貴志祐介『梅雨物語』(角川ホラー文庫)の刊行を記念して、巻末に収録された「解説」を特別公開!
貴志祐介『梅雨物語』文庫巻末解説
解説
若林 踏(ミステリ書評家)
二〇二〇年代のホラー小説ブームを特徴づけるものの一つに、ミステリの要素を取り入れた作品が注目されていることが挙げられる。原浩、新名智など横溝正史ミステリ&ホラー大賞出身の新進作家を始め、例えば矢樹純などこれまでミステリを主戦場にしてきた作家もホラーの領域で両ジャンルの融合に挑むようになった。もちろん、三津田信三や澤村伊智など、昨今のホラー小説ブームが来る以前からホラーとミステリ双方の魅力を併せ持つ作品を書いている作家も力作を発表している。
そのようなホラーとミステリをまたぐ越境的な作家として、貴志祐介の名前を忘れるわけにはいかないだろう。一九九〇年代のホラーブームの最中、『十三番目の人格 ISOLA』(一九九六年、角川ホラー文庫)や『黒い家』(一九九七年、角川書店)などの作品でホラージャンルを牽引する存在となった一方で、第五八回日本推理作家協会賞長編及び連作短編部門を受賞した『硝子のハンマー』(二〇〇四年、角川書店)を始めとする〈防犯探偵・榎本〉シリーズでは多種多彩な密室トリックと、それを解き明かすロジックの流麗さに惹かれる良質な本格謎解きミステリを手掛けている。合理的に謎が解かれていくミステリと不条理な状況で読者を震え上がらせるホラー、両者の技法を熟知した作家こそが貴志祐介なのだ。
『梅雨物語』はそうした貴志の両面的な姿を味わうには格好の入門書である。本書は二〇二二年に刊行された『秋雨物語』に続く作品集で、KADOKAWAの文芸誌「小説 野性時代」に掲載された三篇の中編が収められている。本の題名から推測できるように『秋雨物語』は江戸時代の読本作者である上田秋成の『雨月物語』を想起させるような怪奇小説を集めたものだった。『梅雨物語』もホラーの範疇に入る物語が収められているのだが、前作と比べてミステリ、特に謎解きの要素がはっきりと目立つ形で使われていることが特徴である。
それは一編目に収められた「皐月闇」(「小説 野性時代 特別編集 二〇二一年冬号」)から既に色濃く出ている。元中学教師で俳人の作田慮男のもとを、かつての教え子である萩原菜央が訪ねてくる。菜央は作田が顧問を務めていた俳句部の部員で、彼女の兄である龍太郎も所属していた。菜央は作田に『皐月闇』と題された句集を差し出す。実は龍太郎は自殺しており、『皐月闇』は龍太郎が死の直前に自費出版したものだという。
物語は『皐月闇』を渡された作田が、菜央の目の前で龍太郎の遺した俳句の解釈を述べている場面で専ら構成されている。『皐月闇』に遺された俳句はどれも上手いものとは言い難く、一見すると凡庸な句ばかりに思える。だが作田は俳人としての見識を総動員して、句の裏に隠された真意を読み解こうとするのだ。俳句の解釈が物語に絡むミステリについては某古典名作(あまりにも著名な作品だが敢えて伏せる)を始めとして作例は複数あるが、その中でも「皐月闇」は異様な空気を放つ作品である。作田が『皐月闇』に収められた俳句を名探偵の如き思考で次から次へと解釈して真相を暴こうとする過程は、非常に密度の高い謎解きミステリの解決編を読まされているような気分になる。だが、本作の魅力は謎解きの濃さだけではない。作田が俳句の解釈を進めていくと、いつの間にか物語は思いもよらない方向へと捻じれていくのだ。論理的な道筋を辿っていくうちに、いつしか不穏な場所へと迷い込んでしまった感覚に陥るのが、本作の最大の美点である。
二編目の「ぼくとう奇譚」(「小説 野性時代 特別編集 二〇二二年冬号」)は昭和一一年、二・二六事件が起きたばかりの東京が舞台となる。高等遊民、数寄者をもって任じる木下美武はカフェーに集まった友人などに、この頃よく見る夢の話を語る。それは林の中を歩いていると黒い蝶が飛んでいるのが見えて、木下は蝶をずっと追いかけ続けるがどこまで行っても捕まえられない、という夢だった。その後、カフェーを出た木下は汚れ放題の修験装束に身を包む怪しい男に「お主、このままでは死ぬぞ!」と、とつぜん怒鳴られる。男は木下が黒い蝶の夢を見ていることをなぜか知っており、「黒い蝶が、お主を導く先は、地獄の他ない!」と木下に警告をする。
