【連載小説】子どもたちには、自分のように何かをあきらめた上での主夫にはなってほしくない。 椰月美智子「ミラーワールド」#2-5
椰月美智子「ミラーワールド」

※本記事は連載小説です。
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第四話
「おはよう」
「……お、おはよう」
「いきなりだけど、ここ教えてくれる?」
そう言って、Aくんが椅子をまたぐように後ろ向きに座って、数学の教科書を広げる。昨日宿題になっていたところだ。
「これこれ、ここの文章問題。ここんとこ、yをxの式で表しなさい、って意味わかんねー。たとえていうなら、猫を犬で表せってことだろ? できるわけないっての」
Aくんが笑うから、思わずぼくも笑ってしまう。猫を犬って、すごい表現力だ。
「あのね、これはこの表を見て式を作るんだ。y=ax2っていう関数の公式があるから、それにあてはめていく」
Aくんは、へえー! とはじめて聞いたような声を出してうなずいた。クスッと笑うと、笑うなよう、と肩を突かれた。ごめんごめんと言って、ぼくは式を作っていった。
「なるほど。こういうこと?」
と言って、Aくんは他の問題を解いた。Aくんのノート、数字が整っていて、とてもきれいだ。
「うん、合ってる」
「やった。どうもありがと」
Aくんが長い足をひょいと持ち上げて、前に向き直る。
ぼくは、窓の外を見た。校庭のイチョウの木が色づいている。校庭の向こうには、たくさんの家々。そのひとつひとつに誰かが住んでいる。こんなにたくさんの人がいるなかで、ぼくはAくんを好きになった。
Aくんのことが好きだという気持ちがあふれてきて、すんでのところで泣きたくなる。心臓がきゅっと縮こまったような感覚になって、思わず胸元をおさえる。
高く青い空。チャイムの音。クラスメイトの笑い声。目にゴミが入ったのを装って、ぼくは開襟シャツの袖口でそっと目尻を拭った。
*****
池ヶ谷辰巳
「あった! やった!」
合格! 来年度から教員復帰だ!
この件はもちろん妻の
まあいい。家族とはこれから話し合っていこう。今はとにかく、うれしさが勝っている。辰巳は子どもたちに伝えたいことがたくさんあった。特に男子たちには、自分の力で生きていくことの尊さを教えたい。
辰巳が中学生の頃は、将来の夢を「お婿さん」と答える同級生が半数はいた。今現在も「素敵な妻さんと結婚したい」という男子中学生は一定数いるらしい。
今日は辰巳が屋外の当番なので、青にも声をかけてみた。塗り絵に夢中なので外には出ないだろうと思っていたが、意外にも青はうなずいた。
十月。いい季節だ。運動場を吹き抜けていく風が気持ちいい。昨日は急に寒くなって、衣替えを急がなければと気が
子どもたちは、みんなそれぞれに遊んでいる。男子はサッカー、女子はドッジボールが多い。ドッジボールはここ最近、明知小の女子の間で流行っている。青はといえば、鉄棒で逆上がりの練習をしている。
「腕の力だけじゃなくて、お尻を持ち上げて、お腹を鉄棒につけるようにするといいよ」
辰巳がアドバイスをすると、少しだけフォームがよくなった。青は根気よく何度も繰り返している。きっと近いうちにできるようになるだろう。
え?
