殺人事件に巻き込まれて走っている場合ではないメロス
【試し読み】メロスが名探偵に!?――五条紀夫『殺人事件に巻き込まれて走っている場合ではないメロス』第一話全文特別公開!
身代わりとなった親友を救うため、メロスは推理した――!
SNSで話題沸騰! 五条紀夫『殺人事件に巻き込まれて走っている場合ではないメロス』(角川文庫)の第一話「メロスは推理した」を全文特別公開します。どうぞお楽しみください!
※本記事は2025年2月24日に「カドブン」note出張所に掲載した記事を再掲載したものです。
あらすじ
自身の身代わりとなった親友・セリヌンティウスを救うため、3日で故郷と首都を往復しなければならないメロス。しかし妹の婚礼前夜、新郎の父が殺された。現場は自分と妹しか開けられない羊小屋。密室殺人である。早く首都へ戻りたいメロスは、急ぎこの事件を解決することに!? その後も道のりに立ちふさがる山賊の死体や、荒れ狂う川の溺死体。そして首都で待ち受ける、衝撃の真実とは? 二度読み必至の傑作ミステリ!
五条紀夫『殺人事件に巻き込まれて走っている場合ではないメロス』試し読み
第一話 メロスは推理した
メロスは激怒した。
むかし紀元前三六〇年、地中海の青い波間に浮かぶシケリア
「不甲斐ない。なんと不甲斐ないのだ」
メロスは走りながら、自身の上腕に膨らむ筋肉を、えい、えいと大声あげて幾度も
さりとて、覆水は盆に返らず、盆に帰るはキュウリに
メロスは、夜のうちに首都シラクスの市を
二本の脚という、幾つもの筋肉が組み合わさった走るための器官、または、機関を、懸命に前へ前へと出す。そうして、村へ到着したのは、あくる日の午前。陽はすでに高く昇って、村人たちは野に出て仕事を始めていた。
メロスの十六の妹、イモートアも、今日は兄の代わりに羊群の番をしていた。村の入口に広がる草原に立つ彼女は、よろめいて歩いてくる兄の疲労
「……ねえ、兄さん、いったい何があったの」
イモートアには、シラクスに買い出しに行く、と伝えてあった。シラクスは遠く離れた市である。帰宅するのは幾日も先の予定であった。
「なんでもない」
イモートアは、首を傾げつつも、首を突っ込んではならぬと察してか、メロスに倣って笑みを
「なんでもないなら良かったわ。二年振りのシラクスは楽しかったかしら? セリヌンティウスさまにも、お
おお、セリヌンティウス。竹馬の友よ――。
妹の口から『彼』の名が出たことにより、いささか動揺した。メロスは、顔を隠すように、そっぽを向いた。すると、視界の隅に小さく『奴』の姿が映った。
「兄さん? 本当に大丈夫?」
「あ、ああ、なんでもない。なんでもないぞ、イモートア」
「それなら良かった。それなら良かったわ、兄さん」
遠く木の陰から『奴』は、こちらの様子を
メロスは気を取り直して、イモートアのほうへ向き直った。
「ただ、シラクスに用事を残してきた。またすぐ市に行かなければならぬ。そこで明日、お前の結婚式を挙げる」
「そんな、急過ぎるわ」
「急なものか。お前には優しい婚約者がいるではないか。早いほうがよかろう」
イモートアは頰を赤らめた。
「
メロスが言いたいことを一方的に告げると、イモートアは、縦笛を吹いて羊群を操り、引き連れ、羊小屋に向かった。
取り残されたメロスのもとに、『奴』が、近寄ってくる。
「なぜ私のことを伝えなかったのだ、メロス」
と、
私のこととは、どのことであろう。シラクスでの出来事か。そうでなければ、
「お前のことを村の皆に紹介しろとでも言うのか」
「紹介とは大仰だ。この村は私にとっても故郷なのだから、幾年振りに竹馬の友が帰省した、そう伝えればよいだけではないか」
聞き紛うことはない。その声は、佳き友セリヌンティウスと全く同じ。いや、声だけではない、姿も、捕縛された佳き友と全く同じであった。
「本物ならば、それも
「ははは。まあ、よかろう。私も悪目立ちはしたくない。おとなしくしよう」
メロスが顔を上げると、セリヌンティウスの姿をした『奴』は、いなくなっていた。
小屋に羊を移動し終えたイモートアが戻ってきて、不思議そうに眼を
「兄さん、誰と話していたの?」
「独り言だ。独り言に決まっているではないか」
メロスは、また、笑顔を作って、よろよろと歩きだした。それから家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは日暮であった。
メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。
「ムコスよ、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ」
花婿の牧人ムコスは、困った様子で、首を横に振った。
「お
「待つことはできぬ。どうか明日にしてくれたまえ」
メロスは押して頼んだ。けれども花婿ムコスも頑強であった。なかなか承諾してくれない。小さなテーブルを挟んで問答を繰り返していると、やがてムコスの父と母も話に加わった。その父母も、ムコスと同様、頑強であった。
特に父ギフスは、腕組みをし、ひどく露骨に渋い顔をした。
「メロスよ。父と母が無く、親代わりとしてイモートアを育ててきたお前の、はやる気持ちは理解できる。しかし、
身につまされる。急いたがために佳き友は捕縛されてしまった。けれども、
