抜群の記憶力を持つものの、極度の偏食で、感覚過敏、落ち着きがなく、人の気持ちが分からない。そんな発達障害の特性に悩みながら、日々裁判に向き合う裁判官・安堂清春が活躍する法廷ミステリ『テミスの不確かな法廷 再審の証人』。衝撃と感涙のラストが待ち受ける、逆転の法廷劇の試し読みを大ボリューム特別公開します! どうぞお楽しみください。
直島 翔『テミスの不確かな法廷 再審の証人』試し読み
アリンコは左の足から歩き出す
1
初夏のぬるい風がやさしく頬をなでた。
安堂は任官して八年目になる特例判事補である。判事補からスタートする日本の裁判官は十年の実務経験を経ないと、一人前と見なされる判事という地位は得られない。特例判事補はその一歩手前の地位である。地裁では合議裁判の裁判長になる資格はあるが、一人で法廷を仕切る単独審理を担当することが多い。
裁判所の門を通るとき、安堂には靴を間違えていないか確かめる習慣がある。その日に出す判決に心をとらわれていたりすると、運動靴やサンダルを履いて家を出てくることがままあるからだ。東京地裁から本州の西にあるY地裁に赴任して一年あまりになるが、この習慣のおかげで法廷にサンダル履きで登壇することはおおむね防がれている。
「清春くんは一日一つは忘れ物をするはずだから、いちいち落ち込まないことよ」
幼少時代から見守ってくれている医師、
ただし、この日は足下を見た瞬間にアリの行列を目にし、たちまち関心が靴から小さな生き物に飛び移ったのだった。アリの群れがツツジのピンクの花に向かって行進していた。方角を逆に追っていくと、小指の先より小さな巣穴を見つけた。
行進にばかり見入っていたのではない。そこに群れからはぐれ、止まっているアリが何匹かいた。そのうちのどれかが、どう足を動かして歩み出すかを観察していたのだ。
「変なやつとは口をきかない」―それが校則であるかのように同級生たちから無視された中学生の頃、ただひとり話をしてくれた彼の顔が像を結ぼうとしていた。
そのとき、「きみ、安堂くんだろ?」と語尾上がりの呼びかけが聞こえて、現在に引き戻された。
「おい、安堂くん、安堂くん、安堂くんよー、おーい、きみ、安堂くんだろ?」
総括判事の
はっとして門倉の顔を見た。
「はい、確かに私は、安堂清春です」
「わかってるよ、そんなこと。どっからどう見ても、きみは安堂くんだ。だって、おれときみとはもう一年の付き合いじゃないか」
門倉はこんなところで何をしているのだと言いたかっただけだった。そっくりさんを見かけて、本人確認をしたわけではない。そのことがわずかなタイムラグをおいて認識され、「あっ」と小さくつぶやいた。
「安堂くん、何が『あっ』だよ。あれっ、きみ、泣いていたのか」
そう言われて初めて気づいた。頬に指をあててみると、涙を流していることがわかった。
頭のなかのカレンダーがぱらぱらとめくれ、悲しい出来事があった十代に引き戻されたせいだった。
「変な裁判官だなあ。おれ以上だ」
定年間際で、長く地方回りに甘んじてきた門倉のこの手の自嘲にはすっかり慣れていた。
「確かに、私は変な裁判官です。でも、最高裁事務総局の注意対象にはまだなっていません」と、他の同僚をまねて切り返してみた。彼はそうはっきり告げるほうが、なぜか喜ぶのである。
「言うねえ、どうだ、今夜あたり、一杯付き合えよ」
「お断りします」
「そっか、酒を飲んで話すのに何の理由も感じないんだったな」
「ええ、理由がありません」
「ぴしゃりと言うねえ。そういうところが、きみ、おもしろいんだよ」
そういうと、ふと門倉は空を見上げた。「涙ってのはな、誰にも見られないようにするためにはこうやって止めるんだよ。アリさんたちを見て、どんな悲しいことを思い出したか知らんが、裁判官ってえのは人前で泣かないもんだ。そうじゃないと、死刑判決なんて出せないだろう?」
その通りなのだろう。そして門倉は腕時計をちらりと見て、ふいに安堂の背広の
「おい、遅刻じゃないか。おれじゃないぞ、きみだぞ。朝一番に所長に呼ばれているのを忘れたのか」
2
所長室に入ると、主任書記官の
何のことだろう。きょとんとしていると、所長の
受理する要件を満たすかどうか、チェックを済ます前に再審請求の申立書を「既済」の箱に入れ、審理日程を受け持つ書記官に回してしまったという。
すこし驚いた。再審請求といえば、ただごとではない。どんな事件なのだろうか。
