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試し読み

【試し読み】あの子はときには、我々に見えぬものまで見えているのだ。蝉谷めぐ実『見えるか保己一』第一章を特別公開!(3/4)

2020年に小説 野性時代新人賞を受賞したデビュー作『化け者心中』以来、次々に話題作を上梓してきた蝉谷めぐ実さん。その蝉谷さんの約1年半ぶりの新作『見えるか保己一』が、「小説 野性時代」特別編集 2025年冬号にて、完結しました!

カドブンではこれを記念し、2026年3月予定の単行本刊行に先んじて、冒頭の第一章を全4回に亘り、特別公開いたします!

本作は江戸時代の全盲の天才学者、塙保己一を中心に、「目が見える世界」と「目が見えない世界」を描いた意欲作。唯一無二の文体で、視覚以外の「四感」で捉える世界に挑みます。さらに、蝉谷さんが歌舞伎以外を題材に臨んだ初の長編作品です。

なんと早くも書評家・大矢博子さんからの推薦コメントが到着!

どうしよう、すごいものを読んでしまった。
これは塙保己一の偉人伝ではない。分断の物語だ。決して超えられない川の両岸に立つ者たちの、叫びと足掻きの物語だ。
この先何年経っても、「蝉谷めぐ実の、あの一冊」と呼ばれるに違いない。

大注目の著者の新境地であり、大本命! この春、間違いなく話題となる一作を、いちはやくチェックしてみませんか?

※現在では不適切と思われる表記がありますが、本作の時代設定およびテーマを考慮したうえで、掲載しています。

蝉谷めぐ実『見えるか保己一』試し読み(3/4)

 目隠し騒ぎから十と十の日が経たぬうちに、辰之助は高熱を出した。体のどこもかしこも燃えたようになって、口からも尻からもしゃばしゃばのものがいくらでも流れ出たけれど、熱は全く出てゆかぬ。辰之助は焦げたと思った。数日が過ぎて床から起きたが、ほうら、やっぱり目の内が黒く焦げ付いている。すぐさませんせのところへ行くと、せんせは首を横に振って、辰之助に高直そうな木の棒をくれた。せんせが言うには棒ではなく杖らしい。でも、おっ母はそれを杖ではなく棒と言う。
 ある日、おっ母は蚕の世話をやめた。夜半、夜目がきかぬ辰之助が棒を使ってかわやへ行く途中、おっ母がおっ父に湿った怒鳴り声をぶつけているのを聞いた。喉の中にずぶ濡れの子鼠でもいるのか、おっ母の言葉はぶるぶるしていて、あんまりよく聞き取れぬ。でも、辰之助の耳は一つをなんとか拾い上げる。
「祟りです。お前様が、あのような、蚕なんぞを生業にしているから」
 なしておっ母は蚕が嫌いになったのだろう。これまではあんなに大事に育てて、めーを湯掻いていたのに。すると、目隠し騒ぎで地団駄を踏んでいたおっ母のふとももの白さが頭に浮かんで消えて、思い付く。そうだ、おっ母は辰之助の目が悪いことがどうしても絶対嫌だった。ならば、もしかしておっ母は、蚕が目が見えぬから嫌いになってしまったのだろうか。
 そいじゃあ、辰之助は?
 辰之助は怖くなって廁に行けなくなって、掻巻の中で寝小便を垂れたが、おっ母は何も言わなかった。
 辰之助の目は今やもう、見えるところよりも見えぬところの方が多いし、辰之助はもう分かるよりも分からんことの方が多かった。
 一本と答えて乗り切れていた朝も、今日は指の本数より腕を上げたのが見えなかった。おっ母がどてらを着せてくれて、ようやくせんせのところへ行くのだと分かる。でもおっ母の背中がどこにあるかが分からん。わらじをはけぬ。誰がはかしてくれているのか分からん。おっ父か。じゃあ、辰之助のことを抱きしめているこの腕もおっ父か。でも、おっ父が喉をひくひくさせている意味が分からん!
 できぬ尽くしと分からん尽くしで、辰之助はべそをかきそうになったが、唇をきゅっと噛んでたえた。辰之助はおっ母のためなら分かりたかった、できたかった。そいつをおっ母に見せてあげられるのは今ここ、山中、足を進めるおっ母の背中の上でだけだ。
 辰之助はありったけの力を込めて、周りへと目を凝らしてみた。でもやっぱり焦げが目の内を覆い尽くしていて、仕方がねえから思い出してみることにした。先の鼬のような違え方は絶対にしめえ。額をおっ母の背骨が突き出たところにぎゅうぎゅう押し付けながら、頭を巡らす。
 何がいいかな、頭に色々を思い浮かべる。蕨か草苺か。それとも瑠璃星天牛か梅桃。烏野豌豆にあげはちように、おっ母の鼻、は、いってえどこから現れた。蒲公英、燕、おっ母の耳たぶ、は、いいってば。すみれ、おっ父の顔、黄金虫、おっ母の唇、おなもみ、おっ母の眉毛。おっ母の顔。
 辰之助は顔を上げた。真っ暗だった。何も見えなかった。何もだ。何も。怖くて怖くてたまらなくって、洟水が出て小便が垂れそうになったけど、でもおっ母の背中だけは家の火鉢みたいに熱くって、汗の匂いがつんとするから、口を動かさねばと思った。
「おっ母、風が、風がびょうびょう鳴ってるよ」
「辰之助?」とおっ母の声がする。
「おっ母、梅の匂いがするよ。甘くていい匂いだよ」
「……辰之助」とおっ母の声がする。
「おっ母ってば汚ないねえ。おっ母の首んところから垢ん子がぽろぽろ落ちるよ」
 おっ母の声が聞こえてこなくって、
「おっ母、怖え」
 辰之助は顔面ぜんぶをおっ母のどこかに擦り付けて、
「おっ母、何も見えん!!」
 目ぶたを閉じても開いても光はどこにもなくって、でもさっきまでたしかにあったのだから、どこかには絶対にあるはずで、辰之助は手と足をめちゃめちゃに動かした。そうすりゃあ、指のささくれにでも、足の爪の端っこにでも引っかかってくれると思った。でも辰之助の指の爪はやらかいものを引っ掻いて指先がぬれるばかりで、お尻の下の支えがなくなって、辰之助は尻から落っこちた。尻が痛くておんおん泣きながら、辰之助は真っ暗の世界に生まれ落ちたのだと思った。そしたら、辰之助は赤ちゃんで、赤ちゃんはもう寺子屋には行けん。
 おっ母が山犬の遠吠えの如く何かを叫んでいる。おっ母の声と己の声が耳の近くで混ざってぐちゃって、辰之助の目の前が真っ白になった。でも、たぶんこれは光じゃない。
 
