5/18発売の新名智さん書き下ろし長編小説『きみはサイコロを振らない』。呪いがじわじわと迫る静かな怖さに加え、友人の死によって心に傷を抱えた少年の成長物語としても評判になっています。ホラー&ミステリ界が注目する新鋭の期待の第3作、発売前に物語の冒頭を特別公開!
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新名智 特設サイト:https://kadobun.jp/special/niina-satoshi/
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322211001529/
『きみはサイコロを振らない』冒頭特別公開#03
部屋が薄暗いことに気づいて時計を見ると、いつの間にか六時を過ぎていた。
「そろそろ帰らないか」
と、おれは莉久たちに向かって言った。葉月さんは、はっとしたように顔を上げ、何時、とつぶやく。おれが時刻を教えると、彼女は慌てた。
「もうそんな時間か。ごめんね、ほったらかしにして」
「いえ、楽しかったです」
ゲーム機を箱の中に戻しながら、おれは言った。それは社交辞令でなく本心だ。おれが遊んで楽しかったというよりも、遊んでいる莉久と葉月さんを見ているのが楽しかった。ちょっとしたことで喜んだり、悔しがったりして、大騒ぎしながら遊んでいるふたりの姿を見ていたら、ゲームというのもそんなに悪いものではなさそうだと思えた。
葉月さんは、飲み終えたグラスを片付ける。莉久は、まだ帰る気はないのか、新しいタイトルをプレイしていた。ゴミやガラクタがくっつきあって形成された巨大な塊が街中を転がり、逃げ惑う人々を押しつぶしていく。シュールで恐ろしそうなゲームだ。
「ほら、莉久、彼氏を送ってやんな」
どこまで本気かわからない口調で葉月さんが言う。言われた莉久がこっちを向いた。おれは笑った。
「いいよ。気にしなくて」
久しぶりに会う友達だというし、家もそう遠くないのだから、ゆっくりしていったらいい。それなのに、莉久は律儀にゲームを止めて立ち上がった。なんだか悪い気がした。
「片付けなくていいよ。まだ遊ぶから」
葉月さんが莉久にそんな言葉をかけているところからすると、彼女はまだまだこの作業を続けるつもりらしい。遊ぶと死ぬ、呪いのゲーム。そんなものがあるのかどうか、仮にこの世にあったとして、この中に含まれているのか。おれにはなんとも言えなかった。
おれと莉久は、玄関先で葉月さんに挨拶してから、一緒に家を出た。門のところで振り返ると、葉月さんはまだ同じ場所に立って手を振っている。旅館や料亭にさえ見えるような風情ある建物と、チャイナドレスを着た彼女の姿とでは、明らかにミスマッチだった。
道に出てしばらく歩いたところで、莉久からメッセージが飛んできた。
〈おもしろい人だったでしょ〉
おれは苦笑するしかなかった。
「ちょっと、おれにはおもしろすぎるかな」
それにしても、このふたりはどうやって親しくなったのだろう、と思った。家が近所だと言っていたが、歳はそれなりに離れているし、話し好きそうな葉月さんと、一言も喋らない莉久とでは、タイプがまるで違っている。
ま、正反対のふたりが出会って仲良くなることなんて、世の中にはありふれている。考えてみたら、おれと雪広だってそうだった。葉月さんの雰囲気は、どこか雪広にも似ている。そういう意味で、おれと莉久もやはり似たもの同士なのかもしれない。
「でもよかったのか。会うの久しぶりなんだろ。もう少し遊んでけば」
〈まだしばらくはこっちにいるっていうし、気にしなくて大丈夫〉
「それを言うなら、おれだって。わざわざ送ってくれなくても、ひとりで帰れる」
次のメッセージには文章がなく、涙を流して笑う絵文字が並んでいた。馬鹿にされている。
そうこうしているうちに、いつもの通学路まで出てきた。左に行けば駅があり、右に行けば、莉久の家がある。おれは莉久の肩をつついて、ここまででいいからな、と言った。さすがに駅までついて来られたら照れくさい。
