【連載小説】「女ってのは、自分が正義だと思ってるからな。自分だけのルールを男に押しつけて生きている」 椰月美智子「ミラーワールド」#3-8
椰月美智子「ミラーワールド」

※本記事は連載小説です。
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退院を明日に控えた日、義父の飛び込み客がやって来た。義父の飛び込みの客は何人か訪れたが、事情を説明すると皆心から心配し、それならなおさらと言って、義父の退院後に来院することを約束して帰って行った。
「あら、
あっ、と隆司は思った。以前、義父の腕にキスをして、帰りがけに義父とハグをした女性だ。
「明日退院ですので、明後日からは店に出ると思います」
隆司は義父の状態を説明し、そう言った。
「明日出かける予定があるから、どうしても今日カットしてほしいのよ。あなたじゃダメなわけ?」
「わたしでよろしければ、切らせて頂きます」
「わたし、
そう言って相原さんは手を差し出した。隆司も手を出して握手をした。予約のお客さんからキャンセルの連絡があったところで、ちょうど時間が空いていた。
「カラーもしてもらえるかしら? 白髪が目立ってきて困っちゃうから」
「かしこまりました」
「昭平ちゃん、心臓が悪かったなんてねえ」
「ええ、そうなんです。でも手術の予後もいいですし、これまで以上にはりきって店に立ってくれると思いますよ」
隆司の言葉に、あはははは、と相原さんは笑った。
「昭平ちゃん、もう歳なんだから、無理に店に立たなくていいんじゃない? 腕だって、あなたのほうが上でしょ? もう隠居すればいいのにねえ」
「はあ」
「わたしね、ずっとあなたにお願いしたかったの。でも昭平ちゃんに悪いからねー。今日はいいタイミングだったわ」
「……あの、義父とはお知り合いかなにかですか」
妙な聞き方だと思いながら、隆司はたずねた。
「知り合い? おもしろいこと聞くのね。わたしはこのお店に髪を切りに来ているだけよ」
「失礼なことをおたずねして、申し訳ありません」
ずいぶん親しげに見えたが、義父とはただの理容師とお客の関係のようだ。
「この辺りも最近は空き家が多いわねえ。古民家カフェとか流行ってるみたいだけど、そういうのは昭和中期あたりの建物で、木造の色とかたたずまいとか素敵なのよ。空き家で売れ残っているのは、昭和の後期に作られたお宅。使い勝手が悪くて、新鮮な古さもない。中途半端なのよね。リフォームするにもお金かかるし」
相原さんは、不動産業を経営しているということだった。
「どのくらい切りますか」
「裾が伸びてきたからきれいに刈り上げてちょうだい。上のほうはそろえる程度で」
「かしこまりました」
相原さんはおそらく六十代後半だろうと、隆司は見当をつけた。
「ああ、サッパリしたわ。ショートだとちょっとでも伸びるとだらしなく見えるからね」
四週間に一度のカット。真っ赤なセーター。質のよさそうな起毛のグレーのパンツ。
「では、このままカラーに入りますね」
色味を決めて、毛染めの作業に入る。カラーをしている間も、相原さんは饒舌だった。バツ二で子どもは三人、孫は二人だということだった。聞いてもいないのに、相原さんは自ら告白した。結婚には向かなかったわ、と豪快に笑う。
「昭平ちゃん、あなたにちょっと意地悪よね」
ハッとした。きっと店での二人の様子を見て感じたことなのだろう。隆司は、肯定とも否定ともつかない笑顔を返した。
「
なんとも答えようがなく、はあ、とお愛想笑いをする。
「婿はさ、絶対に自己主張しちゃいけないのよ。婿っていうか、男全般よね。とにかく女の言うことを聞いてれば万事OK。男の権利とかガラスの天井とか言って騒いでる男たちいるけど、これまでの長ーい歴史があるんだから簡単には変わらないっての。自分で食べて行く力もないくせに、男は口だけ達者だからね」
隆司がなにも答えないでいると、
「あら、あなたはべつよ。こうしてちゃんと手に職をつけて自分の食い扶持を確保してるでしょう。立派よ」
そう言われても、どういうわけかまったくうれしくなかった。
「カラーが終わりましたので流しますね。シャンプー台へどうぞ」
理容店のシャンプー台は、たいてい頭を前に倒すタイプが多いが、理容室SUMIDAには後ろに頭を倒すタイプのシャンプー台もある。女性客や若者を見込んでのことだ。
「そのまま後ろに頭を倒してください」
相原さんはゆっくりと身体を倒した。
「お湯加減はいかがですか」
「ちょうどいいわ」
「指の強さはいかがでしょうか」
「気持ちいい~」
うっとりしたように言う。隆司はシャンプーが得意だった。隆司のお客さんは、ほとんど全員がシャンプーまでしていく。
「力加減が絶妙よ。うまいわ。ほんと上手」
はあ、気持ちいい~。はあ~っ。大きな息を吐く。
「ずうっとこうしていたいわあ。はあ~、気持ちいい」
本気で気持ちよさそうにしてくれるので、隆司も心を込めてシャンプーをした。
「頭起こしますね、せーの、ハイ」
相原さんの頭を持ち上げながら、同時に椅子をおこした。髪をタオルドライする。
「ああ、気持ちよかったわ。時間が止まればいいと思ったぐらいよ」
