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試し読み

【試し読み】メロスが名探偵に!?――五条紀夫『殺人事件に巻き込まれて走っている場合ではないメロス』第一話全文特別公開!

身代わりとなった親友を救うため、メロスは推理した――!
SNSで話題沸騰! 五条紀夫『殺人事件に巻き込まれて走っている場合ではないメロス』(角川文庫)の第一話「メロスは推理した」を全文特別公開します。どうぞお楽しみください!

※本記事は2025年2月24日に「カドブン」note出張所に掲載した記事を再掲載したものです。

あらすじ
自身の身代わりとなった親友・セリヌンティウスを救うため、3日で故郷と首都を往復しなければならないメロス。しかし妹の婚礼前夜、新郎の父が殺された。現場は自分と妹しか開けられない羊小屋。密室殺人である。早く首都へ戻りたいメロスは、急ぎこの事件を解決することに!? その後も道のりに立ちふさがる山賊の死体や、荒れ狂う川の溺死体。そして首都で待ち受ける、衝撃の真実とは? 二度読み必至の傑作ミステリ!

五条紀夫『殺人事件に巻き込まれて走っている場合ではないメロス』試し読み

第一話 メロスは推理した

 メロスは激怒した。ない自分に激怒した。
 むかし紀元前三六〇年、地中海の青い波間に浮かぶシケリアとう、その豊かな大地の上をメロスは故郷の村に向けて走っていた。無言のままうなずいたき友の姿を想う。メロスは単純な男であった。一時の衝動、いうなれば我が身の未熟によって、佳き友である『彼』は縄打たれてしまった。けれども、かの邪智暴虐の王を仕留めなければならぬという考えに間違いはなかったはず。足りなかったものは思慮深さ、あるいは計画性、加えて、何者をもぎ払うフィジカルであろう。
「不甲斐ない。なんと不甲斐ないのだ」
 メロスは走りながら、自身の上腕に膨らむ筋肉を、えい、えいと大声あげて幾度もたたいた。警吏の一人や二人、いや、三人や四人、いやいや、もっと大勢いたであろうか、とにかく、全ての捕縛者を殴り倒せていたならば、いまごろは、竹馬の友とひざを交えて、ワヰン片手にアンチョビのパスタでも食していたかも知れぬ。ひと握りのと、さらなる腕力、それらを持ち合わせていなかったことを、メロスは後悔せずにはいられなかった。
 さりとて、覆水は盆に返らず、盆に帰るはキュウリにまたがった先祖の御霊だけ、すでにやらかしてしまったことは仕様がなく、身代わりとなって捕縛された『彼』のために、いまは力の限り走らざるを得ない。フィジカルである。再びワンダフルなフィジカルが必要とされているのである。
 メロスは、夜のうちに首都シラクスの市をち、一睡もせずに十里のみちを急ぎに急いだ。早馬があれば、どれほど良かったであろう。いまは一刻を争う。それこそキュウリに四本の棒を刺して作った馬でもよい。いやはや、ここは地中海の島、キュウリよりもズッキーニがよいであろうか。ところが、ズッキーニは十六世紀に北米より伝来した作物、ここ紀元前のギリシア文化圏には無いのである。同様に、メロスの手元には、馬など、無いのであった。メロスは、貧しい農村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮してきた。父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しである。馬のような高価な家畜を手に入れられるはずもなく、誇れる財産といえば、わずかな羊と、健康優良な肉体のみ。
 二本の脚という、幾つもの筋肉が組み合わさった走るための器官、または、機関を、懸命に前へ前へと出す。そうして、村へ到着したのは、あくる日の午前。陽はすでに高く昇って、村人たちは野に出て仕事を始めていた。
 メロスの十六の妹、イモートアも、今日は兄の代わりに羊群の番をしていた。村の入口に広がる草原に立つ彼女は、よろめいて歩いてくる兄の疲労こんぱいの姿を見つけて驚き、うるさく質問を浴びせてきた。
「……ねえ、兄さん、いったい何があったの」
 イモートアには、シラクスに買い出しに行く、と伝えてあった。シラクスは遠く離れた市である。帰宅するのは幾日も先の予定であった。
 さいを伝える必要もあるまい。メロスは無理に笑おうと努めた。
「なんでもない」
 イモートアは、首を傾げつつも、首を突っ込んではならぬと察してか、メロスに倣って笑みをたたえた。
「なんでもないなら良かったわ。二年振りのシラクスは楽しかったかしら? セリヌンティウスさまにも、おいしたのでしょう?」
 おお、セリヌンティウス。竹馬の友よ――。
 妹の口から『彼』の名が出たことにより、いささか動揺した。メロスは、顔を隠すように、そっぽを向いた。すると、視界の隅に小さく『奴』の姿が映った。
「兄さん? 本当に大丈夫?」
「あ、ああ、なんでもない。なんでもないぞ、イモートア」
「それなら良かった。それなら良かったわ、兄さん」
 遠く木の陰から『奴』は、こちらの様子をうかがっている。やはり、『奴』は、どこまでもついてくる、そういう存在なのであろう。
 メロスは気を取り直して、イモートアのほうへ向き直った。
「ただ、シラクスに用事を残してきた。またすぐ市に行かなければならぬ。そこで明日、お前の結婚式を挙げる」
「そんな、急過ぎるわ」
「急なものか。お前には優しい婚約者がいるではないか。早いほうがよかろう」
 イモートアは頰を赤らめた。
うれしいか。れい衣裳いしようも買ってきた。さあ、これから行って、村の人たちに知らせてこい。結婚式は明日だと!」
 メロスが言いたいことを一方的に告げると、イモートアは、縦笛を吹いて羊群を操り、引き連れ、羊小屋に向かった。
 取り残されたメロスのもとに、『奴』が、近寄ってくる。
「なぜ私のことを伝えなかったのだ、メロス」
 と、みのある声で、眼の前の『奴』は言った。
 私のこととは、どのことであろう。シラクスでの出来事か。そうでなければ、
「お前のことを村の皆に紹介しろとでも言うのか」
「紹介とは大仰だ。この村は私にとっても故郷なのだから、幾年振りに竹馬の友が帰省した、そう伝えればよいだけではないか」
 聞き紛うことはない。その声は、佳き友セリヌンティウスと全く同じ。いや、声だけではない、姿も、捕縛された佳き友と全く同じであった。
「本物ならば、それもいとわぬ。だが……」
 うつむいて言いよどむと、眼の前の『奴』は少しく笑った。
「ははは。まあ、よかろう。私も悪目立ちはしたくない。おとなしくしよう」
 メロスが顔を上げると、セリヌンティウスの姿をした『奴』は、いなくなっていた。
 小屋に羊を移動し終えたイモートアが戻ってきて、不思議そうに眼をしばたたいた。
「兄さん、誰と話していたの?」
「独り言だ。独り言に決まっているではないか」
 メロスは、また、笑顔を作って、よろよろと歩きだした。それから家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
 眼が覚めたのは日暮であった。
 メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。
「ムコスよ、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ」
 花婿の牧人ムコスは、困った様子で、首を横に振った。
「おさん、それはいけない。こちらには、まだ、なんの仕度もできていない。どうの季節まで待って下さい」
「待つことはできぬ。どうか明日にしてくれたまえ」
 メロスは押して頼んだ。けれども花婿ムコスも頑強であった。なかなか承諾してくれない。小さなテーブルを挟んで問答を繰り返していると、やがてムコスの父と母も話に加わった。その父母も、ムコスと同様、頑強であった。
 特に父ギフスは、腕組みをし、ひどく露骨に渋い顔をした。
