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連載

椰月美智子「ミラーワールド」 vol.13

【連載小説】子どもたちには、自分のように何かをあきらめた上での主夫にはなってほしくない。 椰月美智子「ミラーワールド」#2-5

椰月美智子「ミラーワールド」

※本記事は連載小説です。

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第四話

「おはよう」
「……お、おはよう」
「いきなりだけど、ここ教えてくれる?」
 そう言って、Aくんが椅子をまたぐように後ろ向きに座って、数学の教科書を広げる。昨日宿題になっていたところだ。
「これこれ、ここの文章問題。ここんとこ、yをxの式で表しなさい、って意味わかんねー。たとえていうなら、猫を犬で表せってことだろ? できるわけないっての」
 Aくんが笑うから、思わずぼくも笑ってしまう。猫を犬って、すごい表現力だ。
「あのね、これはこの表を見て式を作るんだ。y=ax2っていう関数の公式があるから、それにあてはめていく」
 Aくんは、へえー! とはじめて聞いたような声を出してうなずいた。クスッと笑うと、笑うなよう、と肩を突かれた。ごめんごめんと言って、ぼくは式を作っていった。
「なるほど。こういうこと?」
 と言って、Aくんは他の問題を解いた。Aくんのノート、数字が整っていて、とてもきれいだ。
「うん、合ってる」
「やった。どうもありがと」
 Aくんが長い足をひょいと持ち上げて、前に向き直る。
 ぼくは、窓の外を見た。校庭のイチョウの木が色づいている。校庭の向こうには、たくさんの家々。そのひとつひとつに誰かが住んでいる。こんなにたくさんの人がいるなかで、ぼくはAくんを好きになった。
 Aくんのことが好きだという気持ちがあふれてきて、すんでのところで泣きたくなる。心臓がきゅっと縮こまったような感覚になって、思わず胸元をおさえる。
 高く青い空。チャイムの音。クラスメイトの笑い声。目にゴミが入ったのを装って、ぼくは開襟シャツの袖口でそっと目尻を拭った。

    *****

池ヶ谷辰巳

「あった! やった!」
 たつはスマホを片手に、リビングで一人ガッツポーズを決めた。春に受けた教員採用試験。ホームページ上で、今日の十時に合否の発表があった。現在時刻は十時二十七分。十時だと混み合うと思い、十時半になったらアクセスしようと思っていたが待ちきれなかった。
 合格! 来年度から教員復帰だ!
 この件はもちろん妻のも知っている。採用試験を受けると伝えたとき、通るといいねー、と軽く返されただけだったので、それ以降具体的な話はしていなかった。子どもたちにも伝えたが、へえー、とどうでもいいように返されただけだった。
 まあいい。家族とはこれから話し合っていこう。今はとにかく、うれしさが勝っている。辰巳は子どもたちに伝えたいことがたくさんあった。特に男子たちには、自分の力で生きていくことの尊さを教えたい。
 辰巳が中学生の頃は、将来の夢を「お婿さん」と答える同級生が半数はいた。今現在も「素敵な妻さんと結婚したい」という男子中学生は一定数いるらしい。
 こうしゆんの将来の夢はなんだろう。どんな職業でもいいし、主夫がいいならそれでもいい。ただ、自分のようになにかをあきらめた上での主夫にはなってくれるな、と思う。

