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試し読み

【試し読み】完結御礼! 全盲の天才学者は世界はどう「見て」いたか。蝉谷めぐ実『見えるか保己一』第一章を特別公開!(1/4)

2020年に小説 野性時代新人賞を受賞したデビュー作『化け者心中』以来、次々に話題作を上梓してきた蝉谷めぐ実さん。その蝉谷さんの約1年半ぶりの新作『見えるか保己一』が、「小説 野性時代」特別編集 2025年冬号にて、完結しました!

カドブンではこれを記念し、2026年3月予定の単行本刊行に先んじて、冒頭の第一章を全4回に亘り、特別公開いたします!

本作は江戸時代の全盲の天才学者、塙保己一を中心に、「目が見える世界」と「目が見えない世界」を描いた意欲作。唯一無二の文体で、視覚以外の「四感」で捉える世界に挑みます。さらに、蝉谷さんが歌舞伎以外を題材に臨んだ初の長編作品です。

なんと早くも書評家・大矢博子さんからの推薦コメントが到着!

どうしよう、すごいものを読んでしまった。
これは塙保己一の偉人伝ではない。分断の物語だ。決して超えられない川の両岸に立つ者たちの、叫びと足掻きの物語だ。
この先何年経っても、「蝉谷めぐ実の、あの一冊」と呼ばれるに違いない。

大注目の著者の新境地であり、大本命! この春、間違いなく話題となる一作を、いちはやくチェックしてみませんか?

※現在では不適切と思われる表記がありますが、本作の時代設定およびテーマを考慮したうえで、掲載しています。

蝉谷めぐ実『見えるか保己一』試し読み(1/4)