莉久はうなずき、さっと片手を挙げて挨拶すると、そのまま向きを変えて夜道を去っていった。その一連の所作が
おれはしばらく莉久を見送ってから、駅のほうへ歩き出した。何気なくポケットに手を入れたとき、指先に何か硬いものが触れた。
しまった、と思った。
取り出してみると、案の定、それはさっき葉月さんの家で遊んでいたゲームソフトのカートリッジだった。どこかのタイミングで、うっかりポケットに入れてしまったのだろう。
腕時計を見ると、乗らなければならない列車の時刻まで、まだだいぶあった。明日、学校で莉久に渡せばいいのかもしれないが、一晩預かるのも落ち着かない。さっさと戻って返してこようと思った。
莉久とふたりで歩いた道を、ひとり引き返す。道順を注意して覚えていたわけではないが、今日三度目の道のりなので、なんとか
玄関の明かりが消えていて、いるのかどうか不安になる。ブザーを鳴らすと、はーい、という声が、なぜか外から聞こえてきた。
「ごめん、表の
声のしたほうへ回り込むと、小さな勝手口があり、その前に葉月さんが立っていた。服装はさっきと変わっていないが、右手に火の点いたたばこを持っていて、足元に置かれた黄桃の空き缶からは、細い煙が立ち上っている。その缶の中に吸いさしを投げ入れながら、葉月さんは言った。
「忘れ物でしょ。取ってこようか?」
「あ、いえ、大丈夫です」おれはカートリッジをポケットから出して、葉月さんに渡した。「これ、ポケットの中に入ってて」
おれの手から、小さなカートリッジをつまみ上げると、彼女はおかしそうに笑った。
「これのためにわざわざ?」
「ええと……」
「ありがとう。明日、まとめて返しに行こうと思ってたから、助かったわ」
「返すって、その、亡くなったっていう人のところへ?」
そう尋ねると、葉月さんはうーんと言いながら、何か考えるように首をあっちこっちに傾け、それから答えた。
「蘇芳駅の近くに、〈シェヘラザード〉ってカードショップがあるんだけど、知ってる?」
「カードショップというと、トレーディングカードとかを売ってる」
「そうそう」
おれはうなずいた。行ったことはないが、店を見たことはある。駅のすぐ裏、路地を少し入ったところに、アニメやゲームのポスターがべたべた貼られた店舗があり、ひなびた商店街の中では、けっこう目立っていた。
「あそこの店長と知り合いでね。預かってもらってるんだ。わたしも実家には置いておきたくないし」
「それは、呪われたゲームだから……?」
「呪いっちゃ呪いよねえ。元彼の遺品っていうのは」
オカルトの話をしていると思ったら、急にそんな生々しい単語が出てきたので、おれは意外に感じた。それがわかったのか、葉月さんはくすくすと笑う。子供扱いされているな、と思った。
「部屋で死んでたんだって。病死らしいんだけどさ。心筋
葉月さんの恋人だったなら、まだ若いはずだ。それが病死とは引っかかる。でも葉月さんは妙にあっけらかんとして、不摂生だったから仕方がない、とだけ言った。
その人のことを、葉月さんは「シュウさん」と呼んだ。
「〈シェヘラザード〉の常連だったの。毎週のように来て、大会にも参加していたのに、あるときから来なくなって。店長もおかしいと思ってたみたい。そしたら、家族の人から、死んだっていう連絡が来て」
シュウさんなる人物は、家族に遺言を残していた。自分が持っているゲーム機やソフトを、葉月さんに譲りたい、というのだ。ところが、葉月さんはシュウさんと別れたあと、大学進学のために上京している。仕方がないので〈シェヘラザード〉の店長が預かり、店に置いていた。それが先月のことだという。
そこまで聞いて、おやっと思った。シュウさんが葉月さんと付き合っていた時期、彼女はまだ高校生だったということだ。そして別れてから何年も経って、呪いのゲームが混じっているかもしれないゲームの山を、わざわざ遺品として渡す。行動として、ちょっとおかしい感じがしないでもない。葉月さんにそのことを伝えたら、彼女は両手を広げてのけぞり、ちょっとどころじゃないわー、と言った。
