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試し読み

【㊗映画化!】同じ状況になったら、あなたにもわかるわよ……フリーライター・石橋留美子(43)の場合——椰月美智子『明日の食卓』特別試し読み④

単行本時に共感度96%(ブクログ調べ)を叩き出し、圧倒的支持を得た椰月美智子さんの『明日の食卓』。どこにでもある普通の家族に起こり得る光と闇を描き切った本作が、満を持して映画化されます!
フリーライターの石橋留美子を菅野美穂さん、シングルマザーの石橋加奈を高畑充希さん、専業主婦の石橋あすみを尾野真千子さんが熱演。それぞれ小学校3年生の「石橋ユウ」を育てる母たちの行く末は――?
5月28日からの映画公開に先駆け、3つの「石橋家」が良くわかる冒頭部分を公開します。

>>第3回へ

 ◆ ◆ ◆

 留美子はフリーのライターだが、現在はほとんど開店休業状態だ。悠宇を出産するまでは週刊誌の連載などもあったが、一年で復帰しようと思って申し込んだ保育園の抽選にことごとく漏れた。ようやく入園が決まったと思ったら、悠宇がしょっちゅう熱を出し、休んだり呼び出されたりで、仕事どころではなかった。そうこうしているうちに巧巳を妊娠した。
 悠宇が年長になった頃からめったなことでは風邪をひかなくなったので、ライター仕事の売り込みをはじめたが、ブランクは大きく、かつての知り合いも異動していたりで、なかなか仕事は舞い込んでこなかった。
 ブログをはじめたのは、ちょうどその頃だ。誰に向けてというわけではなかった。ただ無性に、自分の気持ちを書きたかった。流れていく話し言葉ではなく、文字にして記録に残したかった。
 留美子は、子どもが生まれてからの日常を書いた。へいそくされた空間で、子どもと過ごすのは拷問に近かったこと。日がな一日、子どもたちの世話に明け暮れた日々。もちろん我が子はかわいかったが、自分の時間がほんのひとときもない生活は、精神的にも身体的にも苦痛だった。
 豊の帰宅は遅く、まるで頼りにならなかったが、フリーのカメラマンである豊の仕事が順調にいっていることを思えば、仕方ないと思えた。豊に稼いでもらわなければ、生活が立ちゆかなくなる。留美子は割り切って考え、家事と子育てを一手に引き受けた。
 千葉にいる留美子の両親は健在だが、兄家族と同居しており、悠宇と巧巳と同い年の孫も二人いるので、そうそう当てにはできなかった。豊の母親はすでに亡くなっており、父親は岐阜で一人暮らしをしている。遠くに住み、高齢である義父に頼めるわけもなく、むしろ面倒を見なければならないのはこちらの方だ。
 幼い子どもたちを連れて外出するのも、今と違った苦労があった。巧巳を背負い、悠宇をベビーカーに座らせ、その間も悠宇はじっとしていることはなく、そうこうしているうちに巧巳が泣き出す。留美子の気持ちが子どもに伝わるのか、留美子があせればあせるほど、子どもたちは落ち着きがなくなった。
 電車に乗るのは最大の恐怖だった。他の乗客に迷惑がかからないように気を付けながら、子どもたちの安全を確保するのは、容易なことではなかった。かと言って、車に乗せるのも厳しかった。チャイルドシートにじっと座っていられるわけはなく、必ずどちらかが泣き出し、つられてもう一人が暴れ出す。子どもの泣き声を聞きながら、平然とハンドルを操ることは不可能に近かった。
 どこかに遊びに連れて行ってやりたいと思っても、そこに行くまでの子どもたちの負担と自分のストレスを考えると、近所の公園に連れ出すのがせいぜいだった。その頃は、豊の出張も多く、ほとんど母子家庭状態で過ごしていたからなおさらだ。
 食事をさせるのも、風呂に入れるのも、おそろしく体力を消耗した。あの頃、自分の洗髪やら洗顔やらをまともにやっていたのかさえ、留美子は思い出せない。椅子に座ってお茶を飲む時間なんて、どこを探しても見つからなかった。美容院に行く時間すらなく、半年に一度、区のサポートセンターに頼んで、たまった用事を済ませていた。
 子どもたちの病気や怪我も多かった。一人が発熱すると、治った頃にもう一人が熱を出し、そうこうしているうちに今度は留美子の体調が悪くなるという具合だった。保育園に入園したらしたで、流行はやるものはなんでももらってきた。手足口病、水いぼ、結膜炎、溶連菌、胃腸炎、インフルエンザ……。毎日のように病院へ通っていた。
