【連載小説】息子が塾に行ったまま遅くなっても帰ってこない。心配になって見回りに行ってみると……。 椰月美智子「ミラーワールド」#3-3
椰月美智子「ミラーワールド」

※本記事は連載小説です。
>>前話を読む
蓮が出て行ったすぐあとに、妻の
「千鶴さん、ビール飲む?」
「今日はなんだか寒いからいいや。ねえ、梅酒はまだある?」
「あるよ」
夏前に漬けた梅酒。炭酸で割って夏にさんざん飲んだけれど、まだ少し残ってる。
「お湯割りで飲もうかな」
「いいね」
今日は慌ただしかったので、簡単に鍋にした。鶏肉、海老、豆腐、白菜、長ネギ、
「進さんも飲む?」
「子どもたちが帰ってからにするよ」
進の言葉に、千鶴は満足そうに微笑んだ。
テレビのニュース番組を流しながら二人で鍋をつつく。新人教師へのイジメ事件の続報だった。教師といっても、しょせんはサラリーウーマンだ。聖職者などというほうがおかしい。そういえば、池ヶ谷の妻さんは教師だと言っていたなと思い出す。今回の事件にはさぞかし胸を悪くしていることだろう。
池ヶ谷本人などは、血管が切れそうなほど激怒しているに違いない。女男格差に目くじらを立てて、社会にはびこる不正行為や弱いものイジメは絶対に許さない。清く正しく美しく、か。ちゃんちゃらおかしい。
続いてのニュースは、
「はあーっ、もっとたのしいニュースはないのかしらね」
千鶴がつぶやいて頭を振ったので、進は気を取り直そうと、今日の授業参観のことを話した。
「将来の夢がお婿さん? ちょっと幼いんじゃないかしら」
千鶴が困ったように笑いながら眉根を寄せる。
「うん、でもまあいいじゃない。かわいいよ」
「あなたは蓮に甘いんだから」
「そういう千鶴さんだって、甘いだろ」
進が目をやった先には、千鶴が買ってきた蓮の好物の菓子がある。
「たまたまよ。いつも売り切れちゃうのに、今日はまだあったから」
言い訳するような口調の妻がおかしくて、どちらともなく笑い出した。
「鈴も蓮もいい子に育ってくれたわ。進さんのおかげよ」
「家族のために働いてくれる、母親の背中を見たおかげだよ」
互いに褒め合い、また笑った。
仕事をすると言って、千鶴は食事のあとすぐに風呂に入り、書斎にこもった。進はこまごまとした家事を済ませ、鈴から受け取った学校のプリントに目を通した。三者面談の日程についてだ。中学三年の冬到来。いよいよ高校受験、本番となる。
来年五十歳になる進だが、自分が十五歳だった頃のことはよく覚えている。勉強がはかどらなくて、深夜ラジオばかり聴いていた。
看護師になって医師の千鶴と出会い、結婚し、二人の子どもを授かった。その子どもが高校受験か……。時が経つのは本当に早い。と、そこまで思い、今日はずいぶん感傷的だなと頭を振る。そして、自分はなんと幸せなのだろうかと突如として思いあたり、鼻の奥がつんとした。
「ただいまあ。あー、お腹空いた」
鈴が帰ってきた。
「おかずなに?」
野菜鍋、と答えると、えー? と不満げな声を出す。
「ダイエットに最適だろ」
進が言うと、口をへの字にする。
「うそうそ、しゃぶしゃぶ鍋だよ」
「やったー」
鍋に火をかけて、しゃぶしゃぶ用の豚肉を投入する。そろそろ蓮も帰宅する頃だろう。
「うどん入れようか」
「うん」
塾のあとは炭水化物をとらないと言っていたけれど、うどんならいいらしい。
鈴がすっかり食べ終わったところで、時計に目をやった。十時半になるところだった。蓮の塾は九時四十分までだ。たいてい十時頃には帰ってくる。
進はスマホをチェックした。塾でカードを通すと退出しました、という知らせが届く。今日の退出時刻は、九時四十七分だった。自転車だから、もう着いてもよさそうだ。蓮のスマホに電話を入れるが、気付かないのかしばらく鳴ったあと留守電に変わった。
「蓮、遅いな」
「友達としゃべってるんじゃない?」
スマホをいじりながら鈴が言う。
「そうかな……」
「心配しすぎだよ」
そうだな、とうなずきつつも、心配はぬぐえなかった。もう少し様子を見ようと思い、進はキッチンまわりを片付けた。
