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試し読み

『天上の葦』『幻夏』の著者が放つ、破滅と希望のエンターテインメント! 太田愛『彼らは世界にはなればなれに立っている』特別試し読み#1

〈はじまりの町〉の初等科に通う少年・トゥーレ。ドレスの仕立てを仕事にする母は、「羽虫」と呼ばれ、公然と差別される存在だ。町に20年ぶりに客船がやってきた日、歓迎の祭りに浮き立つ夜にそれは起こった。トゥーレの一家に浴びせられた悪意。その代償のように引き起こされた「奇跡」。やがてトゥーレの母は誰にも告げずに姿を消した――。
最注目の著者による衝撃作、10月30日の刊行を前に特別試し読み!
 

 序章

 
 右の耳に父が言う。
 ──おまえの体にはこの町の人間の血が流れている。始まりの町に生まれた者の誇り高く勇敢な血だ。
 見ろ、と父が北を指さす。
 ──あの山に眠る光る石と共に、我々の歴史は始まったのだ。
 父の目には、山へ向かう大勢の鉱夫たちの姿、そのき出しのたくましい肩から流れ落ちる汗の粒まで見えているかのようだ。
 父が生まれるはるか昔、この塔の地・始まりの町の黎明れいめい期の光景。町の人間にとって、呼ぶたびにこだまのように過去からよみがえる輝かしい残響だ。人々は力を合わせて働き、光る石は力強い心臓のように休みなく富を送り出し、港が造られ、鉄道が敷かれ、そうして、南の海岸線に沿って新たに第二の町から第六の町が生まれたのだという。
 しかし、父が指さす山に私が見ているのは、子供部屋から見えるいつもの風景だ。なだらかな稜線りようせんに沿って風力発電のプロペラが並んでおり、先端が摩耗して黒ずんだブレードが眠たそうに回っている。
 あの山を守るために、と父は私の右の耳に言う、我々の祖先はこの地に塔を築いた。そこから水平線に現れる略奪者の船影を見張り、果敢に迎え撃ち、打ち負かしたのだ。
 父は誇らしげに広場の方角に屹立きつりつする巨大な石の塔を振り仰ぐ。
 秋の終わりの庭には、父と私の長い影が伸びている。
 私は塔を見上げるふりをして、扉口にたたずむ母を盗み見る。夕食の魚を煮込むセージの匂いがしている。ひざまであるエプロンは夕映えの鮮やかなオレンジに染まっているが、その上にあるはずの母の顔は、ポーチのひさしの陰に溶けて見えない。

 私が六歳の時、初等科に上がった年の記憶だ。この町にとって自分がどのような存在なのか、おぼろげにわかりかけてきた頃だった。
 長く故郷を離れ、見知らぬ地を転々としたのち、私はようやく帰郷の機会を得た。それはいわば、大きな航海の前に水夫に与えられる短い休暇のようなものだった。生まれ育った町を目指して夜を日に継いで旅を続けるあいだ、あの晩秋の庭のひとこまが、なぜかしきりと思い出された。
 帰り着いたのは明け方だった。うっすらと辺りが白み始めるなか、私は無人の広場に立って街並みを眺めた。
 始まりの町はすっかり変わってしまったと聞いていたので、悲しくはあったが驚きはしなかった。そこは一言でいえば、世界中のどこにでもある町のひとつになっていた。かろうじて昔日の面影を残しているのはこの石畳の広場だけだ。
 ──今さら君が帰ったところで、起こってしまったことは変えられない。
 きっとカイならそう言うだろう。
 あるいは、マリならこう言うだろう。
 ──泣いて元に戻るものなんて、この世にありゃしないんだよ。
 私は目印のついた一枚の敷石を見つけ出し、それを裏返す。三十センチほどの深さの穴にビスケットの円い缶がしまわれている。大きなリュックサックを背負って町を離れる前夜、私は缶をここに隠したのだ。かつて明るいブルーのティーポットが描かれていたふたは、過ぎた歳月をものがたるようにさびに覆われていた。
 私は蓋を開いて中のものを取り出した。
