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連載

育休刑事シリーズ 世界最大の「不可能」 vol.2

赤ちゃんがいるから犯罪は「不可能」? 似鳥鶏『育休刑事』シリーズ最新短篇「世界最大の「不可能」」短期集中連載第2回

育休刑事シリーズ 世界最大の「不可能」

育児と仕事の両立に悩むすべての人へ。
2023年4月からドラマ放送も決定している『育休刑事』シリーズの最新短篇を短期集中連載! 全5話で短篇が丸ごと読める!

似鳥鶏『育休刑事』シリーズ
「世界最大の「不可能」」第2回

       2

「ここまでしか届かないぞ。ベルト通す場所間違ってないか? 最近は裁判所がうるさいからな。任同もやらないで自宅で任意聴取という形なんだが。……ん? そっちじゃないんじゃないか」
「いえこれでいいはずです。目撃者確保してるのに逮捕状出ないんですか?……そちら、一度緩めてからもう一回伸ばしてもらえますか」
「ん? スイッチってこれか? 動機面が弱いらしい。被疑者の家は裕福だからな。おいこれ押しても下がらないぞ」
「押しながら回すんです。被疑者が専業主婦なら、財布を夫に握られていたのでは? 主婦仲間がそこらへん証言してませんか。……あ、これでいいんです。これ以上きつくはならないので」
「本当かよ。動くぞ。そのあたりも調べてるが、近所付き合いがほとんどなかった様子でな。……これでこのベルト締めればいいのか。ややこしかったな」
 物騒な話をしながら何をしているかといえば、迎えに来た車に蓮くんを乗せるため、うちの車に載せていたチャイルドシートを持ってきて装着しているのである。警察官が道交法違反をするわけにはいかないので(*5)仕方がなかったのだが、チャイルドシートというものは着脱が難しい上に重いことが多く、両側の後部ドアを開け放して係長と二人、後部座席に頭を突っ込んで奮闘すること十五分。シートに座らせておいた蓮くんが落ちそうになること四回、なんとか装着完了して「出動準備」が整った時には肌寒い日なのに汗で背中がしっとりしていた。手伝ってくれた係長の方は「パズルみたいだな!」となぜか楽しそうだったが、後ろでただ立って見ているしかない妹背巡査長は手も出せず、ずっと困っている様子だった。「自分が先に動いてしまって部下を手隙にさせ、いたたまれなくさせるタイプの上司」である。
「よし吉野乗れ。まだ被疑者宅で任意聴取してるはずだ。間に合う」
 了解、と応えて蓮くんをチャイルドシートに乗せ、隣に座る。警部補である係長が助手席で俺が後部座席。居心地が悪いが他にやりようがない。
「被疑者宅までは十五分かからん。すまんが頼む」
 少しもすまなそうでない様子で言われるが、「いえ」と応えざるを得ない。妹背巡査長の運転で車が走り出す。蓮くんはダッシュボードに搭載された無線機を指さして「きゃ!」とご機嫌である。せっかく寝てくれたところだったのに、という恨み言はもう吞み込んだ。
「……係長。赤ん坊絡み、というのは」
 あやす必要はなさそうだ。俺は身を乗り出して助手席の係長に訊く。
「基本的なところから整理するぞ。本件は空き巣だ。現場は田端一丁目の『いとう整形外科』。先週金曜の朝、裏口の鍵が開いていて事務室に保管していた現金四十一万円がなくなっているのを、出勤してきた事務員が発見した。前日の木曜は午前診療だけで閉めたから、その後にやられたんだな」捜査一課が担当しない窃盗事件なのに、係長はすらすら話す。うちの息子の名前は未だに間違えるくせに、仕事に関することは一度で覚えるのだ。「ただ、事務員によれば木曜は表口も裏口もきちんと施錠して出たらしい。鍵の管理はちゃんとしていたし、鍵はそう簡単に開けられるタイプのものじゃないし、錠周囲にいじった痕跡もない。となると、どうもこれは中から開けたんだろうって話だ」
「あー。あっば」
「そうだ。診療時間内に堂々と表口から侵入し、トイレか物置にでも隠れて閉まるまで待つ。従業員が全員帰れば、その後好きなだけ物色できる」
「あっば。うー。きゃ?」
「その通り。クリニックだから建物内は診療が終わった後に掃除と消毒をするよな。その時にどこに隠れていればやりすごせるかを知っていたってことになる。防犯カメラも死角を抜けたようだったしな。そもそも普通のクリニックは現金を四十一万も置きっぱなしにしない。ここはだいぶズボラで、それを知っていたから狙った、ということだろう」
「ぱ、ぱ! あ! あーぱ!」
