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試し読み

【試し読み】「どうしよう、すごいものを読んでしまった」書評家・大矢博子氏絶賛! 蝉谷めぐ実『見えるか保己一』第一章を特別公開(2/4)

2020年に小説 野性時代新人賞を受賞したデビュー作『化け者心中』以来、次々に話題作を上梓してきた蝉谷めぐ実さん。その蝉谷さんの約1年半ぶりの新作『見えるか保己一』が、「小説 野性時代」特別編集 2025年冬号にて、完結しました!

カドブンではこれを記念し、2026年3月予定の単行本刊行に先んじて、冒頭の第一章を全4回に亘り、特別公開いたします!

本作は江戸時代の全盲の天才学者、塙保己一を中心に、「目が見える世界」と「目が見えない世界」を描いた意欲作。唯一無二の文体で、視覚以外の「四感」で捉える世界に挑みます。さらに、蝉谷さんが歌舞伎以外を題材に臨んだ初の長編作品です。

なんと早くも書評家・大矢博子さんからの推薦コメントが到着!

どうしよう、すごいものを読んでしまった。
これは塙保己一の偉人伝ではない。分断の物語だ。決して超えられない川の両岸に立つ者たちの、叫びと足掻きの物語だ。
この先何年経っても、「蝉谷めぐ実の、あの一冊」と呼ばれるに違いない。

大注目の著者の新境地であり、大本命! この春、間違いなく話題となる一作を、いちはやくチェックしてみませんか?

※現在では不適切と思われる表記がありますが、本作の時代設定およびテーマを考慮したうえで、掲載しています。

蝉谷めぐ実『見えるか保己一』試し読み(2/4)