「普通はそんなもの渡さないでしょ。怖い怖い。別れて正解だったよ」
「なのに、そのゲームを遊ぶんですか?」
「そうなんだよ。変だよねえ」
そんなものだろうか、と思った。おれは心の中で、雪広のことを考える。あいつが死んで、おれは変わっただろうか。変わっていなくはない、と思う。だけど、生きている彼と出会ったときほどは、変わっていないようにも思う。
じっと考え込んでいるおれを見て、葉月さんは何か心配したのかもしれない。おれの背中をぽんぽんと叩いて、明るい声を出した。
「晴くんが気にすることないよ。きっとそんな体験は、当分しないから」
「いや……」
もうあるのだ、とは言えなかった。おれが口ごもっていると、葉月さんはおれの顔をじっと見つめて、言った。
「莉久と仲良くしてくれて、ありがとね」
いきなり莉久の話が出るとは思っていなかった。思わず葉月さんの顔を見つめ返す。その表情は穏やかだ。
「正直、心配だったの。わたしがついてなくて大丈夫かな、って。莉久はあんなだから、学校でいじめられるんじゃないかな、とか」
いじめという言葉につい反応してしまう。そうしたら、葉月さんの目元が不安そうにゆがんだ。おれはまずいと思って、取り繕うように答えた。
「平気ですよ、あいつは。かなり浮いてるのは確かですけど……嫌われてはいないです」
「よかった」
葉月さんは、本気でほっとした、というふうに、胸に手を当てた。莉久は変なやつだし、おれだってしょっちゅう戸惑うけれど、あれはあれで受け入れられているほうだ、と思う。
「莉久もね、言ってたよ。晴くんのこと」
「何をですか」
「んー、それはそうね、想像に任せるけど」
引っかかる言い方だったが、葉月さんがやたらとにやにやしているところを見ると、聞かないほうがよさそうだ。おれが黙っていると、葉月さんは残念そうに首を振った。おれは笑った。
それから不意に、葉月さんが言った。
「ねえ、呪いのゲームのこと、もうちょっと知りたくない?」
「もうちょっと、というと」
「実はさ、こっちに戻ってきた大きな理由は、どちらかというと、それを調べることなんだよね」
葉月さんが言うには、元彼の供養だの、遺品整理だのはおまけに近くて、本当は呪いのゲームというフレーズに、とても興味を
「莉久ときみにも手伝ってもらえないかな、って。わたしの見立てじゃ、きみもかなりゲーム好きそうだし」
「いえ、さっきも言いましたけど、おれはゲームは」
「違う違う、きみが言ってるのは、テレビゲームの話でしょ」
その途端、おれはずっと昔、雪広に言われたことを思い出した。ゲームという言葉には、いろいろな意味がある。麻雀やトランプだってゲームだし、サッカーや鬼ごっこだってゲームだ。政治や経済をゲームにたとえる人もいる。ことによっては、この人生さえもゲームだと。
人生はゲーム。おれは無意識に、ストップウォッチを握った。と、それを葉月さんが目ざとく見つける。
「ほら、きみのそれ、気になってたんだよね」おれが何か答える前に、彼女はおれの手からストップウォッチを取り上げる。「これ、何に使うの?」
「何ってことはないですよ。くせっていうか……ほらあの、ハンドスピナーって
「うんうん」
「そんなようなものです。触ってると落ち着くから」
「ふむ」
葉月さんは短くつぶやくと、ストップウォッチをいじくり、何回か動かしたり、止めたりする。好奇心が満たされたのか、葉月さんはにこっとして、おれのほうを向いた。
「わたしはてっきり、きみがこれでゲームをしてるんだと思った」
「ゲーム?」
「たとえばさ、人に何か誘われたとき、どう答えるか自分で決めるんじゃなくて、ルーレットで決めるの。偶数だったら断る、奇数だったら受ける、とかね」
図星を突かれて、おれは動揺する。
「それってゲームになるんですか」
「なるよ。ルールがあって、目標があるなら、それはゲーム。この場合だと、『プレイヤーはルーレットの目に従わなきゃならない』っていうのがルールかな」