「もちろんだ。南署の見解もそれで一致してる」
「誰と話してるんですか?」
「息子、理解が早いじゃないか。筋がいいぞ。ははは」やはりハイになっているようだ。そういえば四係はここしばらく、厄介な事件を担当していなかったらしい。物足りなかったのだろう。「というわけで、浮かんだのが元事務員の阿出川ってわけだ」
 そこから先の話はチャイルドシートを着けている間に、ブツ切りながら聞いている。阿出川香里(38)。被害に遭った「いとう整形外科」の元事務員で、二年前に銀行員の夫と結婚して退職。現在は専業主婦で生後十ヶ月の赤ちゃんがいるが、親戚・友人の複数から「金に困っていたようだ」という証言が得られている上、木曜の十二時十五分頃、現場付近で彼女を見たという証言もある。クリニックが閉まるのが十二時三十分。無人になったのが十三時十五分頃。犯行時刻がその時だとすれば時間帯的にも一致する。そもそも自宅から車で一時間近くかかる元職場付近にいる理由がない──となれば決定的で、南署の担当者は逮捕状の請求を主張したそうだが、三係長である室田警部補は慎重だった。
 目撃された時、阿出川は赤ちゃんを抱いていた、というのである。
「これから窃盗に入ろうって奴が赤ん坊連れてくわけがない」係長はなぜか俺ではなく蓮くんに言っている。「それに侵入から最短でも一時間。たまたま従業員が残っていれば二時間は隠れてなきゃならん。その間、連れていた赤ん坊はどこかに置いてきたはずなんだが……」
 そこでもう分かる。どこかに置いてきた、だって?
「無理です。ありえない」
 十秒間、目を離すだけで死にかねない生き物なのだ。最低でも一時間、下手をすると二時間もかかる犯行の間、ずっとどこかに置いておくことなど不可能に決まっている。
「誰でもいいから最低一人、見ていてくれる大人がいなければ不可能です。心理的にありえない」だが。カーブでかかるGでずれた尻を戻しながら考える。「阿出川は孤立気味だったんですよね? そういうことを頼める人間はいなかったんじゃないですか? だからこそ現場まで連れてきた」
「阿出川もそう主張している。『子供から目が離せない』。だが子供を抱いたままじゃ犯行は不可能だ。いつ泣きだすかも分からんだろ? そのくらいだと」
 係長は顎をしゃくって蓮くんを見る。確かにそうだ。眠っていたとしても、いつ起きるか分からないのだから同じことだった。育児中の人間は移動範囲が限られている。赤ちゃんから最長で十メートルほど。いつでも様子を確認できて、泣いたらすぐに駆けつけられる範囲。船外活動中の宇宙飛行士よろしく命綱で繫がれている、と言ってもいい。
 赤ちゃんを連れていては犯行ができない。だが赤ちゃんを預ける場所がない。
「……まるで不可能犯罪ですね」
 妹背巡査長が振り返り、にやりとして言う。突然口をはさんできたことからしてどうも、ずっとそれを言うタイミングを窺っていたらしい。
 そんなミステリじゃないんですから、と思ったが、口には出せなかった。確かにその通りだからだ。「赤ちゃんを連れているから犯行不可能」。密室でもアリバイでもない、聞いたことのないタイプの不可能犯罪だ。
「吉野の主観からすれば赤ん坊を置いておくことはありえない、っていうのは分かったが」係長は前を向いた。「阿出川もそうだとは限らんぞ。危険を承知で二時間、赤ん坊をどこかに置いていったのかもしれん。『トレインスポッティング』の女(*6)みたいなのもいるだろう」
 それを言われて冷静になった。確かにそうなのだ。だが。「割合、少ないですよ。普通は無理です」
「阿出川がその『普通』かどうかが分からん。なんせ泥棒だからな。だからお前に来てもらったんだ。育児経験者の目でそこを判断してくれ」係長は言った。振り返ってはいないが、ルームミラー越しにこちらを見たのは分かった。「すまんが頼む。実績にもなる」
 鑑定人か何かだと思われているのだろうか、と思う。育児は家ごと、子供ごとに全く違うので一般化できないということを、たぶん係長は分かっていない。それ以前に、三係内に一人もいないのだろうか。育児経験者が。溜め息が出る。だが。
「……了解」
 そう応えるしかなかった。上司の命令であるとか、蓮くんが捜査車両に乗せてもらってご機嫌だとか、そういう理由だけではない。俺が捜査一課に戻れるか否かがかかっている。県警本部捜査一課の男性で初の育休取得者という異例の存在である俺には、確かに「実績」が必要なのだった。
 例えば、現代日本でアンケートを取ったら、おそらくこのくらいの結果になる。