「メロスよ。父と母が無く、親代わりとしてイモートアを育ててきたお前の、はやる気持ちは理解できる。しかし、いては事を仕損じる」
 身につまされる。急いたがために佳き友は捕縛されてしまった。けれども、
「婚礼の儀で、いったい何を仕損じると言うのでしょう」
「悪い予感がする。予感がするのだ、メロス!」
「私には時間がない。時間がないのです、ギフス殿!」
 こぶしを握って、身を乗り出す。物々しい気配を察してか、ムコスの母ギボアが、慌てて仲裁に入った。落ち着いて下さい、とギボアは二人をなだめ、それから、石を打って陶製のランプに明かりをともした。じっくりと遅くまで話をしようという意思表示であろう。案の定、議論は永く続いた。
 やっと、どうにか婿一家をなだめ、すかし、説き伏せることができた時には、深夜になっていた。妹の結婚式は明日の真昼に行なわれることとなった。
 メロスは、胸をで下ろしてムコスの家を辞した。居待の月が浮いている。紛れもなく夜更けである。それにもかかわらず、辺りは明るかった。見ると、至るところで篝火かがりびが灯っていた。日頃であれば、外で火がかれることはなく、村人たちはとうに眠っている時刻である。おそらくは、イモートアが言いつけどおりに、明日結婚式を行なう、と村中に触れ渡したがため、皆が夜を徹して仕度をしているのであろう。耳を澄ませば、あちこちから、歌と、楽器の音が聞こえてくる。式で奏される祝婚歌の調べである。演奏の担当者たちが練習しているものと思われる。
 高く澄んだ笛の音、あれは若き牧人、フエニスによるものであろう。彼が吹く縦笛の音は羊でさえうっとりするほどである。力強いたてごとの音、あれは若き大工、コトダロスによるものであろう。職人気質かたぎな彼らしい非常に規則正しい旋律である。二人は別々の場所で練習しているらしく、違う方向から音色は聞こえてきていた。また、納得する音が出ないのか、二人とも途中で演奏を止めたり、同じフレイズを繰り返したりしている。真剣である。誰もが真剣に仕度に取り組んでいるのである。
 メロスは感慨をみ締めた。村のき人たちが、我が妹のために、奮励努力してくれている。これほどの幸福が他にあるだろうか。私がいなくなっても、信頼に足る優しい人々に囲まれて、妹イモートアは安穏と過ごせるに違いあるまい。
 鳴り止むことのない演奏を聴きながら、メロスは目頭を押さえて、帰路に就いた。
 家の中は静かであった。
 すでにイモートアは、間仕切りを挟んだ向こう側で、眠っているようである。メロスは寝台に腰掛け、ひざの上に両肘りようひじを載せて深くうなれた。
「ずいぶんと疲れているようだな」
 声がした。振り返ると、壁際に、セリヌンティウスの姿をした『奴』がいた。
「また、お前か。家の中にまで現れるとは……」
「ははは。仕方あるまい。私の生家はとっくにこの村に無い。なにより、私は言ったではないか、君と共にいる、と」
 勝手にすればよい。メロスはものも言わずに一つうなずいた。
 そんなメロスを見て、佳き友の姿をした『奴』は、それはそうと、と前置きしてから、別の話を切り出してきた。
「ギフスさんは異様にかたくなだったな、メロス」
 花婿ムコスの家でのことを思い返す。
「全くだ。結婚式くらい、ボードゲームの誘いに応じるように、二つ返事で承諾してくれればよいものを」
「流石に結婚はそこまでカジュアルではないぞ、メロス。とはいえ、あそこまで拒絶することでもない。君とギフスさんの口論は家の外まで響いていた」
「ギフス殿には何か事情があるとでも言いたいのか?」
「分からぬ……いずれにしても、結婚式は行なわれることとなったのだ、いまは神々に感謝しようではないか。式が終わったら、君はシラクスを目指し、また走るのだろう? 今夜はもう遅い。英気を養うために共に休もう」
 言われるがまま、メロスは身体を横たえて眼を閉じた。外からはいまだ、楽器の音や、村人たちのざわめきが聞こえていた。
 どれほど眠ることができたであろうか。
 メロスは、女の悲鳴で眼を覚ました。
 慌てて外に飛び出す。陽は低い。どうやら早朝のようである。まぶしさに眼を細めながらも、メロスは悲鳴の出どころへと急いだ。たしか、女の声がしたのは羊小屋のほうだ。メロスが所有する羊小屋は、自宅から十丈ほどの位置にあった。
 羊小屋の前には、すでに人だかりができていた。朝早くから結婚式の仕度を調えていた人たちが、メロスと同じく悲鳴を耳にして、すぐ集ったようである。その人混みの中心に、ムコスの母ギボアが、両手で口を押さえて、がたがた震えながら立っていた。彼女の視線の先には、赤いみずたまりがあった。羊小屋の扉の下から、れかけの湧き水の如く、ちろちろと赤い液体が流れ出て、生臭さを漂わせていたのである。
 明らかに血液である。その量を見るに、扉の向こう側で、何かが、死んでいるのであろう。グロテスクな有様と言える。けれども、ギボアがおおに悲鳴をあげるようなこととは思えなかった。メロスの羊小屋の中で死んでいるのは、当然メロスの羊である可能性が高く、悲鳴をあげたいのは、むしろ、メロスである。
 遅れてやって来たイモートアが、不安を顔に張りつけて、
「いったい、何があったの?」
 尋ねられても、メロスとて事情を解していないのは同じ。小さく首を傾ぐ。
 すると、ギボアの傍らにいたムコスが、乱れた呼吸と共に、皆に説明を始めた。
「昨晩から、父の行方が分からないのです――」
 ムコスの父ギフスが、昨晩、メロスとの議論を終えた後に、家を出ていったまま戻っていないそうである。家を出る時の様子が不自然だったがゆえに、心配になったムコスとギボアは、一晩中、ギフスのことを捜した。そうして、夜明けのころに血溜りを見つけたのであった。羊小屋の前で震えるギボアは、流れ出る血液の源泉はギフスの肉体かも知れぬ、と考えているようである。
 さりとて、そんなはずはあるわけがない。
 羊小屋には二つの扉が設けられている。一つは、羊群が出入りするための観音開きの扉で、内側からかんぬきがかけられている。もう一方は、まさにいま血液が流れ出ている人が出入りするための扉で、外側から閂がかけられている上に、その閂は錠で固められている。メロスとイモートア以外、何者であろうと、小屋に出入りすることはできぬのである。屋内でギフスが死んでいるなど、あろうはずがない。
「あなた……あなた……」
 うめくようにささやくギボアを横目に、メロスは進み出て、血溜りをらし、扉の前に立って錠に触れた。やはり解錠されたこんせきは無い。
 この時代、ギリシアの都市部では、金属で作られたパラノス錠という、いわゆる錠前が普及しつつあったが、メロスが暮すような農村では、未だ、単なるかわひもが錠として利用されていた。閂を革紐で複雑に結い固めるのである。その結び方は各家庭によって異なり、一族の者だけが、錠をかけたり、解いたりすることができる。
 羊小屋を封じる革紐の錠は、間違いなく、メロスの家に代々伝わる結び方が施されていた。妹の婚約者であるムコスにも結び方は教えていない。つまり、昨日イモートアが錠をかけて以降、確実に、この扉は閉ざされたままである。
 周囲の眼が、早く扉を開けて確かめよ、と急かしてくる。メロスは慣れた手付きで革紐を解き、閂を横へスライドさせた。と同時に、何かの重みによって、扉は勝手に外側に向けて開いた。何かは、扉に寄りかかっていたのである。
 転び出たのは、ギフスであった。
 ギフスは扉に背中をこすりつけながら、ゆっくりあおけに倒れ、血の染み込んだ泥の上に、ぐちゃりと音をたてて寝転んだのであった。
 ギボアが再び悲鳴をあげ、ギフスのなきがらすがりつく。そう、亡骸である。ギフスは胸から大量の血を流して明らかに死んでいた。侵入不可能な小屋の中で、心臓を一突きにされ、絶命していたのである。すなわち、これは、
 密室殺人である――。