「安堂くん、きみの名前で、請求が受理されたことになっている。まあ、形式的なことだけど、一応、知らせなければならないと思ってね」
そのとき、所長席の卓上電話がプルプルと着信音を奏でた。所長は受話器に伸ばす手を一瞬止め、相手の番号を映す液晶表示に向かって小さなお辞儀をした。「はい、藤木でございます」と声が高めに裏返った。
彼の表情筋は頬のそれが引きつるように
藤木は「すこしお待ちください」と受話器に向かって言葉を発するなり、通話口を手でふさぎ、「詳しい話は八雲書記官から聞いてください」と小声で言った。
出て行きなさい、という示唆を受けたことぐらい安堂にも理解できたものの、足が止まったまま動かなくなった。どんな事件かを脳の一部が気にしているらしく、足に指令を出さないのである。
「さあ、安堂さん、ここをおいとましましょう」八雲は小声でいい、背中を押すようにしてふたりして所長室を出た。彼女は暗い廊下に人けのないことを確かめると、「お偉方からの電話ですよ」とささやいた。「所長のこわばった顔、見ました?」
「見ました。緊張していましたね」
「でしょ。もう五月って感じですよね」
「いえ、すでに五月です。『感じ』ではなく確かに五月は来ています。そして、きょうは連休の谷間の一日です」
八雲はわけがわからないという顔になった。またやってしまったと思った。カレンダーの日付の話ではないのだ。
ぼくは、どこの星から来たのだろう。いつ何時も地球人的なベストな反応を探して生きているのに、なかなかうまくいかない。
生まれつき特性を持った人が「普通」を学び、定型発達者に近づくことは「カムフラージュ(偽装)」と呼ばれている。山路医師から教わっていた。社会に交ざっていくためにそれ自体はいいことであっても、どこか悲しく聞こえる言葉である。
とはいえ、安堂には職場の仲間などとの毎日の接触が学びの場にほかならない。すこし気を取り直して、八雲に聞き返した。
「感じとは、何を感じたのですか」
「人事です」
「人事?」問い返すと、主任書記官はすこし
「多くの国家公務員は年度替わりの四月が異動の時期ですけど、裁判所の幹部は七月ですからね。五月の今時分に内々示が始まります」
「ああ、なるほど」
安堂はうなずきながら、人事というものが組織人に与える影響を組織人の一人としてもっと知らなければならないと思った。いろいろ教えてもらうには、彼女はうってつけだ。
年齢は三十九歳だと聞いている。安堂より三つ年上になる。前の職場の高裁では人事部局にもいたと着任のあいさつで話していた。でも組織の勉強はあとでもできる。今はそのときではない。
「八雲さん、一つおうかがいしたいことがあります」
「はい、何でしょう」
「所長は再審請求の件で、私たちに何をしろと言いたかったのですか」
安堂はようやく、脳のなかにうずいていた疑問を言語化した。
「ああ、そうそう、その点なら、ご心配なく。所長は何をしろと言いたかったわけではなく、私たちは何もしなくていいんです」
「わからない。もっと考える素材をください」
「はあ?」
「考える素材です」
「ごめんなさい。安堂さんはいつも、ほかの人とはちがった話し方をしますね」
「よく言われます」
「では、初めから説明します。再審請求を出してきたのは、いつもと同じ人で、こんどが四回目になります。でも、申立書がいつも要件を満たしていないのです」
「どういうことですか」
「住所がうそっぱちなんですよ。今回も地図でみてみたところ、市内の幼稚園になっていました」
その人騒がせは
「何をしたんですか」
「確定判決では眼科医を殴り殺したとされています。彼には当時、小学生の娘さんがいました。その子の目の治療がうまくいかず、トラブルになったようです。私がざっと調べたかぎりでは、捜査段階で自白し、裁判になってから否認に転じています」
「そうですか、動機は父親の怒りなんですね」
「まあ、そのようです。だからといって、殺すまでするのは理解に苦しむところです」
安堂は「同感です」と言った。殺人事件に激情型は少なくない。ちょっとした口論などから、過剰な暴力に発展してしまうのだ。
「それにしても、申立書にでたらめな住所を書くとは不可解ですね。なぜでしょうか」
「さあ、見当もつきません」
「つまり、申立書に虚偽があり、受理できないということですね」
「はい、今回は私が仕分けをミスしたために、受理証が書記官室から幼稚園の住所に送られるはずです。きょうにも幼稚園に電話をして、開封しないようお願いするつもりです」
