってきて、クロワッサンの紙袋をフンフンとぐ。茂木さんは小さい欠片かけらを犬に差し出した。ぺろりと食べた犬の目がまん丸になった。こんなおいしいものは初めて食べた、みたいな顔だった。思わずわたしも笑ってしまった。
 茂木さんは言った。
「わたしね。自分の人生の何分の一かでいいから、ここで風に吹かれて座っていたいの」


 さすがに栄養のバランスが気になったので、朝ごはんはホテルのビュッフェでサラダとゆで卵などを食べた。オレンジがさわやかでおいしい。
 今日こそ、またコロッケの自販機を見に行くつもりだった。フライドポテトの他のソースも試してみたい。
 なぜだろう。レストランは気が重いのに、ストリートフードなら、気兼ねなく食べられる。子供の頃、夜店で焼きそばや、りんごあめを買ってもらったときのように気持ちがわくわくする。
 ホテルのロビーにある観光案内マップを見て、今日は運河クルーズに参加してみるつもりだった。
 午前中、部屋でくつろいだ後、また街に出る。
 昨日目指していた、コロッケの自販機のある場所にようやく辿たどり着いた。駅にあったのと違って、狭い店のようなスペースに、コロッケの自販機ばかりが並んでいる。オランダ語で書いてある品書きは読めないから、まじまじと現物を見ていると、自販機の向こう側の扉が開いた。
 人がコロッケを揚げていた。揚がった分から紙皿に入れて、空いたスペースに並べる。
 販売方法は自販機だが、その後ろでは人が調理している。揚げたてで熱々なのも当然だ。
 勘でひとつ選んで、硬貨を入れて買う。
 駅で食べたのは、クリームコロッケっぽい味わいだったが、今日買ったのはカレー風味だった。そこにひきにく。ソースがちょっと懐かしくなるような、親しみのある味わいだった。
 もぐもぐと食べていると、横にいた男性が英語で話しかけてきた。
「日本人? 住んでるの?」
「いいえ、旅行者です」
 そう言うと、彼はメモ帳にさらさらとなにかを書いた。
「自販機のコロッケもおいしいけど、ここは、アムステルダムでいちばんおいしいコロッケだよ。ぜひ携帯電話で調べて行ってみて」

(気になる続きは、本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名:オーロラが見られなくても
著 者:近藤 史恵
発売日:2025年11月08日

それはわたしの人生に、ひさしぶりに点った、遠い目標だった。

壁も屋根も、街全体が真っ青でまるで夢の中に迷い込んでしまったような、モロッコのシャフシャウエン。二十七歳の岬はここに「自分を少し捨てに」やってきた。グラスにあふれんばかりの生のミントと熱くて甘い緑茶を注いだミントティーや、帽子のような鍋に入ったレモンとチキンのタジン。初めての景色と料理に出会った岬に、予想外の事態が起こり……。(「ジブラルタルで会えたら」)長年の介護が突然終わった佳奈は、アイスランドを訪れた。胸を突かれるように美しい氷河湖や、屋台で買って頬張る熱々の“全部のっけ”のホットドッグ。輝かしい未来なんて想像もできなかった佳奈だけれど、胸にある思いが湧きあがる……。(「オーロラが見られなくても」)

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322502001269/
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