 さん、どうしたものか。間もなくしんせきになるはずであった愛すべき村人が亡くなって、もちろんメロスとて悲しい。犯人を生かしてはおけぬとも思っている。けれども、ここで時間を取られては、さらなる犠牲者が生じかねないのである。速やかに結婚式を終えて、シラクスまで走らなければ、竹馬の友、セリヌンティウスも、殺されてしまうのである。約束をたがえるわけにはいかぬ。
 メロスは、村人たちの前に立ち、胸を張った。
「背に腹は代えられぬ。ギフス殿の亡骸は放っておいて、結婚式を敢行するぞ」
 言い切ると、短い静寂の後に、いやいやいや、という大合唱が起きた。けいべつまなしがメロスに注がれる。事情を知らぬのでは仕方あるまい。しかし、どうすればよいと言うのだ。所有する羊小屋が殺害現場とはいえ、事件の責を負ういわれはない。とにかく、時間がないのだ。私は走らなければならぬのだ。
 焦燥に駆られて、さらなる主張をしようとした時、それを遮るように、若き牧人フエニスが、さっと片手をあげた。
「この村人の中に犯人がいるというのに、祝宴なぞ挙げられますでしょうか」
 聞き捨てならぬ。
「フエニスよ。お前は、村の仲間を疑うのか? 何を根拠にそんなことを言う。もし根拠もなく不穏当な発言をしたのならば、許しはせぬぞ」
「僕は昨晩、屋外で縦笛の練習をしていました。他の人たちも、清めの水を泉までみに行ったり、花冠を編むための草花を摘みに行ったり、ずっと屋外で作業していたのです。その間、見知らぬ者が村に入ったという話はありません」
「な、なるほど……」
 一理ある。村の人たちも一様に深く肯いた。
 昨晩は、至るところで篝火かがりびかれて、村中が明るさに満ちていた。その上、村の周囲は放牧に適した広い草原で、とても見晴らしがよい。ましてや牧人たちは遠目が利く。村外から見知らぬ者があれば、ただちに噂が広まったことであろう。フエニスが言うように、犯人は、この村の者に違いあるまい。
 やんぬるかな。すぐにでも事件を解決せねばならぬようだ。
 メロスにとって、人を疑うことは、なによりの悪徳であった。生まれ育った村の人たちに容疑をかけるのは、耐え難い苦痛であった。ただ、いまの我が身は自分のものでありながら、自分一人のものではない。ままならぬことである。先刻、この口が告げたとおり、背に腹は代えられぬのか。
 えいっ、乗りかかった舟だ。いまは早朝、結婚式が予定される正午までに、犯人を見つけるのだ。き友が捕縛された時、足りなかったものは、一握りのと、さらなる腕力。同じてつは踏むまい。いまこそ汚名返上の好機。
 メロスは、再び皆の前で胸を張った。
「よし、分かった。事件を解決しようではないか。皆、一列に並べ! 犯人はすぐ名乗り出ろ。名乗り出ないのであれば、右から順に一人ずつ殴っていく!」
 無茶苦茶である。もちろん非難ごうごう。日頃は温厚な人でさえも不満をあらわにし、きつくメロスを責め立てた。それでもメロスはさらに訴える。
「私は犯人の善性に懸けているのだ。ここで生まれ育った者ならば、の村人が痛めつけられるのを見てはいられぬだろう!」
 けれども糾弾の声は止まぬ。それどころか、ますます騒ぎは大きくなる。
 すると、ただならぬ事態を察してか、『奴』が、現れた。
「メロスよ。メロスよ。それは愚策だ」
「悠長なことを言っている場合か。私には成さねばならぬことがあるのだ!」
「落ち着け。落ち着くのだ、メロス」
「落ち着いている。私は落ち着いているぞ、イマジンティウス!」
 叫んだ瞬間、静けさが降りた。
「……に、兄さん? イマジンティウスって、何を言っているの?」
 そのイモートアの発言に対して、村の人たちが、強く共感を示すように幾度も首を縦に振った。皆、釈然としていない様子である。そこでメロスは察した。やはり、他の人たちには、『奴』の姿が見えぬのだろう。
 メロスは一呼吸して、両手を広げ、澄ました顔をした。
「私には頼もしい心の友がいる、まさしく心の友が。そんな彼と共に、私が、事件を解決してみせよう。気になることがあったとしても気にしないでくれたまえ」
 村人たちは、いや、気になる、と口を揃えた。
「気に! しないで! くれたまえ!」
 村人たちはうなずいた。素直である。
 一連のやり取りによって、幾分かの冷静さを取り戻したメロスは、傍らに立つセリヌンティウスの姿をした『奴』に、そっと尋ねた。
「私の行ないを愚策と断じるほどだ、他によい策でもあるのか?」
 傍らに立つ『奴』は、村の人たちをいちべつし、
「そうだな。まずは皆に話を聞くのがよいだろう」
 メロスは納得し、さっそく、村人たちのほうへ向き直ってせきばらいをした。
「犯人が名乗り出そうにないので、仕切り直して、質問をしようではないか。事件について、何か心当りがある者はいないか?」
 問いかけても返事は無し。まさに鴉雀あじやくせい。少なくとも事件の目撃者はいないらしく、皆、口を閉ざしてしまった。しばらく経って、その静寂を跳ね飛ばすように口火を切ったのは、若き大工、コトダロスであった。
「メロスのアニキ、悪いが、疑わしいのは貴方あなたとイモートアだ」
 聞き捨てならぬ、と思ったが、メロスはぐっとこらえた。
「面白いジョークだな、コトダロス」
「ジョークではない。羊小屋に出入りできたのは二人だけだ。特にアニキ、貴方は昨日、ギフスさんと言い争いをしている」
 コトダロスの言葉を受けて、泣き伏していたギボアが顔を上げた。
「そうよ、メロス。昨晩の貴方は、殴りかからんばかりに、うちの人をにらみつけていたわ。それに、貴方は小さなころから、かつこうつけているつもりか知らないけれど、いつだって短刀を持ち歩いているではないの!」
 彼女の言うとおりではあるものの、愛用のクールな短刀は、シラクスの王城で取り上げられてしまった。いまのメロスは丸腰。誰かの首をへし折ることはできても、刺し殺すことはできない。
 はんばくの機を狙ってこぶしを握り締めたメロスであるが、すぐ力を抜いて、慈しみの眼でギボアのことを見つめた。いまのギボアは、誰をも信じられぬ状態なのだ。いや、ギボアだけではない。この場にいる全ての人が、疑念という名の濁流にまれて、息も絶えだえ、まともな思考ができなくなっている。
 返す言葉を失したメロスの肩に、誰かが、手を置いた。『奴』である。
「メロスよ。いつたん、退いたほうがよさそうだ」
 メロスは力なく肯いた。
 真相を探る足掛かりさえなく、申し合わせたわけではないが、大半の村人は各々散っていった。体格のよいメロスとコトダロスは、ギフスの亡骸を彼の自宅まで運んで架台の上に載せた。遺体を清めるのは女の務めである。後のことはギボアとイモートアに任せて、メロスは、ギフスに別れを告げた。
 羊小屋に戻ると、『奴』が、扉の前で待ち構えていた。
「さあ、メロス。捜査を始めようではないか」
 そう言って『奴』は笑った。
「お前は、私のことを、疑わないのか?」
「ああ。君とイモートアは、犯人ではないと考えている」
「私のことを、人を殺すような男でないと、信じてくれるのだな」
「いいや。君は正義感が強く、許せぬ者があれば、すぐ殺そうとする。そういう男だということを私はよく知っている」
 褒められているのか、けなされているのか、判別できない。
「では、なぜ、私が犯人ではないと思うのだ」
「それは簡単なことだ。ギフスさんが亡くなっていた位置だ」
 小屋から転び出たギフスの姿を想う。
「……そうか。ギフス殿は扉にもたれて死んでいた」
「気付いたようだな、メロス。ギフスさんが刺された時、そこの扉は、閉じた状態だったのだ。さらに、それ以降も、先刻まで一度も開かれていない。つまり犯人は、人が出入りするための片開きの扉を使わず、他の方法でこの小屋から脱したのだ。君とイモートアが、そんな面倒なことをする必要はない」
「犯人は、私たちに罪をなすりつけるために、わざわざ密室にしたのだな?」
 尋ねると、眼の前の『奴』は満足そうに肯いた。
「そうだろうな。それを証明するために、私と君は、捜査をするのだ」
 二人は、まず羊小屋の内部を調べることにした。