「そうしてください」
そのとき、安堂の脳裏にふとある映像が浮かんだ。脳内のカレンダーをめくるまでもなく、ついきのうのことだった。
「八雲さん、その人は傘を持っていましたか」
「そういえば、受け付けに来られたとき、びしょ
五月晴れのなかの太陽が気温をぐんぐん上昇させ、たちまち積乱雲が発生し、強い夕立を降らせたのだ。
「きのうは午後三時半から、一時間当たり五十ミリの降雨が観測されています。紅林さんという方が帰ったのは、五時頃でしょうか」
「そうですが……」
安堂は裁判官室から外を眺めていたとき、ざあざあと騒がしい音を立てて降る大雨のなか、傘もささずに前庭を歩く男の姿を目にしていたのだ。
「紅林という人はなぜ、五十ミリの雨が二時間も降っていたのに、傘を持っていなかったのでしょう?」
「さあ、なぜですかね」
安堂には頭に入れたデータを必要以上に吐き出す
3
裁判官室に戻ると、門倉と判事補の
大型連休の谷間で、弁護人が飛び石連休になるのを避けようと、期日を入れようとしても首を横に振られるためだ。
門倉は椅子の背もたれに上体を預け、口を真一文字に結び、背筋をまっすぐに伸ばして眠っていた。ふしぎとだらしなさはなく、ただ目を閉じている姿にしか見えない得意技である。法廷でたまに披露して、書記官らを驚かせている。
落合は米国から取り寄せた司法ジャーナル誌を広げていた。英語の学習を兼ねてのことのようだ。彼はハーバードやイェールといった名門大への派遣留学を熱烈に希望している。任官二年目ながら、エリート裁判官、もしくは上席法務官僚、もしくは国際弁護士への転身の道に備えて努力を怠らない。
「トランプって人は三権分立を忌み嫌っているみたいですね。移民の強制収容に違憲判断を出した州裁判所を、『ガキだ』なんて汚い言葉でののしっている」
門倉が目を開けた。「三権分立を嫌ってんじゃなくて、知らねえんだろう。あっちの裁判所、玄関の柱になんて彫り物がしてあるんだっけ?」
「司法は民主主義のよき支柱たれ、ですね。ぼくはワシントンの連邦裁判所で見ました」
「おっ、さすが世界に羽ばたかんとする落合だ。この街にいるのが、ずいぶん狭く感じるだろうな。だがな、裁判所がひまなのはいいことだよ。治安がいいってことの証左だ」
「まあ、そうですね」と、どこか不服そうに落合は返した。市の人口は二十万人に届かない。Y地裁は県庁所在地にあるにしては規模がかなり小さな裁判所なのだ。
合議の場合、判決文の第一稿を書くのが判事補の主な仕事だが、忙しい地裁の同期に比べて草稿の数が少ないことに落合は焦りを覚えている。
その気持ちを見透かしたように、門倉は「世界の司法界をめざすきみにとっても、ひまなのはいいことだろう」と皮肉めいた口調で言った。
落合はやや不機嫌な顔つきで英字誌を閉じた。「安堂さんはあした、単審を入れているんですよね」
名前を呼ばれたのはわかったが、安堂にはぜんぶ聞こえていなかった。席につくなり、そわそわ、むずむずが始まっていたからだ。机を指でツンツンしたり、貧乏揺すりをしたい衝動を脳が手や足に命じようとしていた。「安堂さん」と呼ばれたときは、衝動を打ち消す圧迫刺激を求め、六法全書の下に左手を滑りこませたところであった。
「落合くん、ごめんなさい。きみの声がよく聞こえていなかった。名前を呼ぶところから、もう一度お願いします」
彼は安堂のふしぎくん的会話に慣れてもらっている同僚のひとりだ。
「わかりました。安堂さん、あしたは、単審を入れているんですよね」
「ええ、確かに。あした期日を入れています」
さきほどの八雲との会話でも、ふしぎくんが現れてしまった。そわそわ、むずむずの強度といい、きょうの脳は意地悪だと思った。
「なあ、安堂くんよ、手形がなくなるって知ってたか」
「はい、手形と小切手が来年度末に廃止になるようです。銀行協会の決定で、信用金庫も含めて使用されないことになっていますね」
あすは窃盗罪に問われた銀行員の裁判を予定していた。顧客の貸金庫から七千万円もの現金を盗んだとして起訴された被告人は、勤続二十八年の女性行員である。犯行時はY銀行駅前支店に勤務していた。
名は
その字面を頭に描くと、たちまち脳の
門倉の話は続いていた。
「おれは江戸っ子なんだ」
「知ってます。何度も聞いてますから」と落合。「
「おう、テレビの時代劇じゃあ、悪党に銭投げて、顔にぶつけるなんかして捕まえるんだ。かっこよかったなあ」
