三津田信三『みみそぎ』(角川ホラー文庫)の巻末に収録された「解説」を特別公開!
三津田信三『みみそぎ』文庫巻末解説
解説
一体、この三姉妹とは何者なのか。彼女たちは何を行うのか。彼女たちの姿と佇 いを描いてみよう。たとえ姿といっても、その輪郭は常に変動してやまず、佇いといっても、それは常に前面に進み出たかと思うと、再び常に闇の中に引き退いて行って仕舞うものであるとしても。
──トマス・ド・クインシー 野島秀勝訳『深き淵よりの嘆息』より
『ぼぎわんが、来る』と後に改題される『ぼぎわん』という私の書いた長編ホラー小説が、日本ホラー小説大賞を受賞したと編集者から連絡があったのは、二〇一五年、葉桜が鮮やかな四月下旬のことだった。そこから先の出来事や、私と当時の妻・
右記は場違いな自分語りではない。本書『みみそぎ』の序章にも引用されている、
『恐怖小説キリカ』には、私が霧香とともに第二十二回日本ホラー小説大賞の受賞式とその後のパーティに出席し、著名な先輩作家の方々と
パーティの終盤だったと記憶している。編集者が隣にいたこともうっすら覚えている。三津田さんはお酒を飲まれていたのか、ニコニコと上機嫌でいらっしゃった。そしてご自身が専業作家になった当時のことについて、とても現実的な話をしてくださった(要するに金と生活の話だ)。私は「小説家稼業って大変なんだなあ」と思うと同時に、「意外だなあ」とも思った。失礼な言い草だが、デビュー作から三作連続で「作者自身を主人公にしたメタホラーミステリ」を書くという、私の感覚では商売として成立しにくい、アーティスティックな姿勢で作家活動をスタートされた三津田さんから、そうした話が聞けるとは想像していなかったからだ。
長篇『のぞきめ』を第一作とする「五感シリーズ」の残りの四作『みみそぎ』『ざわはだ』『ふしゅう』『いやあじ』を一気に脱稿する。今月から7月まで毎月一冊ずつ連続刊行する予定です。
──三津田信三@shinsangenya 2022年4月1日午前8:21のX(旧Twitter)投稿より
※傍点は引用者による
アーティスティック、という表現が
もっとも、どんな作り手も人間である以上、好き嫌いや得手不得手、無意識の癖は必ず存在する。なので彼ら彼女らの作品群にも当然、何らかの傾向は生じてしまう。だが、そうした一般論を加味しても、三津田さんのこだわりは尋常ではない。誤解を恐れずに言えば偏執的とすら言える。パッと思い付く範囲でも、
①メタフィクション
②幽霊屋敷
③蛇の怪異
④人型(主に女性型)の怪異
⑤少年
⑥足音の恐怖(≒何者かに追いかけられる恐怖)
⑦民俗(学)
⑧多重推理
⑨無限反復の恐怖
⑩英米怪奇小説への言及
⑪海外ホラー映画への言及
……といった手法、要素が多くの作品に共通する。そして本書『みみそぎ』には、右に並べたうち主に①④⑤⑥⑦⑨が書かれている。
『みみそぎ』は作者である三津田さん自身を語り手にした長編で(①)、乱暴に要約すれば「謎の怪談を読んだ三津田さんと、読んだことが原因で恐ろしい体験をした担当編集者が、その怪談を分析、推理して事態を解決しようとする」という話だ。
謎の怪談は「あるノートに書かれていた、ノートの記述者が怪談会で人から聞いた怪談」の中に「別の人から聞いた怪談」が挿入され、さらにその中に「また別の人から聞いた怪談」が含まれ……という、作中作、怪談内怪談の趣向が凝らされている。加えて、そうして何層も何層も潜っていった先の怪談は、何故か冒頭の怪談に戻ってしまい……というループ構造も持っている(⑨)。本文で三津田さんも言及するとおり、この怪談の異様さはあの有名な「牛の首」にも通じる。その構造上、怪談の核心たり得る部分が永久に明かされないからだ。
「怪談」についての「物語」。
「物語」についての「怪談」。
そして……「物語」という異形についての「物語」。
──井 上 雅 彦 編『物語の魔の物語』「館長挨 拶 」より
怪談内怪談、怪談の入れ子構造は、例えば
驚くべきことに、この無限反復の恐怖は、デビュー作『忌館』に、既にサブの要素として登場するのだ。「ある館にいる少年が館そっくりのドールハウスを
「この本を最後まで読んだ人間はいないんです」
──森 見 登 美 彦 『熱帯』より
『みみそぎ』のメインの趣向は先述したとおりだが、構造上その「振り」に過ぎないはずの各怪談、およびそこで語られる怪しい存在も、それぞれが充分に不気味で恐ろしい。
怪談会で語られた鏡の怪。耳を
大盤振る舞いである。これもまた「執拗」と表現したいほどだが、一方で私はこれを「奇を
