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「人生なんて、しょせんはゲームだ。それを忘れなければ、大丈夫」 『きみはサイコロを振らない』冒頭特別公開#04

5/18発売の新名智さん書き下ろし長編小説『きみはサイコロを振らない』。呪いがじわじわと迫る静かな怖さに加え、友人の死によって心に傷を抱えた少年の成長物語としても評判になっています。ホラー&ミステリ界が注目する新鋭の期待の第3作、発売前に物語の冒頭を特別公開!



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新名智 特設サイト:https://kadobun.jp/special/niina-satoshi/
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322211001529/

『きみはサイコロを振らない』冒頭特別公開#04

 付き合えば付き合うほど、雪広は風変わりな人間だった。真面目なのか不真面目なのか、素直なのかひねくれ者なのかがわからない。性格がつかめないのではなく、性格がない、というほうが適切だった。しかもそれは日によって変わった。
 雪広が、教科書を忘れたという女子に自分の教科書をそのまま渡し、授業中に何も開いていなかったことで先生に叱られたり、給食のデザートに出たプリンを、理由もなく隣の席の男子にくれてやったりするのを見たことがあった。ところが別の日にまたプリンが出ると、風邪で休んでいた子の分をこっそり盗んできてまで食べていた。
 好きな授業と嫌いな授業が日によって入れ替わり、熱心に聞いていたかと思うと翌週には居眠りをしていたり、朝早く来て自習していたかと思うと肝心の授業中はどこかへ消えてしまったりする。美術の時間、途中まできれいに完成させていた絵を、最後の仕上げでめちゃくちゃにしてしまったこともあった。先生に心配されてもへらへらして、これでいいです、などと言っている。わけがわからなかった。
 問題児というわけではない。それぞれの場面だけ見れば、雪広は普通のありふれた子供だ。優等生もいれば怠け者もいる。お人好しもいればずるいやつもいる。そういう意味で雪広の行動はどれも〝普通〟の範疇はんちゆうだった。ところが、足し合わせると徐々に破綻はたんしてくる。
 一学期の終わりに、とうとう我慢ができなくなって、おれは雪広に尋ねた。
「いったい、おまえはなんなんだ?」
 期末テストが近づいた時期の放課後だった。部活動もなく、ほとんどの生徒は試験勉強のためにさっさと帰宅してしまったので、校舎はしんと静まり返っていた。おれと雪広だけがどういうわけか居残っていたのだが、理由はよく覚えていない。
「なんなんだって、何が?」
 雪広はうそぶいた。彼のおかしさに気づいている人は、他にいなかったんじゃないかと思う。このことに気づくためにはずっと彼を観察していなければならず、雪広のことをずっと観察しているのは、クラスでもおれくらいだったからだ。
「いろいろなことがだよ。同じことを、好きって言ったり嫌いって言ったり。得意だって言ったり苦手だって言ったり」
「逆に聞くけど、どうしてそれじゃいけないの?」
 こういう質問をいつかされると予想していたのだろう。雪広はよどみなく答えた。
「日によって晴れてたり、雨が降ってたりしても、おかしいと思わないよね。人間の性格だってそれと同じでいいと思うんだけど」
「じゃあ……雪広は、わざとやってるのか」
「もちろん」
 おれはあきれた。と同時に、やや安心した。彼の行動がどんなに支離滅裂に見えたとしても、それは意図したものだということだ。
 そして、雪広は言った。
「これは、そう、ゲームなんだよ」
「毎日、違う人間になることが?」
「そう。だって楽しいじゃない。服を着替えるみたいに、性格を変えられたら」
 おれは首を振った。理屈ではわかっても、なかなか納得できる考え方じゃない。だいたい、どうやってやるというのだ。
「簡単だよ。そういうルールの遊びだと思えばいい。人生なんて、しょせんはゲームだ。それを忘れなければ、大丈夫」
「だったら、こうやっておれと話してるのも、雪広にとってはゲームか」
「かもしれない。楽しいよ、とても」
 その言葉は、なんだか挑発のように聞こえて、おれはつい口走った。
「おれは楽しくない」
 すると、さっきまでにこにこしていた雪広は不意に驚いた顔になり、黙ってうつむいた。そんな彼の反応を見て、おれは後悔した。
「……ごめん」
「え、何が」
 突然、謝ったおれを見て、雪広は戸惑ったような目をする。
「なんでもない」
 と、おれは答えた。ひどく混乱していて、口に出すのはそれが精一杯だった。自分が雪広をどうしたいのかも、雪広にどうしてほしいのかもわからない。おれは何も言わず、ただ逃げるように駆け出した。雪広が後ろでおれの名前を呼んでいたけれど、おれは無視した。