 Q:男性の公務員が一年以上の育休を取ることをどう思いますか?
 A:賛成(60%) どちらでもない(25%) 反対(15%)

 Q:ではそれが捜査一課の刑事だとしたら?
 A:それでも同じく賛成(30%) さすがに捜査一課はない(55%) そもそも男性公務員の育休取得に反対(15%)

 捜査一課刑事も労働基準法や育児・介護休業法が適用される労働者なのだが、世間はたぶん許さず「それなら別部署に行けばいい」あたりが「常識的な意見」として扱われるだろう。だがそうだとすれば、労働者側は「育児をしたければ捜査一課は諦めなくてはならない」ということになり、組織側は「育児をする人間はどんなに適性があっても捜査一課には起用できない」ことになってしまう。自分がそこまで有能だとはまったく思っていないが、それでもこれは双方にとって不利益である。だから俺は妻と相談して育休取得に踏み切った。
 当然、男社会そのものである警察組織の中でそれを応援してくれる人はごく少数だった。言いだした当初は、俺に向けられたのは「困惑」と「心配」だった。「あいつは働きすぎでおかしくなった」のだと本気で信じ「落ち着け」「まず医者に行け」と本気で言ってきた奴もいたくらいだ。そして俺が本気だと知るやそれは「敵意」と「憐憫」に変わった。わけのわからないことをする奴。刑事としてはもう「終わった」奴。どうせ妻にねだられて折れたのだろう。あいつは男としても「終わった」。聞こえよがしにそういうことを言う奴もいた。この頃の苦労を長々と語る気はないが、尊敬していた、あるいは仲間だと思っていた同僚の大半に背中を向けられたのが一番辛かった。残ったのは石蕗係長を始めとする数人だけだ。
 それでも育休を取得するところまでは一年以上にわたる事前の根回しと「法令遵守」のゴリ押しで実現させた。だがその後が問題だった。育休明けで復職した俺が元通り捜査一課に戻れるかどうかについてははなはだ望み薄だったからだ。育休が明けたところで、現在の勤務時間と通勤時間を考えると、どう頑張っても俺が保育園の送り迎えに間に合うよう時短勤務をせざるを得ないのだが、「時短勤務をする捜査一課刑事」などというものは警察組織はもとより、納税者たる一般国民ですら想定していないだろう。
 では、俺の扱いはどうなるか?
 育児・介護休業法は「育児休業をしたことを理由として、当該労働者に対して解雇その他不利益な取扱いをしてはならない」(第10条)と定めているし、その例として「不利益な配置の変更」も挙げている。だが特に減給があるわけでもなく、出世という観点から見れば昇任試験の勉強をする暇がなくむしろ不利な捜査一課から事務方に配置転換することは、法的評価として「不利益な配置の変更」とは言い難い。もちろん俺は捜査一課にいたいし、「不利益」か否かについては本人の精神的な不利益も考慮される。指針では「原職又は原職相当職に復帰させる」ことを原則とせよ、ともされている。(*7)だから上も迷っているらしい。「育休刑事」だけでも無理があるのに「時短刑事」は到底許容される「空気」がない。だが一方で役所、それも警察が法令違反をするわけにはいかない。世間にはコンプライアンスの流れもある。
 こういう場合、組織というものは「一番弱いところ」に働きかけて片付けようとするものだ。つまり俺という個人である。俺一人が捜査一課からの配置転換を希望してくれさえすればすべてが丸く収まる。だからどうか自主的に配置転換を望むように、と言われてもいる。
 俺個人としては、そこまでして警察組織を相手に「戦う」つもりはない。だが捜査一課は、警察官なら誰でも一度は憧れる部署だ。「本人の強い希望」だけでなれるわけではなく、実績と研修を経て所轄の刑事になり、さらにそこから実績を得ることができた一部の人間しか配属されない。やめたいやつはまずいない。育休を取りたければ捜査一課をやめるしかない、ということになれば、結局、育休を取れないのと同じだ。それでは意味がない。
 俺は人並みに仕事に熱意があるし、捜査一課のために役に立ちたいと思っている。だから「勤務体制の不備」のせいでせっかく育てた人材が退職してしまったり配置転換を余儀なくさせられたりするという、現在の不利益を解消したかった。同様の考えは幹部の一部にもあるようで、「せっかくだから、これを期に刑事部の捜査員にも時短勤務の制度を作ってみてはどうか」と提案する人が警察庁の方にいるらしい。係長と話していると忘れてしまうが、俺はそうした幹部の意向と、「ありえない」「組織に弓を引いた」と敵視してくる現場の空気に挟まれて火だるまになっている最中だった。
 もともと、そうなることは分かっていた。望んで火だるまになった。組織のために。
 その結果が現在の育休延長だった。
 窓の外を見る。川沿いの桜並木はとっくに時季を過ぎ、すでにどの樹もほとんど葉だけになってしまっている。四月上旬、保活はしたものの第一希望の保育園が職員の急病によるスタッフ不足で定員減になり、〇歳児クラスの抽選には落ちていた。「自宅からも最寄駅からも片道三十分かかる認可保育所に預けるか、保育料が倍かかるのに敷地は半分しかない無認可に預けるか」と悩む状態に加えて係長から「今すぐだと捜査一課復帰は難しい」と言われたこともあって、結局俺は第一希望の園に職員が戻り入園枠ができる予定だという九月に入園させることにし、育休を延長した。つまり現在は「育休刑事」ならぬ「育休延長刑事」なのだ。そしてそこから「時短刑事」に移行するためには、ただ制度ができるのを待てばいいわけではなかった。待っていてもいつできるか分かったものではないのだ。係長からも「育児中の人間を起用できることの有用性」を周囲に示さなければ難しい、と言われている。つまり実績をあげろということだ。育休中に。
 だから係長は、俺が活躍できるよう仕事を持ってきてくれる。顔の広さを活かし、育児経験が活かせそうな件であれば所轄事件でも他課の事件でもお構いなしに。俺の現在の立場からすれば、係長には感謝しなければならないのだ。
 ……という形になっているのだが。
 警察組織のど真ん中から出て十ヶ月。世間一般の常識の感覚が少しずつ戻り始めている俺は、今の自分が置かれている状況が「おかしいものである」ということも理解していた。休業中だ。休暇ではない。育児という別の業務をするために元の業務を停止しているのだ。なのに何だ、これは。
 仕方がないのは分かっている。だから、やる。それはたぶん、世界一かわいいこの子のためでもある。
 蓮くんと一緒にちょっと寝るつもりでいた俺は、こみ上げてくる欠伸を嚙み殺した。とにかく本件を片付けなければ、落ち着いてミルクをあげることもできない。
「ぱ、ぱ」
 蓮くんが手を伸ばし、俺の袖に触ろうとする。その手をくすぐり、「は」と笑顔になった息子の頭を撫でる。分かっている。すぐに解決して、家に戻る。