「婚礼の儀で、いったい何を仕損じると言うのでしょう」
「悪い予感がする。予感がするのだ、メロス!」
「私には時間がない。時間がないのです、ギフス殿!」
やっと、どうにか婿一家をなだめ、すかし、説き伏せることができた時には、深夜になっていた。妹の結婚式は明日の真昼に行なわれることとなった。
メロスは、胸を
高く澄んだ笛の音、あれは若き牧人、フエニスによるものであろう。彼が吹く縦笛の音は羊でさえうっとりするほどである。力強い
メロスは感慨を
鳴り止むことのない演奏を聴きながら、メロスは目頭を押さえて、帰路に就いた。
家の中は静かであった。
すでにイモートアは、間仕切りを挟んだ向こう側で、眠っているようである。メロスは寝台に腰掛け、
「ずいぶんと疲れているようだな」
声がした。振り返ると、壁際に、セリヌンティウスの姿をした『奴』がいた。
「また、お前か。家の中にまで現れるとは……」
「ははは。仕方あるまい。私の生家はとっくにこの村に無い。なにより、私は言ったではないか、君と共にいる、と」
勝手にすればよい。メロスはものも言わずに一つ
そんなメロスを見て、佳き友の姿をした『奴』は、それはそうと、と前置きしてから、別の話を切り出してきた。
「ギフスさんは異様に
花婿ムコスの家でのことを思い返す。
「全くだ。結婚式くらい、ボードゲームの誘いに応じるように、二つ返事で承諾してくれればよいものを」
「流石に結婚はそこまでカジュアルではないぞ、メロス。とはいえ、あそこまで拒絶することでもない。君とギフスさんの口論は家の外まで響いていた」
「ギフス殿には何か事情があるとでも言いたいのか?」
「分からぬ……いずれにしても、結婚式は行なわれることとなったのだ、いまは神々に感謝しようではないか。式が終わったら、君はシラクスを目指し、また走るのだろう? 今夜はもう遅い。英気を養うために共に休もう」
言われるがまま、メロスは身体を横たえて眼を閉じた。外からは
どれほど眠ることができたであろうか。
メロスは、女の悲鳴で眼を覚ました。
慌てて外に飛び出す。陽は低い。どうやら早朝のようである。
羊小屋の前には、すでに人だかりができていた。朝早くから結婚式の仕度を調えていた人たちが、メロスと同じく悲鳴を耳にして、すぐ集ったようである。その人混みの中心に、ムコスの母ギボアが、両手で口を押さえて、がたがた震えながら立っていた。彼女の視線の先には、赤い
明らかに血液である。その量を見るに、扉の向こう側で、何かが、死んでいるのであろう。グロテスクな有様と言える。けれども、ギボアが
遅れてやって来たイモートアが、不安を顔に張りつけて、
「いったい、何があったの?」
尋ねられても、メロスとて事情を解していないのは同じ。小さく首を傾ぐ。
すると、ギボアの傍らにいたムコスが、乱れた呼吸と共に、皆に説明を始めた。
「昨晩から、父の行方が分からないのです――」
ムコスの父ギフスが、昨晩、メロスとの議論を終えた後に、家を出ていったまま戻っていないそうである。家を出る時の様子が不自然だったがゆえに、心配になったムコスとギボアは、一晩中、ギフスのことを捜した。そうして、夜明けのころに血溜りを見つけたのであった。羊小屋の前で震えるギボアは、流れ出る血液の源泉はギフスの肉体かも知れぬ、と考えているようである。
さりとて、そんなはずはあるわけがない。
羊小屋には二つの扉が設けられている。一つは、羊群が出入りするための観音開きの扉で、内側から
「あなた……あなた……」
この時代、ギリシアの都市部では、金属で作られたパラノス錠という、いわゆる錠前が普及しつつあったが、メロスが暮すような農村では、未だ、単なる
羊小屋を封じる革紐の錠は、間違いなく、メロスの家に代々伝わる結び方が施されていた。妹の婚約者であるムコスにも結び方は教えていない。つまり、昨日イモートアが錠をかけて以降、確実に、この扉は閉ざされたままである。
周囲の眼が、早く扉を開けて確かめよ、と急かしてくる。メロスは慣れた手付きで革紐を解き、閂を横へスライドさせた。と同時に、何かの重みによって、扉は勝手に外側に向けて開いた。何かは、扉に寄りかかっていたのである。
転び出たのは、ギフスであった。
ギフスは扉に背中を
ギボアが再び悲鳴をあげ、ギフスの
密室殺人である――。
メロスは、村人たちの前に立ち、胸を張った。
「背に腹は代えられぬ。ギフス殿の亡骸は放っておいて、結婚式を敢行するぞ」
言い切ると、短い静寂の後に、いやいやいや、という大合唱が起きた。
焦燥に駆られて、さらなる主張をしようとした時、それを遮るように、若き牧人フエニスが、さっと片手をあげた。
「この村人の中に犯人がいるというのに、祝宴なぞ挙げられますでしょうか」
聞き捨てならぬ。
「フエニスよ。お前は、村の仲間を疑うのか? 何を根拠にそんなことを言う。もし根拠もなく不穏当な発言をしたのならば、許しはせぬぞ」
「僕は昨晩、屋外で縦笛の練習をしていました。他の人たちも、清めの水を泉まで
「な、なるほど……」
一理ある。村の人たちも一様に深く肯いた。
昨晩は、至るところで
やんぬるかな。すぐにでも事件を解決せねばならぬようだ。
メロスにとって、人を疑うことは、なによりの悪徳であった。生まれ育った村の人たちに容疑をかけるのは、耐え難い苦痛であった。ただ、いまの我が身は自分のものでありながら、自分一人のものではない。ままならぬことである。先刻、この口が告げたとおり、背に腹は代えられぬのか。
