【連載小説】仕事だけに集中できる環境で、八時間の仕事をしているほうが、だれだけ楽か。 椰月美智子「ミラーワールド」#2-8
椰月美智子「ミラーワールド」

※本記事は連載小説です。
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俊太の中学校で運動会があり、耕太の高校で文化祭があった。俊太はリレーの選手で、辰巳の想像以上に足が速かった。一人抜かして首位に立ったときは、思わず大きな声をあげてしまった。由布子は、たまの休みくらい寝かせてと言い、結局俊太の勇姿を見なかった。
耕太の高校の文化祭には、俊太と二人で出かけた。反抗期とはいえ、兄貴の高校の様子は気になるらしかった。耕太のクラスの出し物は和風喫茶で、
十一月も間近に迫ったその日、連絡もなしに二十二時を過ぎて帰宅した由布子が、「ヤバい」と言い出した。
「マジでヤバい……」
「ご飯は?」
由布子はなにも答えず、中学生のように、ヤバいヤバいと繰り返す。
「……マズいことになったわ」
見れば顔面
「なにかあったのか?」
由布子はテレビ画面を凝視している。
「……これ」
と、テレビを指さす。教師による教師イジメのニュースの続報だった。
「これがどうしたんだ」
「……わたしも逮捕されるかもしれない」
由布子はそう言って膝をついた。
その後由布子から聞かされた話に、辰巳はただただ驚いて固まった。到底信じられる話ではなかった。この話が事実だとしたら、そんな人間と結婚した奴を呪い殺したくなる。むろん、奴というのは辰巳のことだ。
「冗談のつもりだったのに、告発するなんて汚いのよ」
「冗談のつもりだって!? 新人教師の服を破ったり、氷水をぶっかけたり、ジャージのズボンを下ろしたり、ノートパソコンを隠したり、無理矢理キスをしたりすることがかっ!」
イジメ、パワハラ、セクハラ、モラハラ……。辰巳がもっとも忌むべき、ハラスメントのオンパレードだ
「うるさい! 大きな声出さないでよ! わたし、ちゃんと謝ったんだから! 謝ったのに市の相談窓口に行ってわたしの名前を出したのよ」
辰巳は、目の前にいる女を
「その男性教諭はどうしてるんだ? 学校に来てるのか?」
「……休んでるわ。心神耗弱状態だって。先週まで元気に来ていたのに、まったく変な話よ」
「クビになる前に、辞表を出したほうがいい」
「なんでわたしが辞めなきゃならないのよ! あいつだって最初は一緒になって喜んでたのよ!」
金切り声をあげて開き直る女を薄ら寒い思いで見ながら、辰巳は今年の女男平等ランキングで、日本は史上最低の百二十一位だったことを思い出した。
生きたいように生きたい、と辰巳は今、真摯に思った。これからの人生のほうが、これまでの人生より短いのだ。不満を持ったまま、残りの人生を生きてどうする。気分をふさがれるような女と、なぜ一緒にいなくてはならないのか。
「もうっ、どうしたらいいのよっ! こんなふうにニュースになったら一大事よ! だから男って嫌なのよ!」
そう言ってテレビ画面を指さしたあと、頭を抱える妻の顔を見て、辰巳は思い出した。由布子と付き合っていた当時のことだ。車で細い路地に入ったときに、サイドミラーが歩いていた人にぶつかったのだった。
助手席に座っていた辰巳はすぐさま車を降りて、その男性に謝った。幸いスピードも出ておらず、腕をかすっただけでケガはなかった。男性も、いいですよ、と言ってくれ、そのまま去って行った。
「なにあの男。なんで車が入ってきたのに止まらないわけ? 歩いてたらぶつかるに決まってるじゃない。わたしは悪くないわ。ったく、新車なのにミラーが傷ついて損したわ」
男性に謝りもせずに、由布子は文句を言った。あのときも、今とまったく同じ顔をしていた。心のどこかでは自分の過失を認めおびえているくせに、女の自分が男に対して大きな声でまくし立てれば、自然と問題が解決して自分の罪さえも消えると思っている、見当違いの自信に満ちた卑屈な顔。
あのとき、なぜ気が付かなかったのだろうと辰巳は思う。昔から由布子はまったく変わっていない。辰巳は頭のなかで、この家を出ていく算段を冷静に考えていた。
▶#3-1へつづく
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