第一章

 朝起きてすぐ、たつすけは絶対に両の手をつかって両の目をくにょくにょとこする。こすこす、じゃいかん、くにょくにょじゃ。ちゃんとまつ毛がよじれるのが分かるくらいが良くって、指に二本まつ毛がくっついていたときには、抜けた歯の間からぬふぬふと声が出た。
 そのくらいやっておけば、毎朝茶の間の障子を開けるなり、台所で鍋の芋汁を混ぜているおっかあが立てる指の本数を間違えない。
 十とそれから十日前のこと。くにょくにょをしなかった辰之助の左目で、目やにがまつ毛に絡まりにょんと伸び、辰之助はおっ母が立てた三本の指を四本と言うたのだ。おっ母は生ったばかりの子柿よりも顔を青くして、辰之助をおぶった。
 目やにだよ、おっ母、目やにだってばと、どれだけ辰之助が訴えても、おっ母は「せんせのところに行ってくるよ」と家の中に大きな声をぶち込んですぐさま、辰之助をおぶったままで畦道を走り始めた。そうやっておっ母の背中にしがみついていると、えれえことをした、との心持ちが、日向に寝腹ばう猫が目ぶたを閉じるのよりもゆっくりに、まあ、いいべへと変わっていく。まあ、いいべ。だってその日はせんせのところに行く日と決まっていたし、それに、辰之助はおっ母の背中が好きじゃもの。
 だから今朝も辰之助は芋汁を食いながら、ぬふぬふとしていた。
 ぬふぬふの辰之助を見て、「ずるけんと、きちんと奥歯で噛みんさい」とおっ母は叱るけど、さっき辰之助が指の数をぴたと答えられたからご機嫌さんだ。
 辰之助は椀を空にし、支度を終えたおっ母の背中にくっつく。腕を首に回すと、おっ母はせかせか歩き出す。
 こうしてせんせのところにゆくのは辰之助が六つの頃からで、桜朝顔菊椿が一巡めぐった。その日数は十とそれから十とまたぞろ十ともう、辰之助の両の手指だけじゃあ数え切れぬようになったけれども、おっ母の背中は変わることなくずうっと好きだ。それに、十から次の数え方は来月から通う寺子屋で学べばいい。辰之助はもう七つになる。
「大丈夫かい、辰之助。胸が痛くはないかい。癪が出たんならすぐにお言いよ」
 辰之助がおっとうとおっ母、弟のもんと一緒に住まうさしのくにほむらは良い村だ。辰之助でも村名をすべて漢字で書くことができるし、あかやま、はるさんみようさんたちべっぴんのお山々に囲まれていて、おとなりのこうずけ国との間に流れるかんがわは魚も虫もたんと孕んでいる。
 山を二つ越えるその山中、おっ母の背中からは色々なものが見える。おっ母はそれらすべてを言葉にするよう、辰之助に言ってくる。辰之助はおっ母の肩口から首を伸ばして、地面を見回し、あっと指差す。
「おっ母、わらびじゃ。葉ンところがぐるぐるしよって、茎の緑色が濃いから食べ頃じゃ」
「そうだいねえ」
「おっ母、その左足のところの紅紫色の花を見ぃ。からすのえんどうじゃ、ようやく咲きおった」
「ほんとじゃねえ」
「おっ母、ぼしかみきりならの木の蜜を舐めているよ。大きゅうて瑠璃色が薄いからありゃ雌じゃ」
「辰之助ったらえろう物知り」
「おっ母、右手に気ぃつけて。そいつは木の枝じゃねい、青大将だよ。木の上にある山鳩の卵を狙っているんだよ」
「ああ、すごいね、辰之助」
 すごい、すごいとおっ母は嬉しそうにする。辰之助が草木や生き物の色と形を詳しく語れば語るほど喜んで、辰之助の尻に回している手で辰之助の尻を叩いて音を出す日もある。
 山の中は正直、容易たやすい。どの季節であっても生き物がうごめいていて、中でも辰之助は草花が好きだから、いくらでもおっ母に話を聞かせることができる。
 でも、川は駄目だった。山を越えると現れる神流川には橋が掛けられていない。おっ母は尻をからげてざんぶりと入る。卯月の川は冬眠中のがまの腹よりも冷たい。おっ母の首筋がびいんとなるのが不安で、辰之助は舌を動かすどころじゃのうなってしまう。
 おっ母は三日に一回、上野国のふじおかまちのせんせのところへ辰之助を連れて行く。ふじ岡町までは二里もある。辰之助は二里が皆目分からぬが、家を出るときひきょひきょと朝鳴きしていたいかるがが、帰ってくる頃には己の寝床に入っているくらいの遠さである。だが、おっ母は雨の降る日も、風の強い日も、霜の生える日も山を二つ越えて、川を渡った。ぼた雪の降った日はさしもの辰之助も嫌じゃと首を振って泣いたのに、おっ母は辰之助を無理くり背負って、そして怒った。泣いたらいけん。泣いて目が疲れたら、どうする。
 ――これ以上、目が悪うなったら、どうする。
 おてんさんがてつぺんにのぼってようやっと辿り着いた診りょう所にはすでにわんさと人がいて、皆が口々に「きりぶち先生、桐淵こうすけ先生」と声を出しながら、順繰りにせんせの部屋へと入っていく。