えいっ、乗りかかった舟だ。いまは早朝、結婚式が予定される正午までに、犯人を見つけるのだ。
メロスは、再び皆の前で胸を張った。
「よし、分かった。事件を解決しようではないか。皆、一列に並べ! 犯人はすぐ名乗り出ろ。名乗り出ないのであれば、右から順に一人ずつ殴っていく!」
無茶苦茶である。もちろん非難
「私は犯人の善性に懸けているのだ。ここで生まれ育った者ならば、
けれども糾弾の声は止まぬ。それどころか、ますます騒ぎは大きくなる。
すると、ただならぬ事態を察してか、『奴』が、現れた。
「メロスよ。メロスよ。それは愚策だ」
「悠長なことを言っている場合か。私には成さねばならぬことがあるのだ!」
「落ち着け。落ち着くのだ、メロス」
「落ち着いている。私は落ち着いているぞ、イマジンティウス!」
叫んだ瞬間、静けさが降りた。
「……に、兄さん? イマジンティウスって、何を言っているの?」
そのイモートアの発言に対して、村の人たちが、強く共感を示すように幾度も首を縦に振った。皆、釈然としていない様子である。そこでメロスは察した。やはり、他の人たちには、『奴』の姿が見えぬのだろう。
メロスは一呼吸して、両手を広げ、澄ました顔をした。
「私には頼もしい心の友がいる、まさしく心の友が。そんな彼と共に、私が、事件を解決してみせよう。気になることがあったとしても気にしないでくれたまえ」
村人たちは、いや、気になる、と口を揃えた。
「気に! しないで! くれたまえ!」
村人たちは
一連のやり取りによって、幾分かの冷静さを取り戻したメロスは、傍らに立つセリヌンティウスの姿をした『奴』に、そっと尋ねた。
「私の行ないを愚策と断じるほどだ、他によい策でもあるのか?」
傍らに立つ『奴』は、村の人たちを
「そうだな。まずは皆に話を聞くのがよいだろう」
メロスは納得し、さっそく、村人たちのほうへ向き直って
「犯人が名乗り出そうにないので、仕切り直して、質問をしようではないか。事件について、何か心当りがある者はいないか?」
問いかけても返事は無し。まさに
「メロスのアニキ、悪いが、疑わしいのは
聞き捨てならぬ、と思ったが、メロスはぐっと
「面白いジョークだな、コトダロス」
「ジョークではない。羊小屋に出入りできたのは二人だけだ。特にアニキ、貴方は昨日、ギフスさんと言い争いをしている」
コトダロスの言葉を受けて、泣き伏していたギボアが顔を上げた。
「そうよ、メロス。昨晩の貴方は、殴りかからんばかりに、うちの人を
彼女の言うとおりではあるものの、愛用のクールな短刀は、シラクスの王城で取り上げられてしまった。いまのメロスは丸腰。誰かの首をへし折ることはできても、刺し殺すことはできない。
返す言葉を失したメロスの肩に、誰かが、手を置いた。『奴』である。
「メロスよ。
メロスは力なく肯いた。
真相を探る足掛かりさえなく、申し合わせたわけではないが、大半の村人は各々散っていった。体格のよいメロスとコトダロスは、ギフスの亡骸を彼の自宅まで運んで架台の上に載せた。遺体を清めるのは女の務めである。後のことはギボアとイモートアに任せて、メロスは、ギフスに別れを告げた。
羊小屋に戻ると、『奴』が、扉の前で待ち構えていた。
「さあ、メロス。捜査を始めようではないか」
そう言って『奴』は笑った。
「お前は、私のことを、疑わないのか?」
「ああ。君とイモートアは、犯人ではないと考えている」
「私のことを、人を殺すような男でないと、信じてくれるのだな」
「いいや。君は正義感が強く、許せぬ者があれば、すぐ殺そうとする。そういう男だということを私はよく知っている」
褒められているのか、
「では、なぜ、私が犯人ではないと思うのだ」
「それは簡単なことだ。ギフスさんが亡くなっていた位置だ」
小屋から転び出たギフスの姿を想う。
「……そうか。ギフス殿は扉にもたれて死んでいた」
「気付いたようだな、メロス。ギフスさんが刺された時、そこの扉は、閉じた状態だったのだ。さらに、それ以降も、先刻まで一度も開かれていない。つまり犯人は、人が出入りするための片開きの扉を使わず、他の方法でこの小屋から脱したのだ。君とイモートアが、そんな面倒なことをする必要はない」
「犯人は、私たちに罪を
尋ねると、眼の前の『奴』は満足そうに肯いた。
「そうだろうな。それを証明するために、私と君は、捜査をするのだ」
二人は、まず羊小屋の内部を調べることにした。
乾きつつある
高い位置に明かり取りの小さな窓があるだけで、陽のある時刻だというのに、屋内は薄暗かった。そんな中、『奴』は次々と敷き藁をめくった。
「潜んでいる者はいないようだな、メロス」
「素早く解決したい。潜んでいて欲しかったものだ」
「メェー」
「抜け穴も無いようだな、メロス」
「当りまえだ。羊小屋にそんなものがあってたまるか」
「メェー」
「犯人は羊用の観音開きの扉を利用した可能性が高いな、メロス」
「何を言う。そちらの扉は内から
「メェー」
「その閂に犯人が細工をしたかも知れぬという意味だ、メロス」
「細工……」
「メェー」
羊がうるさい。遊んでもらえると思っているのか、あるいは惨劇を目の当りにしたがために
そう取り留めのないことを考えていると、外から笛の音が聞こえてきた。