「じゃ、目標は?」おれは尋ねた。「ルーレットの目に従うっていうのが目標ですか?」
葉月さんは、ストップウォッチをおれに返しながら、首を横に振った。
「ルールを守るのは当たり前だからね。そうじゃなくて、たとえば『ルーレットの目に従っていることを気づかれないまま、一日過ごしたら勝ち』とか。ゲームが終わる条件を決めていて、かつ、プレイヤーがその状態を目指すようなものがあればいいわけ」
言われたその言葉を、おれは真剣に考える。
「変な話で引き止めちゃったね。時間、大丈夫?」
おれは腕時計を見る。気がつけば、ずいぶんと話し込んでしまっていた。
「電車、まだあるかな。車で送ろうか」
「そこまでしてもらわなくても」おれは言った。「まだ間に合いますし、次の電車もあるので」
乗り遅れたところで、家に帰るのが二、三十分遅れるだけのことだ。たいした問題じゃない。おれは頭を下げて、おざなりに挨拶すると、門を出た。
住宅地の街灯はまばらで、それぞれしょげたような弱々しい光を放ち、黒く湿ったアスファルトを照らしている。おれは、電車の時間なんかより、葉月さんに言われたことで頭がいっぱいだった。
これがゲームだなんて考えもしなかった。単に自分を落ち着かせるためにやっていることだと思っていた。もしそうなら、おれの日常生活はほぼすべてゲームだ。しかし、それはおれにとって珍しい発想ではない。同じことを雪広も言っていた。人生はゲームで、自分たちはそのプレイヤーに過ぎないんだと。
考えていたら、胸の奥がうずくような感じがしてきて、おれは思わずその場で立ち止まった。
もういいだろう、と思って顔を上げた拍子に、おかしなものを見つけた。
おれがいるところから、何個か離れた街灯の明かりのなかに、黒い影のようなものが立っている。最初は人が
目を凝らしても正体がわからない。夜道のそこだけ現実感がなくなっている。このまま駅に向かおうと思えば、あの人影がいるほうへ進まなくてはならない。おれは躊躇した。
すると、まるでそれを察していたかのように、影がふっと消えた。驚いて周囲を見回す。弱々しい街灯の光が並んでいるだけの道。さっきまでいた奇妙な影は、どこにも見えない。
光の当たらない場所に移動したのだろうか。ということは、街灯と街灯の間の暗がりに、まだあれが潜んでいることになる。それはちょっと気味の悪い想像だ。おれは迷いながらも、前に進んでみた。
と、少し離れた場所に、ふたたびその影が現れた。それはさっきと同じように奇妙な動きをしている。おれが歩くと、また影が消え、そして現れる。そんなことが何度か繰り返された。
やがてもっとおかしなことに気づいた。影の現れる位置は必ず、おれのいる位置から、数個分だけ離れた街灯の下だ。それより近づくことも、遠ざかることもない。そして足音もなく移動し続け、ずっとおれの前にいる。
何か嫌なものを感じたおれは、道を変えることにした。角を曲がると、そちらにもやはり街灯はあったが、影のようなものは見えない。おれは思い切って走った。住宅地を抜け、車やバスの走る幹線道路に出たところで、背後を振り返る。
遠くのかすかな街灯の光の中に、やはりその影はいた。先ほどよりも小さかったが、その代わり、形ははっきりと見えるようになっていた。やけに細くアンバランスな肢体を持った、背の高い人間。そいつが、まるで何かを呼んでいるみたいに、しきりに首を伸ばし、手を振っている。そんなふうに見えた。
おれはぞっとして、急いでその場を離れた。あれがなんなのかはわからないが、きっとよくないもののような気がした。
◇
中学に入ってすぐ、自然体験学習というのがあった。一泊二日で八ヶ
けれど、そのときのおれは、自分の班にどんなやつがいるかなんて、まるで興味を持っていなかった。班長がだれだったかさえ覚えていない。おれはただ、その二日間、いかに気配を消して、波風を立てずに過ごすか、ということで頭がいっぱいだった。