 渡り廊下を駆け抜け、角を曲がり、階段の横の用具入れの前まで来たところで、おれは足を止めた。そこは校舎のもっとも端にあって、引っ込んだ位置にあるスペースなので、だれかに見つかるおそれはなかった。おれはそこに座り込んで、顔を伏せた。
 まるであの頃みたいだ、と思った。この街へ来る前、まだ東京に住んでいて、おれが小学生だった頃のこと。
 おれは、普通の子供になりたくて、自分ではなれていたつもりだった。でも、なれていなかった。焦れば焦るほどおれは周囲からだんだんとずれていき、ついに修復できなくなった。クラスの全員から無視され、おれはいないものにされた。
 教室に入るだけで胸がむかつき、吐きそうになった。だれも自分を大切だと思っていない場所に、ひとりでいるというのは、たとえるなら、天井から剣がるされている部屋にじっと座っているようなものだ。
 自分が感じているこの恐怖を、同じ教室にいる他のだれも感じていないというのが不思議でならなかった。おれ以外のみんなが持っているのに、おれにだけはない。普通とは、おれにとってそういうものだった。
「ここにいたんだ」
 突然、人の声がして、おれは飛び上がるくらいに驚いた。こんな場所には、だれも来ないと思っていたから、余計にだ。飛び上がった勢いで、用具入れのドアノブに頭をぶつけた。そんなおれの動きを見て、あちらもびっくりしたらしく、何歩か後ずさりした。
 雪広は、おれを気遣うように、そっと声をかけてきた。
「大丈夫?」
「ああ、えっと、うん」
 おれはぶつけた部分をさすりながら答えた。幸い、血は出ていないようだ。
 何しに来たんだよ、か、なぜここがわかった、か。どちらの言葉をぶつけようか迷っているうちに、雪広はさっさとおれの隣へ腰を下ろした。
「晴もこの場所、知ってたんだ」
「この場所って……何かあるのか?」
「いや、何もないから」
 雪広は、謎掛けのようなことをつぶやいた。
「ここは教室から遠くて静かだし、だれにも見つからない。それでときどき、授業を抜け出してここへ来るんだ」
 おれは、雪広がよく勝手に授業を休んでいることを思い出した。どこへ消えているのか不思議だったけど、こんな場所に隠れていたとは知らなかった。
 雪広もおれも、しばらく何も話さなかった。ただ黙って、廊下の窓から差し込む光と、その中で反射しながら漂っているほこりの粒を見つめていた。雪広の言う通り、本当に静かな場所だった。かすかに聞こえてくるだれかの話し声や、外の道路を走る車の音などに耳をすます。まるで、学校の中でここだけが切り取られて忘れられてしまったような、不思議な感覚になった。
 やがて、雪広が言った。
「疲れるんだよね」
 なんのことだかわからず、おれが聞き返すと、雪広はためらいがちに続けた。
「頭の奥でずっとだれかが喋っているような感じがする。その声を聞いていると、だんだん疲れてくるんだ。何かに集中していないと、苦しくなってくる。こうして座っていることさえできない」
 雪広はたぶん、自分の悩みを話してくれているのだ、と思った。でも、その悩みはおれにとっては異質すぎて、残念ながら、すべて理解することはできなかった。
「だからゲームをやってる。毎日、違う人間になって、そのことだけに集中していたら、ちょっとはましになるから」
「……よく、わからない」
「雪山で遭難した人は、眠くならないようにずっと話をしてるっていうでしょ。それと一緒」
 とにかく、おれがどうにかみ込めたのは、雪広には何かそういうつらさがあって、それを紛らわせるために、彼なりのゲームをやっている、ということだけだった。おれはため息をついた。
「じゃあ、雪広がおれと話すのも、ただ眠くならないためか」
「そうだね」
 雪広はそう言って、でも、と付け加えた。
「眠くならないために喋るって難しいんだよ。退屈な相手と話してたら寝ちゃうし」
 雪広は、おれのほうを向いて笑った。
「頭の中の声が聞こえなくなるくらい、真剣に喋りたいんだ。こいつには何を言ったら響くんだろうって、本気で考えないとわからない相手が、ずっと欲しかった」
「それが、おれ?」
「それが晴」
 いきなり、雪広はおれの肩に、親しげに腕を回してきた。そんな行為になれていなかったおれは、思わず体をこわばらせる。けど、雪広は気にした様子もない。
「やっぱり楽しいよ、晴は」
 楽しい、という言葉をどう受け取ったらいいのかわからなかった。とりあえず、おれは雪広に合わせて笑った。でも、うまく笑えない。雪広は、おれの肩に回していたほうの手で、おれの髪に触れようとする。と、その指先が、ちょうどさっきドアノブにぶつけたところへ当たった。
「いてっ」
 反射的に目をつぶる。
「あ、ごめん」
 謝る雪広の声が、すぐそばで聞こえた。痛みを気にしながらそっと目を開ける。にじんだ視界の向こうに雪広の顔がある。恥ずかしい。おれは顔を背けようとして動かす。その拍子に涙がこぼれた。みっともなくて、止めたいのに、なぜか止まらなかった。
 とにかく、おれと雪広は、そうやって出会った。