閂をスライドさせて観音開きの扉を開け放ち、ぐるり屋外を見渡す。笛の音は、フエニスによるものであった。フエニスは、遠く村の入口付近で、笛を吹いて羊群を引き連れていた。日課の放牧に向かうのであろう。家畜を飼う者たちは、たとえ人が死のうと、たとえ結婚式が行なわれようと、世話を怠ることはできぬのである。
メロスは、これ幸い、と思い立って、声を張りあげた。
「おうい、フエニス! 私の羊たちも連れていってくれたまえ!」
フエニスは、こちらを向いて、大きく手を振った。承知してくれたようである。そうして、
牧人たちが扱う縦笛はパンパイプと呼ばれている。長さの異なる
草原へ向かうフエニスと羊群の姿を見届けて、メロスは後ろへ向き直った。
「私の知っているフエニスは幼い少年だった。いまでは、立派な牧人か」
「セリヌンティウスが村を離れてから十年も経つのだ、子供たちも成長している。これからの村は彼らが支えていくのだ。その未来に悔恨が残らぬよう、私は走りだす前に、いや、旅立つ前に、事件を解決して、妹を嫁がせねばならぬ……」
メロスの話を聞いた『奴』は、無言で
次いで、二人は羊小屋の外周を調べることにした。
四角い羊小屋には二つの出入口しかない。正面向かって右側に観音開きの扉、左に片開きの扉である。正面以外の三面は、泥レンガで
古代ギリシア文化圏では、木材は非常に高価で、一般的な庶民の住まいは泥レンガを積んで造られている。通常であれば出来上がった壁を、石灰と砂を混ぜた塗料、いわゆる
なお、泥レンガとは、焼き固められていない、成型した粘土を天日で乾燥させた建材である。かつてメロスは、羊小屋を施工したコトダロスから、泥レンガについてのレクチャーを受けたことがあった。コトダロス
「まず粘土に藁を混ぜ込むのだ。こうすることで繊維が複雑に絡み合い、レンガの強度が少し増す。配合比率を知りたいか? 残念、それは企業秘密だ。この特製粘土を成型して天日に干すわけだ。乾燥まで三日はかかる。おい、メロスのアニキ、聞いているか? ここから大事な話だ。泥レンガの完成には相応の日数を要するので、急な案件にも対応できるよう、俺は、現場仕事が無い日に、泥レンガを作り置きしているのだよ。アニキのように遊んではいないのだ。はっはっはっ」
コトダロスは、職人の誇りを持った、立派な大工である。牧人フエニスと同様、村の行く末を担う信頼に足る若者であった。
「メロス。小屋の外側にも不審な点は無い。やはり、観音開きの扉が怪しい」
隣を歩く『奴』がそう言った。
「犯人が、閂に、なんらかの細工をしたかも知れぬ、ということだな?」
「ああ、そうだ。トリックというやつだ」
二人は改めて小屋の正面に立ち、観音開きの扉を調べた。
扉は木材でできている。扉を開かないようにする横棒、すなわち閂も、支えるコの字型の
メロスは、扉を
「内側に閂があるのでは、単純に考えれば、密室にすることは不可能だ」
「扉の密閉性は高くない。ところどころに隙間がある。例えば、外側から糸でも使って、閂を横に動かしたのかも知れぬ」
「この太い棒を糸でか? それは難しいだろう」
「あくまで例えだ、メロス」
メロスは扉に触れて、使用感など分かり切ってはいるが、確認のために閂を左右に動かした。ずずず、と木材と金属が
「建付けが悪いので力を込めねば動かぬ。やはり、外から閂を操るのは困難だ」
メロスがこぼすと、傍らの『奴』は
「ううむ、方法が分からぬ」
「しっかりしてくれ。私はインテリジェントなお前を頼りにしているのだ」
懇願するように見つめると、『奴』は、
「何を言っているのだ、メロス。頼りにしているのは私のほうだ。君は、幼きころから野山を駈け回り、厳しい自然の中で鋭い感覚を培ってきた。その野生の勘とも呼べる感性は、あらゆる事件を解決へと導くだろう」
「買い
「買い被りなものか。確かに私には幾ばくかの教養がある。しかし、状況を一変させる英雄や勇者の器ではない。勇者になれるのは、君だ、メロス」
メロスは
眼の前に立つ『奴』が、慰めるように、メロスの肩を二度
「さあ、メロス。現場の捜索はそろそろ切り上げて、次の行動へ移ろう」
メロスは顔を上げて眼を
「次は何をするのだ?」
「聞き込みだ。捜査の基本は聞き込みだ、メロス」
メロスたちはムコスの家へ向かった。不明を明らかにするためである。
被害者のギフスは、なぜ、夜中に家を出たのか。事件が発覚する直前にムコスは言っていた、家を出る時のギフスの様子は不自然だった、と。思えば、昨晩の議論の時も、ギフスは妙に
ギフスの
ムコスの家に着くと、そこには、ギボアとイモートア、ムコス、さらに幾人もの村の人がいた。弔問であろう。彼らは白い布に包まれたギフスの亡骸に
場違いであることは承知しつつも、メロスは人を
「昨晩のことを聞きたい。ギフス殿の無念を晴らすために協力してくれたまえ」
ムコスは、力強く肯いた。
外に出ると同時に、彼は、くるりと振り返って真剣な顔をした。
「昨晩の父は、ひどく考え込んでいるようでした」
メロスは、すかさず聞き返す。
「不自然な様子というのは、それだけか?」
「いいえ。家を出る直前に父は、粘土板を床に叩きつけて砕いたのです」
「粘土板?」
「はい。私宛ての、手紙です」
紀元前、紙は著しく貴重で、おいそれと使用できる品ではなかった。ゆえに
「誰からの手紙だ」
