【連載小説】子どもたちには、自分のように何かをあきらめた上での主夫にはなってほしくない。 椰月美智子「ミラーワールド」#2-6
椰月美智子「ミラーワールド」

※本記事は連載小説です。
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インターフォン越しに息せき切った声が聞こえた。すでに児童はみんなお迎えが来たあとで、教室には誰もいなかった。少々お待ちください、と辰巳は答えて、すぐさま職員室に連絡を入れた。おそらく、青空教室の出入口ですでに他の教員が待機していることだろう。
「どうなるんだろうね。警察に連行されるのかな?」
いつもはとっとと帰るくせに、まだ残っている田島さんが愉快げな口調で言う。体力差を盾に、男が女に手を出した場合は即逮捕だが、我が子に対してだけ、法律はグレーゾーンだ。しつけという、手前勝手な名目が成り立っている状況である。
「田島さん、ずいぶんうれしそうですね」
辰巳が返すと、そんなことあるわけないでしょ! と語気荒く返し、瞬時に顔を引き締めた。
虐待の疑いがある親と、保護された子どもはしばらく会えないことになっている。ここからは児童相談所の管轄になると思うが、とにかく青には安全な場所で、安心して過ごしてもらいたい。
「でもまあ、しばらくしずかに過ごせるね。よかったよかった」
田島さんは、青が学童保育に来ないことを暗に喜んでいるのだ。正真正銘の嫌な奴だと辰巳は思った。
辰巳が帰宅したとき、すでに辰巳以外の家族は帰宅していた。
「腹減った。夕飯なに?」
と耕太が聞く。俊太はゲームに夢中だ。由布子はお茶を飲みながら、ダイニングテーブルで新聞を広げて読んでいる。
今日は、教員採用試験の合格を祝って、寿司でも取ろうかと考えていたけれど、青のことを思うと、なんだか気が引けた。けれど、夕飯の支度はなにもしていなかった。由布子はもちろん、なにもしていない。
「たまには外食するか」
「やったね」
「なにがいい?」
「やっぱ焼き肉だな」
「えー、胃もたれする」
由布子は言うも、子どもたちはおかまいなしだ。
とりあえず車で出かけることにした。行こうと思っていた評判の焼き肉店は定休日で、焼き肉食べ放題のチェーン店は満席だった。
「回転寿司でいいじゃない。お寿司が食べたいわ」
辰巳の気持ちを知ってか知らずか由布子が言い、結局、回転寿司店に入ることになった。のれんをくぐって入るような寿司店には、とてもじゃないが子ども二人を連れては入れない。耕太と俊太で、一ヶ月分の食費が軽く飛ぶことだろう。
四人がけのボックス席。レーン側に座るのは、たいてい由布子と耕太だ。二人がある程度注文したあとで、辰巳と俊太が注文することになる。
辰巳は腕を伸ばして画面にタッチし、ビールを注文した。
「は? なんでビール? 運転どうするのよ」
由布子が不審そうな顔で、辰巳を見る。
「お祝い。おれ、教員採用試験に合格したんだ。帰りの運転頼む」
「えー、わたしも飲みたいんだけど、まあ、いいわ。試験受かったんだね、よかったじゃん」
「なにお父さん、仕事はじめるの?」
「えっ、まじ? 先生ってこと?」
耕太と俊太が顔をあげる。
「いつから?」
「来年の春から」
へえー、と子どもたちが声をそろえる。
「ねえ、パパが働きはじめたらご飯とか掃除とかどうするの?」
「家事は全部半分ずつ分担しよう」
「えー!? 無理に決まってるじゃない」
由布子が不機嫌な声を出したところで、ビールが届いた。
「乾杯!」
辰巳がジョッキを掲げると、いつの間にかコーラを頼んでいた耕太と俊太もグラスを掲げた。
「お父さん、おめでとう」
耕太が言い、俊太も、おめでとうと言ってグラスを合わせた。
「わたしも仲間に入れてよ」
と、由布子が湯飲みを持ち上げる。家族四人で乾杯し、辰巳は一気に半分ぐらい飲み干した。ひさしぶりのビール。胃がキンと冷える感じが心地良かった。
寿司をつまみながら、辰巳の脳裏に、何度となく青と青の父親のことが浮かんだ。そのたびに、自分にできることはないのだから仕方ない、と言い聞かせ、彼らに意識を持っていかれないようにした。
「これから忙しくなると思うから、耕太も俊太も家のこと手伝ってな」
辰巳の言葉に、二人はにやにやしただけではっきりとは答えなかったけれど、ちゃんとわかってくれているはずだと辰巳は思う。問題は、妻の由布子だ。辰巳が教員として働き出したら、些細なことで感情的になり、辰巳や子どもたちに当たりまくるだろう。想像するとどこまでも憂鬱になるが仕方ない。
と、そこまで考えたところで、近頃「仕方ない」で片付けることが多いことに気付く。面倒なことはすべて「仕方ない」というラベルのついた引き出しに仕舞ってしまう。年をとったせいかもしれないが、よくないことだと反省する。
次々と注文し、ろくに
「回転寿司でよかった。破産するところだったよ」
辰巳が肩を持ち上げると、まだまだ食える、と耕太は言い、おれ、ラーメン食べようっと、と俊太が画面にタッチした。由布子は、寿司の合間にケーキをつまんでいる。
でもまあ、こうして家族四人がそろっているのはいいことだ。とりあえず、来年のことは来年考えることにしようと辰巳は思った。
▶#2-7へつづく
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