安堂はそこでこらえられなくなった。そわそわが一段と強くなろうとしていた。「手形と小切手が、どうしたのでしょうか」
「そうそう、手形の話だったな。おれの育った家は、ひいじいちゃんの代からの八百屋でよ。おれが中学生のとき、約束手形が落ちなくなって店がつぶれかけたんだ。品物を納めていた仕出し屋が突然、倒産してしまってね。手広くやっていたお得意さんだっただけに金額がでかくて、親父は仕入れもできなくなって、商売をたたむ寸前までいったんだ」
黒江が県警に逮捕されたのは三か月ほど前のことであった。その際、
勾留質問室は地裁の一階、一般人の出入りがあるロビーとは反対側の北西角にある。鉄格子付きの小さな窓から西日が差し込む部屋で、黒江は手錠をされた手を
「裁判官の安堂です。今から、警察官が書いた逮捕請求の内容を読み上げます」
「お願いします」
読み上げている間、彼女はうつむいていた。警察の任意聴取で黒江自身が認めた内容からはみ出しておらず、警察から届いた資料には調書も含まれた。
安堂は確認のために聞いた。「供述調書にあなたのサインがあります。これは、あなた自身の署名にまちがいありませんか」
「はい、私の署名です」
「手続きに異議はないようですね」
「はい」
「質問はまだあります。あなたの身柄の拘束が必要な理由として、罪証隠滅の疑いがこの書類に指摘されています」
「えっ、罪証隠滅といいますと?」
「あなたが盗んだと供述している七千万円が見つかっていないことです。罪証とは、あなたの罪を裏付ける証拠のことです。七千万円は被害金であり、証拠でもあるということです」
「ええ、確かにそのことは誰にも話していません」
「なぜですか」
「言えないんです」黒江はそういうと、すこし戸惑ったような素ぶりを見せたあと、「裁判官が取り調べをされるのですか」と聞いてきた。
刑事から聞いていた話とは違ったためだろう。健康状態などを聞いて、勾留を認めるのが通常の手続きだが、このときはそわそわが手や足を動かさない代わりに、口の動きを止めない感覚があった。見つかっていない七千万円の行方が気になったからにほかならなかった。
黒江はこの後、押し黙った。安堂は「仕方ありません。では、十日間の身柄の拘束を認めます」と言い、勾留状に署名した。ペンを走らせながら、頭のなかには「言えないんです」という彼女の一言が何度もリフレインしていた。
門倉は仕事が暇過ぎて眠くなったのか、大きなあくびを一つして言った。「なあ、安堂くんよ。テレビのニュースで見たけど、あの被告人はとても、泥棒さんには見えないな」
答えることはしなかった。泥棒に見えるとか見えないとか、裁判官が審理を終えないうちに心証を口にするのは不適切きわまりないからだ。
それでも上司である総括判事の軽口は止まらなかった。「黒縁メガネをかけて、髪をきっちり後ろで結んで、どっからどう見ても、まじめな学校の先生って感じだった。で、安堂くんはどう思った?」
「被告や証拠への私の心証は、判決公判の場で発表するものです。今から先入観を持つのはいけません」
刑事訴訟法三一八条〈証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる〉
この条文を根拠に、日本のすべての裁判官に証拠を自由に判断していい〈自由心証主義〉が保障されている。
「おっ、それは総括判事のおれのせりふだ。ガハハハ」と、門倉は笑った。
安堂は「彼女はY銀行駅前支店では係長という立場で、当座預金と貸金庫を監督していました」と当たり障りのない証拠開示にとどめた。
「そうなんだってな。おれも検察の資料を読ませてもらったよ。何で盗みなんかやったんだろうな。認めているんだろ?」
その通りだった。黒江藍子は初公判の罪状認否で、争う姿勢は何も見せなかった。
落合がたまりかねたようすで会話に加わってきた。「門倉さん、きょうの朝刊見てないんですか。各紙一斉に報じてましたよ」
「何を?」
「一度は消えた七千万円の行方ですよ。弁護人を通して銀行に返済したそうです」
黒江は警察が必死になって捜しても発見できなかった七千万円を、起訴後になってから突然、銀行に返してきたのだ。
「そっか、それはナゾを呼んでいるだろうな。いったい金はどこにあったんだろう。弁護人を聴取するわけにはいかんし……。で、新聞に何が書いてあったんだ?」
