20世紀前半に活躍した偉大な数学者・哲学者であるホワイトヘッド。彼がラッセルとともに著した数学史に残る大著『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』を執筆していたとき、じつは同時に、一般の読者にむけて、『数学入門』という入門書を書いたのでした。このたび、角川ソフィア文庫からホワイトヘッド『数学入門』を新訳にて刊行いたしました(2025年12月25日発売)。なぜいま、『数学入門』を新訳するのか、110年以上前の入門書をいま改めて読む意義とは。訳者の3人にたっぷり語っていただきました。
ホワイトヘッド『数学入門』新訳記念座談会
翻訳のきっかけ
長谷川珈:それでは、ホワイトヘッド『数学入門』の発売記念ということで、監訳者と訳者2人での座談会です。西郷さんからメールをもらったのが3年半前で、ホワイトヘッドの『数学入門』を大学の講義用教材にしたいので新訳をしませんかと。
で、私は学生時代からホワイトヘッドが好きでずっと読んできたので、これはもう願ってもない機会だったし、高橋さんも科学史・科学哲学科出身なので、ホワイトヘッドは多少読んでいる。
高橋達二:僕と長谷川さんは『心はこうして創られる』(ニック・チェイター著、講談社選書メチエ)を訳し終わったところで、次は何をやろうかというタイミングでもあった。なので「やります」と。それで訳して、西郷さんは実際に講義に使い、でもそれだけではもったいないということで、こうして角川ソフィア文庫での書籍化に至る、と。
長谷川:……なんだけど、「やりませんか」「やります」ですんなり進んじゃったから、訳文の検討は三人でやってきたのに、西郷さんの動機とかは実はちゃんと聞いたことがない。まずはそのへんから。
西郷甲矢人:もともと私もホワイトヘッドが好きというのがまずありますが、そのころ、新しく作られるZEN大学に来ませんかと誘われたんですね。その前の勤め先の長浜バイオ大学も気に入っていたけど、ZEN大の構想がなかなか面白かった。数理系に興味がある学生だけでなく、人文系やクリエイター系の学生にも数学を広める、楽しく学んでもらうことに力を入れるんだと。
で、どういう講義をやればいいのか悩んだ。高学年向けには専門的な講義もするんですが、いわゆる理系とは限らない大学初年度の学生向けに、数学の本質にちょっとでも近づいてもらうにはどうしたらいいかと、途方に暮れたわけです。それでふと思いついたのがホワイトヘッドの『数学入門』で、これは古典といえる内容で、かつ私とも相性が良さそうなので、現代の目で批判的に読むような講義はどうかなと。
ホワイトヘッドの文章ってかっこいいんですよ。切れ味がよくて、しかも大河のような、ゆったりとしたリズム。そしてプロフェッショナルな数学者でありながら、非常にオリジナルな哲学者でもある。ホワイトヘッドの文章に触れることは、文系とか理系とかいう垣根なしに、学生にとって無駄にならないと思ったわけです。
もちろんいろんな点で古いんですが、110年以上前の本にしてはものすごく現役です。用語が古いとか、今は枠組みが変わってるとかはあるけど、数学なのでちゃんと解釈すれば筋が通る。現代的にはちょっと言い過ぎだよとか、ここは鵜呑みにしてはいけないよという点も講義では説明しました。
長谷川:どこが古いかというと、物理学を話題にしている面では、相対性理論と量子力学が登場する直前に書かれた本というのが大きい。厳密に言うとアインシュタインの特殊相対性理論はこの本の6年前の1905年だけど、発表後すぐに定説になったわけではないし、一般相対性理論の発表や量子力学の確立はもう少しあと。なので、ニュートン物理学時代のまさに最後に書かれた本ですね。
西郷:そうです。数学の面では、近代数学が現代数学になる過渡期に書かれた本ですね。でもそれはプラスでもあると思っていて、現代の日本でいえば中学から高校で学ぶ内容である19世紀以前の成果を、ホワイトヘッドは「任意の(any)」と「ある(some)」っていうキーワードで再編成しつつ語りすすめている。現代数学がまだ完全には形をなしていない状況の中で、でもそっちの方向へ行こうとしているという稀有なタイミングで書かれた本なんですね。
だから本格的な現代数学への橋渡しとしてすごくいい。「ものがものであるという、それだけで当てはまる特性やアイデアを扱うのが数学だ」なんていう言い方も、「もの」って何だという、その解釈しだいでは古臭くなってしまうけど、「もの」を広く解釈すれば今でも通用する。