 そんなこれまでの日々を、留美子はひとつずつ思い出しながら、ブログに書いていった。多少時間が経過したことにより、冷静に書くことができた。よくぞここまでがんばった、と留美子は自分をほめてやりたかった。
 子どもたちの様子と成長を書き、子育ての喜びと苛立ちをつづった。書けば、くすぶっていた感情が少しずつ消化されていった。
 最初は日記のように書いていただけだったが、読者が増えるにしたがって、留美子は誰かに読んでもらうための工夫をするようになった。そう感を排除して、おもしろおかしくコミカルに、子どもの行動と親の思いを書いていった。
 読者は順調に増えていき、それならばいっそ副収入にしたいと考えた。サイトに登録し、広告を掲載させることにした。「鬼ハハ&アホ男児diary」というタイトルだ。今では、ちょっと多めの小遣い程度の収入を得ている。
 ─スーパーでの死闘─
 と、今日の見出しを書いた。スーパーでの出来事を綴っていく。こうして書いてみると、あんなに腹立たしく思ったことも、なぜか笑えてくるから不思議なものだ。
 げんこつを食らわせたことを書こうとしたところで、留美子はふと手を止めた。これは書いていいだろうか。子どもに手を上げることは悪だといわれている昨今だ。すぐに虐待だと声をあげる人も多い。
「ねえ、パパ。げんこつしたこと書いていいと思う? まずいかな」
 いつの間にか風呂から上がって、缶ビールを手にしている豊が「ん?」と、画面をのぞきこむ。
「げんこつくらいいいんじゃない? しつけだと思わせるように書けば問題ないでしょ」
「……まあねえ」
 これまでも、体罰については何度か書いたことがあった。反応はさまざまだったが、留美子のブログの読者は擁護派が多かった。多くは、似たような騒がしい兄弟を持つ親たちだ。留美子の日常に共感し、おそらく同じような悩みを持ち、似たような日々を送っているのだろう。
 反対に、どんなことがあろうとも、絶対に手を上げてはいけないという意見もあった。もちろんその通りだと、留美子も思う。よくわかる。ちゃんとわかっているつもりだ。
 けれど、そういう意見の人の子どもたちは、決して怪獣ではないのだ。同じ男児でも、聞き分けがよく育てやすい子どももいる。仲のいいママ友のところも、悠宇と巧巳と同じ三年生と一年生だが、兄弟仲がよく、互いに手を出したことはこれまで一度たりともないという。
「下の子を妊娠したときに、お兄ちゃんに、『世界一のあなたの味方が来るよ』って、ずっと言い続けてきたからかなあ」
 そのママ友はそう言っていて、ああ、うちもそう言い聞かせておけば少しはよかったかもしれない、などと思ったりしたが、きっとそればかりではないだろう。環境ももちろんあるけれど、生まれ持っての資質もあるのだと、留美子は思う。
 本当にうちの子たちときたら、朝から晩までケンカして小突き合っている。仲がいいのは、寝ているときと悪巧みするときだけだ。ケンカして擦りむいたり、あざを作ったりするのは日常茶飯事だ。
 去年は、乗り込んだ車の後部座席でケンカをし、巧巳が悠宇に押されて、開いていたドアから転げ落ち、頭を二針縫う怪我をした。今年のはじめは、悠宇が階段からジャンプして、足首をねんした。ついこのあいだは、兄弟で取っ組み合いのケンカをして、テレビボードのガラスを割ったばかりだ。幸い怪我はなかったが、DVDデッキにガラスの破片が入って使えなくなり、ガラス面はそこだけない。
 はあーっ。
「なに、大きなため息ついちゃって。疲れてるんじゃない?」
 豊が隣に立って、わざと変な顔を作る。留美子は、疲れてるに決まってるでしょー、と、同じく変顔を作って答えた。
「いちごでも食べる? 今日おすそ分けでもらってきたんだ」
「うん、食べる食べる」
 オッケー、と言って、豊が台所に立つ。普段の家事は一切やらないけれど、気が向いたときはこうして動いてくれる。本当は、もっと子育てに協力してほしいところだけれど、その時間が取れないのだから仕方ない。不在の人間を頼ってはいられない。
 とにかく夫には、仕事をがんばってほしいというのが、今の留美子の第一願望だ。互いに不安定な職種なので、稼げるときに稼いでもらいたい。子どもの養育費も、これからどんどんかかっていく。結婚したときに購入したマンションのローンも、あと五年残っている。
 留美子は結局、ブログにげんこつのことを書くことにした。わざと誇張して書くようなことはないが、わざと書かないことはある。けれど基本、ありのままの出来事を書くことに決めている。