   ◇

 次の日の昼休み、また莉久と出くわした。今日は中庭ではなく教室の席で、もそもそとチョココロネを食べている。昨日と違って、おれはもう自分の弁当を食べ終えていたから、手ぶらで彼女の向かいの席に座った。莉久はおれが来たことに気づくと、すぐさま自分のスマートフォンを取り出し、くだらないことを書いては送りつけてくる。こいつがいつも菓子パンしか食べないのは、片手でメッセージを打てるようにするためなのかもしれない、と思った。
 こういうときのくだらないことというのは、だいたいの場合、食べ物の話だ。前に莉久がメロンパンを食べていたときには、上のクッキー生地が生焼けでベタベタしているようなメロンパンを許せるかどうか、という議論になった。
 今日のテーマは、チョココロネの食べ方についてだ。おれは、チョココロネは細いほうから食べるのが好きだ。ところが莉久は、必ず太いほうから食べるのだという。
「太いほうから食べたら、最後はチョコが足りなくなるじゃないか」
 おれはそう指摘した。現に、莉久が手に持っているチョココロネのしっぽ部分は、ほとんどパン生地だけになっている。しかし、莉久は首を振った。
〈先のことばかり考えてると、つまらない人間になっちゃうよ。今を楽しまないと〉
 パンの食べ方ひとつでそこまで言われるとは思わなかった。勝手にしろ、とおれは答えた。莉久はパンの残った部分を口に放り込んで、また次のメッセージを打ち始める。
〈昨日の呪いのゲームのことなんだけど〉
 てっきり、もう少しパンの話題が続くと思っていたので、おれは面食らった。
〈晴くん、あのあと、はーちゃんに誘われてたでしょ〉
 はーちゃんというのは葉月さんのことか。おれは昨日の夜のことを思い出した。誘われたというのは、たぶん、呪いのゲームの調査を、一緒にしないかと言われたことだろう。そういえば、結局あのときは返事をせず、そのまま帰ってきてしまった。
「莉久はやるのか、葉月さんの手伝い」
〈友達だからね〉
「呪いで死ぬかもしれないのに?」
〈人はいつか死ぬよ〉
 まるで討ち入り前の侍みたいなメンタリティだ。それほどまでに葉月さんのことが好きなのか、呪いというものをまったく信じていないのか、あるいはその両方か。
 もちろんおれだって、呪いのゲームなどと言われても、すぐには信じる気になれない。だから昨日、家に帰って、本当にそんな噂話があるのか、ネットで検索してみた。呪いのゲームを題材にしたフィクションはたくさん見つかった。ゲームや漫画やアニメなどでは人気の題材なのだろうが、実際にそれを遊んだとか、手に入れたとかいう話はいったいどれほどあるものだろうか。
 莉久にそう伝えると、彼女はうなずいた。莉久も検索してみたそうだ。どうも考えることは同じらしい。しかしながら、おれよりも莉久のほうが、ネット上での情報収集にけていた。
〈呪いのゲームの噂を探したら、こんなにあった〉
 という一言の下に、ものすごい量のリンクが貼られたメッセージが届く。全部は無理だがいくつかをタップして、中身を見た。個人のブログだったり、SNSの投稿だったり、掲示板の切り抜きだったりするが、どれも「呪いのゲームを遊んだ」とか「遊んでいた知り合いが亡くなった」とか、そういう意味のことが書かれているみたいだった。
「これが、葉月さんが探しているゲームなのか?」
 おれが言うと、莉久は不満そうな顔をして、おれが見ている画面を指でとんとんと叩いた。もっとよく読め、ということらしい。
 続きを読んでいくと、莉久が指摘した意味がわかった。たしかに、どの記事にも呪いのゲームのことが書かれている。しかし、どんなものを指して呪いのゲームと呼んでいるのかが、それぞれ異なっていた。ネット上でダウンロードしたゲームが呪われていた、という人もいれば、家にあった古いテレビゲームが呪いのゲームだった、という人もいる。さらに呪いのボードゲームとか、呪いのカードゲームとか、呪いのドンジャラとかの話も混ざっている。
「なんだこれ。どれも違うゲームの話じゃないか」