 薄緑色の小さな硝子ガラス石。映画館のスタンプカード。封の切られていないひと箱の煙草にはサンザシの小枝が描かれている。それらはいずれも忘れがたい出来事と結びついていた。しかし、なにより重要な意味を持つのは、油紙に包んだ一枚の写真だった。
 それは港に客船が入った日、この広場で催されたお祭りを写したものだった。
 夏の夕暮れ、広場は色とりどりの電球を連ねたイルミネーションで飾られ、塔を背にして仮設舞台が作られている。揚げ菓子や飲み物の屋台が広場を縁取るように建ち並び、ランタンを載せたいくつもの円テーブルでは町の人々や旅行客がくつろいでいる。
〈週報〉の発行人が試し撮りをしたもので、誰もカメラの方を見ていない。けれども私にとってこれは奇跡のような一枚だった。生涯けっして忘れることのできない人々が偶然にも、ひとり残らずここにおさまっているのだ。彼らは私にとって、始まりの町という星座をかたちづくる恒星だった。ゆがんだかたちではあったが、彼らがそれぞれの場所に存在していた町こそが、私の故郷だったのだ。
 写真の中の私は十三歳で、両親と共にテーブル席に座って白い粉砂糖をまぶした揚げ菓子を頰張っている。父はビールのジョッキを手に母になにか話しかけており、淡い緑色のドレスを着た母はいつもの癖で少し首を傾けるようにして父の方を見ている。
 仮設舞台の正面、一番良いテーブルについているのは〈伯爵〉だ。伯爵といっても本物の貴族ではなく、遺伝的に受け継がれるらしい尊大な性格と突発的な大盤振る舞いによってそう呼ばれていた資産家で、このお祭りを思いついて気前よく資金を出したのも伯爵だった。
 伯爵は町の銀行、ホテル、映画館、缶詰工場、数隻の客船などを所有しており、さらに町の外にもいくつもの会社や工場を持っていた。そういうわけで、銀行が金で破裂するのを防ぐためだろうと人々は噂していたが、伯爵には数年に一度、長い船旅に出る習慣があった。何ヶ月もかけて海の向こうの地を巡り、そのつど膨大な土産もの──宝石や絵画はもちろん、踊り狂う奇怪な彫像、座ると妙な音をたてる椅子、用途のわからない巨大な牛の鼻輪のようなものまであれこれ持ち帰り、これまた伯爵のものである博物館に並べるのを喜びとしていた。
 それらの土産ものの中でも、もっとも華麗で洗練されたもののひとつとたたえられていたのが、伯爵の向かい側に座っている〈コンテッサ〉だった。
 驚いたことに、伯爵は旅の途上で出会った美貌びぼうの娘を正式な養女にして町に連れ帰ったのだ。コンテッサという呼び名は、表向きは彼女がホテルのバーで頼むカクテルの名前に由来することになっていたが、伯爵の妻がとっくの昔にパラチフスで死亡していたことと、伯爵の熱い視線にこたえる日頃の彼女の艶然えんぜんたる微笑とを考え合わせれば、コンテッサが実質的なコンテッサ、つまり伯爵夫人であることは明白だった。
 伯爵たちのそば、舞台の上手脇に控えているのは、長いローブをまとった〈魔術師〉だ。みずから百歳を超えていると豪語していただけあって、せた体に腰まである髪も胸まで垂れ下がったあごひげも荘厳なまでに白く、ローブをしりまでめくり上げて石畳の上の吸い殻を拾い集めてさえいなければ、それなりに立派に見えたことだろう。
 肝心の『魔術』の方はというと、消えたはずの鳩の脚が箱から突き出て痙攣けいれんしていたり、仕掛けの二重底がはずれているのがまる見えだったりで、きちんと成功したことはかつてなかった。それでも本人は一向に気にせず、魔術師然とした気取った動作で笑顔を振りまくものだから、町の人間は魔術は驚くものではなく、笑うものだと信じていた。
 魔術師の反対側、舞台の下手近くにいるのが、〈なまけ者のマリ〉だ。マリはどこにいても目をひいた。この町でただひとり褐色の肌をもっていたからだ。
 写真の中のマリは三十歳前後、片手を腰に当てて物憂げに煙草を吸っている。
 マリの登場はひとつの事件として町の人々に記憶されていた。