みんな中学生になったばかりで、まだ周囲と打ち解けていなかった。だから、たいていは同じ小学校から来た者同士がまとまって、グループを作っていた。でも東京から転校してきたおれには、そんな相手はいない。それどころか、同世代の他人とまともに接することからして数年ぶりだ。おれにとっては恐怖しかなかった。
ほんのちょっとしたことで、また前のようになってしまうのではないか、と思った。自分が〝変〟じゃないか、〝普通〟から外れていないか、そればかり気にした。当たり障りのない挨拶程度の会話でもひどく緊張して、終わるとどっと疲れる。入学式からこっち、おれの毎日はそんなふうだった。
だから、クラスメイトと打ち解けるためのオリエンテーションなんて、はっきり言えば余計なお世話だった。おれに必要なのは安全な居場所、ただそれだけなのに。
両親は何度かおれに、つらかったら休んでもいい、と言ってきた。そのたびにおれはイライラした。入学早々、行事を休んだりしたら、それこそ目立ちすぎる。とてもそんなことはできない。だから、どうなろうとも行くしかなかった。
自然体験学習の当日、おれはとにかく、自分が浮いた存在にならないという、そのことだけを念じながら家を出た。学校に集合してから、移動のためのバスに乗った。そのとき、おれの隣に雪広が座った。
初めて見た雪広は、小柄で、色白で、ぼんやりとした地味な印象の少年だったが、それでいて不思議な存在感があった。たとえるなら、狼の群れに一匹だけ
バスに乗っている間、おれは静かに黙って、いざとなれば寝たふりをしようと思っていた。それなのに雪広は、目を閉じているおれに向かって、かまわず話しかけてきた。
うっとうしいやつだな、と思ったし、気に食わないな、とも思った。こんなふうに他人と親しげに振る舞うやつに限って、だれかをいじめていい空気が出来上がったら、率先してそれに加わる。そういうのをおれはよく見てきた。
「晴はさあ」と、下の名前でなれなれしく呼んでくるところも嫌だった。「ゲームとかってやるの?」
おれは首を振った。やったことはない、ゲームは大嫌いだ、と。すると雪広は目を丸くした。そんなやつがいるのか、と驚いている。
前にも同じことを聞かれたことがあった。そのときは正直に、うちではテレビゲームを禁止されているのだ、と答えた。成績が下がるし、目も悪くなるから、と。するとみんなはおれを哀れんだ。おかしな親に育てられているおかしな子供。そう言ってからかわれた。
しかし、おれの答えを聞いた雪広は、顔をくしゃっとさせて笑った。
「そっかあ、晴は、ぼくとは違うんだね」
今度、おもしろいのを教えてあげるね、と雪広は言った。その言葉を、おれはなんだか、珍しい鳥の鳴き声みたいなつもりで聞いていた。
「雪広は、ゲームが好きなのか」
おれも下の名前で呼んだのは、当てこすりのようなつもりだった。しかし、相手にしないと決めていたのに、気がつけばこちらから話しかけている。雪広は驚いた様子さえ見せず、あたかもずっとおれの質問を待っていたみたいな、そんな自然さで答えた。
「うん。一日中、ずっとやってる。お母さんが帰ってきたら、やめなさい、って言われるけど」
だったら、なんで雪広は笑うのか、と思った。自分の好きなものを大嫌いだと言われたのに、怒ることもあざ笑うこともなく、おれと並んでバスに揺られているのか。自分とは違う人間を前にして、どうしてこんなにへらへらとしていられるのか。
そんな人間を見るのは生まれてはじめてだったから、おれは能勢雪広に興味を持った。
林業体験や牧場見学の間も、それから宿舎に戻って、夕食のカレーを食べているときも、おれはみんなの輪から外れて、ひとりで過ごした。いや、過ごそうとした。けれどそのたびに雪広がやってきて、おれの目論見を妨害した。しまいには
雪広はほとんどひとりで喋った。でもそれは、一方的にまくしたてるというのではなかった。その証拠に、ときどきおれが短く返事をすれば、それがどんなにささいなことでも、あいつは楽しそうに聞いた。
「みんなは、プレステとかスイッチのことを『ゲーム』っていうけど、それって違うんだよ」
「へえ」