 乾きつつあるだまりをまたいで、片開きの扉から中に入る。十坪ほどの広さの羊小屋には隙間なくわらが敷き詰められて、首輪をつけた十頭の羊がひしめき、メェーメェーと、銘々鳴いている。
 高い位置に明かり取りの小さな窓があるだけで、陽のある時刻だというのに、屋内は薄暗かった。そんな中、『奴』は次々と敷き藁をめくった。
「潜んでいる者はいないようだな、メロス」
「素早く解決したい。潜んでいて欲しかったものだ」
「メェー」
「抜け穴も無いようだな、メロス」
「当りまえだ。羊小屋にそんなものがあってたまるか」
「メェー」
「犯人は羊用の観音開きの扉を利用した可能性が高いな、メロス」
「何を言う。そちらの扉は内からかんぬきがかかっている」
「メェー」
「その閂に犯人が細工をしたかも知れぬという意味だ、メロス」
「細工……」
「メェー」
 羊がうるさい。遊んでもらえると思っているのか、あるいは惨劇を目の当りにしたがためにおびえているのか、メロスとて分かり得ぬことだった。羊は大切な存在ではあるが、それは財産としての希少性に由来するものであり、心通わせる存在たり得ぬのである。人間と畜生の間には、埋め難い、種の隔絶が横たわっている。当然、羊群から目撃証言など得られるはずもなく、銘々がメェーメェーと鳴き続けようとも、意味を持たぬノイズが積み上げられるばかりで、ドラマティックな展開に至ることはあるまい。いうなれば、ただ、羊がうるさい。会話の邪魔である。
 そう取り留めのないことを考えていると、外から笛の音が聞こえてきた。
 閂をスライドさせて観音開きの扉を開け放ち、ぐるり屋外を見渡す。笛の音は、フエニスによるものであった。フエニスは、遠く村の入口付近で、笛を吹いて羊群を引き連れていた。日課の放牧に向かうのであろう。家畜を飼う者たちは、たとえ人が死のうと、たとえ結婚式が行なわれようと、世話を怠ることはできぬのである。
 メロスは、これ幸い、と思い立って、声を張りあげた。
「おうい、フエニス! 私の羊たちも連れていってくれたまえ!」
 フエニスは、こちらを向いて、大きく手を振った。承知してくれたようである。そうして、いかだのような縦笛に息を吹き込み、短いメロディを鳴らした。瞬間、小屋の中にいた羊たちが、一斉に村の入口へとけだした。
 牧人たちが扱う縦笛はパンパイプと呼ばれている。長さの異なるあしの管を幾本も筏状に束ねた笛で、音階を刻める。牧人たちは、状況に応じて複数のメロディを使い分けて、羊たちを操っていた。メロスもイモートアも、花婿ムコスも、牧畜をなりわいとしているので笛は達者であるが、フエニスの腕前に比べれば、児戯に等しかった。牧羊神パーンの如く、彼は美しい笛の音で、誰の羊をも操れるのである。
 草原へ向かうフエニスと羊群の姿を見届けて、メロスは後ろへ向き直った。
 き友の姿をした『奴』は、懐かしむような眼をしていた。
「私の知っているフエニスは幼い少年だった。いまでは、立派な牧人か」
「セリヌンティウスが村を離れてから十年も経つのだ、子供たちも成長している。これからの村は彼らが支えていくのだ。その未来に悔恨が残らぬよう、私は走りだす前に、いや、旅立つ前に、事件を解決して、妹を嫁がせねばならぬ……」
 メロスの話を聞いた『奴』は、無言でうなずいた。
 次いで、二人は羊小屋の外周を調べることにした。
 四角い羊小屋には二つの出入口しかない。正面向かって右側に観音開きの扉、左に片開きの扉である。正面以外の三面は、泥レンガでしつらえられた、何もない単なる壁で、怪しいところも変わったところも特にない。強いて挙げるならば、他の家屋が白く塗られているのに対して、羊小屋は泥レンガがき出しになっていた。
 古代ギリシア文化圏では、木材は非常に高価で、一般的な庶民の住まいは泥レンガを積んで造られている。通常であれば出来上がった壁を、石灰と砂を混ぜた塗料、いわゆるしつくいで塗装するのであるが、メロスの羊小屋は茶色いままであった。現代風に例えるならば、打ちっぱなしのコンクリートで仕上げられたミニマムなデザイン、それに似たたたずまいであろう。
 なお、泥レンガとは、焼き固められていない、成型した粘土を天日で乾燥させた建材である。かつてメロスは、羊小屋を施工したコトダロスから、泥レンガについてのレクチャーを受けたことがあった。コトダロスいわく、
「まず粘土に藁を混ぜ込むのだ。こうすることで繊維が複雑に絡み合い、レンガの強度が少し増す。配合比率を知りたいか? 残念、それは企業秘密だ。この特製粘土を成型して天日に干すわけだ。乾燥まで三日はかかる。おい、メロスのアニキ、聞いているか? ここから大事な話だ。泥レンガの完成には相応の日数を要するので、急な案件にも対応できるよう、俺は、現場仕事が無い日に、泥レンガを作り置きしているのだよ。アニキのように遊んではいないのだ。はっはっはっ」
 コトダロスは、職人の誇りを持った、立派な大工である。牧人フエニスと同様、村の行く末を担う信頼に足る若者であった。
「メロス。小屋の外側にも不審な点は無い。やはり、観音開きの扉が怪しい」
 隣を歩く『奴』がそう言った。
「犯人が、閂に、なんらかの細工をしたかも知れぬ、ということだな?」
「ああ、そうだ。トリックというやつだ」
 二人は改めて小屋の正面に立ち、観音開きの扉を調べた。
 扉は木材でできている。扉を開かないようにする横棒、すなわち閂も、支えるコの字型のかすがいは金属製であるものの、本体は、厚さ一寸、幅三寸ほどの木の角材でできている。閂の中央には取っ手がついていて、完全には引き抜けない。左右にスライドさせることで開閉の可能不可能を定める、至ってシンプルな造りである。
 メロスは、扉をにらみつけて、大きく首をひねった。
「内側に閂があるのでは、単純に考えれば、密室にすることは不可能だ」
「扉の密閉性は高くない。ところどころに隙間がある。例えば、外側から糸でも使って、閂を横に動かしたのかも知れぬ」
「この太い棒を糸でか? それは難しいだろう」
「あくまで例えだ、メロス」
 メロスは扉に触れて、使用感など分かり切ってはいるが、確認のために閂を左右に動かした。ずずず、と木材と金属がこすれ合う、鈍い音が響く。
「建付けが悪いので力を込めねば動かぬ。やはり、外から閂を操るのは困難だ」
 メロスがこぼすと、傍らの『奴』はうなり声をあげた。
「ううむ、方法が分からぬ」
「しっかりしてくれ。私はインテリジェントなお前を頼りにしているのだ」
 懇願するように見つめると、『奴』は、あきれ気味に笑った。
「何を言っているのだ、メロス。頼りにしているのは私のほうだ。君は、幼きころから野山を駈け回り、厳しい自然の中で鋭い感覚を培ってきた。その野生の勘とも呼べる感性は、あらゆる事件を解決へと導くだろう」
「買いかぶり過ぎだ」
「買い被りなものか。確かに私には幾ばくかの教養がある。しかし、状況を一変させる英雄や勇者の器ではない。勇者になれるのは、君だ、メロス」
 メロスはうつむいた。自分にそのような才覚などあろうはずがない。物事を解決へ導く力があったらば、佳き友を身代わりに差し出すこともなかった。
 眼の前に立つ『奴』が、慰めるように、メロスの肩を二度たたく。
「さあ、メロス。現場の捜索はそろそろ切り上げて、次の行動へ移ろう」
 メロスは顔を上げて眼をしばたたいた。
「次は何をするのだ?」
「聞き込みだ。捜査の基本は聞き込みだ、メロス」
 メロスたちはムコスの家へ向かった。不明を明らかにするためである。
 被害者のギフスは、なぜ、夜中に家を出たのか。事件が発覚する直前にムコスは言っていた、家を出る時のギフスの様子は不自然だった、と。思えば、昨晩の議論の時も、ギフスは妙にかたくなで機嫌が悪そうであった。
 ギフスのなきがらには拘束されたあとなどはなかった。現場の状況からすると、ギフスは自らの足で羊小屋に向かったものと思われる。呼び出されたのか、あるいは思うところがあったのか、いずれにしても、犯人と接点があったはず。昨日の彼の行動を詳細に調べれば、真相に近付けるに違いあるまい。