「離婚した元夫の聴取が始まったようです。何でもY銀行を脱サラして、投資会社を経営していたそうですが、大損を出していることがわかったとか。七千万円は一時的に損失の穴埋めに使ったというのが捜査の見立てなんでしょうね」
それを聞いて、安堂は首をひねった。黒江の「言えないんです」といったときの表情が浮かんできたからだ。
それがごつごつした異質感を持って、記憶にこびりつくわけをようやく察した。すこし下がり加減の眉毛の角度、頬肉のゆっくりした動き、息の吐き出し方……これまでに学習してきた表情筋の理解では、気持ちが読み取れないのだ。いわば難読顔である。
彼女のその顔は、安堂の額と裁判官室の壁の中程あたりに浮かぶ透明なスクリーンに投影されていた。
「おい、安堂くん、どこ見てるの?」
門倉の手が目の前で上下した。安堂は、はっと気づいて視線を下げ、ふたりを交互に見回した。そして、ごまかすように「元夫の会社では、株をやっていたのですか」と話を合わせた。
落合は「記事には株じゃなくて、FX投資だと書いてありました」と答えた。
「何だい? FXって」
「知らないんですか。テレビCMでも人気タレントが宣伝してるじゃないですか」と、あきれ顔を向けた。「外国
「為替の差で
その門倉の問いかけのなかの言葉に突如、脳が反応した。数々の裁判資料に目を通すうち、漢字の構成へのこだわりが意識にこびりつくようになっていた。「あのことを話して、みんなを楽しませてやれ」と言わんばかりに、脳がけしかけてくるのだ。
商店街の書店で「漢字成り立ち事典」という書籍を見つけ、アパートに持ち帰ったときのことだ。その本を何気なく読んでいたとき、「儲ける」という漢字の部首の異様な関係に気づいたのだった。「にんべん」と「言」、そして「者」を横に並べていくと、なんと「信者」と読めるではないか。
安堂はふうふうと息を吐き出して、今この場にはふさわしくない発言への衝動をかろうじて止めた。
「どうしたの、安堂くん。発作でも起こしたの?」
「いや、何でもありません。ただの深呼吸です」とだけ言ってごまかした。
落合は安堂が落ち着きを取り戻すのを見計らったように、問いの答えを語り始めた。
「為替の差で利益を狙う取引は昔からあります。でもFXはちょっと違うんです。わずかな証拠金を担保に、大きな取引が個人でもできる。十万円の元手でたしか、二百五十万円が上限だったかな」
「かーっ、よくそんな
「他の先進国ではとっくの昔に認められています。経済がグローバル化して、日本も合わせないといけないみたいですから。今、政府はビットコインのような暗号資産についても規制緩和を検討中です」
「なんか、危ない世界に生きてるなあ。われわれは」
「そう思ってるうちに、日本の金融システムは老朽化したんだと思います」
「安堂くんもその、FXとやらには詳しいのかね」
「いいえ」と、正直に答えた。「もし新聞が報じている通りなら、参考書を買いに書店に行かなければなりません」
「安堂さん、そこまでしなくても、FX投資なら銀行のホームページにやり方が載ってますよ。自分で試してみるのがいいと思いますよ」
「そうだな。一回、損こいて痛い目に遭うのが一番の勉強かもしれんな」門倉はそう言ったあと、こんどは落合のほうに目を移し、にやっとした。「ところで、落合くん、きみ今なにしてる?」
(気になる続きは、本書でお楽しみください)
作品紹介
書 名:テミスの不確かな法廷 再審の証人
著 者:直島 翔
発売日:2025年12月22日
生きづらさを抱える
裁判官が導く逆転法廷劇
任官8年目の裁判官・安堂清春は、抜群の記憶力を持つものの、極度の偏食で、感覚過敏、落ち着きがなく、人の気持ちが分からない。そんな発達障害の特性に悩みながら、日々裁判に向き合っている。7千万円を盗み起訴された女性銀行員が囁いた一言、飼い犬殺害事件に潜むかすかな違和感。彼はわずかな手がかりから、事件の真相を明らかにしていく。そんな中に現れた、殺人の濡れ衣を着せられたと訴える男。その再審裁判で証人として出廷したのは、検察ナンバー3の地位にいる、安堂の父だった……。衝撃と感涙のラストが待ち受ける、逆転の法廷ミステリ!
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322507000961/
amazonページはこちら
楽天ブックスページはこちら
電子書籍ストアBOOK☆WALKERページはこちら