「それは分からない。日中に、家の前に置かれていました」
「なるほど。手紙には何が書いてあったのだ」
「結婚おめでとう、と書かれていた、みたいですね……」
傍らで聞き耳を立てていた『奴』が、そこで、疑問を口にする。
「みたい?」
メロスは、『奴』が言いたいであろうことを、すぐ引き取った。
「みたい、とは、どういうことだ。お前宛ての手紙だろう?」
「実は、私は、自分の名前くらいしか、読むことができなくて」
「そういうことか。ギフス殿は保守的な人だったからな」
古代ギリシア文化圏での識字率は一割ほどである。都市に暮す市民ならばともかく、奴隷や女、農村に暮す人々の中には、字を読めぬ者が多かった。ただ、この村は例外であった。この村にはかつてセリヌンティウスというインテリジェントな若者がいた。彼は常日頃、勉学に
「……それで父に、手紙を読み上げてもらったのです」
「その内容が、結婚おめでとう、だったということだな?」
「はい、お
ムコスの言葉を聞いた『奴』が、
「メロスよ。その粘土板には、本当に祝辞のみが書かれていたのだろうか」
「分かっている。いまからそれを確認する」
改めてムコスのほうへ向き直って、メロスは、慎重に尋ねる。
「ムコスよ。その砕かれた粘土板の
ムコスは視線を落として、
「私たちの、足下です」
「これが……」
「はい。母が全て屋外に掃き出したのです」
メロスは、
四つ這いのままメロスは
「メロスよ。人海戦術だ。村人たちを全て呼び出して手伝ってもらうのだ。粘土板に犯人の名が記されているとでも言えば、協力を拒否できる者なぞいまい」
メロスは立ち上がって、発言の主である『奴』を睨んだ。
「私に、ブラフを張れと言うのか? そのような虚言は好まぬ」
「完全に噓というわけではあるまい。粘土板の文章が明らかになれば、捜査が進展する可能性は十二分にある。文章を解読できた瞬間に、村人たちが全員揃っているのも都合がよい。君が、その場で、犯人はお前だ、と名指しすればよいのだ」
「そこまで
「時間がないのだろう? 竹馬の友を見捨ててパズルに興じるつもりか、メロス」
「ううむ、背に腹は代えられぬか……」
迷っていると、ムコスが会話に割り込むように、提案を口にした。
「私が村の皆に粘土板復元の協力を頼んできます」
言うが早いか、ムコスは駈けていった。
弔いのためにすでに多くの住人が集っていたことも手伝って、招集は滞りなく進んだ。仕事中であったフエニスやコトダロスたちも、同輩であるムコスに頭を下げられて、快く引き受けたようである。村の人たちは現場に集合すると、さっそく先刻のメロスと同じように這いつくばって、小さな欠片の収集と組み立てに専心した。粘土板の完成形を知っているのはムコスのみであったため、陣頭指揮は若き彼が担当。欠片は思いのほか広範囲に散っていたが、適切な指示と団結によって、みるみるうちに粘土板は元の姿を取り戻していった。
そうして、半ときもせぬ間に、復元作業は完了したのであった。
地面に置かれた粘土板を見下ろして、『奴』が、皮肉な笑みを浮かべる。
「ほう、これは面白いことになったな……」
もちろんその言葉に反応を示す者はいない。村人たちは、
手紙には、ムコスへ、という宛名の下に、こう書かれていたのであった。
――月が真上に昇る
イモートアより
皆の視線が妹イモートアに注がれる。お前が殺したのか、そう言いたげである。
けれどもメロスは取り乱さず、落ち着いた声で、イモートアに話しかけた。
「イモートアよ。ここに書かれた文章を、読み上げてみよ」
彼女は
「兄さん、わたしが、文字を読めないことを知っているでしょ……」
メロスは高らかに笑った。
イモートアとて、セリヌンティウスと面識があり、文字を学ぶ機会は幾らでもあった。ところが、幼きうちからムコスの
「皆、分かっただろうか! この手紙は、我が妹が書いたものではない。犯人が
メロスは、ここで大きく息を吸った。
「つまり! 私は、犯人ではない!」
村人たちが
「さあ、イモートアとムコスのために、手紙の内容を読み上げよう――」
メロスは、文字と単語の解説を交えつつ、粘土板に記された文章を諭すようにゆっくり
「ご覧のとおり、この手紙はムコスに宛てられたものだ。ところが、ムコスは文字を読めなかったゆえに、父ギフスに代読を頼んだ。手紙の内容を見たギフス殿は、結婚おめでとうと書いてある、と噓をついた。ギフス殿はイモートアが読み書きできぬと知っていたので、その時点で、何者かが
立ち尽くす村人たちの顔を、メロスは、じっくりと見回した。
「犯人は! ムコスを恨んでいる者だ!」
言い放つと、一瞬の間の後、
「メロスさん、それが分かったところで、事態が進展したとは思えないです。他人の内心は見えぬのですから、恨みを持った者なぞ捜しようがありません」
「た、確かに……」
一理ある。村の人たちも一様に深く
メロスは救いを求めて、
「
独り言を呟いている。こちらには興味がなさそうである。
頼りにならぬと考えて、メロスは再び村人たちのことを見回した。そのタイミングで追い打ちをかけるように一つの声。コトダロスである。
「メロスのアニキ、尊重すべきは証拠だ。羊小屋に出入りできた者が限られている以上、いまも最も疑わしいのはアニキ、
「私があの手紙を書いたとでも言うつもりか」
「ああ、言うつもりだ!」
メロスは