 ある冬の早朝、伯爵の料理番が魚を仕入れに出たおりに、海岸公園に倒れている子供を発見した。見たこともない褐色の肌をしたその子供は、棍棒こんぼうのようなもので殴られたらしく、頭頂部に縦に開いた傷口から血を流していたのだ。
 驚いた料理番は魚を積んだ荷馬車に乗せて高台のお屋敷に連れ帰ったのだが、忙しさに取り紛れて子供のことを忘れてしまった。後に経緯を知った町の人々からうっかりにもほどがあるというあきれた声があがったのに対して、料理番は先代の伯爵が亡くなってから半月というもの、中央府から鉄道に乗ってだらだらと五月雨さみだれ式にやってくる弔問客につつがなく料理を振る舞うことがどれほど大変なことか、客船の観光客に浮かれていた人間になど決してわかるわけがないと目に涙をためて反論したという。
 そんなわけで数日後に執事が荷台で眠っている子供を見つけて料理番に問いただし、おそらく客船に乗ってきた誰かが町に捨てていったのだろうという結論に至った時分には船はすでにはるか海の向こうの港にあった。頭の傷からある程度予想されていたことだが、問い合わせに対し保護者だと名乗り出る者はいなかった。回復した子供は名前もなにもいっさい答えず、仕方なく執事がマリと名付けた。
 当時マリは見たところ七、八歳くらいで、体つきもしっかりしていたので、ホテルの洗濯場の夫婦が下働きとして引き取った。その夫婦が腹にすえかねるほど嫌なやつらだったのか、あるいは頭に負った怪我の後遺症だったのかは定かではないが、最初の一年ほどマリは一言も口をきかなかったらしい。
 夫婦が亡くなり、マリが映画館の受付に座るようになったのがパラチフスが大流行した翌年で私が初等科に上がった年だった。だから私の記憶の中にあるのは、この写真のマリともうひとつ、映画館の受付に座っているマリの姿だった。
 マリの左側にひとりの老婆が写っている。全身がブレていることから、かなりの速さで舞台と逆方向に歩いているのがわかる。老婆は黄色いパラソルを手にしており、そのパラソルに対する愛着がいささか度を越していたため、町では〈パラソルの婆さん〉と呼ばれていた。
 土砂降りの雨の日、パラソルの薄い布を貫通して降り注ぐ雨にずぶれになりながら、平然と通りを行く婆さんの姿は町の恒例の風景となっていたし、三月の大風の日など、おちょこになったパラソルを握ったまま街灯と壁の隙間にはさまっているのが発見されたのだが、人々が救出するあいだも決してパラソルを離そうとせず、取り上げようとしようものなら金切り声をあげて抵抗した。
 噂によると、そのパラソルはコンテッサが老婆に与えた護符のようなものらしかった。
 ある夏、どこからともなく町に現れた老婆は、突然通りで妄言をわめき散らして人々を驚かせた。そこへたまたまコンテッサが来合わせて老婆に自分の黄色いパラソルを手渡したところ、たちまち羊のようにおとなしくなったという。以来、老婆はパラソルを肌身離さず持ち歩いていたのだが、ひとつだけ護符の力をもってしても抑えられない奇癖があった。老婆はなぜか図体ずうたいのでかい男を深く憎悪しており、見つけるやいなや容赦ない罵声ばせいを浴びせながらパラソルで打ちかかるのだ。
 その格好の標的となっていたのが〈怪力〉だった。
 呼び名のとおり、怪力は並外れた筋力をそなえていた。町に来た当初は浜で引き網漁の引き子として日雇い仕事をしていたのだが、あるとき道を歩いていて僥倖ぎようこうに出くわし、人生が一変した。私はその一部始終を目撃していた。
 その日、坂道の下に一台の車が停まっていた。町に二台きりの自家用車はいずれも伯爵が所有していたが、停まっていたのはそのうちの大きな方で、馬車のような箱型の車だった。運転席ではお抱え運転手がなんとかしてエンジンをかけようと奮闘していたが、車は喘息ぜんそくの発作を起こしたように乾いた音をたてて身震いするだけで、後部座席の伯爵は苛立いらだちもあらわにステッキで運転手の制帽を小突いていた。車は高台のお屋敷に戻る途中で故障して立ち往生していたのだ。
