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レビュー

【解説】007パスティーシュの最高傑作ではないか――『続タイガー田中』松岡圭祐【文庫巻末解説:杉江松恋】

松岡圭祐『続タイガー田中』(角川文庫)の巻末に収録された「解説」を特別公開!



松岡圭祐『続タイガー田中』文庫巻末解説

解説
すぎ まつこい

 まつおかけいすけの正・続『タイガー田中』は007パスティーシュの最高傑作ではないか。
 殺人許可証を持つ男、英国秘密情報部MI6に属するスパイ、ジェームズ・ボンドは、意外にも名手によって極東の地によみがえったのだ。
 パスティーシュ、がんさくは正典の設定をすべて引き継いだ上で新たな物語を生み出す文学上の遊びだ。ミステリーの世界では、サー・アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズについてのものが有名で、それだけで一ジャンルを成すほどの作品が書かれている。本書の作者である松岡にも正・続『シャーロック・ホームズ対伊藤博文』(正は二〇一七年。同改訂完全版と続は二〇二四年。角川文庫)という作品がある。これは秀作なので、未読の方は手に取ってみることをお薦めする。
 ミステリーに限定された遊びではなく、たとえば我が国のうちひやつけんには師であるなつそうせきの名作に材を採った『贋作 吾輩は猫である』(一九五〇年。ちくま文庫他)という作品がある。たつゆたかとの対談で漱石の『』はいい、と盛り上がったのを見たかわもりよしぞうに執筆を勧められたもので、根底には正典への深い愛情がある。贋作が盗作と異なるのは、本家があることを明示し、尊崇の念を表して書かれることだろう。正典の命脈を永らえるためにパスティーシュは存在すると言ってもいい。『タイガー田中』もそういう作品なのだ。
『タイガー田中』が007パスティーシュの最高傑作だと言う理由はその徹底したクロノジー、つまり年代学にある。文脈の中に埋もれてつながりが見えなくなっている情報を時間軸に沿って並べ直すのがクロノジーで、松岡はイアン・フレミング原作から、その中で起きている事件がいつのものかを特定、そこに隙間をいだして新たな物語を構想したのである。その周到さについて語りたいところだが、各巻末の作者追記で手の内は明かされているので割愛する。恐るべき熱意の産物だ、とだけ書いておく。
 このパスティーシュには元になる正典が二作ずつある。『タイガー田中』は第十長篇『女王陛下の007』(一九六三年。ハヤカワ・ミステリ文庫)と第十一長篇『007は二度死ぬ』(一九六四年。同)、『続タイガー田中』は第六長篇『007 ドクター・ノオ』(一九五八年。同)と第十二長篇『007号/黄金の銃をもつ男』(一九六五年。同。文庫化時に『007 黄金の銃をもつ男』と改題)だ。最後の『黄金の銃をもつ男』は校正中にフレミングが急逝したため、遺作となった。それゆえ他の作品よりも少し短い。この作品はアメリカの「プレイボーイ」誌に連載中に翻訳が出たことで、英語版に先駆けて日本語版が出るという珍しい例を残した。
『女王陛下の007』はボンドが最愛の女性であるテレサと出会い、うしなうという物語である。続く『007は二度死ぬ』で失意のボンドは任務を受けて日本に渡り、キッシーすずという日本女性に癒される。彼女との間に一児まで授かるのである。余談になるが、ばやしのぶひこ『大統領の密使』(一九七一年。角川文庫)には、ボンドの落とし子である鈴木ボンドという少年が登場する。軍記物に登場する鈴木主水もんどのもじりである。『世界ミステリ全集13』(一九七二年。早川書房)収録の座談会によれば、フレミング作品の主たる翻訳者であるいのうえかずは、ある週刊誌に『007は二度死ぬ』の続篇を依頼されて四回分まで書いたが、編集部内に異動があったのと、フレミング未亡人から贋作は困るという手紙をもらったため、中止している。その幻の作品で主人公を務めるはずだったのも、忘れ形見である鈴木ボンドだったという。実現していれば『タイガー田中』に先駆けて、日本で『007は二度死ぬ』に連なるパスティーシュが書かれていたことになる。
