解題 「未来編」の持つ重要な意味
稀有壮大な構想が明らかになる
虫プロ商事の月刊誌『COM』で1967年12月号から68年9月号まで連載された『火の鳥・未来編』は、『火の鳥』全体を知る上でもとくに重要な意味を持った作品とされている。
第1部「黎明編」が、1954~55年に描かれた『漫画少年』版のリメイクという位置づけだったのに対して、「未来編」は完全なオリジナル作品。しかも、『火の鳥』としては過去2度の連載も含めても未来を舞台にした初のSF長編だった。舞台を古代日本からいきなり西暦3404年の滅びかけた地球へと移し、人類の終焉と30億年後の再生までを描くという構成は、発表当時のマンガファンや評論家を驚かせた。それまでの常識では、長編連載は時系列をたどりながら描かれるものだったからだ。
これについて手塚は「火の鳥と私」という文章の中にこう書いている。
新しいこころみとして、一本の長い物語をはじめと終わりから描きはじめるという冒険をしてみたかったのです。(中略)交互に描いていきながら、最後には未来と過去の結ぶ点、つまり現在を描くことで終わるのです1968年:COM名作コミックス『火の鳥・未来編』虫プロ商事所収
さらに手塚は、個々のエピソードは「黎明編」や「未来編」のような長編ばかりではなく、100ページ前後の中編や30ページ程度の短編も含まれ、歴史ものやSFだけでなく、ギャグや推理ものも取り入れるとしていた。
つまり『火の鳥』は、過去と未来を交互に描いた、それぞれに独立して一見するとバラバラの長編、中編、短編が組み合わさって、最後にはひとつの大長編としてまとまるという稀有壮大な構想で描かれた作品だったのだ。
さらに、「未来編」のラストは「黎明編」の冒頭に回帰するような仕掛けになっていて、手塚が歴史を一本の線のようなものではなく、大きな輪のようなものとして捉えていることも分かる。つまり、手塚は『火の鳥』の構想の中に独自の歴史観・輪廻観を取り入れようとしたのである。その全体像が見えてきたのが「未来編」なのだ。
ちなみに、「現在」がどのポイントになるのか、が気になるが、1975年に大阪で開催された手塚ファンの集まりに招かれた手塚は「最後のエピソードはアトム編になる」と語っていた。これをもとに、手塚ファンの推理作家・二階堂黎人は手塚の没後、2001年に刊行された『SF Japan 手塚治虫スペシャル』に、トリビュート小説『火の鳥〈アトム編〉』を発表した。
手塚の輪廻観や思想が描かれた作品
バラバラなエピソードに共通するのは「生命」というテーマと「生命」の象徴として登場する「火の鳥」だ。
「未来編」の中では、火の鳥は宇宙生命(コスモゾーン)の集合体だと説明されている。宇宙生命は形も大きさも重さも持たず、小さな細胞にも恒星や惑星のような巨大な存在にも宿っていて、それが生命の根幹になっている。無数の宇宙生命が集まって、仮の姿として鳥になっているのが火の鳥だ。だからこそ、火の鳥は永遠に生きているし、鳥の姿だけでなくほかの姿にも変わることができる。そうして宇宙の中で無限に繰り返される文明の誕生と崩壊をただ見守っているわけだ。「どうしてどの生物もまちがった方向へ進化してしまうのだろう」という嘆きを抱きながら……。
これは『火の鳥』全編を貫く思想にも繋がっている。いかなる星のいかなる文明であっても歴史は失敗の繰り返しであり、誰も失敗から学ぶことはない。そして、死屍累々はすべてが滅ぶまで続く。手塚の未来観について「楽観主義的だ」と批判する声があるようだが、そうした批判がいかにまとはずれかは、『火の鳥』を読めば一目瞭然だ。
火の鳥は愛の物語
また、「未来編」では、「黎明編」に登場した猿田彦の子孫として世捨て人の科学者・猿田博士が登場して、猿田彦の血を引く者たちが長い歴史を繋ぐキーパーソンになることが暗示されている。猿田彦の血を引く者たちは、〈醜い鼻のために誰からも愛されない〉という宿命を背負いながら、このあとのエピソードでも重要な役割を果たすことになる。
もうひとつ「未来編」で明らかになるのは、『火の鳥』が愛の物語だ、という点だ。
山之辺とタマミのカップルは、愛のためにメガロポリス・ヤマトから地上の荒野に逃亡する。もちろん、「黎明編」でも猿田彦とウズメや、ヒナクとグズリといったカップルが登場した。しかし、それぞれの愛については深く描かれていなかった。しかし、「未来編」では「愛」が物語を動かす力になっているのだ。
一方には愛よりも出世を優先するロックのような鉄面皮や、愛情に飢えた猿田博士のような者もいて、『火の鳥』では、このあとのエピソードでも、さまざまな男と女の愛憎劇が描かれていくことになる。
はじめに書いた「『火の鳥』全体を知る上でもとくに重要な意味を持った作品とされている」というのは、つまりそういうことなのである。