「こんな怪しまれる方法で殺すわけがないだろう。なにより、私が殺すならば、もっとシンプルに堂々と殺している!」
周囲から反論の気配は無い。ある意味でメロスは絶大な信頼を得ている。
けれども、コトダロスは食い下がった。
「俺もメロスのアニキを信じたい。しかし、文字を書けて、かつ、羊小屋に出入りできたのはアニキだけではないか」
「ほ、他にもいるかも知れぬ。いや、いたはずなのだ」
「ならば、誰がいたと」
「羊小屋には、そうだ、羊、少なくとも羊がいるではないか」
明らかに苦し紛れ。ところが、メロスを擁護する声が聞こえた。
「うむ。羊ならば可能かも知れぬな……」
声の主は『奴』であった。『奴』は上の空の手本を示すかのように、宙を見つめて考え事をしている。ただ、その発言は間違いなくメロスに賛同するものであった。インテリジェントな『奴』が言うのだ。どのような方法かは想像もできぬが、これが正解なのだろう。メロスは揺るがぬ自信を持った。
「そうだ。羊だ! 羊が殺したのだ!」
周囲を包み込む
ならば、もう一度。
「羊が殺人犯に違いあるまい!」
その根拠とも言える『奴』が、なぜか、困惑した顔をする。
「待て。待つのだ、メロス。殺人はさすがに人の仕業だ。しかし、内から
メロスは黙り込んだ。いまに至るまでの出来事が頭の中を駈け巡っていた。
メロスには政治が分からぬ。哲学も分からぬ。数学も科学も分からぬ。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。それゆえ、
メロスは推理した――。
急ぎ、改めて皆に対して声を張る。
「羊が犯人に違いあるまい。ただ、正確には共犯だ」
またもや困惑の雰囲気が漂う。村人たちが冷たい視線という名の矢を幾本も放ったが、メロスは熟練の軽業師の如く華麗にスルーして、一方的に話を続ける。
「犯人は、私に罪を
村人たちは、戸惑いながらも肯いた。
ムコスの家の前から羊小屋へ移動する途中、メロスは自宅に立ち寄って、必要な物を拾い上げ、懐にしまい込んだ。少しく遅れて羊小屋の前に到着すると、すでに村の全ての人たちが、おとなしく待っていた。
メロスは何も言わず、まず羊小屋の中に入って、閂を解き、観音開きの扉を開き切った。小屋の前で待機する人たちに、閂がよく見えるようにしたのである。
「言うに及ばず、この太い閂が左右に動けば、密室を作れる。この閂は建付けが悪くて動きが重い。しかし、いまから披露する方法を使えば、小屋の外からでも動かすことが可能なのだ」
メロスは、一頭の羊を連れてきて、その羊の首輪と閂を
「さあ、よく見ていてくれたまえ」
そうして、懐から取り出した縦笛で、甲高いメロディを奏でた。
羊が扉に対して平行に歩き、釣られて閂が、ずずず、ずずず、ずずず、と木材と金属が
「もうお分かりだろう! 犯人は羊を利用して密室を作ったのだ。昨晩、犯人は羊小屋の中に身を潜め、呼び出したムコスのことを待った。承知のとおり、実際にやって来たのはギフス殿だったのだが、犯人は気付くことなく、一突きで殺害。その後、羊と閂を紐で結び、外に出て扉を閉じた。後のことは披露したとおりだ。犯人は笛を吹いて羊を操り、羊小屋を密室にしたのだ! 羊を繫いだ紐は、ギフス殿の
早口に
「昨日の月は居待の月、真上に昇ったのは丑三つ時だ。日頃であれば村の人々はとっくに眠っている時刻、笛なぞ吹けるはずもない。しかし、昨晩は
緩慢に、一人の人物に歩み寄る。
「昨晩、縦笛を吹いていた、羊を操れる人物、それはお前だ、フエニス!」
勢いづけて指差す。名指しされたフエニスは、全身を震わせて首を横に振った。
「ぼ、僕は、やっていない……」
「言い逃れするつもりか」
メロスは見せつけるように拳を握った。すると、フエニスが駈けだした。逃がすものか。
何を成すにも
フエニスに追いついたメロスは猛然一撃。続けて、よろけた彼の首根っこを
「兄さん、やめて!」
「お
イモートアとムコスが、メロスの腕を押さえて引き留めた。まだ結婚式前にもかかわらず、ケーキ入刀よろしく、二人の共同作業である。
メロスはどうにか拳を収めた。すると、イモートアが
「兄さん、わたしは昨日、確かに、羊小屋の戸締りをしたわ。羊を使って密室を作れるのだとしても、それ以前に、フエニスさんは、小屋の中で誰かを待ち伏せすることなんてできなかったはずよ」
その言葉を受けて、事態を見守っていた『奴』も述べる。
「それに、私は遺体が見つかった後、しばらく羊小屋の観察をしていたが、紐を回収しにきた者なぞいなかった。メロスよ、君が提示した方法で殺害計画を実行するのは不可能だ。羊は関係がなかったのかも知れぬ……」
メロスは、自身がやらかしてしまったことを
その時、不自然な物が視界に入った。分かった。そういうことか。
メロスは重ねて推理した――。
頭の中で
「フエニスよ、すまなかった」
「い、いえ、平気です……」
「どうか、力一杯、殴り返してくれ!」
「け、結構です。顔を上げて下さい、メロスさん……」
しばしの問答の末、メロスは折れて顔を上げ、フエニスを見つめた。なんと優しい若者だろう。そう思う。それから、村人たちのほうを向いて、胸を張った。
「皆、合格だ! 道を誤った私に追従せずに冷静に状況を見守った。素晴らしい思慮深さだ。村の未来は明るいだろう。優秀な若者たちもいる。そう、この村の若者たちは、とても優れているのだ。ただ一人、真犯人を除いては……」