「先にお風呂入るねー」
鈴がスキップするような足どりで、風呂場へ向かう。進はたまらずに塾に電話を入れた。
「グロース個別対応進学塾です」
「お世話になっております、中林です」
「ああ、蓮くんのお父さまですか。いつもお世話になっております」
「あの、蓮がまだ帰ってこないのですが……」
なにか言葉を続けようとしたが、ふいに涙がこみ上げてきて喉が詰まった。
「えっ? 十時までには全員がカードを通しましたが、まだご帰宅していませんか?」
「九時四十七分にそちらを出たとメールは届いているのですが、念のために電話してしまいました。塾を出たならいいんです。失礼しました」
「確かにこちらは出ましたが……、蓮くんに限っては、友達とコンビニに寄り道するということもあまり考えられませんし、ちょっと心配ですね。あの、なにかありましたら、わたしの携帯のほうにご連絡いただけますか。教室は閉めてしまいますので」
塾の先生はそう言って、自分の携帯番号を教えてくれた。進は礼を言って電話を切った。そのまま、蓮のスマホに再度電話を入れる。そのとき、かすかに音がして、進は二階へかけ上がった。スマホの呼び出し音が鳴っていた。蓮の部屋から聞こえる。蓮はスマホを忘れていったのだった。
「蓮、まだ帰ってないの?」
風呂上がりの鈴が言う。時刻は十一時二十分。
「スマホも持ってないんだ」
進が言うと、蓮は、塾にスマホ持っていかない主義だよ、と返ってきた。
「千鶴さん」
たまらずに妻の書斎をノックする。
「んー?」
机に向かっていた妻が振り向く。
「蓮がまだ帰ってこないんだ」
「えっ? 遅くない?」
「塾はとっくに出てるんだ。ちょっと見てくる」
進はそう言うが早いか上着を手に、自転車にまたがった。塾までの道を、辺りに注意を向けながらペダルをこぐ。
「蓮、蓮くん、蓮、蓮……」
名前を口に出すたびに不安が襲ってくる。蓮、どこにいるんだ。一体なにをしてるんだ。早く帰ってきてくれ。早く姿を見せてくれ。頼む、蓮。
「蓮、蓮、蓮!」
がむしゃらにこぎたくなる足をなんとか抑え、細い路地などもくまなく見ていった。人通りは少なく、ときおりスーツ姿の男性や、酔ったサラリーマンの姿があるだけだ。
塾に着きUターンし、またそこから自転車をこぐ。いない。いない。どこにもいない。方向を変えて捜してみる。蓮、蓮、蓮くん、蓮くん。スマホが鳴った。千鶴からだった。
「蓮くんは!? 蓮はいたの?」
「いや」
「警察に電話したほうがいいと思う」
深刻な声色だった。
「……ああ、うん、そうだな」
と答えつつも、警察になんて連絡したら、蓮が本当になにかの事件に巻き込まれてしまう気がしたし、そればかりか、蓮に一生会えなくなるような予感すらした。
「もう少し捜して、いないようだったら、ぼくのほうから電話するから」
「……わかったけど、そんなにのんびりしてていいの? 誘拐の可能性もあるのよ」
「うん、大丈夫だ。任せてくれ」
「よろしく頼んだわよ」
怒ったような口調で言われた。
「蓮くん! 蓮くん! 蓮くーん!」
叫ぶように名前を呼ぶと同時に涙がにじむ。一体どこにいるんだ。どうしたんだ。なにがあったんだ。蓮、お父さんに顔を見せてくれ。
「蓮、蓮、蓮」
こんな暗い道を、夜に一人で帰らせてごめん。男の子なのに、こんなさみしい道を……。おれのせいだ。車で送り迎えするべきだったのだ。ごめん、蓮。ごめん! そこに蓮がいるかのように話しかけながら、進は息子を捜す。
とうとう、十二時をまわった。進は自転車を停めた。小さな空き地のブロック塀に背中をつけてしゃがみこむ。警察に電話をしよう。千鶴が言ったように、誘拐の可能性もある。
進はスマホを取り出した。スマホを持つ手が震えて、なかなか操作できない。
そのときふいに、遠くの路地から人影が現れた。進は立ち上がって目を凝らした。
「……蓮? 蓮なのか?」
自転車を押しながら、よろよろとこちらに歩いてくる背恰好は、蓮のものに違いなかった。
