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試し読み

ロンドン・ナショナル・ポートレートギャラリー所蔵 KING&QUEEN展でも注目の「ヘンリー八世像」! 中野京子『怖い絵』シリーズ特別試し読み#1

名画の新しい楽しみ方を提案する中野京子さんが展覧会ナビゲーターとなった「ロンドン・ナショナル・ポートレートギャラリー所蔵 KING & QUEEN展 ―名画で読み解く 英国王室物語―」が開催中です。
展示されている名画と共に中野さんの著作『怖い絵』シリーズから、イギリス王室歴代の肖像作品をご紹介します。


書影

『怖い絵』(角川文庫)


第一回は、『怖い絵』(角川文庫)より、

ホルバイン
『ヘンリー八世像』


1536年頃 油彩 221×149.9㎝
レスターシャー、ビーバー城美術館
UNIPHOTO PRESS


 エリザベス一世の父であり、六人の妻のうち二人までも断頭台へ送ったことで知られるイングランド王ヘンリー八世の、これは四十代半ば過ぎの全身像である。当時で言えばそろそろ老齢にさしかかろうかという年なのに、肉体にも気迫にもじんも衰えを感じさせず、男盛りの自信とごうがんに満ちあふれて見える。
 身体の向きは心持ち斜めだが顔は真正面の、いわゆるフロンタル・ビュー(正面視)──モデルを神格化し、記念碑的な作用をもたらすための角度が取られている。細部まで綿密に描きこむ描写法はふつうは対象を小さく見せるし、影を加えないと平面的になりがちなのに、この肖像はホルバインの天才的筆力によって、人体の大きさと厚みを感じさせるものになった。またヘンリー八世自身のすさまじい威圧感(外国の大使も、面前に出るたび殴られるのではとびくついたという)によるのか、描き手の、いや、もっと直接的な恐怖に近いものが伝わってくるようだ。
 こわもてでしもぶくれの顔、薄いまゆ、刈り込んだひげ、こちらを見据えるちゆうるい的な目、かくするように鋭い眼光といったようぼうや、力強い握りこぶし、けんらんたる衣装、きらびやかな宝石など、あらゆるものを動員して他者を圧しようとする彼は、で荒々しいこの時代の理想的な王者の姿を体現している。
 イングランドはまだヨーロッパ辺境の二流国でしかなく、王権神授説は浸透していないし、王といえども権力をしようあくしきっているわけではない。玉座の上に髪の毛一本でるされているという「ダモクレスの剣」が、常に命を脅かしているのだから、王としては国民はおろかしよこうに対しても、政治力財力そして実際の腕力まで誇示してみせねばならない。そのためにもこの肖像画は、地上における神たる王をあがめさせるらいはいとしての役割を、十全に果たしたといえるだろう。

 身体が大きければ、それだけで相手はおじづく。当時の高位の人々の衣服に、不自然なまでの詰め物がなされたのはその理由であろう(日本の武士のかみしもにおけるそでなしかたぎぬが、肩幅の広さを数倍に見せたのと同じ)。ヘンリー八世はもともとうわぜいがあり(百九十センチ以上だったらしい)、血色の良い堂々たるじようなので、肩から上腕にかけて大きく膨らませた衣装を着ると、巨漢ぶりはいっそう強調される。胸衣にも詰め物をしているので、まさにかくするゴリラのごとしだし、ストッキングの中の詰め物のおかげで、ふくらはぎも隆々としすぎてこぶみたいになっている。
 露骨な精力誇示もおこたらない。ひだをたっぷり取った短いスカートからのぞく「コドピース」。現代の目からはいささかこつけいだが、十五、十六世紀ヨーロッパで大流行した男性専用プロテクターである。最初、戦場でようへいたちが使ったときは実用的な金属製だったが、宮廷ファッションともなれば木綿だの絹製になり、ヘンリー八世の派手なコドピースは、なんと毛皮である。
 こうした、身体中どこもかしこも膨張させる衣装を、ほぼ同時代人のカール五世(スペイン)も着用していた(コドピースにいたっては渦巻き型である)ことが、ティツィアーノによる肖像画からわかる。ただしカールの場合、顔が細長いため、生身は貧弱だということがすぐ見破られてしまう。たっぷりした頰で、服を脱いでもヘヴィ級チャンピオンなみのヘンリー八世の迫力には、とうていかなわない。
 富のひけらかしも、尊敬を得るには重要である。下々の者は一生着たきり雀状態だった時代、珍しい布や手の込んだ裁断で作られた衣装は、今日ならさしずめ高額のブランド品といったところだ。帽子の真っ白な毛皮の価値は誰でもわかるが、リネンの下着が財産目録に載るほど貴重だったことはなかなか想像しにくい。ヘンリー八世の服のまえごろと袖の部分に眼球状の小さなスリットがたくさん入り、そこから白いリネンがのぞいているのが見えるだろう。このファッションは身体を動かしやすくするためと同時に、富の誇示でもあった。
 宝石は言うに及ばない。胸元を飾り、両手の指にいくつもめ、腕のスリット毎に縫い込み、片足の膝下にも巻きつける。どれも大粒で、王が身動きするたび目もくらむほど輝いて、光輪の代わりをしたはずだ。
 ペンダントのように見えるのは宝石ではなく、透かし彫りのふたつき携帯時計である。長らく卓上用しかなかったが、ようやくこの二、三十年前から携帯用が作られはじめたので、これは最新流行の貴重品といえる。同じく、壁や床をおおう、複雑な模様のどっしりしたつづおりじゆうたんもまた、王の財力のあかしだった。
 どうだ、とばかり見る者の前に立ちふさがるこのヘンリー八世像は、当時の人々の頭を自然に垂れさせたことだろう。