話しながら歩き始める。
「冷静かつ思慮深い皆ならば、これから私が披露する、真相解明のためのデモンストレーションについて、納得してくれることだろう」
言い切ると同時にメロスは、
「納得できない!」
メロスは、気にも留めず、再び堂々と胸を張る。
「このように、人は! 壁を! 壊せる!」
次いで、崩れた壁から一つ泥レンガを拾い上げ、村人たちのもとに悠々と舞い戻ると、それを前に突き出して、見せつけた。
「ご覧のとおり、この泥レンガの側面は、
レンガを投げ捨て、今度は羊小屋の崩れた壁を手で示す。
「それに比べて、羊小屋の泥レンガはどうだろう? 分かるだろうか、レンガとレンガを繫ぐ目地の粘土が、乾き切っていない。粘土は三日ほどで乾燥する。つまり、これは施工されたばかりのものだ」
メロスは、大きく息を吸い、言い放つ。
「この事件の真犯人は! 壁を壊して羊小屋に侵入したのだ!」
一般的な家屋の壁は、たとえ粘土に
事実、当時のギリシアの大都市、アテナイなどでは、壁を壊しての窃盗事件が発生していた。史実によると、隣国が攻めてきた時、壁に穴をあけて、逃げ道を確保したり、敵兵の背後を取ったり、という戦略も行なわれていたそうである。さりとて、それは後世に明らかになったこと。当然ながら攻め込む側の隣国が壁の破壊戦略など知る由も無し。同様に、メロスの村の人々も知らぬのであった。
富裕者もいなければ戦争とも無縁のこの村では、誰も、壁を壊すという発想には至れなかった。たった一人、犯人を除いては。
「壁を壊して羊小屋に侵入した犯人は、
メロスは一人の人物に歩み寄る。
「そのような芸当ができる者は一人しかいまい。お前だ、コトダロス」
若き大工、コトダロス。建物の構造を理解している彼ならば、世相も史実も知らずとも、壁の破壊という方法に
「コトダロスよ。お前ならば、壁の修復などお手の物だろう。ましてや羊小屋は
けれどもコトダロスは動じず、反論を始めた。
「メロスのアニキ、犯人が羊小屋の壁を壊したと言うならば、俺の家の壁を壊して泥レンガを盗むことも可能だったはずだ」
「そのような言い逃れが通用するとでも思っているのか」
「言い逃れとは人聞きが悪い。俺はやっていない」
その時、
耳を澄ます。コトダロスの家から聞こえてきている。
竪琴リュラ。亀の甲羅でできた共鳴胴に二本の角と横木をつけた弦楽器である。古くからギリシア文化圏全域に普及している楽器ではあるが、メロスたちにとっては高価な品であり、村には共有財産として一つしか存在していない。その竪琴は、演奏担当者であるコトダロスの家で保管されていた。
「やあ、メロス。私は竪琴を
微笑みながら『奴』は、竪琴を差し出してきた。素直に受け取り、素直に弾いてみる。なるほど、これは昨晩の――。
陽は高くなりつつある。早朝から慌ただしく様々な出来事が起きて、村人たちは疲れていることであろう。メロスは、優雅なリフレッシュタイムを提供するために、竪琴を奏でながら皆の前に戻り、先刻の『奴』と同じように微笑んだ。
「余計なアリバイ工作をしたものだな、コトダロス。昨晩、いま聞かせたフレイズが繰り返されていた。周囲から怪しまれぬように、殺害計画を実行しながら、何も考えずとも弾ける簡単なフレイズを演奏したのだろう?」
きっと問いかけの真意は伝わっていない。案の定、コトダロスは
「アニキ、先刻も言ったが、尊重すべきは証拠だ。竪琴の音が響いていたならば、それは、ただ竪琴を弾いていただけだと考えるべきだ」
メロスは、竪琴を裏返して、掲げた。
「コトダロスよ、これは証拠と呼べるのではないか?」
竪琴の裏側には、血液が、付着していた。共鳴胴から伸びる角のうちの一本、演奏の時に左手で
「お前は、断続的に竪琴の音を鳴らすために、ギフス殿を刺した時にも竪琴を持っていた。そうして返り血が付着したのだ。羊小屋の中は暗かったので気付かなかったのだろう。とはいえ、屋外で普通に演奏すれば、血がついていることなぞ、すぐ気付ける。なぜ気付かなかったのか。それは普通の演奏の仕方ではなかったからだ。お前は竪琴を地面にでも置いて、片手で修復作業をしながら、もう片方の手で簡単なフレイズを繰り返していたのだろう?」
「そ、それは……」
コトダロスはたどたどしく
メロスは、慈しみの眼で彼を見つめた。
「誇り高き大工、コトダロスよ。お前に問おう。羊小屋の壁は、表面を見ただけでは修復した箇所があるとは思えぬほど、大変に美しい仕上がりだった。あれは、誰にでもできる仕事なのか?」
コトダロスは、先刻とは打って変わって、
「いいや。俺にしかできぬ仕事に決まっているだろ、アニキ」
そう言って彼は、懐中から二つのレンガを取り出して、両手に持った。
「俺は職人だ。職人ならば仕事は完遂せねばならぬ。このレンガは、焼成レンガ。泥レンガとは強度が違う。当たると痛いぜ」
コトダロスはムコスに向けて走り、両腕を大きく振り回した。殺す気だろう。彼の言うとおり焼成レンガは、高温で焼くことでもって粘土中に含まれるアルミノケイ酸塩が融解、加えて結合することで、著しく強度が高い。仮に頭に直撃すれば、
「正義のためだ。許せ」
鎌で草木を刈るように
縛り上げられたコトダロスは、観念したらしく、
「俺は、イモートアが好きなのだ。だから、結婚を阻止するためにムコスを亡き者にしようとした。ついでに、少し苦手なアニキに罪を