 通りがかった男たちがすぐさま褒美めあてに車を押して動かそうとしたが、急勾配きゆうこうばいの坂を数メートル押し上げるのが精一杯で、何度やっても磁石にでも引かれるように元の位置に戻った。ついに癇癪かんしやくを起こした伯爵は車を降り、ステッキを振り回して役立たずどもを追い払ったのだが、その時、遠巻きに眺めていた女子供のさらに後ろに、頭三つほど飛び出た怪力の巨体を見出みいだしたらしく、ステッキの先で怪力を指して、そこの者、と言った。やってみろ、が省略されているのは明白だった。びっくりして立ちすくんだ怪力に向かって、早くしろというように再び伯爵は車に乗り込んだ。
 怪力はわなにかかった動物のように切羽つまった顔をして車に近づいた。それから意を決した様子で車体の後部に両手をつくと、足を踏ん張り、歯を食いしばって力を込めた。大きな黒い車体がゆっくりと動き始めた。やがて男たちが押し上げた地点を過ぎても、まるでタイヤと坂道が目に見えない歯車でみ合っているかのように車はじりじりと坂道を上り続けた。真っ赤になった怪力の顔からは汗がしたたり落ち、食いしばった歯の隙間からうなり声が漏れた。私を含めて子供たちは、いつのまにか車を追って声援を送っていた。そしてとうとう怪力がひとりで車をお屋敷まで押し上げた時には、ついてきた大勢の人々が我を忘れて歓声をあげた。
 伯爵は自分の役に立つことがどれほどの恩恵をもたらすか、機会あるごとに人々に知らしめるのを怠らない性格だった。そこで、高齢で耳が遠くなっていた博物館の警備員を引退させ、新たな警備員として怪力を雇い、さらに家具付きの守衛室を住居として提供したのだ。
 以来、怪力は青いサージの制服を着て博物館に座るようになった。口数の少ない控えめな性格だったので、来館者を黙って見ているという仕事は性に合っているようだった。もっとも普段は訪れる者もほとんどなく、やることといえば窓から迷い込んだテントウムシを捕まえて外に逃がしてやるくらいだったけれど。
 写真の中の怪力もやはり警備員の制服姿で、パラソルの老婆の襲撃から首をすくめて逃げ出そうとしている。怪力と一緒にいた〈葉巻屋〉が先に気がついたのだろう、おどけた身振りでパラソルの老婆の方を指さしている。
 すり切れた鳥打ち帽をかぶった葉巻屋は、町一番の情報通だった。といっても、葉巻を買いに来た客から噂話を仕入れていたわけではない。そもそも葉巻屋は、葉巻を売っていなかった。煙草の吸い殻をほぐして残り葉を集め、それを薄い紙で巻き直して売ることを生業なりわいとしていたのだ。そのため一日の半分は人の集まる場所をあちこち歩いて吸い殻を収集しており、おのずと様々な情報が耳に入ってきたわけだ。
 葉巻屋はよくしやべる陽気な男で、鼻歌を歌いながら一本の煙草を五秒で巻く熟練の技の持ち主だった。また商才もあったらしく、燃えにくいおがくずを葉に混ぜて吸い終わるまでの時間が長くなるように工夫したり、自主的に吸い殻を集めて持ってくる者に煙草を値引きして売ってやったりしてそこそこに繁盛していた。
 古い写真には、私と同じように当時まだ家の中の子供だった二人も写っている。
 ひとりは赤毛のハットラ。彼女は両親にはさまれて円テーブルに座っている。あの頃、ハットラはたったひとりで広い世界に通じる扉を開けようとしていた。
 もうひとりは優等生のカイ。彼は分厚い本を抱え、憂いに沈んだ顔をして、人混みの中に立っている。カイはこの町の暗い秘密を知ってしまったことで苦しんでいた。だが私はそのことに気づかなかった。

 伯爵、コンテッサ、魔術師、なまけ者のマリ、パラソルの婆さん、怪力、葉巻屋、赤毛のハットラ、カイ、そして父と母。
 私がいま立っている広場に、あの夕暮れ、彼らがいた。
 なにをすればあのあとに起こったことを防げたのか、今でもわからない。