 ムコスの家に着くと、そこには、ギボアとイモートア、ムコス、さらに幾人もの村の人がいた。弔問であろう。彼らは白い布に包まれたギフスの亡骸にすがり、名残惜しんで悲しみを大仰に体現していた。
 場違いであることは承知しつつも、メロスは人をきわけ搔きわけ、ムコスの肩をつかまえて、ささやくように話しかけた。
「昨晩のことを聞きたい。ギフス殿の無念を晴らすために協力してくれたまえ」
 ムコスは、力強く肯いた。
 外に出ると同時に、彼は、くるりと振り返って真剣な顔をした。
「昨晩の父は、ひどく考え込んでいるようでした」
 メロスは、すかさず聞き返す。
「不自然な様子というのは、それだけか?」
「いいえ。家を出る直前に父は、粘土板を床に叩きつけて砕いたのです」
「粘土板?」
「はい。私宛ての、手紙です」
 紀元前、紙は著しく貴重で、おいそれと使用できる品ではなかった。ゆえにさいな記録や伝言などは、粘土の板に刻み記していたのである。
「誰からの手紙だ」
「それは分からない。日中に、家の前に置かれていました」
「なるほど。手紙には何が書いてあったのだ」
「結婚おめでとう、と書かれていた、みたいですね……」
 傍らで聞き耳を立てていた『奴』が、そこで、疑問を口にする。
「みたい?」
 メロスは、『奴』が言いたいであろうことを、すぐ引き取った。
「みたい、とは、どういうことだ。お前宛ての手紙だろう?」
「実は、私は、自分の名前くらいしか、読むことができなくて」
「そういうことか。ギフス殿は保守的な人だったからな」
 古代ギリシア文化圏での識字率は一割ほどである。都市に暮す市民ならばともかく、奴隷や女、農村に暮す人々の中には、字を読めぬ者が多かった。ただ、この村は例外であった。この村にはかつてセリヌンティウスというインテリジェントな若者がいた。彼は常日頃、勉学にいそしみ、暇な時には村人たちに文字を教えてまわった。お陰で大半の住人が文字を扱えるのである。けれどもギフスは、十年前から、農村に教養など必要ないという保守的な考えに傾倒していた。それも無理はない。貴重な労働力である若者、セリヌンティウスが、教養があったがゆえに村を出ていってしまったのである。いずれにしても、そのような考えによって、ギフスは息子のムコスに継続的な文字の学習をさせなかったのであろう。
「……それで父に、手紙を読み上げてもらったのです」
「その内容が、結婚おめでとう、だったということだな?」
「はい、おさん」
 ムコスの言葉を聞いた『奴』が、まゆをひそめた。
「メロスよ。その粘土板には、本当に祝辞のみが書かれていたのだろうか」
「分かっている。いまからそれを確認する」
 改めてムコスのほうへ向き直って、メロスは、慎重に尋ねる。
「ムコスよ。その砕かれた粘土板の欠片かけらは、いま、どこにあるのだ」
 ムコスは視線を落として、
「私たちの、足下です」
「これが……」
「はい。母が全て屋外に掃き出したのです」
 メロスは、とつに地面にいつくばり、そこら中に散らばる欠片を幾つか拾い上げた。粉々である。いずれも一寸にも満たぬ大きさである。全てを組み合わせれば、文章の解読も可能とは思われるものの、これほどの欠片を不足なく拾い集めて組み立てるのは骨が折れるであろう。その作業だけで日が暮れてしまいかねない。
 四つ這いのままメロスはていねんを抱いた。その時、頭上から声が降ってきた。
「メロスよ。人海戦術だ。村人たちを全て呼び出して手伝ってもらうのだ。粘土板に犯人の名が記されているとでも言えば、協力を拒否できる者なぞいまい」
 メロスは立ち上がって、発言の主である『奴』を睨んだ。
「私に、ブラフを張れと言うのか? そのような虚言は好まぬ」
「完全に噓というわけではあるまい。粘土板の文章が明らかになれば、捜査が進展する可能性は十二分にある。文章を解読できた瞬間に、村人たちが全員揃っているのも都合がよい。君が、その場で、犯人はお前だ、と名指しすればよいのだ」
「そこまでくいくとは思えぬ」
「時間がないのだろう? 竹馬の友を見捨ててパズルに興じるつもりか、メロス」
「ううむ、背に腹は代えられぬか……」
 迷っていると、ムコスが会話に割り込むように、提案を口にした。
「私が村の皆に粘土板復元の協力を頼んできます」
 言うが早いか、ムコスは駈けていった。
 弔いのためにすでに多くの住人が集っていたことも手伝って、招集は滞りなく進んだ。仕事中であったフエニスやコトダロスたちも、同輩であるムコスに頭を下げられて、快く引き受けたようである。村の人たちは現場に集合すると、さっそく先刻のメロスと同じように這いつくばって、小さな欠片の収集と組み立てに専心した。粘土板の完成形を知っているのはムコスのみであったため、陣頭指揮は若き彼が担当。欠片は思いのほか広範囲に散っていたが、適切な指示と団結によって、みるみるうちに粘土板は元の姿を取り戻していった。
 そうして、半ときもせぬ間に、復元作業は完了したのであった。
 地面に置かれた粘土板を見下ろして、『奴』が、皮肉な笑みを浮かべる。
「ほう、これは面白いことになったな……」
 もちろんその言葉に反応を示す者はいない。村人たちは、ぼうぜんと、そこに書かれた文章を見つめていた。
 手紙には、ムコスへ、という宛名の下に、こう書かれていたのであった。
 ――月が真上に昇るとき、誰にも内緒で、我が家の羊小屋に来て下さい。
イモートアより
 皆の視線が妹イモートアに注がれる。お前が殺したのか、そう言いたげである。
 けれどもメロスは取り乱さず、落ち着いた声で、イモートアに話しかけた。
「イモートアよ。ここに書かれた文章を、読み上げてみよ」
 彼女はおびえた様子で村人たちの顔を順に見つめ、それから、たどたどしく、
「兄さん、わたしが、文字を読めないことを知っているでしょ……」
 メロスは高らかに笑った。
 イモートアとて、セリヌンティウスと面識があり、文字を学ぶ機会は幾らでもあった。ところが、幼きうちからムコスのいいなずけに選ばれていたがために、義父にあたる保守的なギフスの考えに従って、彼女は牧畜の慣習のみを学んできたのであった。ギフスの教育方針の是非はひとまずいて、いまこの時においては、読み書きできぬことが、犯人を絞り込む一助になった。
「皆、分かっただろうか! この手紙は、我が妹が書いたものではない。犯人がねつぞうしたものだ。この村の人々は当りまえのように文字を扱う。犯人からしてみれば、読み書きできぬ住人がいるとは思いもしなかったのだろう。さらに、ムコスも文字を読めぬ。いまは亡きギフス殿は常に村の行く末を案じる立派な人だった。それは誰もが承知している。ただ、行く末を思うがあまり、保守的な価値観にとらわれている人でもあった。そのようなギフス殿の手によって、若き二人の知識はアップデートされていなかったのだ。イモートアが読み書きできぬことを知っていたのは、おそらくは、本人と私、シラクスに越したセリヌンティウス、それからギフス一家だけ。いま挙げた人々は容疑者から除かれる」
 メロスは、ここで大きく息を吸った。
「つまり! 私は、犯人ではない!」
 村人たちがめた顔をして、それを主張したいだけか、とつぶやいた。
 よどみをらむ空気を振り払うが如く、すぐ言葉を継ぐ。
「さあ、イモートアとムコスのために、手紙の内容を読み上げよう――」
 メロスは、文字と単語の解説を交えつつ、粘土板に記された文章を諭すようにゆっくりろうしようした。その上で、村人たちに対して推測を述べることにした。
「ご覧のとおり、この手紙はムコスに宛てられたものだ。ところが、ムコスは文字を読めなかったゆえに、父ギフスに代読を頼んだ。手紙の内容を見たギフス殿は、結婚おめでとうと書いてある、と噓をついた。ギフス殿はイモートアが読み書きできぬと知っていたので、その時点で、何者かがよこしまな企てをしていると察したのだろう。そうして、息子に心配はかけまいと、単身、羊小屋に向かうことにした。犯行は、暗闇の中、悲鳴もあげられぬほど瞬時に行なわれた。要するに、ギフス殿は誤って刺されたのだ。実際に、命を狙われていたのは、ムコスだ」