「見えるか辰之助」
 聞かれて、首をぶるぶると横に振りながら答える。
「ううん、まったく見えね」
 目隠しに使っている手拭いは、台所にあるのを持ってきた。擦り切れて薄くなっていたからちょいとそわそわしたけれど、巻いてみると大丈夫。きちんと何も見えなかった。まぶたの裏を赤くするお天道様の居所は知れるが、みんなの居所はとんと分からぬ。そいじゃあええ、そいじゃあええ、と聞こえてくる声も入り混じっていて、どこに誰がいるのかさっぱりだ。でも「負けんじゃねえぞ、てるちゃん」と声があって「おうよ」と応える声があるから、辰之助は耳の穴を広げるようにして力を込める。
 すると、聞こえる。ぱらぱら、えっへん。
「あんのごとく、よあけがたに、さくまだいがく、おだげんしんかたより、はやわしづやま、まるねやまへにんずうとりかけそうろう、ゆえ、おいおいごちゅうしんこれあり。このとき、だれだれ、あつもりのまいをあそばしそうろう。にんげんごじゅうねん、げてんのうちをくらぶれば」
 ぴんときた。「だれだれに入んのは、のぶながだろ。しんちようこうきだ」
「当たりぃ」
 ちくしょう、とてるちゃんの悔しがる声がする。でも、ぱらぱらはまだ続く。
「あるとき、きよすのじょうかくべい、ひゃっけんばかりくずれしかば、だいみょうしょうめいなどにいそぎかけなおしもうすべきむね、おおせつけられしかども、こといかず。はつかばかりできもやらでごようじんもあしければ、だれだれせんかいし、このせつはるいをたかくし、みぞをふかくすべきときなり」
 こいつもぴんだ。「だれだれはひでよしじゃ、たいこう
「当たり当たりぃ」
 かんかんと鳴り響いたその甲高い音に、心のぞうが一気に膨らんで熟したふじの種みたいに弾けたかと思った。誰ぞがれ鍋かなんかを叩いたな。夕飯時に村でよく聞かれる音なのに、目が見えねえで耳にぶち込まれるのは、おっかねえ。だが、そんな心のぞうが暴れる音の合間にも、ぱらぱらが差し込まれ、
「人の五体の内には、眼にすぎたる物ばかりなし。眼を失はば、万の人に劣れる事、乞児に等し。さればこそ、けん人せい人も、眼を第一に重んじて、万の巻物、経論の文を読み、万里の外をも望み見る事、眼の力に依るなり」
たいへい」これは、ぴんよりも早く、口に出た。
 こいつで三問すべて辰之助の勝ち。みんながわあわあ大きな声を辰之助の体中に打つけてくるので、慌てて目元の手拭いをむしり取る。そのとき、ちぇっと舌打ちと一緒に辰之助の脇のところを叩いてきたのは目隠しを取る前だったから、誰がやったのか分からなくってちょっとむかむかとした。そして、目隠しをとっても見える景色がそんなに変わらなくって、ちょっとがっかりした。
「すごいよ、たっちゃん、ぜえんぶ大当たりだ」
「てるちゃんは寺子屋で一等、松をもらっているってのにさ。松竹梅桃栗の松だべ。おいらたちん中で一等漢字が読める」
「なのにそのてるちゃんに勝っちゃうんだもの」
 てるちゃんの方を向くと、てるちゃんはすでに目隠しを取っていて唇を尖らせている。
「なしてたっちゃんは寺子屋にも通ってねえのに軍記が分かんだ」
「おっ母が読んでくれっから」辰之助はふふんと鼻を鳴らし「それに辰之助は軍記が好きだ」
 へへえ、とみんなが出した声は大きくって、桑畑の桑の木についたばかりの新芽を落とさないかしらと心配になる。
「おいらなんてしよさんに尻をぺんぺんされながら聞かされても、頭に入っちゃくれねえのにさ」
「そうそう。夜にななを広げてみても、思い浮かぶのは和っ尚さまのとんがった目だもの」
「とんがった目で、こうやってひげの穴をほじくりながらな、茂吉、お前はどうしてこの字を覚えておらなんだ」
 たぶんその和っ尚さんの物真似なんだろう。軍記の手写しを左手にしゃがれ声を出すきちに、みんなして歯抜けの口をさらして笑うので、辰之助も一緒になって笑っておいた。
 此度の勝負をすることになったのも、みんなが寺子屋のお話を始めたからだった。八つ時、みんなが寺子屋帰りに駆けっこをしていて、そこに辰之助も交ぜてもらって、でも辰之助が転ぶのですぐにやめて、次に寺子屋で誰が軍記を一等覚えているかのお話になった。みんなはてるちゃんじゃと言ったけれど、辰之助は自分だと譲らなくって、それで軍記比べじゃ、勝負勝負となったのだった。
 みんなはたっちゃんに合わせてやらにゃいけんと口々に言って、家から軍記を手写ししたものと一緒に、手拭いとか端切れとか目隠しできるものを持ってきた。軍記比べに目隠しはいらねえのに、と辰之助は思ったけれど言わなかった。