「ゲームって言ったら、将棋とかトランプとかもそうだし、じゃんけんとかもそうなんだ。だから本当は『ビデオゲーム』とか『コンピュータゲーム』って言わないといけない」
「そうなんだ」
「お互いにルールを決めて、勝ち負けを競ったら、なんでもゲームになっちゃう」
「たとえば」おれは言った。「こういうのはどうだ。次から『ゲーム』って言葉を使うたびに、罰金百円」
くだらない混ぜっ返しにもかかわらず、雪広は手を叩いて喜んだ。
「そうそう、そういうこと。やっぱり晴はすごいね。ちゃんとわかってくれる」
面と向かってそこまで持ち上げられたら、さすがに照れくさくなってくる。おれはそっぽを向いた。その仕草を、雪広は見逃さなかった。
「あ、笑った」
「笑ってない」
「嘘だ、笑ってる」
そのとき、おれはふと気づいた。これはもしかして、彼なりのゲームだったんじゃないか。同じ班にいた見知らぬ少年を、どうにか笑わせてやる、そんなゲームを遊んでいたんじゃないか、と。そして、そんなおれの想像が正しかったことは、しばらく後になってからわかった。おれと雪広の出会いは、おおよそ、そんなふうだった。
二日間の体験学習を終えても、学校生活に対するおれのスタンスは、基本的には変わらなかった。クラスに馴染むつもりはなく、みんなと親しく付き合う気はなかった――というより、恐ろしくてできなかった。だから心理的な壁を作って、安全を確保しようとした。それはほぼ成功した。おれは大勢に紛れて、透明な生徒になった。褒められることもなければ、けなされることもなく、先生に
思春期の入り口に立った子供たちは、そんな人間を気にかけているほど暇ではなかったようで、おれの存在はみんなから丁重に無視された。ただひとりを除いて。
雪広は、あれからもおれのことをしつこく追い回した。おれが作っていた防壁は、雪広にだけは効果がなかった。かといって雪広は、乱暴に壁を壊したり、穴を空けたりすることもなかった。たとえるなら、雪広は高跳びの選手のようにふわりと壁を越えて、おれのすぐ隣に降り立った。
「晴、お喋りしよう」
それがきまり文句だった。彼のやわらかい声でそう言われると、なんだか、応じなければならないような気分になる。それが不思議ではあった。
最初のうちは抵抗していた。けれど次第に、おれは雪広に話しかけられても拒まなくなった。雪広の話は、たいてい突拍子もなく、非現実的だった。それがよかったのかもしれない。
「神様に三つの願い事を叶えてもらえるとしたら、何にする?」
「願い事?」
「ぼくが神様だと思って、お願いしてごらん」
急にそんなことを言われても、どう答えたらいいか、それ以前に何を聞かれているのかわからない。
「ちょっと考えさせてくれ」
「いいの?」雪広は意地悪く笑う。「その『考えさせて』も一回分だよ」
「厳しすぎるだろ。いいから待てって」
「ほらまた。あとひとつしかない」
おれは口をつぐんだ。不用意な発言ひとつ許されないなんて恐ろしい神様だ。おれは仕返しするつもりで、わざとじっくりと考える。その間、願い事を聞き入れた雪広は、にやにやしながら次の答えを待っている。
そうしてたっぷり五分くらい待たせてから、おれは言った。
「じゃあ、絶対に持ち上げられない石を作って、それを持ち上げてくれ」
答えを聞いた雪広は、はっとした表情でおれの顔を見つめると、満足そうに目を細め、笑った。
「パラドックスだね」
おれはうなずいた。少し前に何かの本で読んだのを、そのままぶつけてみただけだ。全知全能の神様は、持ち上げられない石を作れるのか。作れないなら全知全能じゃないし、石ひとつ持ち上げられないなら、やっぱり全知全能じゃない。
「でも『石を作る』と『持ち上げる』なら願い事ふたつじゃない?」
「
雪広との話はいつもそんな調子で、おかしな理屈だったり、ひねくれたアイディアだったりを出発点として、急に話があっちこっちへ飛んだかと思うと、最後はなんだかぼんやりした感じで打ち切られてしまう。