 ハンス・ホルバイン(一四九七頃~一五四三)がヘンリー八世の宮廷画家となったのは、この肖像に取り組んだころとほぼ重なる。
 ホルバインはイギリス人ではなく、ドイツのアウグスブルクに生まれ、スイスで絵の修業をした。若くしてバーゼルで名声を得、人文学者エラスムスの肖像画を手がけた縁で、彼からトーマス・モアを紹介される。『ユートピア』の著者として知られるモアは、当時、法律家兼政治家としてヘンリー八世の有能な片腕だった。モアを頼ってロンドンへ渡ったホルバインは、二年ほど滞在してスイスへもどる。
 だがやがてスイスでは、宗教改革の影響で注文が激減するようになった。ホルバインは見切りをつけ、四年後の一五三二年、永住のつもりで再びイングランドへ旅立つ。ロンドンでは順調だった。モアの肖像画や『大使たち』などを発表し、実力を知らしめる。北方ルネサンスの鋭い写実や細部へのこだわりが、イタリアルネサンスの彫刻的量感と結びつき、たぐまれな性格描写を可能にした彼の手腕の前に、他の画家たちの出る幕はなかった。
 こうしてホルバインはいよいよヘンリー八世像を手がけるわけだが、自分より六歳年上のこの王に対して、平静でいるのは難しかったと思われる。というのも自分を宮廷へ導いてくれたトーマス・モアその人が、前年、反逆罪という名目で処刑されていたし、この肖像を描いているさいちゅうにも、二度目の妻アン・ブーリンの首がねられてしまったからだ(拙著『残酷な王と悲しみの王妃』参照)。
 こういう君主に仕えることの恐怖、それも抽象的な意味ではなく、直接的肉体的危害の怖れが画面からかもし出されてくるのは、ホルバインの才能という以上に、ホルバイン自身のヘンリー八世に対するぴりぴりした反応によるのかもしれない。彼が画布の上に永遠化した王は、人間の皮をかぶった冷血動物もかくやという恐ろしさである。

 ヘンリー八世は次男だが、兄の早世のため十八歳で王位を継いだ。歴代国王の中でも屈指のインテリと誉めそやされたが、即位の翌年にはさっそく前王の側近の首を──文字どおり──切っているから、先が思いやられた臣下も少なくなかったのではないか。たいかんまもなく、兄の未亡人キャサリン・オブ・アラゴンと結婚。彼女の故郷スペインとの関係を維持するための、政略上の思惑によるものだったが、夫婦仲は悪くなかったらしい。ところが生まれた子どもたちが次々ようせいし、残ったのは女児ひとり(後のメアリ女王)の上、もはや妻に妊娠能力なしとわかったとき、焦りがヘンリー八世をいっそう残虐にする。
 折も折、若く魅力的な女官アン・ブーリンがあらわれた。彼女なら世継ぎを産んでくれるに違いないと信じた王は、キャサリンと別れようとするが、カトリックは離婚を認めない。そこで強引にヴァチカンと手を切り、破門も何のその、英国国教会を設立するという大宗教改革をひとりでやってのけ、アンを王妃の座に据えた(モアはこの措置に異を唱えて死刑になったのだ)。
 占い師たちが口をそろえて王子の誕生を請け合ったにもかかわらず、アン・ブーリンは女児(後のエリザベス一世。彼女のもとでイングランドはやっと大国の仲間入りを果たす)しか与えてくれなかった。失望と怒りと、良き助言者モアがいなくなったせいで──いや、たぶんあまりに長い間権力をふるい続けてしてしまったのだろう──ヘンリー八世はアンを始末することにした。離婚訴訟がいかに長引くかは前妻の例でりたので、もっと手っ取り早い方法、いかにも王者らしいやり方を取る。つまりアンにかんつう罪を押しつけ、一族郎党ともに処刑してしまう。
 あとがまはもう決まっている。今度こそ男児を産んでくれそうな、多産の家系シーモア家のジェーン(すでにホルバインは彼女のこわばった表情の肖像を描いていた)で、アンを殺した一週間後には式を挙げた。そしてもうすぐジェーンがお産という時期に、ホルバインは王の肖像画を描くようにと命令を受けたのだ。
 これだけのことが起こって、というより、これだけのことを起こしてなお平然としていられる人物を描くのだから、命がけとまでは言わないにせよ、画家の苦労は想像がつこう。それにこれで終わりではない。
 翌一五三七年初め、期待どおりジェーンは世継ぎ(後のエドワード六世)を産むが、さんじよくねつですぐ亡くなってしまう。アン・ブーリンの呪いと噂された。魔女も悪魔も信じられていた時代だったから、噂は説得力を持ったし、この先数世紀にもわたってアン・ブーリンの首なし幽霊の目撃たんも語りつがれてゆく。