それでも、1世紀以上前の本を学生に読ませるのは反動的だとか、骨董(こっとう)趣味だと批判する人もいるかもしれない。でも数理物理学者の江沢洋さんが、「学生の誤解を恐れるあまりに、物理学とは何かっていうことを誤解させるほうが良くないんだ」といったようなことをおっしゃっていたんですね。
「教科書的でない語り方を試みるのは誤解を生むリスクが高い。でもたとえいっとき学生が誤解しても、その学生が進んでいくうちに必ず修正されるものだ。むしろ、物理学には正解が最初からあって、それを理解して覚えていく学問だという誤解が一番いけない、それをこそ恐れるべきだ」と。
私もそう思うんですよね。一つ一つの間違いはいずれ直るけど、数学ってどんな学問なのかとか、もっと広く言えば学問って何なんだとか、そこで誤解をしてしまうと、もうどうしようもない。だから若い人と学問の最初の出会いっていうのは、個々の説明が正確だとか、現代的にすっきり整理されてるとかじゃなくて、数学ってどんな学問なの? とか、そもそも学問って一体どういうもの? っていうことを誤解させない本であってほしい。
で、『数学入門』から間違いなく伝わると思うのは、数学っていうのは生きてるんだと。数学だけじゃなくて、科学も哲学も、死んだ知識ではない。常に生き生きとしたものとしてある。その印象さえ伝われば十分だと思うんですね。
高橋:学生は古典に触れてほしいというのは僕も毎日思うところで、その意味でもこの『数学入門』はいいですね。科学は進歩するので、古い本は少なくとも科学にかんしてけっこう間違っている。でも他方で、学ぶべきところとか、新しい視点を与えてくれるところがある。そういう読み方に慣れるためにも、いい本だなと。
西郷:言わずもがなかもしれないけど、現代的な目から見ると、差別を助長しかねない表現もあちこちある。古典では珍しくないことですが。
長谷川:そんなになくないですか? まあ民族主義的な言い回しとかはありますね。
西郷:ステレオタイプな見方とかね。「こういうローマ人は一人もいなかった」とか断言してるけど、本当かいな、とか。そういうのは絶対に真似しないでほしい、話半分に聞いてほしいっていうのはある。
でも、あの時代の本としては、ステレオタイプ的な断言が極めて少ないということも強調したい。数学を人類全体の進歩として見ていこうというのが全体のトーンで、ちょっとあの時代と思えないくらいリベラルですね。
ホワイトヘッドのほかの時事評論なんかを見ても、非常にバランス感覚が優れていて、できるだけ公正であろうとする熱い想いを感じる。その片鱗が『数学入門』の中にも見えている。そっちのほうをしっかり受け止めてもらえたらいいなと。
論理主義から形式主義・公理論へ
高橋:数学の基礎として論理主義と形式主義・公理論を対比すると、『数学入門』の立ち位置が見えてくるのかなと思うんです。ホワイトヘッドは一筋縄で行かない人だけど、少なくともラッセルは数学を論理学に還元しようとした。ざっくり言えば、全数学は述語論理で再構成できるんだと。そしてホワイトヘッドと『数学原理(プリンキピア・マテマティカ)』を共著することで実際にそれをやってみせた。
そのときホワイトヘッドはおそらく主にテクニカルな面で貢献したと言われている。しかしその過程でいろいろわかってきて、それ以降の数学の世界は論理主義ではなくて形式主義が中心になったと言われる。公理系ごとに数学の理論があるという話になって、じゃあいろんな公理系に共通して成り立つ性質は何だろうとか、どういう公理系が望ましいんだろうとか、そういう話になっていく。
西郷:そこから現代数学が本格的に展開されていくわけですね。
高橋:でも、そういう形式主義・公理論以降の数学像を理解するとか、実感するとかいうのは結構ハードルが高い。その点、ラッセルとホワイトヘッドによって論理主義が根拠を与えられたあたりで書かれたこの本は、当然の限界はありつつも非常に見通しがよくなっている。
実際、この『数学入門』の中では、公理が複数あり得るというニュアンスはなくて、自然界の観察から幾何学とか代数の公理が自然に出てくるよね、そこは信頼していいよねという前提で書かれていますね。公理はなんでもいいよねという現代の立場とは違うからこそ、数学への入口としては本当にちょうどいい立ち位置を取っている本かと思います。
西郷:私自身はヒルベルトの公理論をすごく高く評価していて、というか現代の数学者にとって公理論は重要すぎてほとんど空気のようなものなわけですが、そこに直接触れていないのは、確かに一つの限界といえる。