 あけ小学校、青空教室。あおは塗り絵が好きなようだ。今日はドラゴンボールの塗り絵を持って来た。青に渡すと、集中して色鉛筆で細かく塗り出した。どんどんうまくなっていくのがわかる。
 今日は辰巳が屋外の当番なので、青にも声をかけてみた。塗り絵に夢中なので外には出ないだろうと思っていたが、意外にも青はうなずいた。じまさんと一緒にいるのが嫌なのかもしれないと、つい勝手な想像をしてしまう。
 十月。いい季節だ。運動場を吹き抜けていく風が気持ちいい。昨日は急に寒くなって、衣替えを急がなければと気がいたけれど、今日は一転、また夏日に戻ったような陽気だ。
 子どもたちは、みんなそれぞれに遊んでいる。男子はサッカー、女子はドッジボールが多い。ドッジボールはここ最近、明知小の女子の間で流行っている。青はといえば、鉄棒で逆上がりの練習をしている。
「腕の力だけじゃなくて、お尻を持ち上げて、お腹を鉄棒につけるようにするといいよ」
 辰巳がアドバイスをすると、少しだけフォームがよくなった。青は根気よく何度も繰り返している。きっと近いうちにできるようになるだろう。
 え?
 今、なにか見たような気がして、辰巳は青を振り返った。青が腕に力を入れ、足を振る。見えた。今、確かに見えた。辰巳は青の長袖シャツからのぞく腕を再度見た。ひとつ呼吸をして心を落ち着かせる。
「青さん。それ、どうしたの」
 青の腕にはアザがあった。青は辰巳の質問を無視して、足を蹴り上げている。辰巳は目を凝らした。ズボンの裾がめくれ上がってすねが見える。あった。すねにもアザがある。すねのほうは黄色みを帯びているので、日数が経過しているのかもしれない。
「どこかにぶつけた?」
 青はなにも答えない。
「誰かに叩かれたり蹴られたりした?」
 青は辰巳の顔をじっと見て、お父さん、と言った。それから、また逆上がりの練習をはじめた。
 辰巳は深呼吸をした。冷静になれ冷静になれ。
 自分が気付いたということは、おそらく学校の先生はすでに知っているだろう。だとしたら、なにかしらの行動を起こしてくれているに違いない。
 青が、これまでになく勢いよく足を振り上げた。辰巳はとっさに青の腰に手を添えて、やさしく押してやった。「痛い」と言うと同時に、ぐるり、と青が回った。
「逆上がり、できた」
「うん、できたね」
 と答えつつ、腰に手を添えた際、ほとんど力は入れていなかったはずだと辰巳は思う。
 ちょっと見せてくれるかなと断り、辰巳は青のシャツの裾を少しだけめくった。背中から腰にかけて、赤い筋のような線が入っていた。ズボンを少し下ろして確認したかったが、それはできない。
「青さん、ここ触ると痛いんだね?」
 青はなにも答えずに、「逆上がり、できた」と再度言った。できたね、と辰巳も再度うなずいた。
 辰巳は、青の父親への怒りで身体中の血管がぶち切れそうだった。あの父親の顔を思い出し、顔面を殴りつけたい衝動にかられる。
「……くそ」
 思わず声に出たつぶやきが耳に入ったのか、青がおもしろそうに辰巳の顔を見た。辰巳は慌てておどけたような顔を作って、青を見返した。
「青さん」
 青の名前を呼ぶと、今までの燃えるような怒りは影を潜め、今度は一転、えつしそうなほどの悲しみがやってきた。どうしてこんな小さい子どもに手をあげることができるのだろう。あんなにアザがつくほど、どうして殴ることができるのだろう。
 涙がにじみ出そうになり、辰巳は思わず空を見上げた。今日もきれいな青空だ。この青空の下、小さな女の子が傷ついている。こんなこと、絶対にあってはならないことだ。
 青空教室に戻る際、辰巳は職員室に寄り、二年二組の青の担任と話をした。二十代の男性教諭であるしらいし先生も、今日の青のアザを知っていた。
「腕だけだと思っていました。青さん、なにも言わなかったので……。お父さん、と言ったんですね。わかりました。どうもありがとうございます。今日のお迎えはお父さんですか?」
「はい、いつもたいていお父さんです。たまにおじいちゃんのときもあります」
「わかりました。すぐに校長に伝えます」
 辰巳も白石先生と一緒に校長室へ出向いた。
「えっ? まだ児童相談所に連絡されてないんですか!?」
 白石先生が、不快感をあらわにして校長に詰め寄る。すでに、青のアザのことは校長に伝えていたらしい。
「本当にお父さんと言ったのですか? 青さんは少し多動気味だから、自分で転んだりぶつけたりしたんじゃないのかしら」
「校長先生は、青さんのアザを見ましたか? 見た上でおっしゃってるんですか!」
 校長のお気楽な物言いに、辰巳は猛然と反発した。厚化粧の校長はようやく腰を上げ、面倒は嫌なんだけどねえ、とつぶやいた。
「これを放っておくほうが面倒なことになりますよ!」
 と、白石先生がちょっと驚くようなボリュームで言うと、校長は冗談冗談と笑った。
 白石先生は青空教室に顔を出し、そのまま青を連れて行った。青は素直だった。白石先生が味方だということを、ちゃんとわかってるんだなと思った。
 おそらく青はこのまま、児童相談所に行くことになるだろう。校長が父親に連絡を入れることになっているが、お迎えの時間も近いため、行き違いでこちらに来る可能性もある。もし父親が迎えに来たら、職員室にすぐに連絡することになっている。
「なに? なんかあった?」
 できるだけ何事もなかったかのように青の持ち物をまとめたが、めざとい田島さんが嗅ぎつけた。
「もしかして虐待されてたとか?」
 辰巳は驚いて田島さんを見た。
「やっぱりそうか。いけさん、すぐに顔に出るからわかりやすい」
 嫌な奴だ、と辰巳は思う。どちらにせよ、青の学童指導員である田島さんには伝えなくてはならないだろう。辰巳は簡単に事情を説明した。
「あの父親ならやりかねないな」
 腕を組みながらしたり顔でうなずく田島さんに、なんであんたにそんなことがわかるんだ? と辰巳は詰問したかった。そこではたと我に返る。青をあんなふうにした父親には怒りしかないが、どこかでシングルファザーである青の父に肩入れしている自分もいるのだった。
「遅くなってすみません! かんざきですけど」

▶#2-6へつづく
◎全文は「小説 野性時代」第206号 2021年1月号でお楽しみいただけます!


「小説 野性時代」第206号 2021年1月号

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