 ヘンリー八世はといえば、すぐまた四番目の妻にする女性を物色しはじめた。男児ひとりでは心もとない。もっと多く息子を持ちたかった。
 今度は恋愛結婚ではなく、見合いと決め、十七歳のデンマーク王女クリスティーナと、二十五歳のドイツのクレーヴェ公女アンのふたりが候補に上がる。写真のない時代なので、ホルバインが王の命を受け、彼女たちのところまで出向いて肖像画を描いてくることになった。数ヵ月後、二枚のすばらしい作品をたずさえてホルバインは帰国。どちらもなかなか美人だったので、王は側近のトーマス・クロムウェルに相談し、彼の進言にしたがって、政略上有利なクレーヴェ公女の方を選んだ。



 これで結婚成立である。一五四〇年、花嫁アンが海を渡ってやって来た。真偽定かでないが、この初顔合わせでヘンリー八世は激怒したという。実物のアンが、あまりに肖像と違って、醜い、と──。
 ホルバインは震え上がったに違いない。なぜならほんとうにアンが美しくなかったかどうかは別としても、現実に王が彼女を気に入らなかったのは確かである。一度もとこりしないまま半年後、アンは年金と城を与えられて離縁されたし、何よりこの結婚失敗の責任を取らされたクロムウェルは、あっさり死刑になってしまった。
 ヘンリー八世というてつもない相手のために絵を描くということの怖さを、改めてホルバインは肝に銘じたであろう。彼が罰せられなかったのは、たまたま彼ほど才能ある画家が他にいなかったからだろう。では逆に、もし代わりの画家があらわれたら?
 これ以来、明らかにホルバインはしゆくしてしまった。ほとんど見るべき作品を残せていない。王が五番目の妻にアン・ブーリンの従妹キャサリン・ハワードをめとり、すぐまたざんしゆされたのを見届けた後(キャサリンは泣きわめいて逃げ回ったというから、ホルバインにしても、見たくはなかったろうが)、四十六歳で死去。ペストにかんしたためと言われるが、詳しいことはわかっていない。

「KING&QUEEN展」では


《ヘンリー8世》 King Henry VIII by Unidentified artist, after Hans Holbein the Younger, Probably 17th century(1536) ©National Portrait Gallery, London


『ヘンリー八世』
作者不詳(ハンス・ホルバイン[子]の原作に基づく) 17世紀か(原作:1536年)
広い肩幅と見るからに幅広の顔――。
6人の妻を持ち、2度の離婚、2人の妻やおびただしい廷臣を処刑するなど、 16世紀絶対君主の名を欲しいままにした“最強の王”ヘンリー8世。一方、愛する女性へは熱い恋文を書くロマンティックな一面を持つなどその圧倒的な個性はこれまで映画や舞台などでも多数取り上げられている。(展覧会解説より)

「ロンドン・ナショナル・ポートレートギャラリー所蔵
KING&QUEEN展―名画で読み解く 英国王室物語―」とは

作品の魅力と併せ、美しく気品に満ちた肖像画のモデルである王室の面々が辿った運命、繰り広げられた人間模様に肉迫します。背景を知って観覧することでより深い鑑賞体験ができる画期的な展覧会です。

会期:開催中~ 2021 年 1 月 11 日(月・祝)   ※会期中無休
会場:上野の森美術館
住所:〒110-0007 東京都台東区上野公園1-2
開館時間:10:00~17:00 (1月1日を除く金曜は10:00~20:00)
※入館は閉館の30分前まで
※日時指定制を導入しております。※入場・チケット購入方法ほか新型コロナウイルス感染防止対策及び最新運営情報などを公式HPで必ずご確認ください。

公式ホームページ:www.kingandqueen.jp

中野京子が贈る名画の新しい楽しみ方 角川文庫「怖い絵」シリーズ

『怖い絵』
https://www.kadokawa.co.jp/product/201012000707/
『怖い絵 泣く女篇』
https://www.kadokawa.co.jp/product/201012000708/
『怖い絵 死と乙女篇』
https://www.kadokawa.co.jp/product/201012000710/
『新 怖い絵』
https://www.kadokawa.co.jp/product/321909000205/


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