でもそれをいうなら、中学、高校の教科書だって公理論的とはいえない。大学で数学を専門にした人なら、どこかの段階でガチッと学ぶわけですが、数学科ではない一般の理工系の人も、あんまり学ぶ機会はないと思う。つまり中学、高校までの素朴な感じの数学と、公理論的アプローチ以降の数学が断絶的になってしまっている。それをつなげる何かがほしいところなんですが、古典的な数学の流れをいったん全部引き受ける形で「任意の」「ある」に慣れておくと、形式化というところへ入りやすい。そして形式化に慣れれば、公理論にも入りやすいのかなと。つまり古典的な数学および数学観から、公理論へのつなぎ役になれるかもしれないのが、ホワイトヘッドのこの本なわけです。
ゲーデルの有名な第一不完全性定理の論文だって、そのタイトルは「プリンキピア・マテマティカと関連体系における形式的に決定不可能な命題について」ですからね。ラッセルとホワイトヘッドのアプローチを踏まえながら、それを超えていくことが現代の数学基礎論の出発点になった。もちろん述語論理そのものもラッセルとホワイトヘッドの発明ではなく、フレーゲの功績によるものだし、パースもいろいろ深く考えてたわけでしょうが、数学をその枠組みで「実際に」展開してみようというのは大変雄大な挑戦であって、ラッセルとホワイトヘッドが本気で試みたからこそ、論理学も数学も次の段階への発展が促された。だから公理論を本格的に学んでいく上でも、助けになることこそあれ、決して妨げるような本ではない、むしろ下準備になるんじゃないかと思いますね。
長谷川:ラッセルと一緒に『数学原理』を書いたからには、数学史的にホワイトヘッドは論理主義の親玉の一人という位置づけにはなるんですよね。
西郷:まあ、そうなるんでしょうね。
長谷川:論理主義はいいところまで頑張ったけど挫折した、というのが現代からみた総括なんでしょうか?
西郷:私も含め、少なくとも多くの数学者の感覚はそうでしょうね。『数学原理』という本の題名は知っていても、それを読もうという人はほとんどいないわけでしょうし。
高橋:論理学と呼ばれるものがあっても、そこに無限を扱うための公理などを加えないと、みんながやってる数学を作れないよね、という。『数学原理』を書く作業の中でそれが分かったということですよね。
ラッセル自身が定式化した「ラッセルのパラドックス」を回避するには「型(タイプ)」っていうのを入れないといけないけど、タイプの扱い自体も簡単ではない。還元可能性とか選択公理も論理学からは出てこない。普通の数学を展開するためには、論理学だけで十分とは言えないだろうというのが明らかになってしまった。
西郷:しかしラッセルはともかく、ホワイトヘッドは本当は何々主義っていう人じゃないと思うんですよ。哲学的な枠組みを先に用意して、その中に数学を当てはめようというタイプではなかったんじゃないか。数学者が具体的にしていることをありのまま見ていたんじゃないかと、『数学入門』を読むとますますそう感じます。やっぱり、論理学への還元っていうのはラッセルのアイデアなのかなと。
長谷川:ホワイトヘッド好きとしては、『数学原理』におけるホワイトヘッドの役割を小さく見積もるようなことを言うのは、それはそれで嫌なんだけど、論理主義という方針を主導したのはやっぱりラッセルですね。
西郷:まあ、論理学は数学の骨組みとしてもめちゃくちゃ重要ですが、でも数学は骨だけには還元できない。そちらがホワイトヘッドの本音だったんじゃないかと私は勝手に推測してしまいますね。そのせいというわけではないのだろうけど、ラッセルとの共同研究も結局そこで終わるし。
ホワイトヘッドと圏論
長谷川:一般読書界的には、西郷さんといえば圏論ですが、『数学入門』への注目というのも圏論と関係してるんですか。
西郷:関係はあるといえばある、かな。そこをちょっと説明すると、圏論の「圏」っていうのをどうイメージするといいのか。圏の公理っていうのがあって、それを満たすものが圏。その公理を直感的に説明するのはなかなか難しいんだけども、初学者向けにざっくりいうと、「可能なプロセスの全体」っていうのを考えたとき、そこには何か構造があるだろうと。それが圏です。プロセスっていうのは、だいたいは始まりと終わりがある。始まりも終わりもないプロセスも考えられるけど、少なくとも切れ目、エポックみたいなものはある。その切れ目のところに矢印の先っぽとか根元があって、一つの矢印の先っぽが別の矢印の根元になってるとき、それをつなぎ合わせた新しい矢印を考えることができる。プロセスとプロセスをつなげると、それもまた新しいプロセスになるよと。そういう構造を圏っていうわけです。