 巻かなかったのは、てるちゃんだけだった。
「なしてこのおれが巻かねえといけねえのよ」
 腕を組んで、ふんと鼻を鳴らす。
「だって、てるちゃん。たっちゃんは目が悪いんだぜ。合わせてやんねえとずるになる」
 一つ上のやろうが兄さんの顔をしてそう言うと、てるちゃんはそちらをちらりと見やる。
「おい、や次郎。お前、おれより背が低いな」
 むうとや次郎の頬が膨らむが、
「そんならおれの足を切り落としな」
 ぷぷぷうと頬から空気が出てゆく。えっえっとや次郎のぎょろ目がてるちゃんの顔と足で行ったり来たりする。
「おれだけ背が高えと駆けっこをするとき、ずるになんだろ」
 や次郎の口がぽっかり開くのを、てるちゃんはまたふふんと笑って、
「おい、茂吉。お前、おれより手先がぶきっちょだな」
 二つ下の茂吉はいきなり名前を呼ばれて、はなみずをぴゅうと出す。
「そんならおれの指をぜえんぶくくっちまいな。豌豆豆の早剥き勝負でおれが勝ったら、ずるってお前は言うんだろ」
 でもさ、でもさ、だってさ、それはさ。茂吉が舌をもたもたとさせていると、
「辰之助の目が悪いのなんて、や次郎の背が低いのと茂吉の手先がぶきっちょうなんとなあんも変わりゃあしねえのさ」
 みんな一旦口を閉じてから、すげえな、てるちゃんと囁きだす。すげえすげえよ。おっ母の言ってることと逆さまだもん。
 でもけっきょく、村の子らはみんな、目隠しをした。たぶん辰之助のような目が見えぬのをやってみたかっただけなのだ。勝負の終わった今だって、みんなどんな巻き方をすればもっと目が見えぬようになるかを試している。と、一人だけがずんずんこちらにやってくる。てるちゃんだ。
「もう一勝負じゃ、もう一勝負。次は勝つ。俺に負けたって目が悪いのを言い訳にするなよ」
 てるちゃんの美人顔が目の前に迫り来て、目に居座っていたががんぼが弾け飛ぶ。
「する、する。するよ、てるちゃん、勝負するけどさ」
 てるちゃんがとんがらせた口でつまんなそうに言う。
「目が悪いくれえ、なんだい」
 めが、わりいくらい、なんだい。目と鼻が一気にじゅんと熱くなって、耳の中で言葉がちかちかとまたたいている。辰之助はてるちゃんの中にお天道様を見た。
「でもおっ母は、たっちゃんの目はもう治らねえって言ってるよ」とや次郎が割り込んできたおかげで助かった。もう少しで焼かれちまうところだった。「だからたっちゃんのことはみんなで助けて、やさしくしてあげなさいって」
 たぶんや次郎はてるちゃんが辰之助に負けたことがちっとばかり嬉しいのだ。いつだって松尽くしのてるちゃんとは逆さまに、や次郎は栗尽くしであったから。辰之助はてるちゃんの弁慶様になったつもりで、ぐいとや次郎の前に出た。
「やさしくしてくれずともええ。目は有名なお医者さまのところでもらった薬を煎じているからじきに治る」
 治ってもらわないと困るのだ。だって、辰之助が見るべきものがこの世にはたんとある。
 軒下に巣をつくったつばめの卵がかえるのを見なきゃいけないし、庭にまいたすみれの種が花を咲かせるのを見なきゃいけない。すみれは近くに住む爺さまと婆さまが楽しみにしているから、枯らしちゃいかん。
 それに、おっ母の笑い顔もだ。
 辰之助は頬をゆるめて目ぶたを閉じて、でも、あれ? 目を開いて、おっ母の鼻ってどんな形をしてたっけ。
 思い出そうとすればするほど分からなくなってきて、それが涙が出るほど恐ろしい。鼻をちゅんちゅんすすっていると、もういっぺんじゃの声が聞こえてきて、飛びついた。いそいで手拭いを目元に巻けば、涙が手拭いにじゅんと吸われて、心がちょっとばかし軽くなった。和っ尚さんの物真似をされても辰之助は分からぬし、駆けっこはあまり足元が見えずに転んでしまう。でも軍記比べはお腹の底から楽しい。
 おっ母の鼻のことはええんじゃ、ええんじゃ。目がよくなってから、家に帰ってから見りゃあええ。己に言い聞かし、耳にぐうっと力を入れた、そのときだ。
「何をしているの」
 肩がびくりと震えた。
 おっ母の声だと辰之助のお頭は判じているのに、辰之助のお口は本当に? と動こうとする。だって、辰之助はおっ母のこんなにこえぇ声を聞くのは初めてだ。声を出せない辰之助の代わりに、や次郎が答える。
「軍記比べだよ。軍記を読んでどの軍記か当てるんだ。手写しが見えぬように手拭いでこうやって目隠しをしてね」
「やめなさい!」
