初対面の人を観察してしまうのは刑事の性(さが)。 似鳥鶏『育休刑事』シリーズ最新短篇「徒歩でカーチェイス」短期集中連載第3回
育休刑事シリーズ 徒歩でカーチェイス

育児と仕事の両立に悩むすべての人へ。
2023年4月からドラマ放送も決定している『育休刑事』の最新短篇を短期集中連載!
全5話で短篇が丸ごと読める!
似鳥鶏『育休刑事』シリーズ
「徒歩でカーチェイス」第3回
2(承前)
ベビーカーを押して公園に入る。これでもあちこちお散歩をしてちょっとした児童公園オタクになりつつあるので、この公園は分類的に「陰」「古」「閑」だな、とひと目で判断できた。人がいなくても陽が当たってからりと開放的な公園もあれば、古くてじめじめ暗くても立地上、地元の子供が集まる「繁」の公園もある。だがここはそうした要素が一切なく、単にさびれた公園だった。
それでもベンチの横にはベビーカーが一台停めてあり、母親と見られる茶髪の若い女性が赤ちゃんの両手を取り、歩く練習をさせていた。赤ちゃんの方はまだ一歳未満に見えるが、好奇心も意欲も旺盛なようで、もう女性の手を振りほどかんばかりにして笑顔で一歩一歩、足を出している。それを見つけたのか、ベビーカーの中の蓮くんが「へ」「え!」と要求する声をあげたので、さっそく靴を履かせてベビーカーから降ろした。他人がやっていることを見て「ぼくもあれ、やる!」というのが、子供の最も普遍的な行動原理である。
指でつまめるほどちいちゃな靴を履かされ、一歳の蓮くんはよちよち歩き出す。よくよく考えてみればこの短い脚でよくぞと思う。だが微笑んで眺めてばかりはいられない。蓮くんの進行方向及び周囲の地面に目を凝らし、石などの硬いものがないことを素早く確認する。子供は何もないところで何もないのに突然転ぶし、転ぶとちょうど顔面に来る位置に石が落ちていたりする。危険物はないようだ。確認している間にも蓮くんは満面の笑みを浮かべて女性と赤ちゃんの方に歩いていく。自分の足で歩くことができる。その一歩一歩がたまらなく嬉しいのだろう。途中でふっとしゃがみこみ、一度地面に伏せたが、ハイハイはせず再びすっくと立ち上がる。当初、むこうの女性は特にこちらを見るでもなく、とりあえず無関係という態度をとろうとしていたようだが、一歳児が笑顔で歩いてきてしまった上、自分の子供もハイハイでそちらに近付いていってしまっては関わらざるを得ない。こちらを見て会釈した女性と挨拶を交わす。「すみません」「どうも」「いえいえ」
かなり若い女性だった。ベビーカーは色の落ちた古物だが赤ちゃんは可愛らしいキャミソールを着て、女性自身も体のラインが出る高級そうなワンピースで妖艶さすらある。水商売関係かなと思ったが、初対面の人間をあまり観察して分析するものではない。すぐ赤ちゃんの方に視線を移した。「可愛いですね。十ヶ月くらいですか? うちの方がちょっとおにいちゃんかな」
「はい。歩くの上手ですね。一歳半くらいですか?」
「あれで一歳になったばかりなんです。体が大きくて、ずっしり重くてもう」
子連れ同士だと、初対面の相手でも会話がなくなることはない。「いくつですか?」から始まる子供についての定型会話が山のようにあるからだ。しかもそれはただの社交辞令ではなく、誰でもいいから聞いてもらいたい現状報告のようなものでもある。
「すみません。歩かせたらそちらにまっしぐらで」
「いえ。赤ちゃんって赤ちゃんが好きですよね」
子供を見ながらお互いを見るでもなく話す。子連れで公園に行くとこうした社交が頻繁に発生する。たいがいは一期一会の、さして気を遣わないやりとりだ。育休を取った直後はママ友同士の恐ろしい抗争話などを聞いていたが、実際にはそんなものは皆無だったし、いわゆる「公園デビュー」などというようなはっきりした儀式もなかった。俺が男性だからなのか、そうでもないのかは分からない。
とはいえ相手が女性となると、無闇と距離を縮めることはできない。あくまでむこうは「初対面の男性にいきなり話しかけられた女性」であり、子連れ同士だと発生する仲間意識のようなものも希薄だろう。警戒させないよう気をつけなければならず、だから相手をまっすぐ見たりはしない。
視線は合わせずに子供を見て話していると、なぜか二人とも俺の方に来た。むこうの赤ちゃんが俺の靴紐をしゃぶりそうな気配を出してきたので女性に断りを入れつつ抱き上げて足から離す。一瞬抱き上げただけだが重さと感触がまるで違った。腕もほっぺたも傷一つなくむちむちに張っていかにも大きいのに、なぜか抱き上げるとウエハースのように軽かった。うちの蓮くんはみっちり重さが詰まっていてまるで羊羹なのに。
