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【解説】「不思議な裁判官」――『テミスの不確かな法廷』直島 翔【文庫巻末解説:岩波 明】

直島 翔『テミスの不確かな法廷』(角川文庫)の刊行を記念して、巻末に収録された「解説」を特別公開!



直島 翔『テミスの不確かな法廷』文庫巻末解説

解説
いわなみ あきら(精神科医) 



 本書は発達障害の一つである自閉スペクトラム症の特性を持つ裁判官、あんどうきよはるを主人公にした法廷ミステリである。著者のなおしましよう氏は、『転がる検事に苔むさず』で第3回警察小説大賞を受賞した気鋭の作家で、現役の新聞記者でもある。この小説においては、東京から地方都市にあるY地方裁判所に赴任した安堂は、様々な事件に巡り合う。タイトルにある「テミス」とは、法をつかさどるギリシア神話の女神で、法や正義の象徴とされる。
 自閉スペクトラム症(自閉症スペクトラム障害、ASD)の特性を色濃く持つ安堂は、日常的には「不思議なキャラクター」を持つ変人と思われているが、その一方でASDに特有なきめ細かい観察眼と独特の視点によって事件の隠れた真相にたどり着くことになる。
 昨今、「発達障害」という用語は、広く一般にも耳にするようになったが、正しく理解されていない面も少なからず見られている。発達障害についての情報量は増えているが、いまだに精神科医の中にも、発達障害について理解のない者も存在している。最近のケースであるが、ある都内の高名な医師に「そううつ病」と診断された患者さんが、投薬を継続していても症状が改善しないため私の外来を受診したところ、発達障害の一つであるADHD(注意欠如多動症、注意欠如多動性障害)だったということがあった。
 発達障害に関する大きな誤解は、そもそも「発達障害」という疾患は存在していないことである。この用語は、様々な疾患の総称なのである。実際発達障害のカテゴリーは、前記のASD、ADHDの他、学習障害(LD)、トゥレット症候群など、生来脳機能の偏りがみられることによって様々な精神症状や、行動上の問題を示す多くの状態を含んでいる。
 発達障害の中で、安堂がかんしているASDは、代表的な疾患である。ASDは、従来「こうはん性発達障害(PDD)」と呼ばれていたものとほぼ同一の概念であるが、最近の診断基準(DSM‐5)において呼称(病名)が変更になった。
 ASDには、主要な二つの症状がある。一つは「対人関係、コミュニケーションの障害」で、「空気が読めない」「場の雰囲気がわからない」ことにより、集団内で孤立することが多く、生涯にわたってほとんど親しい友人がいないといった例もみられる。本書の安堂も対人関係の障害が顕著であり、子ども時代から人付き合いが苦手で友達はほとんどできず、周囲からは「異物」のように扱われてきた。成人になっても状況は変わりなく、自ら人との関わりが少ない裁判官という職業を選んだ。
 ASDにおける第二の特徴は、特定のものに対する「強いこだわり」である。こだわりの症状は、様々な形で現れる。特定の事物に執着し関連するあらゆるものを収集しようとすることもあれば、ASDの子供が電車に強い興味を持ち、何時間でも行きかう電車を見つめているといった例もみられる。またこだわりの症状は、自身の行動として現れることもあり、「道順」や「ものを食べる順序」について、本人なりのルールに固執する例もある。
 ASDの人にとって重要であるのは、「変化しないこと」「同じことを繰り返すこと(常同性)」である。安堂においても、生活上のこだわりが顕著である。彼は偏食で、行きつけの店で注文するのは、必ず濃いケチャップのスパゲッティだ。公判においても、被告の氏名の文字が左右対称であることにこだわってしまい、肝心の事件の内容が頭に入らないことも見られた。
 ASDの特徴が顕著な安堂は、自分の「こだわり」に苦しみ、周囲の人たちから奇異に思われながらも、懸命に毎日を過ごしている。安堂の症状には、ADHDの症状に似ている特徴もあり、担当医はASDに加えてADHDの診断も下している。
 確かに、安堂においては、落ち着きがなく体を動かし、うっかりミスもしばしばみられている。これらは、「多動」と「不注意」の症状とみることが可能である。しかしながら臨床医の視点からみると、安堂の中核的な症状はASDであり、ADHDの症状は二次的に生じたものと考えるのが妥当であろう。というのは、最近の研究によれば、ASDとADHDが併存しているケースは存在しているが少数であり、二次的に症状が類似しているケースが大部分であるからである。さらに一般にADHDの人は陽気で外向的な人柄の場合が多く、安堂の特性とは真逆である。