 悲鳴が絡まったような怒鳴り声に、辰之助はたまらず目隠しの手拭いを外した。すると、おっ母がこれまで見たことのないおとろしい顔をしていて、辰之助は尻餅をつく。
「こんな遊び、二度としないで! もう二度と!」
 おっ母は叫びながら地団駄を踏んで、着物の裾が捲り上がっている。鼻の穴が萎んだり膨らんだりして、こんなのおっ母の鼻じゃない。辰之助はよく草木や虫に夢中になるから、しょっちゅうおっ母に怒られてきたけれど、おっ母がこうも四肢をびくびくさせて怒るのを見るのは初めてだった。いつの間にかみんなのおっ母やおっ父が集まってきて、てるちゃんも茂吉もげんこつをくらっていた。や次郎はあんあん泣いていた。
 家までの帰り道、おっ母は辰之助の手を強く引っ張りながら、早足で歩く。おっ母の手は熱くて痛くて、おっ母と辰之助の手の平の間には蚊の一匹も通らない。
 何がそんなにもおっ母を怒らせたのか、辰之助にはとんと分からぬ。
 ただみんなで遊んでいただけなのに。
 目が見えぬのを使って、遊んでいただけなのに。
 もしや目を遊びに使うのは、そんなに悪いことであったのだろうか。
 考えて分かった。おっ母は辰之助の目が悪いことがどうしても絶対絶対嫌なのだ。どうしても絶対絶対触れたくないのだ。辰之助はなぜだかとっても悲しくなって、蚊の卵の一粒たりとも通さぬようにおっ母の手をぎゅっと握った。
 次の朝になってもおっ母の口は、おっ父が力を込めてつくった結び目みたく引き結ばれていて、せんせのところへ行くのにも、黙って辰之助にどてらを着せる。ならば、ここは辰之助の目玉の見せどころ。道中のいつもの語りで挽回しようとそう思うのに、昨日よりも目の内にががんぼが多い。仕方がねえので辰之助は、おっ母の背中の上でめいっぱい首を伸ばし、ががんぼの間を縫いながら舌を回す。
「おっ母、花じゃ。赤くて小さいのが点々咲いとる」
「……そうだいねえ」
 辰之助の大好きなお声が返ってきて、辰之助はおっ母の首に回した腕に力を込める。まばたきをしてみたけれど、でも、やっぱりががんぼが多い。
「おっ母、でっけえ木じゃ。青々しげって雲を突き抜けそうじゃ」
「……ほんとじゃねえ」
「おっ母、鳥じゃ。ながじゃろうか、ほおじろじゃろうか、それともむくどり?」
「辰之助」と差し込まれた大好きなお声が、ちょっと湿っている。もっと聞かせて、とおっ母は言う。
「それだけじゃおっ母は足りぬようになっちまったよ。もっと色とか形とか、そういうのを聞かせておくれ」
 辰之助はしゅんと鼻を鳴らした。でも、だって、そんなことを言われたってさ。泣きべそをかきながら、辰之助は必死に思い出す。前にせんせのところへ行ったときには何が見えたっけ? 頭をぐるぐるさせている間に、左の方で茶色のものがぴょこりと動いて、
「おっ母! 狸じゃ! 木の根んとこじゃ!」
 だがおっ母が足を進めていくうち、あっと思った。あっ、しもた。
 狸じゃねえ、ありゃあ穴熊じゃ。
「あの、おっ母」とこわごわ出した言葉をさえぎって「辰之助!」と呼びかけてきたおっ母の声はからりと乾いていて、大きい。
「ほら見て辰之助、木の根んところ、いたちが歩いていくよ。ありゃ雄だいね。体がうんと大きいのが雄だと前に教えてくれたものね」
「うん、あのね、おっ母。今、辰之助が穴熊に、ちげえや狸じゃ、狸に見違えたんはね……」
「あら、あっちの茂みにはちょちょべっこが飛んどるよ。白の小さい羽がお可愛らしいね。粉蝶じゃろ。おっ母も辰之助のおかげで覚えちまった」
 この日からおっ母は辰之助が草木や生き物を見つけるのを先回りするようになった。そして、毎朝、指を一本しか立てぬようになった。

(第3回は12月28日(日)正午に配信予定。お楽しみに!)

作品紹介

書名:見えるか保己一
著者:蝉谷めぐ実
発売日:3月中旬予定

江戸時代、国内最大の叢書『群書類従』の編纂に生涯を懸けた、盲目の天才学者・塙保己一。前代未聞の偉業を成し遂げた彼に、世界はどう「見えて」いたのか。何が「見えて」いなかったのか――。「目が見える世界」と「目が見えない世界」を濃密に描き切る俊英の新境地!

本作の詳細な情報は、KADOKAWA文芸編集部のXアカウント(@kadokawashoseki)等で追って発表予定です。ハッシュタグ「#見えるか保己一」をつけて投稿しますので、今後の続報にご期待ください。


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