このままだとこちらに手間をかけると予感したのか、あるいは本当にそうなのか、女性は赤ちゃんに「そろそろお昼寝だね。行こうか」と話しかけて俺から受け取った。赤ちゃんは一度抱っこ抜けを試みたがそのままベビーカーに据えられ、「やああああ」と抗議しながらベルトを着けられ、ありがとうございました、と会釈する女性にベビーカーを押されて去っていく。追いかけようと立ち上がる蓮くんを抱き上げつつ、バイバイ、と手を振る。
さて、どうする
女性が遠ざかっていく。一瞬迷ったが、すぐに決断できた。蓮くんをベビーカーに乗せ、ベルトを固定し、足で車輪のストッパーを外す。
少なくとも確認は必要だろう。追うべきだ。尾行する。
俺はベビーカーを発進させた。あの女性、何かあるようだ。
3
人の顔色を窺うのが俺の仕事なのだな、というのは、何度か思ったことである。肩書は管理官だが仕事内容は捜査一課長補佐なのだから、当然そういうことになる。ボスである捜査一課長に報告すべきこと、質問すべきこと、確認すべきことは常に複数あるが、どれから、いつ、どの雰囲気で話題にするかの選択を常に迫られる。ほとんどは「至急」であるし、うちの課長は何の話題をどのタイミングで振られても全く同じトーンで応えるのだが、それでも気は遣う。特に渋沢管理官から預かっているこの案件は扱いが難しかった。警視庁の事件。だが赤ん坊が誘拐されており、予断を許さない。やはり扱いは「至急」だろうと判断し、捜査本部から捜査本部へ移動する車両の後部座席に座るや、君塚はすぐ隣の捜査一課長に切りだした。
「課長、一昨日お話しした渋沢管理官からの件ですが」
課長は出したタブレットに顔を向けたまま、視線だけで促してくる。車が発進した。
「各主要通販サイト、及び都内・近隣のベビー用品店に照会したところ、まだ該当がないそうです。ドラッグストアは店舗数が多すぎ、まだ確認中とのことですが、都内・近隣共に八割がた確認しても出ていないそうで」報告は正確にしなければならない。君塚は付け足す。「具体的には、S、M、L……あるいは『ビッグ』ですか? それらを三サイズ以上、同時購入した記録は見つかっていないそうです」
メーカーごとに「新生児用」というサイズもあるそうだが、そちらは除外されていた。さすがにそれでないことは、川松、あるいは乙葉ちゃんを預かっている川松の女も分かるだろう。
「一方、SとM、あるいはMとL等、二サイズの購入者ですと該当が多すぎるようで、犯行日周辺だけでも数十か所挙がってしまっているようです」
課長はメタルフレームの眼鏡を直し、その奥の目を細める。
「それと、状況が思ったより切迫しているようです」警視庁の事件だ。だが伝えないわけにはいかない。「川松は当初、交渉のため電話越しに赤ちゃんの声を聞かせていました。しかしそれを頑なに拒むようになったそうです」
伝える君塚の方も緊張する。川松には拒む理由はないから、赤ん坊に何かあったのだ。あるいは、最悪を想定しなければならないかもしれない。
「君塚さん」課長は君塚を見た。「渋沢さんにつないでください。伝聞では埒があきません。直接、すべての情報を開示してもらいます」
「了解」
ありがたい、と思う。警視庁の事件だが、そんなことは言っていられなかった。うちの課長が優秀だといっても、さすがに話を聞いてすぐに解決できるということはないだろうが、一秒でも早い方がよかった。状況が切迫している。一刻も早く赤ん坊を、あるいはそれを連れている女を見つけなければならなかった。だが手がかりすらない。
第4回へつづく
本短篇を収録した『育休刑事 (諸事情により育休延長中)』は2023年4月24日発売!
書籍情報
育休刑事 (諸事情により育休延長中)
著者 似鳥 鶏
定価: 748円(本体680円+税)
発売日:2023年04月24日
★作品情報ページ:
https://www.kadokawa.co.jp/product/322211000499/
事件現場に赤ちゃん入ります! 新感覚本格ミステリ、続編が登場
捜査一課の巡査部長、事件に遭遇しましたが育休中であります! 男性刑事として初めての長期育児休業を延長中、1歳になる息子の成長で手一杯なのに、今日も事件は待ってくれない!?
【収録作品】
世界最大の「不可能」/徒歩でカーチェイス/あの人は嘘をついている/父親刑事
あとがき