 立ち尽くす村人たちの顔を、メロスは、じっくりと見回した。
「犯人は! ムコスを恨んでいる者だ!」
 言い放つと、一瞬の間の後、かすかなざわめきが起きた。皆、驚いている、というわけではなさそうである。困惑していると表したほうが適切であろう。その微妙な雰囲気について見解を述べたのは、一人の若者であった。フエニスである。
「メロスさん、それが分かったところで、事態が進展したとは思えないです。他人の内心は見えぬのですから、恨みを持った者なぞ捜しようがありません」
「た、確かに……」
 一理ある。村の人たちも一様に深くうなずいた。
 メロスは救いを求めて、き友の姿をした『奴』を見た。『奴』は、あごに手をあてて、いまだ粘土板を見下ろしていた。
うしつ時か。我々が眠りに就いたころだな……」
 独り言を呟いている。こちらには興味がなさそうである。
 頼りにならぬと考えて、メロスは再び村人たちのことを見回した。そのタイミングで追い打ちをかけるように一つの声。コトダロスである。
「メロスのアニキ、尊重すべきは証拠だ。羊小屋に出入りできた者が限られている以上、いまも最も疑わしいのはアニキ、貴方あなただ。手紙にしても、裏の裏をかいて、捏造したのかも知れぬ」
「私があの手紙を書いたとでも言うつもりか」
「ああ、言うつもりだ!」
 メロスはこぶしを握り締めた。黙らせるか。いや、我慢だ。
「こんな怪しまれる方法で殺すわけがないだろう。なにより、私が殺すならば、もっとシンプルに堂々と殺している!」
 周囲から反論の気配は無い。ある意味でメロスは絶大な信頼を得ている。
 けれども、コトダロスは食い下がった。
「俺もメロスのアニキを信じたい。しかし、文字を書けて、かつ、羊小屋に出入りできたのはアニキだけではないか」
「ほ、他にもいるかも知れぬ。いや、いたはずなのだ」
「ならば、誰がいたと」
「羊小屋には、そうだ、羊、少なくとも羊がいるではないか」
 明らかに苦し紛れ。ところが、メロスを擁護する声が聞こえた。
「うむ。羊ならば可能かも知れぬな……」
 声の主は『奴』であった。『奴』は上の空の手本を示すかのように、宙を見つめて考え事をしている。ただ、その発言は間違いなくメロスに賛同するものであった。インテリジェントな『奴』が言うのだ。どのような方法かは想像もできぬが、これが正解なのだろう。メロスは揺るがぬ自信を持った。
「そうだ。羊だ! 羊が殺したのだ!」
 周囲を包み込むめ息の輪唱。村人たちはあきれて言葉を失った。
 ならば、もう一度。
「羊が殺人犯に違いあるまい!」
 その根拠とも言える『奴』が、なぜか、困惑した顔をする。
「待て。待つのだ、メロス。殺人はさすがに人の仕業だ。しかし、内からかんぬきをかけることならば、羊でも可能かも知れぬと思ったのだ」
 メロスは黙り込んだ。いまに至るまでの出来事が頭の中を駈け巡っていた。
 メロスには政治が分からぬ。哲学も分からぬ。数学も科学も分からぬ。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。それゆえ、
 メロスは推理した――。
 急ぎ、改めて皆に対して声を張る。
「羊が犯人に違いあるまい。ただ、正確には共犯だ」
 またもや困惑の雰囲気が漂う。村人たちが冷たい視線という名の矢を幾本も放ったが、メロスは熟練の軽業師の如く華麗にスルーして、一方的に話を続ける。
「犯人は、私に罪をなすりつけるために、計画的に密室を作り上げたのだ。方法は、そうだな、実際に披露したほうがよいだろう。皆、羊小屋まで来てくれたまえ」
 村人たちは、戸惑いながらも肯いた。
 ムコスの家の前から羊小屋へ移動する途中、メロスは自宅に立ち寄って、必要な物を拾い上げ、懐にしまい込んだ。少しく遅れて羊小屋の前に到着すると、すでに村の全ての人たちが、おとなしく待っていた。
 メロスは何も言わず、まず羊小屋の中に入って、閂を解き、観音開きの扉を開き切った。小屋の前で待機する人たちに、閂がよく見えるようにしたのである。
「言うに及ばず、この太い閂が左右に動けば、密室を作れる。この閂は建付けが悪くて動きが重い。しかし、いまから披露する方法を使えば、小屋の外からでも動かすことが可能なのだ」
 メロスは、一頭の羊を連れてきて、その羊の首輪と閂をかわひもつないだ。
「さあ、よく見ていてくれたまえ」
 そうして、懐から取り出した縦笛で、甲高いメロディを奏でた。
 羊が扉に対して平行に歩き、釣られて閂が、ずずず、ずずず、ずずず、と木材と金属がこすれ合う鈍い音を鳴らして、横に動いた。
「もうお分かりだろう! 犯人は羊を利用して密室を作ったのだ。昨晩、犯人は羊小屋の中に身を潜め、呼び出したムコスのことを待った。承知のとおり、実際にやって来たのはギフス殿だったのだが、犯人は気付くことなく、一突きで殺害。その後、羊と閂を紐で結び、外に出て扉を閉じた。後のことは披露したとおりだ。犯人は笛を吹いて羊を操り、羊小屋を密室にしたのだ! 羊を繫いだ紐は、ギフス殿のなきがらが発見された時のどさくさに紛れて回収したに違いあるまい」
 早口にまくし立てた。メロスは一つ深呼吸してから、さらに続きを語る。
「昨日の月は居待の月、真上に昇ったのは丑三つ時だ。日頃であれば村の人々はとっくに眠っている時刻、笛なぞ吹けるはずもない。しかし、昨晩は篝火かがりびともされて、その時刻も楽器の音が響いていた。演奏は途中で止まったり、同じフレイズを繰り返したりしていた。いま思えば、あれは羊を操るメロディをカモフラージュするためだったのだろう」
 緩慢に、一人の人物に歩み寄る。
「昨晩、縦笛を吹いていた、羊を操れる人物、それはお前だ、フエニス!」
 勢いづけて指差す。名指しされたフエニスは、全身を震わせて首を横に振った。
「ぼ、僕は、やっていない……」
「言い逃れするつもりか」
 メロスは見せつけるように拳を握った。すると、フエニスが駈けだした。逃がすものか。とつにメロスは後を追う。
 何を成すにもだけでは足りぬ。内にこもって熟慮を重ねようとも、実行しなければ机上の空論に終始するだけである。実行、すなわち実力行使。何かを成すには力が必要なのである。メロスにとって力とは、十里のみちを走り抜く脚力と、敵対者を屈させる腕力。つまり、フィジカル。フィジカルである。
 フエニスに追いついたメロスは猛然一撃。続けて、よろけた彼の首根っこをつかんで、羊小屋に向かって投げ飛ばした。小屋側面の茶色い壁が崩れる。その崩れた泥レンガの上で横たわるフエニスに、さらなる一撃を加えようとした時、
「兄さん、やめて!」
「おさん、いけない!」
 イモートアとムコスが、メロスの腕を押さえて引き留めた。まだ結婚式前にもかかわらず、ケーキ入刀よろしく、二人の共同作業である。
 メロスはどうにか拳を収めた。すると、イモートアがとつとつと語り始めた。
「兄さん、わたしは昨日、確かに、羊小屋の戸締りをしたわ。羊を使って密室を作れるのだとしても、それ以前に、フエニスさんは、小屋の中で誰かを待ち伏せすることなんてできなかったはずよ」
 その言葉を受けて、事態を見守っていた『奴』も述べる。
「それに、私は遺体が見つかった後、しばらく羊小屋の観察をしていたが、紐を回収しにきた者なぞいなかった。メロスよ、君が提示した方法で殺害計画を実行するのは不可能だ。羊は関係がなかったのかも知れぬ……」
 メロスは、自身がやらかしてしまったことをみ締めるように、泥レンガの上でもだえているフエニスのことを、見下ろした。
 その時、不自然な物が視界に入った。分かった。そういうことか。
 メロスは重ねて推理した――。
 頭の中でかんぺきな青写真は完成している。けれども、それを披露するよりも先にフォローしなければならぬ。メロスはフエニスを引き起こし、深く頭を下げた。