 おっ母も己の番になるなり辰之助を抱き上げ、仕切戸に手をかけた。
「一昨日の朝から目やにが拭いても拭いても出るようになりまして。先にお聞きしておりました通り、いただいたの根を煎じてその汁へ塩をひとつまみ、ようく溶いたもので目を洗わせたのですが一向に。次の日には出てこぬようになりましたが、辰之助にようよう聞いてみますと、目の内の使えるところがまたしても狭まり、じんのようなものが目の内に増えてきていると」
「目痛は」とせんせは、畳に寝かせた辰之助の目を覗き込みながら問う。
「なかったと申しておりました」
 おっ母が答えるので、辰之助は黙って見上げていることにする。
「そりゃ困ったね」枯木を擦り付けるような声にあわせて、目の前に垂れ下がった首の皮がだぶだぶと揺れる。
「痛みがないなら風眼ではなく、首筋が熱を持っておらぬからでもない。やはり二年前に患ったかんの病いが因になってのものだろうさ」
「せんせ、それならどうすれば」
 おっ母の細っこい声が聞こえてきたかと思ったら、せんせの大口を開けたため息が辰之助の頬に落ちてきて、あっ、いいな、せんせ。ひるに魚の焼いたのんを食べたんね。焦げた皮の匂いに鼻はひくひくしたけれど「おぎさん。これは何度も伝えているとは思いますがね」とせんせの出した低い声色に、きゅうっと鼻の先に力が入った。
「目病みであればこの治療法がいい、この薬がいいと指南ができるが、先に言った通りにこの子の目はおそらく五つのときの病が因だ。そのときの病がどう目に作用したものか、その日に遡れぬ以上、当て推量で進めるしかない」
 一年前、何をするにしても辰之助の目玉をまず真ん中に置いて動いていたおっ母が、日課の辰之助の目薬を怠けてまで持ち帰ってきたのは、一枚の紙っぺらだった。だが、それに書かれているなにやらが、おっ母にとっては大そう大事なようで、これがありゃあ桐淵せんせに診てもらえるよと言って、おっ母は辰之助の頬っぺたに己の顔を擦り付けた。桐淵せんせは目病みの人が皆こぞって足を運ぶ有名な眼医者さんで、だから、お前はもう何も心配することはないんだよ、と近づけてきたおっ母の鼻の頭には汗玉がいくつも生ってきらきらとしていた。だのに今、畳に座り込んでいるおっ母は、干からびたなずなのようになってせんせの言葉を聞いている。
「こうして欠かさず通って来られる荻野さんが不憫でならぬから、はっきりと申し上げるがね。おっさん、あんた、もう諦めなさい。この子は体が弱い。いいや、違う、だからもっと卵を食べさせろだの、寝々をさせろだのそういった類の話じゃないんだよ。この子の体が弱いのは生まれつきで、一度体のどこかを損なってしまったら、再びそれを元に戻そうと手間暇かけられる体力がない。これから目は悪くなる一方だろう。おそらく半年、いやつきもせぬうちに……」
「せんせ」とおっ母の口から出てきた声は随分と小さくて、ぐぅとせんせが喉仏を鳴らす音の方がよく聞こえた。
「せんせ、この子の目はきっとようなる。たとい悪うなってもなんでも見える。だから、お薬をお出しください」
 三月だなんて、言わんで。
 言いながらおっ母は辰之助の耳のあたりを両の手でそっと押さえる。おっ母の逆剥けがかしゃかしゃと鳴って耳障りだ。おっ母、なしてそんなところをさするんじゃ。
 せんせは「……悪かったね」とぽつりと言った。それから「薬だったね」と続けて薬だなに体を向けひきだしを次々と開けていく。
「まずはきようにんだ。あんずの種をすり鉢ですり潰す。これにかいこの糞ととうの油を混ぜ込み、乳汁に浸して三日置く。絹袋でしてから目にしておやりなさい。梅干しの肉とぼねを蒸らした汁は、目ぶたが熱を持ったときだけ溶き入れること。梅干しはひと匙、烏賊は三匙だ。かんすいせきかんせきりゆうのうおうれんを白蜜で練った練り薬は日持ちがするから、あとで私がこさえておこう。だが、これを白湯で溶くのを忘れてはいけないよ。しかも二度煮沸してからゆっくり冷ました白湯がいい。面相筆を浸して筆先を目尻に入れる。真綿に染み込ませ、それで目の上から押さえるのでもいい」
 辰之助はまだ寝転がっていて、辰之助の目玉には天井の木目しか映っていない。そのおかげで、部屋に満ちていく漢方の匂いがよく分かった。ふんふんと鼻を動かしておれば、目端の先ちょの方で、おっ母がなにやらを懐から取り出すのが見えた。
「申し訳ないんですが、せんせ。今のつらつらをすべて紙に書いてはくださいませんか」
 しばらくしてから筆の動く音がして、辰之助はへへえと思った。お高い筆が紙の上を走る音ってのは心地がいいや。ぱかりとなにかを開いたその音は、ふふん、貝殻。今日のはこれまでのはまぐりじゃなくあさだね。辰之助は浅蜊の方が小こくてむじっこいから好きだ。