蝶の夢に悩まされる主人公、という幻想的な要素も孕んだ恐怖小説として序盤を読み進んでいくと、途中でミステリの趣向に近いものが投げ込まれて読者は更に物語へ没入することになる。詳述は避けるが、登場人物が切羽詰まった状況に置かれて思考を働かせなければいけない局面が描かれるのだ。『クリムゾンの迷宮』(一九九九年、角川ホラー文庫)や『ダークゾーン』(二〇一一年、祥伝社)など、貴志は極限状態に追い詰められた人間が懸命に知恵を絞る様子を好んで描く作家だが、「ぼくとう奇譚」にも一部そうした作品にも連なる味わいがある。敢えて神経を逆撫でするような描写が待ち受けるのも本作の特徴で、悪夢のような場面が頭からこびりついて離れないまま物語を読み終える読者も多いはずだ。
最後に収められた「くさびら」(「小説 野性時代 第二三五号 二〇二三年六月号」)は収録作中、最も不思議な雰囲気を放つ作品である。「くさびら」とは狂言の演目で、ある男の家に大きな茸(くさびら)が生えてくるが、取っても一夜のうちにまた生えてしまう、という話だ。つまり、キノコにまつわる奇妙な物語が本作「くさびら」では描かれることになる。軽井沢に住む工業デザイナーの杉平進也は、庭がキノコで埋め尽くされていることに気付き、シャベルと鍬で庭を掘り返すようになる。
奇抜な展開で読ませる作品でもあるため、粗筋についてはこれ以上書かない。本作も幻想小説のような入り方をするのだが、実は謎解きミステリとしての大胆なアイディアが織り込まれた作品でもあることを明言しておきたい。さきほど「収録作中、最も不思議な雰囲気を放つ作品」と書いたが、その不思議な雰囲気の作品だからこそ成立し得る、倒錯した論理が披露されるのだ。この奇妙な論理については、手練れの謎解きミステリファンでも思わず「何だこれ」と言葉を漏らしてしまうのではないだろうか。
ミステリとホラーをまたぐ作家として代表的存在の一人、というふうに解説冒頭で記したが、著者の近況を振り返ってみてもその評価は間違いないものだろう。二〇二四年一〇月に単行本化された『さかさ星』(角川書店)は呪物で埋め尽くされた旧家を舞台にしたホラー長編であると同時に、スリラーや謎解きの要素もふんだんに盛り込んだ、モダンホラーを想起させるジャンル横断的な娯楽大作だ。短編では「小説現代」二〇二四年一一月号に掲載され、のちにアンソロジー『もの語る一手』(二〇二五年、講談社)にも収録された「王手馬取り」が必読である。将棋を題材にした雑誌特集に寄せられた一編だが、非常に完成度の高い本格謎解き短編になっているのだ。一九九〇年代のホラーブームを担う書き手として出発しながらミステリやSFなど様々なジャンルを横断して作品を書き続け、更にはジャンルクロスを試みる斬新な物語を貴志は幾つも生み出してきた。ホラーとミステリが交差するタイプの作品が注目を集める昨今だが、両ジャンルを究めた作家として貴志祐介はやはり格別である。
作品紹介
書 名:梅雨物語
著 者:貴志祐介
発売日:2025年06月17日
謎を解くたびに、絶望は深まる。貴志祐介が描くホラーミステリの極北 。
自ら命を絶った青年が残したという1冊の句集。元教師の俳人・作田慮男は、かつての教え子から依頼を受け、俳句の解釈を進める。沖縄の情景を描いた句を読み解いていくうち、恐るべき秘密が浮かび上がってくる(「皐月闇」)。遊廓で蝶のような花魁たちと遊ぶ夢を見る男の末路、広い庭を埋め尽くす色とりどりのキノコがもたらす幻覚。静かに忍び寄る恐怖と緻密な謎解きが読者を圧倒する3編を収録。著者真骨頂のホラーミステリ。
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