「フエニスよ、すまなかった」
「い、いえ、平気です……」
「どうか、力一杯、殴り返してくれ!」
「け、結構です。顔を上げて下さい、メロスさん……」
 しばしの問答の末、メロスは折れて顔を上げ、フエニスを見つめた。なんと優しい若者だろう。そう思う。それから、村人たちのほうを向いて、胸を張った。
「皆、合格だ! 道を誤った私に追従せずに冷静に状況を見守った。素晴らしい思慮深さだ。村の未来は明るいだろう。優秀な若者たちもいる。そう、この村の若者たちは、とても優れているのだ。ただ一人、真犯人を除いては……」
 話しながら歩き始める。
「冷静かつ思慮深い皆ならば、これから私が披露する、真相解明のためのデモンストレーションについて、納得してくれることだろう」
 言い切ると同時にメロスは、ゆうおうまいしん、一気に駈けだした。そうして近隣にある家の壁を次々と、そのこぶし、その脚、肉体の全てを使って、破壊していった。その姿、まるで荒ぶる神アレス。村人たちは揃って嘆きの声をあげた。
「納得できない!」
 メロスは、気にも留めず、再び堂々と胸を張る。
「このように、人は! 壁を! 壊せる!」
 次いで、崩れた壁から一つ泥レンガを拾い上げ、村人たちのもとに悠々と舞い戻ると、それを前に突き出して、見せつけた。
「ご覧のとおり、この泥レンガの側面は、れいに乾いている……」
 レンガを投げ捨て、今度は羊小屋の崩れた壁を手で示す。
「それに比べて、羊小屋の泥レンガはどうだろう? 分かるだろうか、レンガとレンガを繫ぐ目地の粘土が、乾き切っていない。粘土は三日ほどで乾燥する。つまり、これは施工されたばかりのものだ」
 メロスは、大きく息を吸い、言い放つ。
「この事件の真犯人は! 壁を壊して羊小屋に侵入したのだ!」
 一般的な家屋の壁は、たとえ粘土にわらを混ぜ込んで強度を高めようとも、しよせんは土くれ、強い衝撃には耐えられぬのであった。
 事実、当時のギリシアの大都市、アテナイなどでは、壁を壊しての窃盗事件が発生していた。史実によると、隣国が攻めてきた時、壁に穴をあけて、逃げ道を確保したり、敵兵の背後を取ったり、という戦略も行なわれていたそうである。さりとて、それは後世に明らかになったこと。当然ながら攻め込む側の隣国が壁の破壊戦略など知る由も無し。同様に、メロスの村の人々も知らぬのであった。
 富裕者もいなければ戦争とも無縁のこの村では、誰も、壁を壊すという発想には至れなかった。たった一人、犯人を除いては。
「壁を壊して羊小屋に侵入した犯人は、かんぬきを解いて扉を開き、ムコスを待った。そうして、結果的にギフス殿を殺害するに至った。その後、犯人は閂をかけて壁の穴から小屋を脱し、速やかに、その壁を修復して密室を作った……」
 メロスは一人の人物に歩み寄る。
「そのような芸当ができる者は一人しかいまい。お前だ、コトダロス」
 若き大工、コトダロス。建物の構造を理解している彼ならば、世相も史実も知らずとも、壁の破壊という方法に辿たどり着くのは容易たやすい。
「コトダロスよ。お前ならば、壁の修復などお手の物だろう。ましてや羊小屋はしつくいが塗られていないので、輪をかけて簡単だったはずだ。その上、修復に使われた泥レンガは企業秘密の特製品。これを所有しているのは、お前だけだ」
 けれどもコトダロスは動じず、反論を始めた。
「メロスのアニキ、犯人が羊小屋の壁を壊したと言うならば、俺の家の壁を壊して泥レンガを盗むことも可能だったはずだ」
「そのような言い逃れが通用するとでも思っているのか」
「言い逃れとは人聞きが悪い。俺はやっていない」
 にらみ合う二人。互いに決定打に欠け、攻めきれずにいる。けんせいの気配は周囲をじゆうりんし、つばを飲む音さえ響きそうなほど、深い静寂が立ち込めた。
 その時、たてごとの音が聞こえた。
 耳を澄ます。コトダロスの家から聞こえてきている。いつたん休憩。メロスは村人たちに断りを入れて、音の出どころへと向かった。コトダロスの家の壁には、先刻メロスが暴れたことによって、大きな穴があいていた。その穴から、室内をのぞく。『奴』が竪琴を弾いていたのであった。
 竪琴リュラ。亀の甲羅でできた共鳴胴に二本の角と横木をつけた弦楽器である。古くからギリシア文化圏全域に普及している楽器ではあるが、メロスたちにとっては高価な品であり、村には共有財産として一つしか存在していない。その竪琴は、演奏担当者であるコトダロスの家で保管されていた。
「やあ、メロス。私は竪琴をたしなんでいないのだが、この簡単なフレイズならば、弾くことができた。メロスにも弾いてみて欲しい」
 微笑みながら『奴』は、竪琴を差し出してきた。素直に受け取り、素直に弾いてみる。なるほど、これは昨晩の――。
 陽は高くなりつつある。早朝から慌ただしく様々な出来事が起きて、村人たちは疲れていることであろう。メロスは、優雅なリフレッシュタイムを提供するために、竪琴を奏でながら皆の前に戻り、先刻の『奴』と同じように微笑んだ。
「余計なアリバイ工作をしたものだな、コトダロス。昨晩、いま聞かせたフレイズが繰り返されていた。周囲から怪しまれぬように、殺害計画を実行しながら、何も考えずとも弾ける簡単なフレイズを演奏したのだろう?」
 きっと問いかけの真意は伝わっていない。案の定、コトダロスはちようしようした。
「アニキ、先刻も言ったが、尊重すべきは証拠だ。竪琴の音が響いていたならば、それは、ただ竪琴を弾いていただけだと考えるべきだ」
 メロスは、竪琴を裏返して、掲げた。
「コトダロスよ、これは証拠と呼べるのではないか?」
 竪琴の裏側には、血液が、付着していた。共鳴胴から伸びる角のうちの一本、演奏の時に左手でつかむ部分の近くに、赤黒い染みができていたのである。
「お前は、断続的に竪琴の音を鳴らすために、ギフス殿を刺した時にも竪琴を持っていた。そうして返り血が付着したのだ。羊小屋の中は暗かったので気付かなかったのだろう。とはいえ、屋外で普通に演奏すれば、血がついていることなぞ、すぐ気付ける。なぜ気付かなかったのか。それは普通の演奏の仕方ではなかったからだ。お前は竪琴を地面にでも置いて、片手で修復作業をしながら、もう片方の手で簡単なフレイズを繰り返していたのだろう?」
「そ、それは……」
 コトダロスはたどたどしくつぶやいた。日頃は自信に満ちている彼の姿は、いまは、さそりに追われるオリオンの如く、おびえの色に染まっている。
 メロスは、慈しみの眼で彼を見つめた。
「誇り高き大工、コトダロスよ。お前に問おう。羊小屋の壁は、表面を見ただけでは修復した箇所があるとは思えぬほど、大変に美しい仕上がりだった。あれは、誰にでもできる仕事なのか?」
 コトダロスは、先刻とは打って変わって、しく顔を引き締めた。
「いいや。俺にしかできぬ仕事に決まっているだろ、アニキ」
 そう言って彼は、懐中から二つのレンガを取り出して、両手に持った。
「俺は職人だ。職人ならば仕事は完遂せねばならぬ。このレンガは、焼成レンガ。泥レンガとは強度が違う。当たると痛いぜ」
 コトダロスはムコスに向けて走り、両腕を大きく振り回した。殺す気だろう。彼の言うとおり焼成レンガは、高温で焼くことでもって粘土中に含まれるアルミノケイ酸塩が融解、加えて結合することで、著しく強度が高い。仮に頭に直撃すれば、こつじんがいこつは砕け散ってしまうに違いあるまい。止めねばならぬ。彼はレンガの重みを利用して振り子のように腕をまわしている。あのような大振りの攻撃には懐に入る戦法が有効。メロスは疾風の如く距離を詰めた。そうして、
「正義のためだ。許せ」
 鎌で草木を刈るようにひじを鋭く振った。その肘はコトダロスのあご先をとらえた。彼は首をぐるり九十度回転させ、のうしんとうを起こしたのだろう、その場にひざをつき、レンガを手放した。その隙に村人たちが彼に縄を打つ。
 縛り上げられたコトダロスは、観念したらしく、とつとつと語り始めた。