 写真が撮られてからほんの半年ほどのあいだにいくつかの事件が起こり、このうちの五人が町からいなくなった。それらは互いに響き合うように発生した一連の出来事であり、同時に深部にひとつの根を持つ事件でもあった。けれども、そのことに私が思い至ったのはずっとあとになってからだった。
 私は写真を手に、もう一度、変わり果てた町を眺めた。
 もしかしたら、いなくなった五人は、私がこのようなかたちで町に帰ってくることをも予期していたのではないか。
 初めてそう思った。

 最初のひとりがいなくなったのはお祭りの四日後、七月最初の木曜日のことだった。
 

第1章 始まりの町の少年が語る羽虫の物語

 
 クラスのみんなが帰ったあと、オト先生は僕の机の前に立つと、進路カードの提出期限を忘れていたのかね、と尋ねた。いいえ、と僕は答えた。期限が七月の最初の木曜日、つまり今日だということは覚えていた。明日から夏期休暇が始まるのだから忘れようがない。
 僕は初等科の七年生で、進学を希望すれば九月から五年制の中等科へ進むことになる。中等科は校舎の西翼にあるので、実際にはカードの進学の項に印をつけて先生に渡し、教室を移動するだけだ。だが中等科に行ってもクラスの顔ぶれがほとんど変わらないことを考えると、心躍るような五年間が待っているとは到底思えなかったし、町には僕より年下でも働いている子供が大勢いた。そういう子供たちは品物の名前が読めて日当や釣り銭をごまかされずにやっていけるようになれば、初等科の途中であっさり学校に来なくなっていた。つまり僕も進学せずに仕事に就くという選択肢がないわけではない。
 僕の考えを見透かすように先生が言った。
「ハットラは中等科で頑張っているよ」
 先生の言いたいことはわかった。ハットラが立派にやっているのだから、君にだってできるはずだ、という婉曲えんきよくな励ましだ。
 たしかにハットラと僕のあいだにはひとつだけ共通点があるが、その一点をのぞけば僕たちはまるで違っていた。まずハットラは女の子で、僕より三学年も上だ。さらに素晴らしい俊足で、秋に行われる中央府の大会に町の代表としてただひとり選抜されている。たまに町の通りで見かけることがあったが、ハットラはいつも脇目も振らずに急ぎ足で歩いていた。固く唇を結び、じっと前方を見つめた目は、トラックのスタートラインに立つ時の張りつめた表情と少しも変わらない。赤い髪を短く切りそろえたハットラは、どこまでも飛び続ける矢のように孤独で真剣だった。
 それにひきかえ僕は、絶えず辺りの様子をうかがっている落ち着きのない生徒だった。もちろん好きでそうしているわけではない。僕を小突き回す〈遊び〉にいまだ飽きることのない級友たちを出し抜くために、彼らの待ち伏せを事前に察知する必要があったからだ。失敗すれば、屈辱と痛みに満ちた時間が通り過ぎるのをひたすら奥歯をみしめて待つほかない。僕の脇腹と背中には、直近の失敗のあとがまだ鈍色にびいろのあざとなって残っている。
 オト先生は黙ってうつむいている僕に小さくため息をついた。それから、七月の終わりまでに進路を決めなさいと言った。僕はお辞儀をし、帆布のかばんはすがけにして教室を出た。
 すでに正午を過ぎており、古い石造りの校舎は静まりかえっていた。昨晩、一睡もしていないせいだろう、体がだるくのどが渇いていた。
 オト先生の言った七月の終わりが、百年も先のように思えた。その頃自分自身がどんなふうになっているのか見当もつかなかった。
 僕にとって今日が一日目なのだ。
 大きな変化のあとの最初の一日。町の人間はまだ誰も知らない。僕は少しずつ新しい秩序をあみだし、それに自分を慣らしていかなければならない。
 まず土曜日までのことを考えろ。僕は自分に言い聞かせた。父さんが帰ってくるのは土曜日だ。それまでになにをしておけばいいのか。
 どのように行動すれば人々に不審を抱かれずにすむのか、警察にはどのタイミングで知らせるべきなのか、スベン叔父おじさんに先に連絡するのが妥当だろうか。考えなければならないことは山ほどあった。