 おれが文句を言うと、莉久はにやっとしてみせる。なるほど、呪いにおびえていないわけだ、と思った。莉久や葉月さんのようなゲーム好きの人間からしたら、遊ぶと死ぬ呪いのゲームなんてものはありふれた与太話に過ぎず、そこでいちいち怖がったりしないということか。
「それにしても、ずいぶん集めたな」
 おれは莉久のこしらえたリストをあらためて見た。これが本当なら、この世は呪われたゲームだらけだ。そして、多すぎるのは呪いのほうだろうか、それともゲームのほうだろうか、と思った。ひょっとしたら、世界には人間と同じ数だけゲームがあるのかもしれない。それに呪いも。
 ふと視線を上げたら、莉久がおれの顔をじっと見つめていた。
「なんだよ」
 彼女は唇の動きで、行く、行かない、と言いながら両手の人差し指を立てる。それから、二本の指をぐっとこちらに近づけてくる。葉月さんの調査についていくかどうか、という質問のようだった。
 ポケットに手を突っ込んで、いつものストップウォッチを取り出す。結果は二。否定だ。
 おれは自分の指を出して、莉久の二本の指のうち、行かない、のほうの指を軽く触った。莉久は意外そうにその指を見た。おれは言った。
「役に立てないよ。おれはゲームのことも、呪いのことも知らないし」
 決めたのはランダムな数字でも、理由は本心だ。世の中のほとんどのことが、実はそうなんじゃないかと思っている。その選択肢を選ぶ理由も、選ばない理由もそれぞれにあって、自分の意志で決めるのも、ランダムに決めるのも、本当はあまり変わらないんじゃないかと。
 人生がゲームだとしたら、ずいぶんぬるいゲームだ。正解はたくさんあって、不正解はない。もしくはすべて不正解で、選ぶ価値のあるものはない。
 おれの返事を聞いた莉久は、一瞬だけ不満げに顔をしかめたけど、すぐまたいつもの無表情に戻って、食べ終わったパンの袋を片付け始めた。莉久が他人に何かを強要することは――それ以前に、他人に何かを頼んでいることすらほとんどないのだけど――なかった。おれが嫌だと言えば、それまでの話だ。
 莉久は、おれに軽く手を振ってから、教室を出ていく。午後の授業は習熟度別で、おれと莉久は別のクラスだ。おれは自分の席には戻らず、莉久に送ってもらったリンクを眺めていた。呪いのゲーム。やはり気にはなる。
 記事をひとつずつ見ていくうち、莉久の集めたエピソードには典型的なパターンがいくつかあると気づいた。まず、怪奇現象は必ずゲームをプレイしている最中に起きる。これはまあ、呪いのゲームについての話なのだから当然だ。プレイを中止すると現象も止まる。これもわかる。
 そして「呪い」という以上、人の死がついてまわる。そのゲームを遊んだ人間は死ぬ。が、遊んだ瞬間に全員が死ぬというのでもない。これが不思議なところだ。もっと不思議なのは、往々にしてそこには回避手段が存在しているってことだ。一番シンプルなのは、ゲームを最後までプレイすれば死ななくて済むというもの。逆に、長く遊んではいけないというパターンもあり、こちらは破壊したり処分したりして、プレイ不能にすれば助かるケースが多い。共通しているのは、ゲーム自体を終わらせれば呪いが解けるらしいってことくらいか。
 似たような話を、葉月さんもしていた。呪いというのは、本当は体験者が生きて広めてくれることを期待しており、情報を拡散するメリットとして、秘密の知識がセットになっているのだと。だから無警告で殺されるのではなく、脱出ボタンがあらかじめ用意されている。
 おれは無意識に、ストップウォッチのボタンを何度も押している。五、〇、八、一。
 これがゲームだと葉月さんに言われた。自分では、そう思ったことはない。このくせが、いつから身についたのか、まるで覚えていなかった。このストップウォッチだって、百円ショップの品物だということは覚えているが、いつどうやって買ったのかは忘れた。こんなちゃちな作りでいまだに壊れてないということは、おそらく最近のはず。
 無意識の習慣が、気づけばゲームになる。そんなことってあるだろうか。ぼんやり考えながら、窓の外に視線をやった。
 窓の向こうを、人間のような何かが落ちていった。
