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連載

椰月美智子「ミラーワールド」 vol.23

【連載小説】「女ってのは、自分が正義だと思ってるからな。自分だけのルールを男に押しつけて生きている」 椰月美智子「ミラーワールド」#3-7

椰月美智子「ミラーワールド」

※本記事は連載小説です。

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 診断の結果は、狭心症だった。トイレから出ようとしたところで胸が痛み、うずくまろうとしてバランスを崩し倒れ、その際便器に頭を強打して脳しんとうを起こしたらしかった。
 隆司は義父が狭心症の薬を服用していることは知っていたが、ほとんど気に留めていなかった。かなりの痛みがあったと思いますよ、と医師に言われ、そうですか、とうなずくしかなかった。
 妻のと、絵里の兄が病院にかけつけた。
「隆司くん、大変だったね。どうもありがとう」
 に言われ、恐縮する。
「おさんに連絡とれた?」
 隆司がたずねると、二人同時に首を振った。
「どうせパチンコだろ? だから女は使えないんだ……」
 小さな声だったが、吐き捨てるような義兄の口調だった。幼い頃から義母のだらしなさには苦労させられたと、昔絵里に聞いたことがあった。義父は床屋の仕事で忙しかったため、ほとんどの家事を義兄が一手に引き受けていたらしい。絵里は兄に育てられたようなものだと、言っていた。
 医師から改めて病状の説明があり、カテーテル手術をすることになった。義父ははじめこそ難色をしめしていたが、今回のことで懲りたのか、最終的には首を縦に振った。入院期間は五日の予定だ。
「金はいくらかかるんだ」
 つかの間、調子を取り戻した義父が言う。
「高額療養費になるけど、実際は十万円ぐらいの負担で済むみたいよ」
 絵里が答えた。
「おれの予約客はどうするんだ」
「お義父さんのお客さんは今のところ、明後日お一人、明々後日お一人です。連絡してキャンセルして頂くか、自分でいいなら代わりにやりますけど」
 と、隆司は言った。
「ふんっ、おれの客を婿に取られてたまるか。明日住所録を持って来てくれ。おれから電話してべつの日に替えてもらうから」
「わかりました。お義父さんの、飛び込みのお客さんはどうしますか?」
 義父は、予約なしのお客さんのほうが多い。
「事情を言って断ってくれ」
「どうしてもその日に切りたいというお客さんは?」
「はんっ、そんな客はいないと思うが、まあそれは適当にやってくれてかまわない」
「わかりました」
 病室で義父との会話を間近に聞いていた義兄は、大きなため息をついて、
「お父さん、その態度はなんだよ。もっと隆司くんに感謝しなよ。隆司くんがいなかったら、澄田家はまわっていかないんだからさ」
 と、呆れたように言った。
「はんっ、感謝するのはどっちだ」
 義父が顔をそむけて言い、義兄は再び大きくため息をついたあと、拝むように両手を合わせて隆司に頭を下げた。

 帰宅すると、まひるとともかはハンバーガーショップですでに夕飯を済ませたという。
「二人で千二百四十円だったよ。ハイ」
 と言って、まひるが手の平を隆司に突き出す。十円玉がなかったので、千三百円渡した。まひるはとてもしっかりしている。
 買ってきた弁当を絵里と二人で食べているところに、階下から物音がした。義母が帰ってきたらしい。
「お母さん、一体どこに行ってたのよ!」
 絵里が詰め寄ると、
「なあに、そんなに怖い顔してえ」
 と、へらへらと笑った。
「お父さん、倒れたのよ。狭心症の手術をすることになったわ」
 義母は一瞬驚いた顔をしたが、
「手術したほうがいいんでしょ? よかったじゃない」
 と、にったり笑う。
「わたしは仕事だし、パパは理容室が忙しいから、お父さんのことはお母さんがよろしくね」
「はいはい、わかってるわよう。お安いご用よう」
 そう言って、手をひらひらと振った。
 これ以上話しても無駄なようだった。義母はあきらかに酔っていた。おおかた昼間はパチンコに行って、そしてそのあとどこかで飲んできたのだろう。あれだけみんなが留守電を入れメールを入れたというのに、なにも見聞きしていないようだった。
 義父は相当苦労したのだろうと、今さらながらに隆司は思った。

 一人での仕事が、これほどまでに楽だとは!
 義父が不在というだけで、隆司は自分でも不思議なぐらいに精神が安定し気力がみなぎっていた。なにより、自分の客に安心して気持ちよく来てもらえることがうれしかった。
 義父の病状は心配だったが、それとはべつのところで、隆司は一人で店に立つことを満喫した。
「よっ、隆ちゃん。顔色がいいねえ」
 パパ友のたっちゃんだ。たっちゃんは三週間に一度カットに来てくれる。
「お義父さんがいなくて、さみしいよう」
 泣き真似をして隆司が言うと、たっちゃんはよしてくれよと爆笑した。隆司も一緒になって笑ったが、言い過ぎたと思い胸が少々痛んだ。
 散髪の間、たっちゃんと気兼ねなくいろいろな話ができた。シャンプーを使いすぎだとか、一人の客に時間をかけすぎだとか、無駄話をするなとか、そういう意地悪を言われることもなく、ストレスフリーだった。
「いつもと表情がぜんぜん違うよ。独立したら?」
 帰り際、たっちゃんはそんなことを言って帰っていった。
 独立なんて考えたことはなかったけれど、自分の表情が明るいことは自覚していた。常に口角が上がっているのがわかる。
 隆司は、ひさしぶりに理容の仕事をたのしく感じた。いや、自分なりにたのしく働いていたつもりだったけれど、あんなのはたのしいうちには入らないのだと今回わかった。今こそが自由! 今こそが自分解放! そんな感じだった。
 仕事を終えると、隆司は義父の見舞いに行った。義母がちゃんと行っているのかわからなかったし、絵里ははなから隆司任せだった。すぐに退院するのがわかっているとはいえ、実の父親の見舞いに行く気はさらさらないようだ。
 絵里はいつも、義父に対する隆司の愚痴に、仕方ないよ、許してやってよ、と義父を擁護するそぶりを見せていた。義父のことを、よほど大事に思っているのだろうと受け取っていたが、もしかしたらそうではなかったのかもしれないと、隆司は思う。面倒が起きないよう、波風を立てないよう、適当に相づちを打ち、事なかれ主義的にいちばん楽な方法を選んでいただけなのかもしれない。
 隆司の親は同じ県内に住んでいるが、ここからは車で一時間半程かかる。二人ともまだ元気だが、どちらかが入院したら、できる限り見舞いに行きたいと思っている。今回のことで、絵里の新たな面を発見したような気がして、隆司は複雑な気分だった。
「今日はいくらだ?」
 見舞いに行くたびに、義父は隆司に聞いた。理容室SUMIDAの売り上げ金のことだ。
「普段と同じくらいです」
 と、そのたびに隆司は答えた。
「ふんっ」
 義父も毎回同じように鼻を鳴らした。手術をした日もリハビリをした日も、寸分たがわぬ会話だった。

▶#3-8へつづく
◎全文は「小説 野性時代」第207号 2021年2月号でお楽しみいただけます!


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