 だが僕の思考はまるでコマのように同じ場所で無意味に高速回転するばかりで、ひとつの解決策も浮かんでこなかった。
 校庭に続く玄関扉を開けると、いきなり人影が近づいてきた。まぶしい光に目が慣れるまでの一瞬、僕は待ち伏せを予感して立ちすくんだ。それが〈遊び〉に執着する級友のひとりではなく、カイだとわかって安堵あんどはしたものの、同時に少なからずうんざりもした。案の定、カイは夏でも蒼白あおじろいこめかみに筋を立てて詰め寄ってきた。
「君は卑怯ひきようだぞ、トゥーレ」
 僕は無視して歩き出した。
「どうしてつづり方の答案に名前を書かずに提出したんだ」
 カイは図書室の分厚い本を抱えて追ってきた。
「うっかりして書き忘れたんだ」
「いや、わざとだ。零点を取るためにわざと名前を書かなかったんだ。なんでそんなことをしたのか言ってみろ」
 カイは僕が意図的に零点を取った理由を勝手に決め込んで憤慨しているのだ。君の考えはまったくの見当違いだとはっきりわからせない限り、どこまでもついてきそうだった。
 僕は立ち止まってカイに向き直った。
「僕が名前を書かなかったのは、カイに一番を譲るためじゃない。僕にはそんなことをするいわれはない」
 たとえ君が判事の息子であっても。僕は胸の中でそう付け加えた。父親が町の有力者であるという事実が、カイに誤った思い込みを抱かせたのだろうから。
 カイの表情にはなんの変化も現れなかった。納得したかどうか定かではなかったけれど、僕はかまわず足早に校門を出た。友達というには僕たちはもうあまりに遠く、互いに理解できない存在になっていた。
 カイと話すようになったのは五年生の頃、学校ではなく映画館のロビーでだった。町で一軒の映画館に新しいフィルムが来るのは三ヶ月に一度、長い時は半年に一度なのでいきおい同じ映画を繰り返し観ることになるのだが、受付でスタンプカードに判を押してもらえば二度目は半額、三度目以降は無料になるので、揚げ菓子やレモン水を我慢すれば子供の小遣いでなんとかなる。それでも初等科の生徒で足繁く映画館に通っていたのはカイと僕だけだったから、ロビーで顔を合わせるうち自然と言葉を交わすようになった。
 帰りは二人で自転車を押して海岸公園を歩きながらいろんな話をした。映画の話だけでなく、いつもニコリともせずに判を押す受付のマリのことや、死を超える恐怖と噂される青年団の入会儀式に関する推論、明け方に町外れを通る水色の長距離バスはどこから来てどこへ行くのか。話題は尽きず、僕たちはしばしば海岸通りの街灯がともるまで話し込んだ。カイは僕にとって初めての同年代の友達だった。
 ところが冬休みが終わった頃からカイは突然、映画館に来なくなった。教室でも不機嫌に押し黙っていることが多くなり、ついに新年の祝賀講話で来賓がしやべっている最中に大声で暴言を吐いて一週間の停学になってしまった。僕は心配でたまらず、なにかできることはないかと声をかけたけれどカイは見向きもしなかった。そうかと思えば、近づくだけでご機嫌取りだと僕を激しく非難した。
 カイは苛立いらだち、なにもかもに腹を立てているようだった。僕はわけもわからず傷つけられることにんでカイから遠ざかった。
 もし以前のままのカイだったら、僕は昨晩自分がしたことを打ち明けただろうか。
 そんな思いがふと頭をよぎった。
 そうであれば、そうできれば、どんなにいいだろう。
 その時、急に後ろから腕をつかまれた。驚いて振り返ると、カイが荒い息をつきながら僕をにらみつけていた。
「僕に一番を譲るのでなければ、ほかにどんな理由がある」
 失望と怒りで、昨晩から張りつめていた気持ちが破裂しそうになるのを僕は懸命にこらえた。喉に大きな石でも詰まったかのように息ができず、たちまち頰から耳、額まで熱く真っ赤になるのがわかった。カイの顔に初めて僕を気遣うような心配そうな影が浮かんだ。瞬間、僕に自分のもろさを思い知らせたカイを憎んだ。
