松岡圭祐『続タイガー田中』(角川文庫)の巻末に収録された「解説」を特別公開!
松岡圭祐『続タイガー田中』文庫巻末解説
解説
殺人許可証を持つ男、英国秘密情報部MI6に属するスパイ、ジェームズ・ボンドは、意外にも名手によって極東の地に
パスティーシュ、
ミステリーに限定された遊びではなく、たとえば我が国の
『タイガー田中』が007パスティーシュの最高傑作だと言う理由はその徹底したクロノジー、つまり年代学にある。文脈の中に埋もれてつながりが見えなくなっている情報を時間軸に沿って並べ直すのがクロノジーで、松岡はイアン・フレミング原作から、その中で起きている事件がいつのものかを特定、そこに隙間を
このパスティーシュには元になる正典が二作ずつある。『タイガー田中』は第十長篇『女王陛下の007』(一九六三年。ハヤカワ・ミステリ文庫)と第十一長篇『007は二度死ぬ』(一九六四年。同)、『続タイガー田中』は第六長篇『007 ドクター・ノオ』(一九五八年。同)と第十二長篇『007号/黄金の銃をもつ男』(一九六五年。同。文庫化時に『007 黄金の銃をもつ男』と改題)だ。最後の『黄金の銃をもつ男』は校正中にフレミングが急逝したため、遺作となった。それゆえ他の作品よりも少し短い。この作品はアメリカの「プレイボーイ」誌に連載中に翻訳が出たことで、英語版に先駆けて日本語版が出るという珍しい例を残した。
『女王陛下の007』はボンドが最愛の女性であるテレサと出会い、
タイガー
この正典二作は、犯罪組織スペクターの
私は『タイガー田中』を読み、あまりの出来映えに感嘆させられた。考証が行き届いているし、細部には作者による遊びが感じられる。たとえばボンドと対面したとき斗蘭は顔に怪我をしていて、それがボンドにどう思われるかを気にしている。これは
大変に素晴らしい出来ゆえ、心配にもなった。こんな完成された作品に続篇は必要なのだろうか。恐る恐る『続タイガー田中』を読み、またもや驚倒した。その手があったか。
今度の隙間は前作よりもさらに考え抜かれたものだ。連続した二作の正典を扱った前作と異なり、今回の材料となる『ドクター・ノオ』と『黄金の銃をもつ男』は刊行が七年も離れている。ただし共にジャマイカを舞台にしているという共通点がある。ジャマイカへの左遷人事を命じられたボンドが、進行しつつある異常事態の手がかりを求めて日本にやってくる、というのが序盤の展開だ。ジャマイカは発端の話題を作るだけではなく、ある意外な展開をもたらすための
『ドクター・ノオ』は007の映画化権を取得したハリー・サルツマンが最初に製作した「007は殺しの番号」(一九六二年。後に、「007/ドクター・ノオ」に改題。テレンス・ヤング監督)の原作である。ショーン・コネリー主演の第一作だ。そして『黄金の銃をもつ男』は彼がアルバート・R・ブロッコリと共同で設立したイーオン・プロを離れたため最後に手がけた007映画となった「007/黄金銃を持つ男」(一九七四年。ガイ・ハミルトン監督)の原作なのである。こちらはボンド役がロジャー・ムーアに交代後の二作目で、おもちゃ箱のようななんでもありの路線が決定づけられた作品だ。次の「007/私を愛したスパイ」(一九七七年。ルイス・ギルバート監督)からは原作が欠乏したこともあって脚本の独自路線化が進んでいくので、「黄金銃を持つ男」でシリーズは一区切りがついたのである。そういう意味では『続タイガー田中』は、サルツマンに
『続タイガー田中』は、ボンドがアイデンティティ喪失に立ち向かう話である。
これには伏線があり、正典の『007は二度死ぬ』でボンドは、テレサ喪失の哀しみから立ち直れず、殺人許可証を意味する007の番号を取り上げられて一介の外交官として日本に派遣される。タイガー田中は彼に殺人を依頼するのだが、それは越権であるだけではなくボンドにとっての職務違反でもあるのだ。ボンドは前述したとおり一年間の
松岡はこの点に目をつけた。フレミングが急逝したせいもあり、『黄金の銃をもつ男』ではボンドが信用回復するまでの過程が薄い。上司であるMが、洗脳されたとはいえ、自分の命を狙った男をそうやすやす許すはずがないと思わされるのだ。松岡は考えたのではないだろうか。それ以降のボンドは、Mの中では007の番号を
正・続『タイガー田中』の作中で、Mは
冒頭に書いたとおり、パスティーシュが成立するためには、書き手が正典に対して深い愛情を持っていることが不可欠の条件である。松岡は本作で、フレミングが書き落としたことを補ってみせたのだと私は考える。そうした姿勢が本作に
もちろん主題以外の要素も見逃せない。冒頭では、軍用機が次々に操縦不能となり墜落するという事件が描かれ、これがボンドを日本へ引き寄せることになる。その背景に一九六四年に開催された東京オリンピックが描かれているのは物語の布石だ。前作もそうだったが『続タイガー田中』では、敵の目的がわからないことが不安材料となり、サスペンスが持続していく。ボンドと斗蘭が行動することによって次第に陰謀が暴かれていき、最後に真相が判明するという展開なのだ。東京オリンピックで始まった物語は歴史上の大きな事件と結びつくことで完成形になる。その着想がちゃんと『ドクター・ノオ』とも有機的な連関を持っているのが流石だ。007シリーズの映画では、敵の陰謀が原作から改変され、壮大なものとして描かれる。そのスペクタクル志向も本作では継承されており、まさかそんな話になるなんて、という驚きがある。原作だけではなく映画版の魂も受け継いだ作品なのである。
現在の日本は国際政治の中で大国アメリカに
作品紹介
書 名: 続タイガー田中
著 者:松岡圭祐
発売日:2024年12月24日
ベストセラー作家が描く、ジェームズ・ボンド最後の冒険!
『007黄金の銃を持つ男』後日譚、日本初の007後継小説にしてシリーズ掉尾を飾る、ジェームズ・ボンド最後の冒険!
ドクター・ノオが生きているかもしれない――初の東京オリンピック開催を控えた1964年。国内では軍用機の墜落事故が相次いでいた。
公安局トップのタイガー田中は、イギリスのMI6にボンドの派遣を依頼する。史実の数々と当時の世界情勢を織り込んだ、必読の国際インテリジェント小説、遂にここに完結!
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