収録順の大胆な入れ替え
過去に虫プロ商事、朝日ソノラマ、講談社(手塚治虫漫画全集版)から出た『火の鳥』と角川書店版で大きく異なるのが、この第3巻である。それまでは、発表順に「ヤマト編」「宇宙編」がカップリングされていたものを、「ヤマト編」「異形編」のカップリングに変更したのだ。そのため「宇宙編」は「生命編」とともに第9巻として刊行されることになった。
もともと過去と未来のエピソードを交互に描きながらひとつの物語にするという壮大な構想を持った『火の鳥』の順序を変えることには作者も読者も抵抗があったはずだ。
それでもなお、手塚治虫が収録順を変えることに踏み切ったのは、過去と未来をひとつの巻に収めるよりは、過去の物語で1冊、未来の物語で1冊と分けたほうが、手塚ファン以外の読者には読みやすくなるという判断があったのだろう。
もうひとつの理由として、角川書店版単行本が出るきっかけになった「太陽編」の存在がある。「太陽編」は過去と未来がひとつの物語の中に並行して描かれることになるが、過去の舞台になるのは672年に起きた壬申の乱とその前後の日本。『火の鳥』の時間の流れは「異形編」で戦国時代まで来ており、壬申の乱を描くことはタイムラインを遡ることになる。
壬申の乱にこだわったのは、当時、手塚に『火の鳥』再開を依頼した角川春樹氏だった。角川氏は手塚に会うなり、「壬申の乱を描いて欲しい」と切り出したのだ。手塚が「それなら『火の鳥』ではなく『壬申の乱』というタイトルで描いてはどうか」と断ると、角川氏は「火の鳥は出して欲しい」と譲らない。
結局、手塚は折れて、便法として近未来と過去を振幅させることで、未来のエピソードに組み入れることを試みたのだ。
そのための調整の意味もあって、「宇宙編」を第9巻に、「異形編」を第3巻にという編集がなされたと考えることができる。
ギャグ満載の「ヤマト編」
「ヤマト編」は『COM』1968年9月号から69年2月号まで連載された中編である。
連載の第1回を読んだ読者は驚いた。第1回が掲載されたのは、「未来編」の最終回と同じ号。壮大な宇宙の流れを描いた「未来編」のラストシーンの後に、赤塚不二夫ばりのギャグマンガが登場したことで、読者は面くらい。しばらくして、喝采したのである。手塚にしてみれば「してやったり」だったに違いない。
『古事記』や『日本書紀』に記録されたヤマトタケル伝説をベースに、古墳時代後期に造営されたとされる奈良県明日香村の石舞台古墳誕生の謎を描いているが、手塚は史実に縛られることなく、ヤマト・オグナとクマソの長・タケルとの交わりや、彼の妹・カジカとの恋を描き、人はなんのために生きるのか、というテーマを鮮明に描き出していく。
ちなみに石舞台古墳については、蘇我馬子の墓という説が有力で、石がむき出しになっているのは、朝廷をないがしろにして権勢を極めた蘇我氏に対する懲罰の意味があった、とも言われている。
ギャグもこれまでになく多く散りばめられているが、コマーシャルや流行語のパロディなど、流行のものはすぐに古びてしまうため、のちに描き直された。
「太陽編」につながる「異形編」
「異形編」は、『マンガ少年』の1981年1月号から4月号に連載された中編である。
手塚治虫は「“異形編”、“生命編”の二つとも、人間が他人の生命をないがしろにしたために、自分に報いが来るという、ごくシンプルなテーマの連作です」(朝日ソノラマ『別冊マンガ少年 火の鳥』第9巻より)と説明している。
八百比丘尼は人魚の肉を食べたために800歳まで生きた比丘尼(未婚のまま出家した女性)のことで、新潟の佐渡ケ島や福井の小浜をはじめ日本全国にその伝説が伝わっている。小浜の空印寺には、比丘尼がそばに庵を建てて暮らし、800歳で入定(亡くなること)したという洞窟も残っている。
これらの伝説をもとに推定すると、八百比丘尼が生きたのは15~16世紀ごろ。時代区分では室町から戦国に当たる。
可平の絵の師匠になる土佐光信も15世紀半ばから16世紀半ばに生きた人。また、『百鬼夜行絵図』は室町時代から大正時代まで、さまざまな画家の手によって描かれたものが多数存在し、もともとはひとつの絵巻物を手本にしながら写本が作られたのではないかと言われている。光信の作と伝えられる『百鬼夜行絵巻』は、京都の大徳寺・真珠庵に収蔵されている。
なお、連載当時、比丘尼のもとにやってくる異形の者たちは、宇宙の彼方で起きた戦争のために傷ついた宇宙人という設定で描かれていたが、のちに「太陽編」とつなげるために、異郷の神々との戦いで傷ついた産土神たちという設定に直され、絵も描き変えられている。
>>文庫版『火の鳥3 ヤマト・異形編』