 なにか言おうとするカイを、僕は両手で力いっぱい突き飛ばした。カイはすごい勢いで後ろへふっ飛んでひっくり返った。カイの運動靴の裏の白さが目に残り、喉がヒュッと音をたてて息を通した。僕はあとも見ずに駆け出した。
 道のところどころで消え残った水たまりが光を乱反射させていた。
 斜がけの鞄が跳ねて責めるように背中を打った。
 フヨウの生い茂る角を曲がると、うちの庭のフェンスが見える。そこまで来て僕は眼前の光景に棒立ちになった。ペンキのげかけた白いフェンスに巡査のベルさんの自転車が立てかけてあったのだ。
 家に警察が来ている。
 鼓動が急激に速まり、なにも考えられぬまま家へ近づくと、朝、僕がかぎかけて出た玄関の扉が大きく開け放たれていた。それができるのは僕以外にはひとりしかいない。
 父さんが戻っているのだ。土曜日までは帰ってこないはずなのに。警察を呼んだのは父さんだ。
 全身がすっと冷たくなった。
 父さんは、地下室のあの大きな衣装箱を開けてしまったのだろうか。だとすれば僕はどうすればいいのか。
 家の中から父さんの苛立たしげな声が聞こえた。
「だから買い物なんかじゃないんだよ、マーケット通りにはいなかったんだから。昼飯にはトゥーレが戻るのに、アレンカが家を留守にするはずがないんだ。きっとなにかあったんだよ」
 父さんは、母さんがどこかで事故かなにかに遭ったのではないかと考えているのだ。つまり、まだ地下室の衣装箱を開けてはいない。
 半信半疑の顔で聞いていたベルさんが扉口の僕を認め、制帽をちょっとあげて、やあ、と微笑んだ。探るような表情を見られたのではないかと頰がこわばるのを感じた。だがそれどころではない様子の父さんがやにわに僕の両肩を摑んだ。
「トゥーレ、おまえ今朝、学校に行く前に母さんを見たか」
 考える時間を少しでも稼ぐために僕は、なにかあったの、と尋ねた。父さんは取り乱している自分に気づいたように僕から手を離し、ソファテーブルの上の煙草を取りながら言った。
「母さんがどこにもいないんだよ」
 そう聞いて驚いた表情を作るだけの落ち着きは取り戻していた。
 それから僕は今日、二度目の噓をついた。
「僕、すごく寝坊したんで大急ぎで家を出たから」
「母さんが家にいたかどうかわからないのか」
 僕は黙ってうなずいた。さらに、少し幼い口調で、帰るのは土曜日のはずだったんじゃないのといた。
 父さんは遠くのいろいろな町にトラックで缶詰を運んでいて、一ヶ月の半分くらいは家にいないのだが、帰ってくる日を母さんが間違えたことは一度もない。日付を刺繡ししゆうしたお手製のキルトのカレンダーには、土曜日の所に赤いピンが留められている。
 父さんは、積み荷に不良品があるという無線が入って引き返してきたのだと答えたが、力任せに擦ったマッチの軸が折れ、くわえていた煙草を床に投げ捨てた。
 次に誰が話しかけても父さんは怒鳴る。僕は慎重に沈黙を守った。
 ベルさんが、なにか急用ができたのかもしれないし、となだめるのを父さんは予想以上に激しい勢いで怒鳴りつけた。
「あんただって修繕屋の店が火事で燃えたの覚えてるだろ」
 僕は驚いて思わず父さんの顔を見た。父さんがあの火事のことを気にしていたなんて、これまで考えてみたこともなかったからだ。
 父さんはひどく深刻な目でベルさんを見据えていた。ベルさんの顔から微笑が消え、困惑したように目をそらせた。
「あれは、ただの煙草の火の不始末じゃないか」
 三月の終わり頃、商店街の端に新しくできた修繕屋の店で火事があり、ひどいやけどを負った修繕屋のおじいさんは今も病院に入っている。
 そして町では、昔から火事は災厄の前触れといわれていた。
 パラチフスが流行はやる前に、落雷で牛舎が火事になって何頭もの牛が黒焦げになったのは有名な話だったし、先代の伯爵の頃には、缶詰工場で大勢の工員が機械に巻き込まれて死亡する大事故があったのだが、その前にも夜中に港の倉庫街の一角が燃えたという。
