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連載

椰月美智子「ミラーワールド」 vol.20

【連載小説】息子が塾に行ったまま遅くなっても帰ってこない。心配になって見回りに行ってみると……。 椰月美智子「ミラーワールド」#3-4

椰月美智子「ミラーワールド」

※本記事は連載小説です。

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「おかえり、蓮くん」
 千鶴が玄関先で待っていた。
「疲れたでしょう、早く入って。蓮くんの好きなお菓子買ってあるわよ」
 いつになくじようぜつで明るい調子だ。
 明るいリビングで改めて蓮を見て、進は息を吞んだ。服はかなり汚れていて何カ所か濡れており、破れている部分もあった。出ている顔や手の甲にも擦り傷が目立った。
「疲れてると思うけど、これから病院に行こう」
 進は言った。着替えを準備するから待ってて、と言ったところで、
「先にお風呂に入ったら?」
 と千鶴が声をかける。進は千鶴の顔を見た。そんなことをしたら、証拠が消えてしまう可能性がある。身体も洋服もこのままの状態で、病院やら警察やらに行ったほうがいい。
 とりあえず進は、ぼうっと突っ立っている蓮を座らせ、あたたかいココアを飲ませた。その間に廊下に出て、千鶴と話す。
「病院には連絡してくれたんだよね」
 進がたずねると、妻は首を振った。
「どうして? すぐに病院に連れて行かなくちゃいけないだろ」
「はあ? なんで病院に連れていくの? 女じゃあるまいし、妊娠の可能性なんてないんだから平気よ」
 進は驚愕の思いで、妻の顔を見た。
「……まさか、今日のことをなかったことにするのか」
「当たり前でしょ! こんなことが公になったらどうするのよ」
「傷の手当てだってあるし、診察してもらわないと診断書も出ないし、感染症の検査だってある。犯人特定のために体液採取だって……」
「気持ち悪いこと言わないでよ!」
 大きな声でさえぎられた。
「……頼むからしずかに話してくれないか」
 蓮には聞かせたくなかった。
「ねえ、犯人を特定してどうするの? 刑事裁判でも起こすの? あなた、蓮のこと、本気で考えてる? 男にレイプされたなんて知れ渡ったら、お婿になんていけないわよ。うちの病院に連れて行ったところで、わたしに同情する振りをして、あることないこと同僚たちに噂されるのが目に見えてる。蓮だって、学校になんて行けなくなるわよ。みんなの笑いものになるだけよ」
「いや、でも……」
「いい? 蓮は病院にも警察にも行かない。手当はわたしがしてもいいし、あなたがしてもいい。元看護師なんだから、そのくらいできるでしょ。このことは、わたしたち二人の秘密よ。いいわね」
 千鶴は鬼のような顔をしていた。こんな顔、これまで見たことがなかった。
「わかったの!? 返事して! これは家長の命令よ!」
「……わかったから、頼むからしずかにしてくれ」
「蓮をお風呂に入れてちょうだい。今すぐに」
 進は深呼吸をしてから、リビングに戻った。蓮はさっきと同じ恰好で座っていた。
「蓮」
 何度か声をかけたあと、蓮は顔をあげた。
「汚れたから風呂に入ろう。蓮さえよかったら、お父さんも一緒に入ろうと思うんだけど」
 蓮はなにも言わずに立ち上がって、風呂場へと向かった。
「蓮くん、身体が冷えているだろうから、ゆっくりと温まっておいでね」
 千鶴が明るい調子で、蓮に声をかける。
 進は蓮のあとについていった。脱衣所に進が一緒に入っても、蓮は嫌がるそぶりがなかった。進はしゃがんで、蓮の手を取った。
「今日のこと、警察に言ったほうがいいと思うんだけど、蓮くんはどう思う?」
 蓮がイヤイヤするように首を振る。
 進は、どうしていいかわからなかった。考えがまとまらない。もちろん犯人を捕まえたいが、そのために蓮の人生を台無しにしてしまっていいのだろうか。こんなことが世間に知れたら、近所だって歩けないだろう。
 蓮がたんたんと服を脱ぎはじめる。背中にも擦り傷があった。右腕は赤く腫れている。パンツは穿いていなかった。肛門から内股にかけて血がこびりついている。ふいに視界がにじみ、進は唇を強く嚙んだ。口のなかに血の味が広がる。
「一人で入る」
 蓮はそう言って、一人で浴室に入っていった。進はすべての服をまとめてビニール袋に入れた。消毒液や軟膏、湿布を用意し、蓮が出てくるのを待った。
 傷がしみるのか、蓮はすぐに風呂から出てきた。身体を拭いてやり、薬をつける。蓮はなすがままだった。
「お腹空いたろ。豚しゃぶ鍋だよ」
「いらない。眠い」
「そうか。今日はお父さんと一緒に寝ようか」
「一人で大丈夫」
 進は蓮の手を取り、蓮はなにも悪くないんだ、と伝えた。
「蓮くんに落ち度はない。蓮くんはひとつも悪くない。いいね、わかったね」
 蓮は生気のない表情で進を見つめ、うなずいた。そしてそのまま、二階の自室へと行った。
 進は千鶴に、蓮の身体のことを話した。千鶴は、たいしたことなさそうでよかったわ、と言った。
「明日早いからもう寝るわ」
 そう続けて、蓮のあとを追うように、千鶴は二階へと姿を消した。
 進はしずかに家を出て、蓮が被害に遭った公園へ向かった。夜の公園は暗かった。人っ子一人いない。進はトイレに行った。臭くて汚いコンクリート敷きの公衆便所。電灯の下に虫の死骸が落ちている。進はひとつひとつのドアを開けて、懐中電灯でなかを確認した。
 障害者用トイレの洗面台の下に、蓮のボクサーパンツが落ちていた。パンツは破れていた。
「ううっ……うっ……」
 進はそれを胸にかき抱き、むせび泣いた。
 こんなことが許されるだろうか……許されるわけがない。一体どうしてこんなことに……。よりによって男に……! 蓮、蓮、蓮くん……。悔しくて辛くて感情が追いつかない。
 体力差を武器に、男性が女性に暴力をふるうことは禁じられているが、男性の同性に対しての暴力は、ほとんど野放し状態にされているため、少年性愛者の隠れ蓑になっているのが現状だ。
「……くそおっ! 畜生め! こんちくしょう!」
 進はコンクリートのつめたい床をこぶしで叩いた。将来の夢に「お婿さん」と書いた蓮……。
 たとえようのない大きな悲しみと、吐きそうなほどの怒りが進を取り巻いていた。

▶#3-5へつづく
◎全文は「小説 野性時代」第207号 2021年2月号でお楽しみいただけます!


「小説 野性時代」第207号 2021年2月号

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