「ありがとうございます。では、お席のほうへ……」
そう言って、隆司が相原さんの膝掛けを外したときだった。いきなり、グッと、股間をつかまれたのだった。
「ちょ、ちょっとおう!」
妙な裏声が出た。思わず腰を引く。
「なにするんですか」
「あはは、なんだか触りたくなっちゃって」
まったく悪びれた様子もない。
「セクハラですよ! 通報しますよ!」
と隆司は心のなかだけで叫び、実際には「やめてくださいよう」と、半笑いで返した。
席に案内し、髪を乾かす。隆司が相原さんの横に出ると、相原さんはまた手を伸ばしてきた。さっと
「やめてくださいよ」
「あはは。反射神経がいいのねえ」
その後も少しでも隆司が相原さんの横に行くと、相原さんはここぞとばかりに腕を触ったり腹をなでたりした。股間じゃないならまあいいか、と隆司は思った。
「とっても素敵になったわ。どうもありがとう」
「こちらこそ、どうもありがとうございました」
会計を終え、相原さんを送りに出たとき、あなたはスタイルがいいわねえ、と頭のてっぺんから足の爪先までまじまじと見られた。隆司は礼を言った。
「あなたとならできるわ」
「え?」
「昭平ちゃんとじゃ無理だけど、あなたとならできるわよ。じゃあ、またね」
相原さんは軽く手を振って帰っていった。
あなたとならできるわ、とはどういう意味だろうと考えながら、隆司は椅子まわりを片付けはじめた。床に落ちた髪の毛を掃いているとき、あっ、と思った。
「わかった! 相原さんは、おれとならセックスできるってことを言ってたんだ」
思わず声に出し、そのあまりの失礼さに腹が立った。
「なんだよ、それ。ムカつく」
ほうきを扱う手が雑になる。バカにされているとしか思えない。第一、なんで上から目線なんだ?
「そっちがよくたって、こっちが嫌だっての!」
大きな声を出したら、さらにムカついた。
「あんなふうに言われて、おれが喜ぶとでも思ったのかよ。値踏みされただけじゃないか。おれは商品じゃないっての! 冗談じゃない!」
股間を握られたことを思い出して、
「クソババア! 誰がお前なんかと!」
と叫び、深呼吸をした。そろそろ予約のお客さんが来る時間だ。隆司は冷たい水で顔をバシャバシャと洗い、ピシャッと頰を打った。
「仕切り直すぞ!」
気合いを入れて、相原さんへのムカムカを追い払った。
「相原フミ子? ああ、あのババアか……」
義父に相原さんが訪れたことを告げると、開口いちばんにそう言った。前に来たときとても親しげな様子だったので、意外な言葉だった。
「……あの色ボケババア」
そう続ける。
「なんかされたか?」
黙っていると、「されたんだろ?」とかぶせてきた。
「女ってのは、自分が正義だと思ってるからな。自分だけのルールを男に押しつけて生きている。特にババアは始末に負えない」
天井を見据えたまま、はっきりとした口調で言う。隆司は驚いた。こんな義父の言葉を聞くのははじめてだったからだ。義父の顔を見つめると、しゃべりすぎたと思ったのか、フンッと鼻から息を出し、
「今日はいくらだ?」
と聞いてきた。
「普段と同じくらいです」
隆司が答えると、義父は盛大に「フンッ」と鼻を鳴らした。
「明日退院ですね」
「フンッ」
その後、隆司がなにを言おうとも義父は「フンッ」としか言わなかったが、嫌な気はしなかった。むしろ愉快な気持ちだった。
翌日、義父は予定通りに退院した。義母が迎えに行ったようだったが、おそらく義母は財布を持っていっただけで、肝心なことはなにひとつしなかったはずだ。なにからなにまで、義父が自分で片付けてきたのだろう。
義父は入院前とまったく変わらない様子で店に立った。なじみのお客さんがこぞってやって来ては、義父を激励した。
忙しいと嫌みを言う間もないようで、しばらくの間、理容室SUMIDAは平穏だった。こんな日がいつまでも続いてくれるといいなと、笑顔の多い義父を見ながら隆司は思っていた。
「お父さん」
学校から帰ってきたまひるが、こわばった顔で隆司を呼んだのは、義父が退院して一週間ほど経った日のことだった。
「どうした?」
はじめて見るような長女の表情に、隆司は食事を作る手を止めて向き合った。
「一組に中林蓮って子がいるんだけど」
「ああ、中林さんの息子か。お父さんとPTAで一緒だよ」
まひるは隆司の目をじっと見つめている。隆司も、まひるの目を見つめ返した。
「どうしたんだ」
ただ事ではないまひるの様子に緊張する。
「……あのね、蓮、襲われたらしい」
「え? 襲われたって……どういう……」
まひるの言葉がうまく頭に入ってこず、もごもごと聞き返した。
「レイプされたんだって」
思わず絶句する。レイプという言葉を娘から聞いたことにも、少なからずのショックを受けていた。
「……女か」
と隆司は、自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「ううん、男みたい」
「えっ?」
隆司はまひるを見つめた。透明な水分を
▶#4-1へつづく
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