 修繕屋で火事が出た時、僕は夜のこずえがざわざわと鳴り始めたような不安を感じた。学校でも未来の凶事を占おうと躍起になった生徒たちが、妙な文字の刻まれた降霊盤やカードのたぐい、はては台所の生ゴミの中から集めた羊や鶏の骨などを大量に教室に持ち込んだために死者も逃げ出すほどの悪臭が発生し、オト先生が、君たちは新しい伝染病をつくるつもりなのかと激怒したものだった。
 だが僕はずっと、父さんはそんな迷信じみた恐れや不安などとは無縁な人だと思っていた。というのも、父さんは大道芸の蛇使いが客を怖がらせようとして差し出した大蛇を平気で摑んで肩に乗せてみせるような豪胆な人で、驚嘆した見物客が蛇使いにではなく父さんに投げ銭をするあいだも、暴れる蛇の首をねじ上げたままカメラに向かって笑顔でポーズを決め、なおかつ、雰囲気に乗じて浮き浮きと投げ銭を拾っていた僕のうしろ頭をはたくだけの冷静さをも兼ね備えていたからだ。僕が八歳の頃、町に鉄道が走っていた最後の年の出来事だったが、週報に『恐れ知らずの男』というタイトルで掲載された父さんの写真は精悍せいかんで眩しいほどの活力にあふれていた。
 けれども目の前で不安げに押し黙った父さんは、ひどく疲れて一度に老け込んでしまったようだった。
 僕はいつだったか魔術師から聞いた話を思い出した。魔術師によると、賭博師とばくしや遠洋漁師のように自分ではどうにもならない大きな力に生死の手綱を握られている者は、言い伝えや迷信の中に符号のようなものを見出みいだすもので、そのような習性が彼らの砂時計のくびれを太くし、人よりも急激な速度で人生を歩ませるのだという。
 考えてみれば、父さんもその種の仕事に従事している者のひとりだった。
 いくつもの山を越えて遠い地へ行く運転手には、積み荷を狙う盗賊に襲われる危険が常にある。何年か前の冬に運転手たちが出発前に集まる詰め所に連れて行ってもらったのだが、入り口のコート掛けの脇に先代の伯爵が仕留めたという大きな雄鹿の剝製はくせいがあり、その立派な角に、盗賊に殺された運転手たちの認識票がさげられていた。それらのなかの薄くさびの浮いたプレートのひとつには、やはり運転手をしていた父さんの父さん、僕のお祖父じいさんの名前が刻まれていた。運転手たちはトラックに乗る前に必ずその鹿の頭をでていく。この世を去った仲間の魂に加護を求めるその行為は、同時にみずからの命を削るもののようにも思われた。
 僕は斜がけにしていた学校の鞄をそっと床に置いた。父さんが投げ捨てた煙草がソファの脇に転がっていた。
 母さんの不在という説明不能の事態を、父さんが修繕屋の火事と結びつけて考えるのは自然なことなのかもしれない。
 だが、火事と母さんは無関係なのだと僕は知っている。
 母さんがあんなことをしたのは、僕が追い込んだせいなのだ。だから昨晩、僕は決めたのだ。せめて最後は母さんの思ったとおりにと。
 なにがあっても、父さんにあの大きな衣装箱の中を見せてはいけない。
 積み荷の不良で戻ってきたのなら、父さんは数日のうちに荷を積み直して出発しなければならないはずだ。それまで、僕は父さんと同じように振る舞う。母さんの不在に戸惑い、混乱し、町のあちらこちらを捜して回る。父さんが決して地下室に目を向けないように。
「僕、マーケット通りの方を捜してみるよ」
 返事を待たずに僕は玄関を飛び出し、納屋から自転車を引っ張り出した。

(つづく)


書影

太田愛『彼らは世界にはなればなれに立っている』


太田愛『彼らは世界にはなればなれに立っている』詳細はこちら
https://www.kadokawa.co.jp/product/322002000901/(KADOKAWAオフィシャルページ)


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