 タイガーなかこと田中とらは、『007は二度死ぬ』で日本の公安調査庁長官として登場する人物だ。パスティーシュ二篇でボンド・ガールとなる田中らんは彼の娘で、同じく公安調査庁勤務である。亡くなった母に対する態度から父に愛憎半ばする感情を抱いており、それがサブプロットとして物語に起伏を作り出している。
 この正典二作は、犯罪組織スペクターのあるじであるブロフェルドとボンドの最終対決にもなっていた。テレサのかたきであるブロフェルドをボンドは見事に討ち果たすが、対決の代償として記憶を喪失し一年間行方不明となる。MI6にはボンド死すという情報まで流れるのだ。松岡はこの空白の一年に物語の隙間を見出した。『タイガー田中』は日本で消息を絶っている間にボンドが何をしていたか、という物語なのである。
 私は『タイガー田中』を読み、あまりの出来映えに感嘆させられた。考証が行き届いているし、細部には作者による遊びが感じられる。たとえばボンドと対面したとき斗蘭は顔に怪我をしていて、それがボンドにどう思われるかを気にしている。これはゆうで、言葉は悪いがボンドは、そうしたアクセントになる傷がある女性が逆に好みなのである。『ドクター・ノオ』のヒロインであるハニーチャイル・ライダーは、初登場時男からの暴力を受けて鼻が折れている、と紹介される。それを受けての斗蘭の怪我なのだろう。
 大変に素晴らしい出来ゆえ、心配にもなった。こんな完成された作品に続篇は必要なのだろうか。恐る恐る『続タイガー田中』を読み、またもや驚倒した。その手があったか。
 今度の隙間は前作よりもさらに考え抜かれたものだ。連続した二作の正典を扱った前作と異なり、今回の材料となる『ドクター・ノオ』と『黄金の銃をもつ男』は刊行が七年も離れている。ただし共にジャマイカを舞台にしているという共通点がある。ジャマイカへの左遷人事を命じられたボンドが、進行しつつある異常事態の手がかりを求めて日本にやってくる、というのが序盤の展開だ。ジャマイカは発端の話題を作るだけではなく、ある意外な展開をもたらすためのかぎとしても使われる。
『ドクター・ノオ』は007の映画化権を取得したハリー・サルツマンが最初に製作した「007は殺しの番号」(一九六二年。後に、「007/ドクター・ノオ」に改題。テレンス・ヤング監督)の原作である。ショーン・コネリー主演の第一作だ。そして『黄金の銃をもつ男』は彼がアルバート・R・ブロッコリと共同で設立したイーオン・プロを離れたため最後に手がけた007映画となった「007/黄金銃を持つ男」(一九七四年。ガイ・ハミルトン監督)の原作なのである。こちらはボンド役がロジャー・ムーアに交代後の二作目で、おもちゃ箱のようななんでもありの路線が決定づけられた作品だ。次の「007/私を愛したスパイ」(一九七七年。ルイス・ギルバート監督)からは原作が欠乏したこともあって脚本の独自路線化が進んでいくので、「黄金銃を持つ男」でシリーズは一区切りがついたのである。そういう意味では『続タイガー田中』は、サルツマンにささげられた作品と言っていいかもしれない。
『続タイガー田中』は、ボンドがアイデンティティ喪失に立ち向かう話である。
 これには伏線があり、正典の『007は二度死ぬ』でボンドは、テレサ喪失の哀しみから立ち直れず、殺人許可証を意味する007の番号を取り上げられて一介の外交官として日本に派遣される。タイガー田中は彼に殺人を依頼するのだが、それは越権であるだけではなくボンドにとっての職務違反でもあるのだ。ボンドは前述したとおり一年間のしつそう後MI6に戻るが、中途でソ連のちようほう機関に洗脳され、上司であるMを殺害しようとする。これは未遂に終わり、ボンドは再洗脳の後に殺し屋スカラマンガ駆除のためにジャマイカに派遣される、というのが正典『黄金の銃をもつ男』の始まりだ。結末で彼は女王陛下からナイトの称号を授与されるが「ホテルやレストランで余計なチップを取られたくないから」という理由で辞退する。つまり正典では、『女王陛下の007』から『黄金の銃をもつ男』までがつながっていて、ボンドが失地回復の上栄誉に輝くまでが描かれているのである。