 目が覚めると、遠くの方で人の話している声がした。体を起こそうとして、あっといけねえ。目をくにょくにょと擦りながら起き上がると、声が一気にすんと聞こえなくなる。目の内はいまだ焦げたままなのだから、声を出してもらわにゃ誰がいるのか分からないのに。
「薬はどこ」と辰之助は大きな声を出す。「早う飲まんといけん」
 するとまた、声が桑畑の真ん中に立っているかのようにざわざわとし始める。
「ああ、かわいそうに」「きよさん、気を落としちゃいけないよ」「急に良くなることだってあるんだからさ」
 ここにはそんなにたくさんお人がおったのか。ちょっぴり尻で退った。すると、辰之助の膝小僧がそっと撫でられ、
「もう飲まなくていいの」
 おっ母の声はずいぶん近くで聞こえた。「代わりに水飴の溶いたのをあげましょうね」
 おっ母の声は優しいけれど、ふやかしすぎた蜂の子みたいにぶよぶよとしている。
「でも、薬を飲まんとこの暗いのは治らんよぉ」
 そう答えると、うっとおっ母がいきなり喉を詰まらせるもんだから、辰之助は思わず笑ってしまう。だっておっ母、変な声。
「ありゃあ苦かったろう。もう飲まないでいいんだよ」
 野太い声が耳たぶを叩いて、びくりとした。おっ父がいるとは気づかなんだ。おこさまの世話よりも辰之助のそばにいてくれたことがうれしくて、でも、飲んだことがないくせにとも思った。暗いのの怖さも分からぬくせに。
「心配しなくてもいいよ辰之助。おっ母がこれからずっとお前のそばにおる。辰之助のしたいことはおっ母がぜんぶしてあげるから」
 おっ母がまたぶよぶよの声を出す。そいつは辰之助の好きな声じゃない。辰之助の手に棒を持たせながら「杖の練習もしようね」と言ってくるのもなんだか腹が立つ。
「薬が飲みたい」と辰之助はわめいた。「薬が飲みたい。どこにあるの」
 その場で大の字になって、やたらめったら腕と足を動かした。すると、足に何かが当たる。がしゃんと音が響き渡って、痛みで潤んだ鼻の奥に漢方の匂いがぷんと伝わる。
「おっ母、見つけた! これを煎じて飲まなくちゃ」
 起き上がって叫ぶ辰之助に「飲まなくていいの」と言ってくるおっ母の強張った声も好きじゃない。辰之助は言い返す。
「いやだ、飲むんじゃ!」
「だって、辰之助は薬を煎じることができないじゃない!」
 おっ母は泣くのを我慢しているような声をしていた。もしかしたら本当に泣いているのかも? でも、それが辰之助には分からない。誰が今洟水をすすったの、誰が今ため息を吐いたの、辰之助には分からない。でも、
「辰之助にもできらい!」
 でも、分かるものが辰之助にはちゃんとある。
「まずはきょうにんだ。あんずの種をすり鉢ですり潰す。これに蚕の糞ととうごまの油を混ぜ込み、ちちじるに浸して三日置く。きぬぶくろでこしてから目にさしておやりなさい。梅干しの肉といかぼねをむらした汁は、目ぶたが熱を持ったときだけ溶き入れること。梅干しはひとさじ、いかは三さじだ。かんすいせき、ろかんせき、りゅうのう、おうれんを白みつでねったねり薬は日持ちがするから、あとで私がこさえておこう。だが、これをさゆで溶くのを忘れてはいけないよ。しかも二度しゃふつしてからゆっくり冷ましたさゆがいい。めんそうふでを浸してふでさきを目尻に入れる。まわたに染み込ませ、それで目の上から押さえるのでもいい」
