緊急事態!ベビーカーでベビーカーを尾行! 似鳥鶏『育休刑事』シリーズ最新短篇「徒歩でカーチェイス」短期集中連載第4回
育休刑事シリーズ 徒歩でカーチェイス

育児と仕事の両立に悩むすべての人へ。
2023年4月からドラマ放送も決定している『育休刑事』の最新短篇を短期集中連載!
全5話で短篇が丸ごと読める!
似鳥鶏『育休刑事』シリーズ
「徒歩でカーチェイス」第4回
4
女性の背中が角を曲がって消えたのを確認し、押しているベビーカーを加速させる。路面のアスファルトが滑らかなタイプで走行音が小さいのはありがたい。とりあえずあの角まで急いで進み、様子を窺う。周囲に通行人はいない。慎重に距離を取らなくてはならなかった。
尾行の経験はかなりあるつもりだった。車両対車両、人対人、車両対人。だが単独尾行はあまりない。警察の尾行は重大なものほど人員を大量に使って慎重にやる。予想外の急変で単独尾行になったこともあったが、その時だってすぐに応援が来て交替できた。対象者の目的地も分からず、しかもこれほど人通りのない場所での尾行が俺一人でできるだろうか。しかも人対人でも車両対車両でもなく、ベビーカー対ベビーカーの尾行だ。
だが。角から様子を窺い、充分距離が離れているのを確認して加速する。むこうのベビーカーはかなり古く、車輪がガタガタと鳴る上に四輪のうち一つは回っていなかった。こちらのはちゃんと整備しているメーカー品だ。車両の性能では有利だ。不自然にならないよう速度を落として通行人をやり過ごし、再び加速する。女性は角を曲がり、塀の陰に消えている。
尾行は続いたが、女性はこちらに気付く様子がないのに加え、路地から二車線道路、さらに片側二車線の県道に向かって移動していた。ほっとする。尾行が難しいのは大通りより人の少ない路地だ。県道に出てくれれば多少目立っても気付かれないし、見通しもいいので距離をとれる。
肩のバッグをかけ直し、ベビーカーを加速させる。蓮くんはフロントガードに付けたお気に入りのウサギのぬいぐるみを齧ってくれている。通常の尾行より有利な点もある。ベビーカーを押して他人の跡をつける人間などいない。少なくとも一般的にはそう思われている。多少急いだところで、周囲の通行人に不審に思われることはないはずだ。
県道に出ると、向かって左側の先に女性とベビーカーを見つけた。思ったより離れている。ハンドルを押してウィリー気味に前輪を浮かせ、ベビーカーを加速させる。やると蓮くんが喜ぶやつだ。「きゃ」と聞こえた。通行人をかわし、距離を縮める。
予想通り、県道に出てからの尾行は楽だった。車が多く走行音があるし、俺以外にもベビーカーを押している人や、キャリーケースを引っぱって音をたてている人もいる。時折信号があって相手が停止するが、こちらも距離をおいて停まる。コンビニの前でのぼりがはためいていたり、植え込みに花が咲いていたりして蓮くんがいちいち反応するので、赤ちゃんの好奇心に合わせて立ち止まっている、というふうを装えば、何もないところで停まっても怪しまれはしない。シャツの裾をつまんではたはたと揺らし、汗ばむ背中に風を入れた。前の女性が歩き出す。このままどこまでも追跡する。
だが女性が急に右を向き、横断歩道を渡り始めた。
「……っと、これは」
周囲を見回し、距離を測る。難しい状況になったことを知った。あの信号は県道を渡るための押しボタン式で、赤になるまでに追いつこうとすれば近付きすぎてしまう。かといって次に青になるのを待つと離れすぎる。道を挟んで併走するのも困難だ。幅が広く遮蔽物のない県道を挟んで反対側同士となると、かなり距離を開けなくてはこちらの姿が見られてしまう。ぎりぎりまで離れなくてはならないが、そのぎりぎりを保つ方法が見当たらない。