 松岡はこの点に目をつけた。フレミングが急逝したせいもあり、『黄金の銃をもつ男』ではボンドが信用回復するまでの過程が薄い。上司であるMが、洗脳されたとはいえ、自分の命を狙った男をそうやすやす許すはずがないと思わされるのだ。松岡は考えたのではないだろうか。それ以降のボンドは、Mの中では007の番号をはくだつされたままの存在だったのではないだろうか、と。『続タイガー田中』は、自らの活躍によってボンドがそれを取り戻すまでの物語なのである。本作においては心理描写の隙間に着想の余地があった。
 正・続『タイガー田中』の作中で、Mはかたくなにボンドを007と呼ばない。再びそう呼ばせることができるか否かというのが物語の隠された目的なのである。『黄金の銃をもつ男』で授与された爵位よりもボンドが必要としたものは、ライセンスナンバーである007だった。
 冒頭に書いたとおり、パスティーシュが成立するためには、書き手が正典に対して深い愛情を持っていることが不可欠の条件である。松岡は本作で、フレミングが書き落としたことを補ってみせたのだと私は考える。そうした姿勢が本作にまばゆいばかりの光輝を与えた。
 もちろん主題以外の要素も見逃せない。冒頭では、軍用機が次々に操縦不能となり墜落するという事件が描かれ、これがボンドを日本へ引き寄せることになる。その背景に一九六四年に開催された東京オリンピックが描かれているのは物語の布石だ。前作もそうだったが『続タイガー田中』では、敵の目的がわからないことが不安材料となり、サスペンスが持続していく。ボンドと斗蘭が行動することによって次第に陰謀が暴かれていき、最後に真相が判明するという展開なのだ。東京オリンピックで始まった物語は歴史上の大きな事件と結びつくことで完成形になる。その着想がちゃんと『ドクター・ノオ』とも有機的な連関を持っているのが流石だ。007シリーズの映画では、敵の陰謀が原作から改変され、壮大なものとして描かれる。そのスペクタクル志向も本作では継承されており、まさかそんな話になるなんて、という驚きがある。原作だけではなく映画版の魂も受け継いだ作品なのである。
 現在の日本は国際政治の中で大国アメリカにほんろうされる立場にあるが、そのぜいじやくさが『続タイガー田中』の物語に織り込まれていることにも注目したい。特攻隊の生き残りとして登場するタイガー田中は戦争の清算をせずにいる旧世代の代表であり、娘である斗蘭は親の世代が残した負の遺産を疑問視している。こうした現代にも通じる戦争責任へのまなしが、本作に強い社会性を与えているのである。ここまで太い幹を備えた007パスティーシュはかつて存在しなかった。最高傑作の称号は決して過褒ではない。松岡は名優の物語を介して、現代にスパイ・冒険小説の精神もまた蘇らせてくれた。

作品紹介



書 名: 続タイガー田中
著 者:松岡圭祐
発売日:2024年12月24日

ベストセラー作家が描く、ジェームズ・ボンド最後の冒険!
『007黄金の銃を持つ男』後日譚、日本初の007後継小説にしてシリーズ掉尾を飾る、ジェームズ・ボンド最後の冒険!
ドクター・ノオが生きているかもしれない――初の東京オリンピック開催を控えた1964年。国内では軍用機の墜落事故が相次いでいた。
公安局トップのタイガー田中は、イギリスのMI6にボンドの派遣を依頼する。史実の数々と当時の世界情勢を織り込んだ、必読の国際インテリジェント小説、遂にここに完結!

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322409001354/
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