それで面白いのは、数学ってすごくスタティックにみえるけど、数学全体はどんな体系なのかと整理しようと思ったとき、この圏ってものを通じて理解すると、圧倒的に分かりやすくなる。それは結局、すでに出来上がってスタティックにみえる数学の中でさえ、数学を生み出すプロセスが息づいていることの反映だなと痛感させられるわけです。圏論の創始が20世紀中盤で、もう半世紀以上経ってますけど、応用的な部分も含め、今でもその展開や整理が進んでいる。数学っていうのは実はプロセス的なものである、もっと言えば、この現実というものがプロセス的なものなんだということをそれは意味している……ような気が私はしている。
そしてホワイトヘッドの思想も「プロセス哲学」とも呼ばれるわけで、どこか深いところで圏論と響き合うんじゃないか。これはちょっと強引ですけどね。
高橋:それは十分にありうるんじゃないでしょうか。『過程と実在』というホワイトヘッドの哲学上の主著を卒論で扱おうかと思った時期があり、少しだけ読んだことがありますが、圏論のアイディアで定式化できるところは色々とあると思いますね。
『数学入門』から数学へ
長谷川:この本のキーワードは、英語でいえば any と some という究極の日常語ですね。日本語の数学用語としては「任意の」と「ある」だからちょっと硬くなっちゃうけど、もし砕けた訳にするなら「どれでも」と「どれかは」。
この二つの究極の日常語を軸に、座標幾何学、三角関数、そして微分法や極限、収束と発散まで一気に説明してしまうという、大変な名著です。といっても冒頭に宣言されている通り、数学の意義を知るという意味での入門であって、数学という実践そのものにはまだ入っていかない。練習問題もないですしね。とすると、次に何をすれば本当に数学に入門したことになるんですかね、というのを、おふたりにお聞きしたい。
西郷:『数学入門』を読んだあとは、大学の最新の教科書でも何でも取り組んでいけると思いますね。「任意の」と「ある」はあらゆるところで活躍するので、毎度おなじみのっていう感じになると思う。公理論的なアプローチに慣れるのに時間がかかる人もいるだろうけど、その下地はできる。線型代数の本でもいいし、微分積分でもいいし、好きな本を読んだらいいんじゃないかな。
高橋:人によるかなあ。計算や証明をガリガリして手を動かしながら理解するのが好きな人は、『数学入門』を読んだあとなら、計算しながら抽象的なことが自然にわかっていくだろうし、今後数学を実地に使おうと思う人もいると思います。
僕の場合は昔、松坂和夫の6冊組みの『数学読本』(岩波書店)の大部分を、ノートをとりながら丁寧に読むっていうのをやったら、計算するように証明ができるようになりましたね。そして、著者の松坂先生の証明のパターンがなんだかちょっと退屈かな? と感じるようになった頃、卒業して大学数学に入っていける。そういうのが合う人もいると思います。もっと最近の本でいいものがあるかもしれないですけど。
西郷:『数学入門』みたいなゆったりした感じで、もう少しやっていきたい人には、まさに同じタイトルの遠山啓『数学入門』(岩波新書)もおすすめですね。監訳者序で、ホワイトヘッドの数学入門が唯一無二とか言っちゃったので、矛盾していると怒られるかもしれないけど、もちろん遠山啓も素晴らしい。微分に続いて積分までより深くわかりたいとか、ホワイトヘッドの本で割愛されている部分に興味をもつ人にもいいんじゃないか。
あとは手前味噌ですけど、私が能美十三という友達と一緒に書いた『指数関数ものがたり』(日本評論社)。『数学入門』に少しだけ指数関数が出てきますが、その先を知りたくて、かつ現代数学のほうへ行きたいという人には、わりと接続のよい一冊ではないかと思います。
作品紹介
書 名:数学入門
著 者:ホワイトヘッド
訳 者:長谷川珈、高橋達二
監 訳:西郷甲矢人
発売日:2025年12月25日
20世紀哲学の巨人が残した数学への誘い
本書を手に取ったということは、あなたはきっと数学に入門したいか、著者に興味があるのだろう。まず、本書を読んで数学に入門できるとしたら、それほど幸運なことはない。なんといっても本書は歴史に残る数学者(そしてのちに偉大な哲学者として知られることになる)ホワイトヘッドが本気の入門書として仕上げたものなのだ。そして万が一、数学の中身はやっぱりさっぱりわからないと思ったとしても、この著者の人柄に触れるひとときは豊かなものになり、決して後悔することはないだろう。さらに、著者には興味があるが数学にはさほど、という読者がいたとしても、著者への興味が数学への興味となり、じつはそれらが切り離せないものだと知ることになるだろう。(「監訳者による序」より)
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