 おれは反射的に椅子を引いた。ガタンという大きな音が響き、教室にいた生徒たちが、一斉におれのほうを振り返る。少し恥ずかしくなったおれは、その場で軽くのびをした。体の疲れをほぐそうとして、うっかり椅子が動いてしまったみたいに。そして、視線がなくなったのを見計らってから、窓に近づき、下を見た。
 地面に黒い塊がこびりついている。
 ここは三階建て校舎の二階だ。その窓を横切ったのだから、あれは三階か、その上から落ちてきたということになる。落ちていくときは人間のように見えたが、地面にへばりついているものは形を失っていて、液状になったゴムのように見える。周囲には着地の衝撃で飛び散ったのか、何やら繊維質のものがばらまかれていた。その姿は、浜辺に打ち上げられた怪しい生物を思わせた。
 おれはトイレにでも行くようなふりをして教室を出ると、階段を降りて、渡り廊下から、あの物体がある位置を見てみた。黒い影に似た物体はあいかわらず地面にこびりついている。それにしても、あんなものが落ちてきたというのに、まるで騒ぎになっている様子がない。
「志崎、こんなところで何をしてるんだ」振り返ると、担任の数学教師だった。「もうすぐ午後の授業だろ」
 日焼けした顔の先生は、わかってるよな、という顔で笑っている。次のおれの授業は、彼の受け持ちだった。おれは指を伸ばして、物体のあるほうに向ける。
「あそこに何か落ちてきたんですけど」
「何が、どこから」
「いや……何かはわからないんですが、校舎の三階から」
 そう言って、おれは物体のほうを見る。しかし、さっきまで地面にあったはずの黒い物体は、いつの間にか消えている。あれっ、とおれは声に出して言った。それを聞いて、先生はまた笑った。
「ここの三階ってたしかあれだな、三の四のホームルーム教室だろ」
「そうなんですか」
「前にも、掃除中にバケツを落とした阿呆あほがいたからな。下を通るときは気をつけろ」
 と言って、先生は廊下を歩いていく。おれはまた、さっきの物体があったあたりを見てみた。地面にべったりと広がっていた黒い物体は、きれいになくなっている。そのまま視線を上に移動させる。二階の窓は閉まっている。そして三階の窓も――すべて閉まっている。じゃあ、どこから落ちてきたのだろう。自然な流れで、すっと上に目をやる。
 屋上にいた何かと目が合う。
 いや、目が合ったと思っただけだ。顔はない。真っ黒くて背の高い何かが、屋上に立っている。そして、そいつがおれを見ているような気がする。おれはひゅっと息を呑んだ。おそらく一瞬のことだが、まるで数十秒そうしていた気がした。
「おい志崎!」
 廊下の端から、先生が大声で話しかけてきた。おれは反射的にそちらを見て、また屋上に視線を戻す。だがそこにいた黒いものはもういなくなっている。
「おれより後ろから来るってことは、遅刻ってことだぞ」
 そう言われ、おれは小走りで校舎に戻った。どのみち、その場所にはもういたくなかった。

(つづく)

作品紹介



きみはサイコロを振らない
著者 新名 智
定価: 1,815円 (本体1,650円+税)
発売日:2023年05月18日

「呪いのゲーム」はどこにある?――新鋭によるホラーミステリの感動作
――人生なんて、しょせんはゲームだ。
中学時代の友人の死が忘れられず、そんな信条で日々を淡々と過ごす高校生の志崎しざきはる
「遊ぶと死ぬ」ゲームを探しているという同級生・莉久りくに頼まれ、彼女と、呪いの研究をしている大学院生・葉月はづきと共に、不審な死を遂げたゲーマー男性の遺品を調べることに。
大量に残されたゲームをひとつずつ遊んで検証する三人。するといつのまにか晴の日常に突然〈黒い影〉が現れるように――。
〈晴くんって、実はもう呪われてない?〉
呪いのゲームはどこにあるのか? その正体と晴の呪いを解く方法は――。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322211001529/
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