「俺は、イモートアが好きなのだ。だから、結婚を阻止するためにムコスを亡き者にしようとした。ついでに、少し苦手なアニキに罪をなすりつけようと思った。俺は、俺は、同じ牧人の家系という理由だけで幼くして婚約するという文化を……」
「うるさい、黙れ!」
 メロスはコトダロスを殴り倒した。
 笑止千万。人殺しの言い分など聞く必要も無し。地面に伏すコトダロスを見下ろして、メロスは、声を荒げる。
「よいか、コトダロスよ。お前は信頼を裏切ったのだ。私欲におぼれ、私の信頼を、いや、村の人々の信頼を、村の未来を、全て裏切ったのだ。お前は、有望な若者であったが、人を殺したのでは、もう、この村には置いておけぬ……」
 その声はコトダロスの耳には届いていなかった。彼は気を失っていた。
 無言のまま『奴』が、メロスの肩に手を置く。そのセリヌンティウスに似た顔を見て、メロスは我が身の使命を思い出し、村人たちに告げることにした。
「私は明日、シラクスの市に向かう。その時に、王城の警吏に、コトダロスを投獄してくれるよう頼んでおこう」
 すると、馬のひづめの音と共に、一つの声がした。
「その必要はない」
 見ると、かつちゆうに身を包んだ三人の男が、馬に乗ってこちらに近付いてきていた。
「事情は知らぬが、人殺しならば、我々が引き取ろう」
 シラクスの警吏たちである。警吏といっても、その呼び名は便宜上のもの。この独裁政権下にあるシラクス領土において、警吏は、公平な調停者ではなく、王ディオニスの忠実な臣下でしかない。
「なぜ、市を守っているはずの警吏が、この村まで来たのだ」
「王をおもんぱかり、あの方が、命を下されたのだ。メロス、お前のことを見張れと」
 メロスはこぶしを握り締めた。けれども、ここで事を荒立てる必要もないと考えて、警吏の指示に従い、犯人であるコトダロスを引き渡した。
 警吏たちは、馬の背にコトダロスをくくりつけると、去っていった。
 事件は解決したのである。
 ぽつりぽつり雨が降りだした。
 陽が陰って正確な時刻は分からぬが、間もなく正午になるであろう。気持ちを切り替えて、雨がひどくなる前に祝宴の仕度を終えてしまおうと思い、メロスは村の皆に発破をかけた。村人たちは渋い顔をした。それでも、メロスは押して頼んだ。
 メロスには時間がないのである。メロスは走らなければならぬのである――。
 ギフスのなきがらをメロスの家に運び込み、結婚式と葬儀は、同時に催されることとなった。どちらの儀式もやることは同じ。歌って、神々に祈るだけである。
 新郎新婦の神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、やがて車軸を流すような大雨となった。列席していた村人たちは不吉なものを感じたようであるが、銘々に気持ちを引きたて、狭い家の中、むんむん蒸し暑いのもこらえ、陽気に歌い、手をたたいた。メロスも満面に喜色をたたえ、しばらくは王とのあの約束をさえ忘れた。
 祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ、華やかになり、人々は外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。このき人たちと生涯暮していきたいと願った。けれども、そうはいかぬ。隠れるように部屋の隅で独りワヰングラスを傾けている『奴』を見つめて、メロスは、我が身にむちを打ち、出発を決意した。
 明日の日没までには、まだ十分の時がある。ちょっとひと眠りして、それからすぐに出発しよう。そのころには雨も小降りになっていよう。
 少しでも永く、この家に、ぐずぐずとどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものはある。それでも、行くのだ。
 よいぼうぜん、歓喜に酔っているらしい花嫁イモートアに近寄り、
「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐ市に出掛ける。大切な用事があるのだ。私がいなくとも、もうお前には優しい亭主があるのだから、決して寂しいことはない。お前の兄の、一番嫌いなものは、人を疑うことと、それから、噓をつくことだ。お前も、それは知っているな。亭主との間に、どんな秘密も作ってはならぬ。お前に言いたいのは、それだけだ。お前の兄は、たぶん偉い男なのだから、お前もその誇りを持っていろ」
 イモートアは、夢見心地でうなずいた。
 メロスは、それから花婿ムコスの肩を叩いて、
「仕度の無いのはお互い様だ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には何もない。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ」
 ムコスは、して、照れていた。
 ギフスの亡骸が寝かされた架台に近付き、めいの川の渡守りに払う賃金として、その唇に硬貨をくわえさせる。それから、誰にも聞かれぬほどの小声で、
「ギフス殿、私も、すぐそちらに向かいます」
 メロスは笑って他の村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋の敷きわらに潜り込んで、死んだように深く眠った。
 眼が覚めたのは、あくる日の未明である。メロスは跳ね起きた。
 さん、寝過ごしたか。いや、まだまだ大丈夫。これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。今日は是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして、笑ってはりつけの台に上ってやる。
 メロスは悠々と身支度を始めた。雨も幾分か小降りになっている様子である。
 身支度はできた。
 メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
 瞬間、呼び留める声がした。
「メロスよ、私を置いていくとは、水臭いではないか」
 声をかけてきたのは『奴』である。
「何を言うのだ。お前は放っておいても、ついてくるのだろう? なにせ、お前は私の妄想が生んだ存在だ。なあ、イマジンティウスよ」
 佳き友セリヌンティウスの姿をした『奴』、改め、イマジンティウスは、笑う。
「ははは。とにかく、共に走ろう」
 メロスは肯いて、前を向いた。
 そうして、イマジンティウスと共に走りだしたのであった。
 私は、今宵、殺される。殺されるために走るのだ。身代わりの友を救うために走るのだ。王のかんねい邪智を打ち破るために走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。若者たちは誇りを持て。
 さらば、ふるさと。

(気になる続きは、本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名:殺人事件に巻き込まれて走っている場合ではないメロス
著 者:五条 紀夫
発売日:2025年02月25日

身代わりとなった親友を救うため、メロスは推理した――!
自身の身代わりとなった親友・セリヌンティウスを救うため、3日で故郷と首都を往復しなければならないメロス。しかし妹の婚礼前夜、新郎の父が殺された。現場は自分と妹しか開けられない羊小屋。密室殺人である。早く首都へ戻りたいメロスは、急ぎこの事件を解決することに!? その後も道のりに立ちふさがる山賊の死体や、荒れ狂う川の溺死体。そして首都で待ち受ける、衝撃の真実とは? 二度読み必至の傑作ミステリ!

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322402000610/
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