 *5 6歳未満の子供を乗せる時はチャイルドシートの装着が必要(道路交通法第71条の3第3項)。

 * アリソン(スーザン・ヴィルダー)。ヘロイン依存症の女性で、ヘロインで酔っぱらい続けた結果、放置していた赤ちゃんを死なせてしまう。
 * 子の養育又は家族の介護を行い、又は行うこととなる労働者の職業生活と家庭生活との両立が図られるようにするために事業主が講ずべき措置等に関する指針(平成21年12月28日号外厚生労働省告示第509号

第3回へつづく

本短篇を収録した『育休刑事 (諸事情により育休延長中)』は2023年4月24日発売!

書籍情報



育休刑事 (諸事情により育休延長中)
著者 似鳥 鶏
定価: 748円(本体680円+税)
発売日:2023年04月24日
★作品情報ページ:
https://www.kadokawa.co.jp/product/322211000499/

事件現場に赤ちゃん入ります! 新感覚本格ミステリ、続編が登場
捜査一課の巡査部長、事件に遭遇しましたが育休中であります! 男性刑事として初めての長期育児休業を延長中、1歳になる息子の成長で手一杯なのに、今日も事件は待ってくれない!?

【収録作品】
世界最大の「不可能」/徒歩でカーチェイス/あの人は嘘をついている/父親刑事
あとがき


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