だからおれは、雪広の話が好きだった。横で聞いているとだんだん自分の足元がなくなっていくような感覚があった。その感覚は、おれが求めているものと同じだった。そのうち、おれは雪広と話すのが楽しみになり、さらには自分から話しかけるようにもなった。それを友達と呼ぶのなら、たぶん、おれと雪広は友達になっていた。だけど、そのときのおれにはそう呼ぶだけの勇気がなかった。
また別の日には、こんな話をした。
「量子将棋っていうのがあるんだ」
「なんだよ、それ」
将棋は知っている。量子という言葉も、昔、時間が有り余っていた頃に子供向けの科学雑誌で読んだからわかる。だが、そのふたつが一緒になると、ぜんぜん想像がつかない。
「ルールは将棋と同じなんだけど、盤上の駒が量子的不確定状態……つまり、なんの駒だか決まってない状態になってるの」
「ランダムに決まるってことか?」
「違うよ、晴。このゲームに関しては、神はサイコロを振らない」
その言葉にも聞き覚えがあった。たしかアインシュタインの言葉だったはずだ。量子の振る舞いが確率によってランダムに決まるという考え方を受け入れがたかったアインシュタインは、そう言って量子論を批判した。自然界の物理法則は、必ず予想可能であるはずだ、と。
「そうじゃなくてね。たとえば、ある駒を右に二マス動かしたとする。そんな動きができる駒は飛車しかないから、その時点でその駒が飛車に確定して、飛車はひとつしかないから、それ以外の自分の駒はどれも飛車じゃないことになる」
「……ややこしそうだな」
「実際、ややこしいよ」
雪広によれば、そのゲームは、いかに自分の駒の可能性を減らさないようにしながら、相手の駒の可能性を削っていくかが鍵なのだそうだ。何しろ、最初はどれが王将なのかも確定していないので、相手を詰ますためには、まず盤上のどれかの駒を王将に確定させなければならない。
「自分の駒の隣に相手の駒が来た時、つい横に動かして取りたくなる。でもそれは
いわば可能性の削り合い。自分の持っている駒については、重要である可能性をなるべく残しながら、相手の持っている駒については、その逆をやる。相手から奪った駒を飛車として動かせば、相手の残りの駒が飛車である可能性は消える。
「人生みたいでしょ」
「言われてみれば」
だが、おれがそう答えた瞬間、雪広はあははと笑った。
「嘘だよ、そんなこと思ってない。なんでもすぐ人生にたとえるのは、悪い大人だけ」
晴は騙されるなよ、と言って、雪広はおれの胸のあたりをぽんと小突いた。おれは深く考えないで返事したことを後悔した。彼はこういう引っかけをよくやった。自分から話を振っておいて、それはでたらめだから信じるなと言う。扱いにくいやつだ、と思った。
だいたい、これほど話すのが好きな性格だというのに、雪広はどういうわけか、おれ以外のクラスメイトにはまったく話しかけることがなかった。そのことが、おれにとっては何より不思議だった。ただ退屈で話し相手を求めているなら、おれよりうってつけの人間はいくらでもいると思う。というより、気の利いた返事もできず、話題を膨らませることもできないおれでは、まるっきり力不足だ。クラスにはおれより頭のいいやつも、おれより愛想がいいやつもいた。それなのになぜ、雪広はおればかり狙うのだろう。
雪広の奇妙なところは、それだけではなかった。
(つづく)
作品紹介
きみはサイコロを振らない
著者 新名 智
定価: 1,815円 (本体1,650円+税)
発売日:2023年05月18日
「呪いのゲーム」はどこにある?――新鋭によるホラーミステリの感動作
――人生なんて、しょせんはゲームだ。
中学時代の友人の死が忘れられず、そんな信条で日々を淡々と過ごす高校生の
「遊ぶと死ぬ」ゲームを探しているという同級生・
大量に残されたゲームをひとつずつ遊んで検証する三人。するといつのまにか晴の日常に突然〈黒い影〉が現れるように――。
〈晴くんって、実はもう呪われてない?〉
呪いのゲームはどこにあるのか? その正体と晴の呪いを解く方法は――。
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