「蓮っ!」
思わずかけ寄る。
「……お父さん? ……なんでここに……?」
とても小さい声だ。
「遅いから心配したよ」
蓮の薄い背中に手を添える。その瞬間、強烈な違和感があった。なにかが違う。なにか……なんだ? 電灯の灯りの下で、改めて蓮を見る。
「……どうした? ……なにがあった」
蓮の顔には擦り傷があった。服も汚れている。いつもの蓮ではなかった。そこには、とても「雑」な蓮がいた。
「転んだのか」
転んだだけでこんな様子になるはずないのを承知しているのに、口からはそんな言葉が出てきた。蓮は、こくんとうなずいた。
「蓮くん」
思わず抱きしめていた。蓮が中学生になってからは、こんなふうに身体を寄せることはなかった。頼りなく細い身体。すぐにでも折れそうな手足。見れば、自転車のハンドルも妙な具合に曲がっていた。
「なにがあったか、お父さんに話してくれるか」
蓮は進の目をぼんやりと見つめた。
「……なにがあった?」
蓮は、進の目をぼんやりと見つめたまま話しはじめた。
「自転車に乗ってたら、急に大きな男の人が出て来て……、自転車を倒されて……転んで、引っ張られて……公園みたいなところに連れていかれて……、女の人がいて……、女の人が男に命令して……大きな声を出したら……ぶたれて……トイレみたいなところで……、女の人が写真撮って……なんか……いろんなこと……あって……、身体中が痛くて……自転車も壊れちゃって……。遅くなっちゃってごめんね……」
うんうん、そうかそうか、と進はやけにはきはきと相づちを打ちながら、息子の話を聞いた。自分ではない誰かの猿芝居を、空中から見ているようだった。とっさに目を向けた蓮のジーンズには、黒いシミがあった。
「……遅くなってごめんね」
蓮が再度言う。
「お父さん、心配して見に来てくれたんだよね……こんなに遅くなっちゃって……」
その瞬間、
「蓮くん、痛いところないか」
蓮が小さく首を振る。
頭のなかにさまざまな情報がなだれ込んできて、進は混乱していた。まず、どうすればいいんだ? 病院だろうか? 警察にも連絡をしなければ……。いや、その前に千鶴に電話だ。
「お母さんも心配してるから、今電話するね。ちょっとここで待っててくれるか」
小さく蓮がうなずく。進は蓮から少し離れ、千鶴に電話を入れた。会話を聞かれたくない。
「蓮いたの!?」
こちらが言う前に大きな声が届く。
「うん、今、蓮に会った」
「よかったあ……! まったく、寿命が縮まったわよ。早く帰ってきてね」
「……いや、そういう感じじゃないんだ。蓮はケガをしてる」
「はあ!? どういうこと!」
金きり声が返ってくる。進は声を落として、蓮から聞いたことと、自分の憶測について話した。千鶴はしばらく無言だった。
「病院に行こうと思う」
しばらくしてから進は言った。看護師をしているとき、レイプ被害者がかけ込んできたという話を、婦人科の同僚から聞いたことがあった。被害に遭った場合、なるべく早めに病院に行き、しかるべき診察と処置を受けることがなにより大事だと。
「……ちょっと待ってよ。自転車でしょ。いったんうちに帰ってきてから車で行ったほうがいいわ。うちの病院に連絡して話をつけておくから」
妻の言うことはもっともだった。よろしく、と言って、進は電話を切った。
「お母さん、心配してたでしょう」
蓮のもとに戻ると、蓮はそう言った。
「ああ、見つかって安心してたよ。さあ、帰ろう。歩けるか」
「うん」
「それともお父さんの自転車の後ろに乗っていく?」
ここから歩くと二十五分はゆうにかかる。
「歩く」
進は、蓮の自転車と自分の自転車を押しながら、蓮と歩いた。蓮の歩き方は痛々しかった。こみ上げてくる怒りと悲しみを無理矢理追いやり、進はなるべくいつも通りの顔と会話を心がけた。
「シリウスだ」
蓮がつぶやく。夜空には、ひときわ大きく輝くシリウスが銀色に光っていた。
▶#3-4へつづく
◎全文は「小説 野性時代」第207号 2021年2月号でお楽しみいただけます!