県道を渡らなければならない。だが同じ横断歩道は使えない。向かって右に交差点はあるが、一度反対方向に行き、信号を待って渡り、また戻るとなると時間がかかりすぎる。左側に交差点は見えないが……。
歩道橋はあった。俺はそちらに向かった。こうしている間にも尾行対象者が離れていく。俺は決めた。腕力には自信があるのだ。父親をなめるな。
「ふん!」
ハンドルとフロントガードを持って蓮くんごとベビーカーを持ち上げ、そのまま歩道橋の階段を駆け上がる(*7)。スロープすらない古い歩道橋だが、そのため利用者は少ない。注目を集める心配もない。柔らかいフロントガードがぐにゃりと曲がり、壊れるのではないかとぞっとする。だが異状を感じる前に階段の上に到達した。ゆっくりと降ろす。
「よっしゃ」
「きゃ」
「ごめんねもう一回いくよ」
歩道橋を渡りながら距離を測り、もう一度同じやり方で持ち上げた。思いきり腰にくる持ち上げ方なのだが仕方がない。仕事でも育児でも、大丈夫だと思って腰に負担をかけ、壊した人たちの話を聞いていた。なるほど、みんなこうして腰を壊していくのだ。
歩道橋という高所を通ったのは正解で、尾行対象者の女性の位置ははっきりつかめていた。距離を取り、追跡しながら確信した。やはり不審だ。一見、普通の母子に見えるが、こうして追跡を続けていること自体がおかしいのだ。だが声をかければ警戒される。今は駅と反対方向に移動しているから、このままいけば家に戻るのだろう。尾行を続け、家の様子を確認するべきだろう。
女性のベビーカーが再び角を曲がり、姿を消す。やや速度を上げて角に近付き、電柱の陰から身を乗り出して前方を窺う。ベビーカーを押している時は、手元と車輪に注意がいくため、一人で普通に歩いている時より後方への注意が疎かになる。多少、接近しても大丈夫なはずだ。
と思ったのだが、蓮くんが泣きだした。「あええええええ」
眠くなってきたのか、それとも「そろそろ抱っこしろ」なのか。慌ててウィリーさせ前後に揺するが泣き止まない。もともと赤ちゃんというのは、ベビーカーに大人しく乗せられている生き物ではないのだ。赤ちゃんにとっては抱っこの方がいいに決まっていて、例外的にベビーカーが好きな子以外は必ずどこかで泣きだして抱っこを要求する。それを忘れていた。むしろ今は、加減速や上下動が多かったためむしろ例外的に大人しかった方なのだ。
とにかく元の角に戻って隠れようとしたが、顔を上げると、対象者の女性がベビーカーを押してこちらに向かってきていた。目を離した隙になぜかUターンしていたらしい。尾行を警戒している人間でなければ通常はやらない動きで、なぜ今、と思ったが、すでに目が合ってしまっておりもう遅かった。諦めて会釈すると、女性は不審げにこちらを見た。
「……何か」
「あの、こちら」
一応こんな時のために、蓮くんの予備の靴下を片方、ポケットに入れてはおいた。「落ちていたので。……渡せるかな、と思って頑張って追いかけてたんです」
女性は俺が差し出した靴下を一瞥するが、「違います」とだけ言って俺の横をすり抜け、なぜか元の県道に戻っていった。
尾行は失敗した。「あえええええ」と泣く蓮くんのシートベルトを外し、抱き上げる。
だが、ベビーカーを引っぱって県道に戻ると、女性はなぜか今までとは逆に、まっすぐ駅方向に歩いていった。
なぜ急にUターンしたのだろう。それもあんな、何もない路地の途中で。
俺の尾行に気付き、かわそうとしていた。それならば理解できるが、これまでの彼女の動きを見るに、尾行を警戒しているようなそぶりは全くなかった。それに振り返った彼女は俺の存在に驚いていた。尾行を外すためにあれこれの動きをしていたなら、あんなに驚くのはおかしい。横を通りすぎる時も、すぐそばを通り抜けた。尾行を警戒していたなら俺のことももっと警戒しているはずで、横を通る時はもっと迂回して、手が届かない距離まで離れるはずだ。