今、なにか見たような気がして、辰巳は青を振り返った。青が腕に力を入れ、足を振る。見えた。今、確かに見えた。辰巳は青の長袖シャツからのぞく腕を再度見た。ひとつ呼吸をして心を落ち着かせる。
「青さん。それ、どうしたの」
青の腕にはアザがあった。青は辰巳の質問を無視して、足を蹴り上げている。辰巳は目を凝らした。ズボンの裾がめくれ上がってすねが見える。あった。すねにもアザがある。すねのほうは黄色みを帯びているので、日数が経過しているのかもしれない。
「どこかにぶつけた?」
青はなにも答えない。
「誰かに叩かれたり蹴られたりした?」
青は辰巳の顔をじっと見て、お父さん、と言った。それから、また逆上がりの練習をはじめた。
辰巳は深呼吸をした。冷静になれ冷静になれ。
自分が気付いたということは、おそらく学校の先生はすでに知っているだろう。だとしたら、なにかしらの行動を起こしてくれているに違いない。
青が、これまでになく勢いよく足を振り上げた。辰巳はとっさに青の腰に手を添えて、やさしく押してやった。「痛い」と言うと同時に、ぐるり、と青が回った。
「逆上がり、できた」
「うん、できたね」
と答えつつ、腰に手を添えた際、ほとんど力は入れていなかったはずだと辰巳は思う。
ちょっと見せてくれるかなと断り、辰巳は青のシャツの裾を少しだけめくった。背中から腰にかけて、赤い筋のような線が入っていた。ズボンを少し下ろして確認したかったが、それはできない。
「青さん、ここ触ると痛いんだね?」
青はなにも答えずに、「逆上がり、できた」と再度言った。できたね、と辰巳も再度うなずいた。
辰巳は、青の父親への怒りで身体中の血管がぶち切れそうだった。あの父親の顔を思い出し、顔面を殴りつけたい衝動にかられる。
「……くそ」
思わず声に出たつぶやきが耳に入ったのか、青がおもしろそうに辰巳の顔を見た。辰巳は慌てておどけたような顔を作って、青を見返した。
「青さん」
青の名前を呼ぶと、今までの燃えるような怒りは影を潜め、今度は一転、
涙がにじみ出そうになり、辰巳は思わず空を見上げた。今日もきれいな青空だ。この青空の下、小さな女の子が傷ついている。こんなこと、絶対にあってはならないことだ。
青空教室に戻る際、辰巳は職員室に寄り、二年二組の青の担任と話をした。二十代の男性教諭である
「腕だけだと思っていました。青さん、なにも言わなかったので……。お父さん、と言ったんですね。わかりました。どうもありがとうございます。今日のお迎えはお父さんですか?」
「はい、いつもたいていお父さんです。たまにおじいちゃんのときもあります」
「わかりました。すぐに校長に伝えます」
辰巳も白石先生と一緒に校長室へ出向いた。
「えっ? まだ児童相談所に連絡されてないんですか!?」
白石先生が、不快感をあらわにして校長に詰め寄る。すでに、青のアザのことは校長に伝えていたらしい。
「本当にお父さんと言ったのですか? 青さんは少し多動気味だから、自分で転んだりぶつけたりしたんじゃないのかしら」
「校長先生は、青さんのアザを見ましたか? 見た上でおっしゃってるんですか!」
校長のお気楽な物言いに、辰巳は猛然と反発した。厚化粧の校長はようやく腰を上げ、面倒は嫌なんだけどねえ、とつぶやいた。
「これを放っておくほうが面倒なことになりますよ!」
と、白石先生がちょっと驚くようなボリュームで言うと、校長は冗談冗談と笑った。
白石先生は青空教室に顔を出し、そのまま青を連れて行った。青は素直だった。白石先生が味方だということを、ちゃんとわかってるんだなと思った。
おそらく青はこのまま、児童相談所に行くことになるだろう。校長が父親に連絡を入れることになっているが、お迎えの時間も近いため、行き違いでこちらに来る可能性もある。もし父親が迎えに来たら、職員室にすぐに連絡することになっている。
「なに? なんかあった?」
できるだけ何事もなかったかのように青の持ち物をまとめたが、めざとい田島さんが嗅ぎつけた。
「もしかして虐待されてたとか?」
辰巳は驚いて田島さんを見た。
「やっぱりそうか。
嫌な奴だ、と辰巳は思う。どちらにせよ、青の学童指導員である田島さんには伝えなくてはならないだろう。辰巳は簡単に事情を説明した。
「あの父親ならやりかねないな」
腕を組みながらしたり顔でうなずく田島さんに、なんであんたにそんなことがわかるんだ? と辰巳は詰問したかった。そこではたと我に返る。青をあんなふうにした父親には怒りしかないが、どこかでシングルファザーである青の父に肩入れしている自分もいるのだった。
「遅くなってすみません!
▶#2-6へつづく
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