【連載小説】同居するときはこんな人ではないと思っていたけれど、義父はとても意地悪な人間である。 椰月美智子「ミラーワールド」#2-1
椰月美智子「ミラーワールド」

※本記事は連載小説です。
前回までのあらすじ
男は男らしく、子育てに励み家事をする。女は女らしく、家族のために稼ぐ。それが当たり前の日常世界。池ヶ谷辰巳は、昼間は学童保育で働き、夜は専業主夫として、公立中学の音楽教師である妻の由布子と、高校生の長男、中学生の次男のために忙しい毎日を送っていた。中林進も、勤務医の妻・千鶴と中学生の娘と息子のために尽くしてきた。しかし、それぞれの家庭に少しずつひびが入っていく……。
第三話
信じられない! まさかAくんの後ろの席になるなんて! しかも窓側。ラッキーとしか言いようがない。これが逆で、Aくんが自分の後ろの席だったら、こんなに喜べなかったと思う。だって、自分の後ろ姿をAくんに見られていると考えるだけで、手の平が汗でびっしょりになるだろうし、緊張のしすぎで失神してしまうかもしれない。
でも神さまは間違えなかった!
毎日Aくんの後ろ姿を、こんな間近で見られるなんて幸せすぎる。広い肩幅。少し猫背の背中。細い首筋。すっきり刈り上がった襟足。ときおり窓の外を見るAくんの横顔。
プリントを配るとき、後ろを振り返る一瞬は至福のときだ。まれに、うっかり指先がぶつかってしまうこともあり、その瞬間はまるで電流に触れたかのような衝撃が身体中を貫く。
ああ、一生この席でいられますように。神さま、どうかどうかよろしくお願いします。
*****
澄田隆司
「ほら、そっちのお客だよ」
そう言って、義父が
「わっ、ごめん! 大丈夫だった?」
「大丈夫大丈夫」
お客さんは、パパ友のたっちゃんだ。たっちゃんは、長女まひるの友達、
「……隆ちゃんも大変だねえ」
たっちゃんは、隆司が働いている理容室SUMIDAの内情をよく知っている。
「ほら」
義父があごをしゃくった入口に、男の子が立っていた。まひると同じジャージを着ているので、同じ中学だろう。まひるもそうだが、部活帰りの生徒たちはジャージのままで帰宅することが多く、たいていは風呂に入るまでそのままの
「いらっしゃい。カットでいいのかな」
「はい」
「ちょっとだけ待っててくれるかな」
男の子はうなずいて椅子に座り、スマホをいじりはじめた。義父がこれ見よがしに、男の子の隣の椅子を拭きはじめたが、男の子はスマホに夢中で気付かない。そもそも、隆司の客に対する嫌みで、隣の椅子を掃除しているだなんて誰が思うだろうか。
「……すげえな」
勘のいいたっちゃんは気付いたようだ。
「すげえでしょ」
隆司はそう言って笑った。
義父、
ここは一階が理容室SUMIDAとなっていて、二階に義母父夫婦、三階に隆司たちが住んでいる。妻の
家を建てたのは、まひるが三歳のときだ。絵里は長女で、絵里の兄はすでに婿に出ていたので、絵里が家を建てるのを機に同居しようということになった。
隆司は長女の婿だから、いずれは義母父と一緒に住むことになるだろうと心づもりしていたので、案外すんなりと受け入れた。一緒に住めば子どもの面倒も頼めるだろうし、一階は理容店にしようと考えていたので、理容師の義父と一緒に働くのもいいのではないかと思っていた。絵里の実家は元祖スミダ理容店だ。
義母は職を転々とし、たいていはパート勤務だったらしいが、義父が切り盛りして子どもたちを育て上げたと聞いた。「髪結いの女房」とはよく言ったものだと思う。
隆司が理容師免許を取得しようと思ったのは、絵里と付き合いはじめてからだ。絵里との結婚を意識するようになった頃、
「兄貴とわたしがお店を継がなかったから、お父さん、とってもさみしそうなんだよね」
と言われたのだった。絵里は夢だった警察官になり、巡査として勤めはじめたばかりだった。当時、隆司は商業高校を卒業して、信用金庫に勤めていた。寿退社は窓口業務男性の慣例だったこともあり、結婚したら退職するつもりでいた。
「理容師いいなあ」
本心だった。高校を卒業したら理容師の専門学校に行きたかったが、姉が高卒で就職したので、弟の隆司が進学したいとは言えなかったのだ。
「おれ、理容師になるよ」
そう告げたときの、絵里のうれしそうな顔を隆司は忘れられない。
先日のPTAの集まりで、会計の
「はあーっ、気持ちいい」
蒸しタオルを当てると、たっちゃんが声を出した。シェービングクリーム、顔そり、スチーミング、仕上げ。
「あー、生き返った。肌がぴちぴちになったよ」
たっちゃんが言う。確かに顔色がツートーンぐらいあがった。
「これまでいろんな理容店行ったけどさ、隆ちゃんがいちばんだね」
「ありがとー」
鏡越しのたっちゃんに笑いかけようとした瞬間、鏡から見切るぎりぎりの位置で、義父が隆司をにらんでいるのを発見し、思わず笑顔を引っ込めた。年寄りの嫉妬心、たまったものじゃない。
「さっぱりしたよ。ありがとうね」
「こちらこそ、いつもどうもありがとうございます。またランチでも行こうよ」
「いいね。連絡するよ」
たっちゃんはそう言って、店を出て行く前に義父をちらりと見て眉を持ち上げた。やれやれだな、と頭の上に吹き出しが浮かんでいた。
▶#2-2へつづく
◎全文は「小説 野性時代」第206号 2021年1月号でお楽しみいただけます!