もちろん「人間は突然気まぐれを起こすことがある」というのは承知していた。なんとなく隣の駅まで歩いてみる。意味なくホームの端まで行ってみる。急に思い立って花を買って帰る。あの女性だって、たとえば買っておくべき何かを急に思い出してUターンしたのかもしれないのだ。女性の進行方向にあるのはたしかJRの泉町駅だ。駅前は比較的栄えていて大型店舗も揃っている。
ここから追いかけ、不審者と思われてまで探りを入れる決心はつかなかった。赤ちゃんにも女性自身にも怪我の痕跡などは見られなかった。健康状態もよさそうだったから、まさに今、危機が迫っている、ということではないのかもしれない。気のせいかもしれないのだ。
女性の姿はもう見えなくなっている。急げばまだ追いつけるだろうか。ここで見失ってしまったら二度と会うことはできないだろう。それでいいのだろうか。
だが、腕の中で蓮くんがもぞもぞ動き出した。ここから突然全力で反ったりするのだ。慌てて腕を締める。
「……『不審』」沙樹さんがはカラーボールを拾って蓮くんに渡す。「具体的にどこが不審だったの?」
蓮くんが腕を、ぷん、と振り、ボールを投げる。なぜか後ろに飛ぶ。俺は拍手してそれを褒めつつ頭の中を整理する。
「まずは服装かな。その人、かなり体の線が出るぴっちりしたワンピースだった。海外ブランドの……何だったっけ。とにかくそういうので」腰をかがめてボールを拾い、蓮くんに渡す。「どう見ても授乳できる服じゃなかった。まあ、それは完ミ(*8)なのかもしれないけど」
蓮くんがまた腕を、ぷん、と振る。ボールはなぜかまた後ろに飛ぶ。どう投げればああなるのだろう。俺はボールを拾い、沙樹さんに褒められて笑顔の蓮くんに渡す。
「ただ、赤ちゃんは明らかに十ヶ月くらいだったのに、腕にBCGの痕がなかった。……あれ五ヶ月からでしょ。母子手帳にも書いてあるし健診でも言われるのにまだしてないってなると、何か事情があったってことになりそうだし」
今度はなぜかボールをかじり始めた蓮くんを見る。ぷくぷくの頰っぺたに、きつく縛ったボンレスハムのようにむちむちと張った手首の肉。いずれも毛穴が存在しないかのように滑らかだが、実際の赤ちゃんの肌というのは無傷ではない。かぶれ等で赤くなっていることも多いし、腕には必ず予防接種の痕がある。BCG(結核予防ワクチン)のいわゆる「ハンコ注射」というやつだ(*9)。この痕は長年残る。
「でも、それだけじゃなかった。ちょっと気になったから別れた後、尾行したんだ。蓮くんと一緒に」蓮くんはボールを放り出し、えっこらせ、と両手をついて立ち上がるとこちらに歩いてくる。それを抱きとめて持ち上げ、胡坐をかいた脚の中に座らせる。「かなりの距離を尾行した。県道を移動して、渡って、その先まで行っても相手の目的地はまだだった。それがもう変でしょ?」
沙樹さんなので、すべて説明せずとも理解してくれることは知っている。俺が見ると、彼女もこちらを見た。「……小さい公園だったんだよね?」
俺は頷く。蓮くんが「あ」と言って脚の間から脱出しようともがく。
そうなのだ。そもそも「徒歩で赤ちゃんを公園に連れてきた母親」を、あんな長距離、尾行すること自体がおかしかった。
「都市公園法だったっけ。昔の規定だけど、今でも参考にはされてるよね」沙樹さんは法令まで記憶していた。「その大きさだと『街区公園』に当たるから、想定される配置基準は『住民の家から半径250m以内にあること』だと思う。もっと家の近くに別の公園があったはずだよね」