「うるさい、黙れ!」
メロスはコトダロスを殴り倒した。
笑止千万。人殺しの言い分など聞く必要も無し。地面に伏すコトダロスを見下ろして、メロスは、声を荒げる。
「よいか、コトダロスよ。お前は信頼を裏切ったのだ。私欲に
その声はコトダロスの耳には届いていなかった。彼は気を失っていた。
無言のまま『奴』が、メロスの肩に手を置く。そのセリヌンティウスに似た顔を見て、メロスは我が身の使命を思い出し、村人たちに告げることにした。
「私は明日、シラクスの市に向かう。その時に、王城の警吏に、コトダロスを投獄してくれるよう頼んでおこう」
すると、馬の
「その必要はない」
見ると、
「事情は知らぬが、人殺しならば、我々が引き取ろう」
シラクスの警吏たちである。警吏といっても、その呼び名は便宜上のもの。この独裁政権下にあるシラクス領土において、警吏は、公平な調停者ではなく、王ディオニスの忠実な臣下でしかない。
「なぜ、市を守っているはずの警吏が、この村まで来たのだ」
「王を
メロスは
警吏たちは、馬の背にコトダロスを
事件は解決したのである。
ぽつりぽつり雨が降りだした。
陽が陰って正確な時刻は分からぬが、間もなく正午になるであろう。気持ちを切り替えて、雨がひどくなる前に祝宴の仕度を終えてしまおうと思い、メロスは村の皆に発破をかけた。村人たちは渋い顔をした。それでも、メロスは押して頼んだ。
メロスには時間がないのである。メロスは走らなければならぬのである――。
ギフスの
新郎新婦の神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、やがて車軸を流すような大雨となった。列席していた村人たちは不吉なものを感じたようであるが、銘々に気持ちを引きたて、狭い家の中、むんむん蒸し暑いのも
祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ、華やかになり、人々は外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。この
明日の日没までには、まだ十分の時がある。ちょっとひと眠りして、それからすぐに出発しよう。そのころには雨も小降りになっていよう。
少しでも永く、この家に、ぐずぐず
「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐ市に出掛ける。大切な用事があるのだ。私がいなくとも、もうお前には優しい亭主があるのだから、決して寂しいことはない。お前の兄の、一番嫌いなものは、人を疑うことと、それから、噓をつくことだ。お前も、それは知っているな。亭主との間に、どんな秘密も作ってはならぬ。お前に言いたいのは、それだけだ。お前の兄は、たぶん偉い男なのだから、お前もその誇りを持っていろ」
イモートアは、夢見心地で
メロスは、それから花婿ムコスの肩を叩いて、
「仕度の無いのはお互い様だ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には何もない。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ」
ムコスは、
ギフスの亡骸が寝かされた架台に近付き、
「ギフス殿、私も、すぐそちらに向かいます」
メロスは笑って他の村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋の敷き
眼が覚めたのは、あくる日の未明である。メロスは跳ね起きた。
メロスは悠々と身支度を始めた。雨も幾分か小降りになっている様子である。
身支度はできた。
メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
瞬間、呼び留める声がした。
「メロスよ、私を置いていくとは、水臭いではないか」
声をかけてきたのは『奴』である。
「何を言うのだ。お前は放っておいても、ついてくるのだろう? なにせ、お前は私の妄想が生んだ存在だ。なあ、イマジンティウスよ」
佳き友セリヌンティウスの姿をした『奴』、改め、イマジンティウスは、笑う。
「ははは。とにかく、共に走ろう」
メロスは肯いて、前を向いた。
そうして、イマジンティウスと共に走りだしたのであった。
私は、今宵、殺される。殺されるために走るのだ。身代わりの友を救うために走るのだ。王の
さらば、ふるさと。
(気になる続きは、本書でお楽しみください)
作品紹介
書 名:殺人事件に巻き込まれて走っている場合ではないメロス
著 者:五条 紀夫
発売日:2025年02月25日
身代わりとなった親友を救うため、メロスは推理した――!
自身の身代わりとなった親友・セリヌンティウスを救うため、3日で故郷と首都を往復しなければならないメロス。しかし妹の婚礼前夜、新郎の父が殺された。現場は自分と妹しか開けられない羊小屋。密室殺人である。早く首都へ戻りたいメロスは、急ぎこの事件を解決することに!? その後も道のりに立ちふさがる山賊の死体や、荒れ狂う川の溺死体。そして首都で待ち受ける、衝撃の真実とは? 二度読み必至の傑作ミステリ!
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