 ありがとうございます、せんせ、ありがとうございます、とおっ母は何度もお礼を繰り返して、せんせはまたため息を吐く。魚の匂いが先ほどよりも濃い。
「頼まれればいくらでも処方はするよ。その分、私の懐に入ってくるからね。だが、目病みの薬は値が張る。どれだけ少量にしたとてね」
 とたん黙りこくったおっ母に、せんせは続ける。
「今年は保木野村であまり糸がとれていないと聞いたものでな」
 辰之助は思った。ああ、せんせは知らなんだ。おっ父はしこたまおこさまを飼っている。このおこさまが羽を欲しがって、めーに籠るから、そのめーを湯掻いて糸を取る。おっ父もおっ母も毎日おこさまに桑を喰わせて、おこさまのお尻とお尻を突き合わせて卵をうませてと大忙しなのだから、糸がとれないなんて言うのは、せんせったらお偉方なのに大馬鹿だぶすかし。
 おっ父はおこさまについて、たくさんのことを辰之助に教えてくれた。おこさまは神様の眉の上から生まれたこと。おこさまは人の手がないと動けず飯も食えず死んでしまうこと。そして、おこさまはほとんど目が見えておらぬこと。
「それなら、おっ父。蚕は辰之助と同じだいね」
 辰之助は己がおっ父の生業と通じているのが嬉しくてそう口にしたのに、おっ父の眉毛はみるみる下がって八の字になる。
 辰之助はおっ父が時たま浮かべるその顔がえら嫌いだった。おっ父だけでねえ。辰之助たちの住む家にはよく村のお人らがおこさまのことや桑畑のことを聞きに来るのだが、家内に上がって辰之助が掻巻に包まっているのを見るといつも、眉毛を八の字にする。坊ちゃん、今日はどこの具合が悪い。腹か胸か。辰之助は喉がひゅうひゅういうのが恥ずかしいから、答えない。すると、ほうか、しんどいか、かわいそうにと辰之助の世話を色々と焼いて、眉毛を顔から落っことしそうになっている。そうして、山桃やら柿やらを土産に置いてってくれるのがじん常だったが、さくろうおじさんのあほあほおたんこなす。ねえ、おきよさん、やっぱりあの山伏様のおっしゃる通りに名前を変えてみたらどうだいと言葉を置き土産にしていった作次郎さんの家の前で、辰之助はもう何度立ち小便をしてやったかわからん。
 おっ母は作次郎さんの言うことに頷いた。
 辰之助は己のことを辰之助と呼ぶ。二つ上のてるちゃんも一つ下のしんちゃんも己のことをおいらと呼ぶのだ、辰之助だって己のことをおいらと呼びたい。でも、お前は辰之助です、辰之助を使いなさい、とおっ母は言う。
 そも辰之助はとらすけだったのだ。でも、六つのときにおっ母が家に山伏様を連れてきて、その山伏様は寅之助の前で手のひらを擦り合わせて、あびらうんけんそわか。生まれ年を二つ引き、それから名前を変えなさい、とおっ母に言った。変えねば目はこんりんざい治らない。これを聞いて、寅之助はおんおん泣いた。二つも年が引かれてしまっては、寺子屋へ通える日が遠ざかる。ちっとんべぇ年が足らずとも通えばええと村のお人らは言うけれど、寅之助はいやだった。だって蒲公英たんぽぽは必ず花が枯れてから綿毛になるし、蟻は必ず行列を作って飯を巣へと持ち帰る。この世にはそういった理があって、もし寺子屋の理を破ったら、草木や虫にぷいとそっぽを向かれる気がした。そんなら、名前だけでもとおっ母が涙を浮かべるので、寅之助は辰之助になった。
 でも、辰之助の目はまったく良くならぬ。
 最初は目の内に蚊のようなものが点々飛んでいたのが、一年かけてこめ飛蝗ばつたほどの大きさになった。飛蝗が一匹もおらぬ日だってあるけれど、目の玉にとまる飛蝗は日に日に増えて大きくなっている。
「せんせ、こちら、お納めください」
 診療所を出る前に、おっ母はせんせに手拭い包みを渡した。手拭いが薄くて、中の金子の鈍色がちょっぴり見えた。
 帰り道、おっ母におぶわれていると、おっ母のお腹の音がくっつけた肌によく響いた。
 ト月経つと、米搗き飛蝗はががんぼになった。

(第2回は12月27日(土)正午に配信予定。お楽しみに!)

作品紹介

書名:見えるか保己一
著者:蝉谷めぐ実
発売日:3月中旬予定

江戸時代、国内最大の叢書『群書類従』の編纂に生涯を懸けた、盲目の天才学者・塙保己一。前代未聞の偉業を成し遂げた彼に、世界はどう「見えて」いたのか。何が「見えて」いなかったのか――。「目が見える世界」と「目が見えない世界」を濃密に描き切る俊英の新境地!

本作の詳細な情報は、KADOKAWA文芸編集部のXアカウント(@kadokawashoseki)等で追って発表予定です。ハッシュタグ「#見えるか保己一」をつけて投稿しますので、今後の続報にご期待ください。


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