昔は、住宅地では一定間隔で公園を設けるべし、と法令で定められていたのだ。あの母親は最寄りの公園に行かず、なぜか離れている上に「陰」「古」「閑」と三拍子揃ったあの冴えない公園に行っていた。最寄りの公園に行きにくい事情があった、とみるべきだろう。
「普通なら、会いたくない人がいるとか、そういうところだけど……」
他にも不審点があるのだから、それでは済まない。沙樹さんは携帯を出した。「ハルくん、その人の着てた服のブランドとか分かる?」
俺は覚えている限りの特徴を挙げ、女性の服を特定しようと検索する沙樹さんを手伝った。沙樹さんはじきに見つけたようで、ニュースサイトの記事に、まさに俺が見たワンピースが画像付きであった。
俺は画面を指さす。「これだと思う」
だが、沙樹さんはこちらを見た。「……これ、去年の流行だよ。去年の記事」
俺はファッションの流行を毎年把握している人間ではない。それでも沙樹さんの表情の意味は分かった。赤ちゃんは十ヶ月くらいだった。多少前後したとしても、出産は去年の八月か九月。夏物のこのワンピースは体のラインが出るタイトなタイプだ。臨月近くで着られるはずがない。
「去年の流行りを中古とかで今年、買った可能性はまだある?」
「これとか好きな層はそんなことしないと思う。それに」沙樹さんは口を尖らせた。「……体形変わるもん。こんなの産後すぐ着られない」
つまり、あの女性は昨年、妊娠していなかった。あの赤ちゃんは彼女が産んだわけではないのだ。もちろん世の中には様々な事情で「産んでいない母親」くらい山ほどいる。だが予防接種をしていない。近くの公園に行かない。それらを考え合わせると。
「赤ちゃんが産まれた地域の外に移動させられている。しかも住民票も移していない。母子健康手帳は手帳の中の住所欄を書きかえればいいけど、予防接種は予診票の交換が必要だから、受けられなかったのかも」沙樹さんが言った。「……母親じゃ、なかったのかもしれない」
とすると。「……誘拐? でも赤ちゃんの誘拐事件なんて今、あったっけ?」
沙樹さんは視線を外して沈黙した。蓮くんが這っていくが、目を合わせないまま抱き上げた。
「……ない」沙樹さんははっきり言った。「ここ数ヶ月遡っても、そんな話はない」
「……であれば、これ以上はどうしようもないかな」
俺はそう言い、沙樹さんを見る。もし本当に誘拐事件だったら絶対に提供すべき情報だったから、一人では判断しないことにしたのだが。
沙樹さんはまだ何か考え込んでいる様子だったが、はっきりと頷いた。
「……うん。そうだね。とりあえず、気にしなくていいと思う」
*7 乳児が落下する事故も発生している。危険なので真似をしてはいけない。
*8 ミルクだけで育てること。「完母」「混合」「完ミ」と略して表記されることが多い。
*9 管針法という。筋肉などに注射する皮内接種ではなく皮膚にBCGワクチンを塗布した後、管針を押しつけて接種する方法。もっとも海外ではBCGにも普通に注射針を使用しており、ハンコ注射は日本独特のもの。
最終回へつづく
本短篇を収録した『育休刑事 (諸事情により育休延長中)』は2023年4月24日発売!
書籍情報
育休刑事 (諸事情により育休延長中)
著者 似鳥 鶏
定価: 748円(本体680円+税)
発売日:2023年04月24日
★作品情報ページ:
https://www.kadokawa.co.jp/product/322211000499/
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【収録作品】
世界最大の「不可能」/徒歩でカーチェイス/あの人は嘘をついている/父親刑事
あとがき