 周囲からも自らも「宇宙人」のように見なされている安堂であったが、彼の着眼点は常人とは異なるものがあり、次々と事件の真相を見出していくストーリーは痛快である。ASDにおいては、「視覚情報の処理」のあり方が一般人のものの見方と、異なっていることが指摘されている。たとえば視線を計測すると、彼らは「人の顔を見ようとしない、人の目を見ようとしない」傾向を持つことが明らかになっている。さらに彼らはすぐれた記憶力が持っていることが多いが、安堂の持つこういった特性は事件の解決に大いに役立っているようだ。
 発達障害の中で、特別な能力を持っている例は「サヴァン症候群」と呼ばれている。このサヴァン症候群は19世紀にダウン症の発見者でもある英国のダウン医師が提唱した概念で、彼は、知的障害がありながらも、ギボンの大著『ローマ帝国衰亡史』をすべて暗記していた男性の例を報告している。
 またフィクションではあるが、最近日本でも放映されたフランスのテレビドラマ『アストリッドとラファエル』の主人公である警察の文書係アストリッドはすぐれた記憶力を持っていて、過去のあらゆる犯罪のディテイルを覚えていることによって、数々の難事件を解決に導いている。本書の主人公の安堂も、このようなサヴァン症候群の特性を持っていると考えられる。
 最近、前述した『アストリッドとラファエル』をはじめとして、フィクションの中で、ASDの特徴を持つ登場人物をしばしば見かけるようになった。そうした中では、「探偵」役がASDの特徴を持っている例が多いようだ。
 たとえば、『名探偵モンク』というテレビドラマの人気シリーズがある。主人公の元警官の私立探偵モンクには、ASDの特性が濃厚であり、自らの確認癖のために立ち往生してしまう様子は、本書の安堂が法廷で手や足の動きを止められずに苦労している様子と重なる面がある。さらに、BBCが制作した『シャーロック』に登場する現代版シャーロック・ホームズにもASDの特徴がよくみられている。
 ドラマや映画だけではなく、小説やアニメの中でも、ASDの特性を持つ主人公をよく見かける。あくたがわしよう作家、いまむらなつ氏のデビュー作『こちらあみ子』の主人公である中学生のあみ子もその一人である。あみ子は多動で落ち着きがない。学校の授業中に歌を歌い、机に落書きしたりする。常識はずれの行いをしても、本人はおかしなこととは感じないが、周囲からは奇妙に思われる。あみ子は相手の気持ちがわからない。相手は嫌がっているのに、片思いの男子生徒に繰り返し話しかけるため、かえって彼を怒らせてしまう。この本の安堂の純粋な言動も、常識からはずれていることが多く、周囲の人を困惑させることがたびたびであった。



 本書はASDの裁判官という特異な人物を描いている点で興味が尽きないが、一方ですぐれた法廷小説という側面も持っている。法廷における、裁判官の安堂と、検察官、弁護人とのやり取りは、一気にページをめくらせる緊張感に満ちている。
 日本の刑事裁判は有罪率が極めて高いことが知られているが、本書においては無罪とはならないまでも、主人公の活躍によって隠れた真相が明らかとなり、すべての事件が当初の思惑とは異なった結末に至っているのは小気味いい。
 法廷ミステリは、ミステリの世界において重要なジャンルを形作っている。古典的な作品といえば、弁護士ペリー・メイスンのシリーズが知られているが、ジョン・ディクスン・カーなどミステリ界の巨匠の作品の中にも、息詰まる法廷場面に遭遇することは珍しくない。
 翻って本邦では、いくつか法廷ミステリの傑作はあるものの、この分野が活況であるとは言い難い。これは現実の法廷において丁々発止の議論や劇的なシーンがなかなか見られないことを反映しているのであろう。映像の世界においては、海外の作品になるが、『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』(韓国のドラマ、主人公はASDの女性)、『スーツ』(米国のドラマ、日本語版も制作)などの人気作も生まれている。本書についても今後ドラマ化の準備が進められているとのことであり、法廷ものの傑作が生まれることを期待したい。

作品紹介



書 名:テミスの不確かな法廷
著 者:直島 翔
発売日:2025年11月25日

社会に交わり、ままならぬ心身と向き合い罪を裁く。青春×リーガルミステリ
任官七年目の裁判官、安堂清春は幼い頃に発達障害と診断され、周囲との関わりを断ち、自身の特性を隠しながら日々を過ごしていた。Y地裁に赴任して半年、副市長が襲われた傷害事件を担当することになった安堂は、弁護士の小野崎から被告人が無言を貫いていると聞き、何かを隠しているのではないかと気づくが……。微笑みながら殺人を告白する教師、娘は殺されたと主張する父親。生きづらさを抱えた青年が様々な事件に挑む、異色の青春リーガルミステリ!

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322505000521/
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