 げんこつへの批判はしんに受け止める覚悟だが、留美子はひそかに、その程度のことを声高に否定するような人間こそが悪だと思っている。いくら口で注意しても、聞かない子は聞かないのだ。げんこつで、一瞬でも聞き分けがよくなってくれればそのほうがまだましだ。
「いちご、どーぞー」
 豊の声に、留美子はパソコンの前から離れ、ダイニングチェアに座った。
「甘くておいしい」
 と留美子が言うそばから、豊はいちごをつぶして砂糖と牛乳をかけている。
「いやだ、もったいない」
「いちごは、これがいちばんうまい」
 そう言って、顔をほころばせながら食べる。四十六歳のいっぱしの大人のくせに、豊の味覚はまるで子どもだ。
「今日の撮影はどうだったの? 『Gold moon』だったんでしょ?」
『Gold moon』は三十代女性をターゲットにしたファッション誌だ。豊の腕を買ってくれ、もう三年ほどの付き合いとなっている。「撮影 石橋豊」というクレジットを見つけるたびに、留美子はうれしいような照れくさいような、あんするような心持ちになる。
「うん、まあ、いつも通りだよ。でも、モデルもどんどん替わっていくなあ」
「まさか、手を出したりしてないでしょうね」
 留美子が言った瞬間、豊が、ぶっ、と牛乳を噴いた。
「やだあ、汚いー」
 思わずそう言うと、「おかしなことを言うからだっ」と、口のまわりをぬぐいながら豊が叫んだ。
 豊はバツイチだ。留美子と結婚した当時はすでに離婚してひさしかったが、元奥さんは雑誌の読者モデルだったそうだ。
 豊とは、ライター時代に知り合った。旅行ガイドブックの仕事で、取材に行ったときのカメラマンが豊だった。留美子よりも三つ年上だが、少年をひきずっているような表情や、ぶっきらぼうにやさしいところにかれた。短気な面もあるが、顔を合わせることが少ないので、ケンカにもならない。
「明日はオフだから、どこか行こうか」
「めずらしいじゃない。どういう風の吹き回し? やっぱり浮気でもしてるんじゃない?」
「なんだよー。あ、もしかして、おれに浮気してほしいとか?」
「そうねえ、家族に迷惑かけないならいいよ」
「……寛大なのか見放されてるのか、わかんねー。ていうか、実は留美子が浮気してたりしてな」
 豊の言葉に、留美子は声をあげて笑った。
「もう、そういうあれこれ、ほんっとどうでもいい。セックスなんて、これから一生しなくてもなんの支障もないもの」
 留美子の言葉に、豊が一瞬固まる。男というのは本当にロマンチストというか、夢見がちだと、留美子は思う。
 実際、恋愛なんてどうでもいい。若いときは、常に誰かと付き合っていなければ気が済まなかったが、今となっては、恋だの愛だのは、銀河系のはるか遠くにあるシロモノとなっている。
 夫の浮気についても、留美子はどうでもいいと思っている。したければどうぞ、という心持ちだ。もちろん、気分的におもしろくはないだろうけれど、こちらに火の粉が飛んでこなければ、好きなようにしてくれてかまわない。
 そんなことにかまけている暇があったら、留美子は自分の仕事をしたかった。巧巳も就学し、いち段落したところだし、そろそろ本格的にライター仕事を再始動したいと思っている。豊もその点に関しては、応援してくれている。
「今、この芸人、勢いあるなあ」
 テレビに映ったお笑い芸人を見ながら、豊が話題を変える。
「うん、悠宇が大好きで、よくモノマネしてるわよ」
「へえ、そうなんだ」
 豊が子どもたちと過ごす時間は少ない。一年生と三年生の子どもたちは、もしかしたら豊のことを、六年生くらいの上級生男児くらいに思っているのかもしれない。豊が参加すると、子どもたちはさらにパワーアップするが、男三人で笑い合っている光景を見るのは悪くない。
 明日はどこに行こう。どこに行っても、悠宇と巧巳は騒がしいに違いないけれど、ひさしぶりに家族四人で出かけられる。声はれると思うけれど、たのしい日曜日になればいいなと、留美子は思った。

(つづく)


書影

椰月美智子『明日の食卓』
定価: 748円(本体680円+税)
※画像タップでAmazonページに移動します。


椰月美智子『明日の食卓』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321806000298/


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