「太陽編」の過去のパートは、663年10月の朝鮮半島における倭国・百済連合軍VS唐・新羅連合軍による〈白村江の戦い〉から、672年7~8月の古代日本最大の内乱〈壬申の乱〉までの9年間が舞台になっている。この2つの戦争は「倭国」が朝廷を中心とする中央集権国家「日本」になっていく重要なターニングポイント。その背景には、中国の巨大な統一国家・唐が誕生して、東アジアの覇権を手に入れようとしていたという7世紀のアジア情勢が大きく関わっている。
揺れる朝鮮半島情勢
この時代の朝鮮半島は三国時代と呼ばれ、高句麗、百済、新羅の3国が鼎立していた。
高句麗は紀元前1世紀には建国されていたとされ、5世紀半ばには朝鮮半島の大部分と中国の東北地方にまで領地を持つ巨大な国になっていた。百済は4世紀ころに朝鮮半島南西部に建国され、地理的な関係から倭国とも貿易や文化交流で深い関係を結んでいた。一方、百済と敵対関係にあった新羅は紀元前1世紀に誕生した斯盧国がルーツで、国名を新羅に定めた6世紀には朝鮮半島の中東部から南部までを支配する国になっていた。
中国は、隋の時代から朝鮮半島への進出を目論んで4度にわたる高句麗遠征を行ったがいずれも失敗。隋が滅んで628年に統一を果たした唐は、新羅と手を組み、まず百済を攻め滅ぼして、そこから一気に高句麗を攻略する戦略を立てるようになっていた。
7世紀半ばの百済は干ばつに加え、王室の退廃が目に余るようになっていた。唐にすれば絶好のチャンス。660年に新羅軍の要請を受けたという名目で唐・新羅あわせて18万の軍勢で百済への侵攻をはじめ、同年7月、唐・新羅の連合軍は百済の王都を陥落させ、百済は滅亡する。
白村江の敗戦
その頃の倭国は百済との友好関係を築きながら、遣唐使を派遣するなど唐との友好も保っていた。そのため、倭国の朝廷はいずれに味方するかで揺れた。百済が滅んだ後も、百済の遺臣たちは倭国に滞在していた百済王の息子・豊璋王を擁立して国を再興しようと計画して助けを求めた。これに対して、斉明天皇の子・中大兄皇子は難民の受け入れと、百済再興への協力を約束。661年から3派に分けた軍勢を朝鮮半島に送った。
このうち第3派の軍勢は白村江(現在の大韓民国南西部を流れる錦江)河口に陣取った唐・新羅軍を海と陸から攻撃するという作戦を敢行。これが白村江の戦いである。しかし、作戦行動の遅れや、満潮時間の読み違いなどから倭国・百済連合軍はあっけなく敗退した。
唐はまもなく高句麗を滅亡させ、朝鮮半島は新羅によって統一された。
唐や新羅からの侵攻を恐れた中大兄皇子は、遣唐使を送って唐との関係正常化を図るとともに、対馬や北九州、瀬戸内海などに防衛のための砦を築き、九州の北部沿岸に防人を配置するなどの国家防衛施策を実施した。
また、667年には都を近江大津宮(現在の滋賀県大津市)へと遷都。この都で正式に天智天皇として即位すると、最初の律令法典「近江令」を制定するなど、強靭な国づくりを進めた。
後継争いと壬申の乱
しかし、672年、道半ばにして天智天皇は崩御する。46歳だった。生前の天智天皇は弟の大海人皇子を後継に指名していたが、その後、徐々に息子の大友皇子を後継にしたいという気持ちが強くなり、大友皇子を太政大臣に任命するなどの動きを見せるようになった。天智天皇が病床に臥すと、大海人皇子は自ら出家して大友皇子を後継として推挙。大津宮を出て吉野に下った。
天智天皇の崩御を受け、大友皇子が弱冠24歳で後継になった頃、大海人皇子は、美濃、伊勢、伊賀、熊野などの地方豪族の信任を得て兵を起こそうとしていた。
豪族たちが大海人皇子に従った背景には、大化の改新を進めた天智天皇への守旧派の怨みや、白村江の敗戦に対する不満があった、ともいわれる。
壬申の乱の顛末は、作品の中でお読みいただいたとおり、反乱軍に追われた大友皇子が自害して終わる。
大海人皇子は新たに飛鳥浄御原宮を造営して、673年に天武天皇として即位。国号を「日本」と定めた。
政治的には大臣を置かず直接、法官や兵政官を指揮して専制君主制を確立。また、国家神道を整備する一方で、寺院や僧侶を国の統制下に置き国家仏教として保護する政策をとった。外交面では唐との関係改善にも力を注ぎながら、唐との関係が悪化していた新羅とも交流を図った。その結果、内外ともに平和が続き、絢爛な文化を生み出した。
「太陽編」はアジアと日本の歴史の大きな流れの中で、強い国家「日本」が建設される一方で、古来の日本的な文化や宗教が翻弄されていった姿を描いた作品ともいえるだろう。
書誌情報はこちら>>手塚治虫『火の鳥11 太陽編(中)』
<<【解題】千年の時を超え宗教と権力という問題をえぐり出す(『火の鳥10 太陽編(上)』)
【解題】手塚治虫の死と『火の鳥』(『火の鳥12 太陽編(下)』)>>