本作でもう一つ過剰なまでに書かれているのが、シリーズや出版社の枠組みを超えた、他の三津田作品との結び付きだ。そもそも本作は『のぞきめ』の続編というより、内容的には中央公論新社の幽霊屋敷シリーズの続編なのだ(厳密にはシリーズ三作目『そこに無い家に呼ばれる』の続編)。ただ、これを安易にクロスオーバーと言ってしまうと語弊があるだろう。別個に聞き集めた無関係な怪談、あるいは創作物である小説に見出される、あるはずのない符合。それらの隙間に仄見える、人でない「四姉妹」の存在。本作で語られるのはそうしたものだ。つまりこれもまた「物語の魔」だ。あらゆる手段で、三津田さんにしかできないこだわりで「物語の魔」を多層的に書いたもの──『みみそぎ』の特徴を端的に説明するとしたら、こんなところだろうか。
ホラーの実作者として、そしていちホラー愛好家としての私の理解では、人間の作為を超えた(かのような)物語の魔を書く「メタフィクション」と、一個人の作為の産物である「作家性/こだわり」は本来
ちなみに三津田作品群の符合から仄めかされる「四姉妹」については、シンプルに不気味に思うのと同時に、三津田さんが愛好するダリオ・アルジェント監督の「魔女三部作」が想起されて
「ぼくが怪奇小説の連載をひきうけたのは、合理的に解決される推理小説ってものに、疑問を持ちだしたからなんだぜ。推理小説というやつは、合理的に解決されるとたんに、なんだかむなしくなってしょうがないんだ。書いてても、読んでても──」
「でも、推理小説は現実を映すものじゃないでしょう? そういう意味では、老年むき、中年むきの小説よ」
──都 筑 道 夫 『怪奇小説という題名の怪奇小説』より
この仕事をしていると「ホラーとミステリは相性が悪い」という主張をしばしば見聞きする。個人的には「そうだったとして、何?」としか思わないし、またディクスン・カーの『火刑法廷』(一九三七年)といった、両者の魅力を体現した傑作が九十年近く前に世に出ていたりもする。なので、少なくとも実作者にとって、あるいは作品単位で考えて、価値のある主張だとは思えない。しかし、ここで話を終わらせるのは本意ではないので、
ホラーとミステリは相性が悪い、とする主張の最大の根拠は「両者が相反するから」というものだ。不合理で不可知(≒謎)を是とするホラーと、謎を合理と知性で解き明かすミステリは水と油である、と。個人的にはこの根拠も極めて貧しいホラー観、ミステリ観に根差したものだと切り捨てたいところだが、これも一旦、額面どおり受け取ってみよう。そしてそのうえで引っ繰り返してみよう。
混じり合わない。相性が悪い。だとすれば「相性が悪いからこそ、両者を扱ったホラーミステリはそれらの対立、
三津田作品において、怪現象全てに現実的な解決が提示されることはない。だが「探偵役が長大な推理の果てに大きな謎の真相(らしきもの)に到達する」といった言わばミステリが勝利する作品から、「探偵役が解決の糸口すら見付けられず、むしろ怪現象の異様さばかりが明らかになる」といったホラーが勝利する作品まで、その振り幅は広い。『みみそぎ』がどの辺りに位置付けられるかは勿論ここでは明かさないが、それを知りたくて本作を手に取った三津田ファンは確実に存在するだろう。ホラーとミステリの相性の悪さを指摘する主張は、往々にしてホラーミステリを(よく知らないまま)全否定する意図で
もっとも、こうした振り幅は、三津田さんの意図によるものではないようだ。とある対談イベントで直接ご本人に聞いたことだが、三津田さんは小説を書く際、明確なプロットを作らないという。「ホラーになるかミステリになるかは書いてみるまで分からない」「今書いている長編はホラーだが、元々編集者にはミステリを依頼されていた」という意味のことを
ホラーが勝つか。ミステリが勝つか。三津田さんの作家活動はそのまま、両ジャンルの果てなき戦いの記録だ。そして「次」はどっちが勝つだろう? と私は三津田さんの新作を心待ちにするのである。
「頭文字にSのつく人は蛇(snake)の化身よ」
──ダリオ・アルジェント『サスペリア』より
※引用は省略されている場合があり、必ずしも原典の記述に忠実ではありません。
作品紹介
書 名: みみそぎ
著 者:三津田信三
発売日:2024年12月24日
その怪談を耳にしてはいけない――。最恐の怪異譚が、現実を侵食する。
作家・三津田信三のもとに届いた1冊の古びたノート。それは、旧知の編集者の祖父である三間坂萬造が蒐集した、怪異の記録だった。百物語で耳にしたおぞましい単語、真夜中の露天風呂で囁かれる怪談、なぜか父親の呟きに耳をふさぐ家族……。三津田は、内容の異様さに戦慄し、読む者に障りがあることを危惧するが――。本書は萬造のノー
トを一部再現し、その後起きた事の記録である。読むほどにざわつきに囚われる最恐の怪異譚。
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