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連載

椰月美智子「ミラーワールド」 vol.15

【連載小説】仕事だけに集中できる環境で、八時間の仕事をしているほうが、だれだけ楽か。 椰月美智子「ミラーワールド」#2-7

椰月美智子「ミラーワールド」

※本記事は連載小説です。

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 冷蔵庫内のあり合わせで簡単に昼食をとりながら、なんとなくテレビをつけた辰巳だったが、ひどいニュースが流れてきて目と耳を疑った。
 新任教師を、古参の教師三人がいじめていたというニュースだった。現在、新任教師は体調を崩し通院中だという。いじめていた三人は自ら動画まで撮っており、それがテレビに流れているのだった。
 熱々のうどんの丼に顔を押しつけたり、トイレに入ったところを上から撮影したり、教科書に落書きをしたりと、大人がやるようなことではなかった。三人のうち一人は、年配の男性教諭だということで、さらにびっくりする。
 教師が聖職だとは思わないが、多くの教師たちは子どもたちのイジメに神経質になっているというのに、その教師が公然とイジメをしているとは……。そもそも、他の教師たちはなにをしていたのだろうか。こんな悪質なイジメに三人もの教師が加担していたら、校長をはじめ、職員室にいる全員の教師が気付いていたはずだ。
「いつも他の先生にイジられてる○○先生がかわいそうでした」
 と、生徒の証言まで流れていた。このまま見続けるのは精神衛生上よくないので、辰巳はテレビの電源を切った。
 神崎青のその後は、わからなかった。白石先生にたずねてみたが、情報はおりてこないということだった。もしかしたら校長は知っているかもしれないが、極秘扱いなのだろう。
 青はおじいちゃんのことが好きだったから、おじいちゃんと一緒にいられないだろうかと思うが、外の人間だから勝手なことを言えるのだ。とにかく、青の安全をいちばんに考えたい。
「シングルファザーなんて自業自得でしょ。それで子どもを虐待して、シングルに冷たい社会だとか補助金よこせとか、ほんとおかしいと思いますよ。すべて自分で選んだんだから自分の責任」
 青のことがあって以来、田島さんが毎度同じようなことを言うので、辰巳はほとほとへきえきしている。田島さんは、妻の由布子と同じだ。由布子は、シングルファザーという言葉を見聞きするたび、自業自得だと言う。自分で稼げないんだったら、離婚するんじゃないわよ、と小鬼のような顔で吐き捨てる。そのたびに辰巳は強いストレスを感じる。
「青の父親もさ、そもそも離婚しなければよかったんだよ。妻さんが男を作って出て行ったってことだけど、実際は青の父親が追い出したらしいよ。だから、家のローンも結局全部一人で支払わなくちゃいけなくなったみたいよ。まったくさ、女の浮気ぐらいどうってことなくない? そもそも男のしようがないから、妻さんに浮気されたんでしょ? 妻さんがいればフルで働かなくてもよかっただろうし。青さんへの虐待だって、自分が忙しくて余裕がないから手が出たんでしょうに。全部自分の責任ですよ。そう思いません? 池ヶ谷さん」
 出た。自己責任論。離婚も貧困も病気も生まれた環境も、すべて自分のせいだという暴論。太っているのも瘦せているのも身体が不自由なのも不器量なのも、すべて自分が悪いという暴論。人が自分の利益だけを追求して、国が困っている人に手をさしのべないと、経済的に衰退していくことを知らないのだろうか。
 田島さんのような人からすると、自分が男であることも、有色人種であることも、すべては己の責任ということになる。
「じゃあ、禿はげ頭も自分の責任ですね」
 と、かなり髪が薄くなっている田島さんに言ってやりたかったが、心のなかにとどめ、
「うちの妻と気が合いそうですね」
 とだけ返した。へえ、そうなんですか、と田島さんはまんざらでもなさそうな顔でうなずいた。

 日常は慌ただしく過ぎていく。辰巳は健康診断に趣き、三十代とおぼしき若い医師に問診された。
「中性脂肪の値が少し気になりますね。運動してますか?」
「いえ、特に」
「お仕事はパートかなにかですか?」
 パートかなにか、とはなんだろう。不愉快な聞き方だ。
「いえ」
 そう答えても続きがあるわけではなく、「タバコは吸わないんですね」とくる。なにも答えないでいると、
「パパ友とランチとかよく行くんですか?」
 と、半笑いで聞かれた。
「いいえ。行きませんけど」
「ああ、そうなんですね。ほら、よくファミレスでダベってるパパさんたちいるでしょう? あれ、見苦しいなあと思って。あはは」
 なにもおかしくなかった。
「池ヶ谷さんは専業主夫ですか? 家事の合間にお菓子とかよく食べたりします?」
「いいえ」
 専業主夫とお菓子の両方に対して、辰巳はいいえと答えた。
「脂質を控えて、運動してください。以上です」
 医師はそう言うと、椅子をくるっと回転させ、机に向き直った。ひとつに束ねた長い髪が跳ねて辰巳に当たりそうになり、思わず顔を引っ込めた。医師は、それきり辰巳のほうを見なかった。
 あれで医者と言えるのだろうかと、辰巳は鼻息荒く帰り道の自転車をこいだ。パート勤務や専業主夫をばかにした態度。当たり前に男を見下す物言い。辰巳は、特に仲の良いパパ友はいないのでランチなどはしたことがないが、パパたちがファミレスでランチをして、なにが悪いのだろうと思う。
 世のパパたちは、家のことや子どものことを一手に引き受けているのだ。掃除は掃除機をかけるだけではない。風呂場、洗面台、トイレのカビや水あか取り、窓拭き、サッシ掃除、外回りの掃き掃除、棚の上のほこり取りなどキリがない。
 洗濯だって洗濯機を回して、干して畳むだけではない。季節に合った服の入れ替え、クリーニング店への持ち運び、布団干し、カーテンの洗濯など、さまざまだ。食事作りだって、栄養バランスを考えての、日々の買い物や料理は大変だ。
 子どものことだってそうだ。学校への持ち物の用意。学納金など、釣り銭なしの金額の準備。習い事の日程、振り替え。予防接種。病気やケガでの通院。すぐに履けなくなる、うわばきや靴。身体に合った服や下着。弁当作り。あらゆることを組み合わせて同時に考え、動かなければならない。あげればキリがない。パパ友とのランチだって、立派な情報交換の場だ。
 こんなことが女にできるのか、と辰巳は言いたい。仕事だけに集中できる環境で、八時間の仕事をしているほうがどれだけ楽か。泊まり込みでの家政夫の日当を一万八千円とすると、一ヶ月で五十四万円だ。由布子の月収よりよほど高い。主夫はその金額分、働いているのだ。
 辰巳はペダルをこぐ足を止めて、空を見上げた。秋晴れの気持ちいい青空に、うろこ雲が広がっている。このところ、ぐっと朝夕の気温が下がってきた。あんなに暑かった夏も、過ぎてしまえば、つかの間の幻のようにすら思える。
 昨日、保険料控除の証明書が今年はじめて届いた。年賀状印刷のDMも早々とポストに入っていた。今年ももう終わりなのだと、感慨深く感じる気持ち半分、やけにあせるような気持ち半分だった。

▶#2-8へつづく
◎全文は「小説 野性時代」第206号 2021年1月号でお楽しみいただけます!


「小説 野性時代」第206号 2021年1月号

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