「どうして」
 呟いたおっ母の声は小さくて、でも新芽が種を割る音にも似ている。
「見えているの辰之助」
 辰之助は首を振った。振りながら、なるほどと思った。目が見えぬ間はこうやって、声の出所までの間合いをはかればいいのか。そうしているうちにまた、ざわざわが始まる。
「辰坊、良かった。お前、目がちっとは見えているんだね」「え、見えてねえ? 壁に貼ってあるのを読み上げたわけじゃねえのか」「そんなら、今の長えのが辰坊の頭に入ってるって言うのかい」「普段から煎じ方を唱えていたのか」「ちげえのか。辰之助には漢字が読めねえ。聞いたのはせんせのところで一度きり?」「そんならやっぱり辰之助は今のを一時で」
 ざわざわとみんなが桑畑の葉になると、辰之助には誰が何を言っているのか分からぬようになる。だから、辰之助は大きな声で言う。
「覚えるのなんざ簡単だよ」
 てるちゃんや茂吉たちと遊ぶのにも使ったぐらいだもの。
「……あの遊びでお前は勝っていたの?」
「そうだよそうだよ。辰之助の一人勝ちじゃ」
「どうやって」
「なに言ってるのおっ母。おっ母が辰之助に夜寝る前に、軍記を読んでくれたじゃないか」
 辰之助が答えると、
「そう」と、おっ母の声がずいぶん近くで聞こえる。
「そう」と、もういっぺん聞こえたおっ母の声からは、ほんの少し血の匂いがした。
「そうなのね。辰之助は風の音も聞こえていたし、菊の匂いも嗅いでいたし、感触りもあったのね」
 ねえ、おっ母、唇がたぶん切れてるよ。
 辰之助は今、目が見えておらぬから、そちらに向かってゆっくり手を伸ばした。すると、その手をぎゅうと握りしめられる。
「なんでもいいよ。なんでもいいからおっ母に薬の煎じ方以外のものを聞かせておくれ」
 辰之助はちょいとばかし恥ずかしくってもじもじと尻を動かしてから、口を開く。
「もうひそかに古今の変化を探つて、あんきのしょゆうをみるに、くつがえつて外なきは天の徳なり。明君これにていして国家を保つ。のせてすつることなきは地の道なり。良臣これに則つてしゃしょくをまもる。もしその徳欠くるときは。位ありといえどもたもたず。いわゆるかのけつはなんそうに走り、いんのちゅうはぼくやに敗る。その道たがふときは、いありといえども保たず」
 おっ母の手にぐんと引っ張られて、辰之助は口を閉じる。
「辰之助、今からおっ母と一緒に寺子屋へ行きましょう」
 おっ母の口から、新芽の匂いがした気がした。

(第4回は12月29日(月)正午に配信予定。お楽しみに!)

作品紹介

書名:見えるか保己一
著者:蝉谷めぐ実
発売日:3月中旬予定

江戸時代、国内最大の叢書『群書類従』の編纂に生涯を懸けた、盲目の天才学者・塙保己一。前代未聞の偉業を成し遂げた彼に、世界はどう「見えて」いたのか。何が「見えて」いなかったのか――。「目が見える世界」と「目が見えない世界」を濃密に描き切る俊英の新境地!

本作の詳細な情報は、KADOKAWA文芸編集部のXアカウント(@kadokawashoseki)等で追って発表予定です。ハッシュタグ「#見えるか保己一」をつけて投稿しますので、今後の続報にご期待ください。


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