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連載

育休刑事シリーズ 徒歩でカーチェイス vol.2

混んだバスでベビーカーは「邪魔」?いいえ、人間1人分のサイズです。 似鳥鶏『育休刑事』シリーズ最新短篇「徒歩でカーチェイス」短期集中連載第2回

育休刑事シリーズ 徒歩でカーチェイス

育児と仕事の両立に悩むすべての人へ。
2023年4月からドラマ放送も決定している『育休刑事』の最新短篇を短期集中連載!
全5話で短篇が丸ごと読める!

似鳥鶏『育休刑事』シリーズ
「徒歩でカーチェイス」第2回

       2

 自動ドアのガラスがさっと両側に開く。正面玄関のポーチを出ると横たわる片側二車線道路の上に爽やかな曇り空が広がっていた。曇り空で爽やかとはこれいかに、となるが今は七月。晴れるとすぐ気温35℃などになり外出に危険が伴う。ベビーカーの赤ちゃんは大人より地表に近くアスファルトからの照り返しと放射熱を受けるのに体温調節が未熟、という危険要素のサンドイッチなのだ。かといって雨に降られても困る。雨の中ベビーカーを押しての移動は苦行そのものなのだ。ベビーカー本体はレインカバーをつけられるが籠に入れたりハンドルに提げたりしている荷物はぐしょぐしょに湿るし、片手で傘を持ち片手だけでベビーカーを押しているとすぐ握力が限界になり、十秒ごとに右手、左手、と押す手を替え、そうするために傘を持ち替え、肩にかけている荷物を移し、とやっているとなかなか前に進めない。いっそ制服の雨衣を着れば濡れるのも平気に思えるかもしれない(*1)と思うが、そこまでする気は毛頭なく雨の日は車でしか出かけていない。
 というわけで、夏場は「曇り」こそが至高の天候なのだった。しかも今日は風が吹いて涼しい。
 だが貴重な好天なのにもう午後三時になってしまった。バス停を見たが、この路線のバスは三十分に一本しかないから、まだしばらく来ない。本日の予定が台無しだが、せっかく知らない街に来た、というのもある。二度と来ることもないだろう無関係の住宅街だ。そういう場所を散歩してみるのもいいかもしれない。
「……公園でも行こうか」
 ベビーカーの中の蓮くんに声をかけ、まあ小さな児童公園の一つや二つ、路地に入ればあるだろう、と適当に歩き出す。

 そもそもこうなったのは姉が原因だった。いきなり「天気がいいからお出かけするよ」と決定事項を伝えてきたため駅で待ち合わせ、園内に植物園を備える大きめの公園に出かけることになった。密室で育児している弟を連れ出してやろうというのだろうし(本音は蓮くんを構いたいだけかもしれないが)、子供を連れて外出するにあたって大人が「一人」から「二人」になるのは精神的に非常に楽になるのでそれは大変ありがたかったのだが、駐車場が手狭ということで電車とバスの移動になったのがいけなかった。沿線で何かイベントでもあったのか、公園行きのバスが予想外に混んだのである。あれこれ詰め込んだマザーズバッグと「千円札柄」をした姉のショルダーバッグ(どこでこういうのを見つけるんだろうか)を抱えて手が空かない俺は乗り込んできた乗客に押し流され、足でベビーカーを保持する姉と引き離された。
 それだけなら耐えられたし、降りる時に声を掛けあってなんとか、と計画しつつひとまず無言で揺られていたのだが、何やら後ろの方から男の声で「邪魔だよ」と聞こえてきたのである。
 苛ついたトーンの声だった。職業柄「揉め事の兆候」には敏感で、おっと仕事か、と思った。公共交通機関内の喧嘩はそれこそ日常茶飯事であり、通勤中に分けた経験もある。
 が、座席の上に身を乗り出して後方を見てみると、絡まれているのは姉と蓮くんだった。絡んでいるのは四十代とみられるやや大柄な男。半袖のスーツでネクタイをして鞄を持っている。一見きっちりとして見えるが、こういう男性の中に、女性や子供や老人に絡んでトラブルを起こすタイプがいる。「俺は女子供と違って仕事中なんだ」という意識なのだろう。そういう奴は「公務員」にもよく絡む。
 男は走行中の車内なのに聞こえる音量で舌打ちをした。「邪魔なんだよ。場所取ってんじゃねえよ」
 まずいなと思う間もなく姉が男を睨んだ。「取ってねえよ。あんたの煙草の臭いの方が邪魔。恰好つけてラッキー吸ってんじゃねえよ(*2)。似合わねえんだよ」
 姉は五感が獣並みに鋭い上、仕事柄煙草の銘柄にも詳しいが、当然ながら男は激高した。「何だと。邪魔だっつってんだ。場所取りやがって何様のつもりだ」
「誰がいつ場所を取ったって? こっちは二人で乗って二人分の場所しか使ってねえんだよ。標準的な四輪ベビーカーのサイズは縦80㎝に横50㎝。立ってる成人男性は肩幅だけで45㎝。その両側に肘が出るから体の幅は肘から肘までで65㎝。体にぴったりくっつけててこれだから、少し開くともう75㎝になるんだよ。前後の幅だって足の25㎝なんかじゃ済まない。普通の人間は猫背になるし人体で一番後ろに出てるのは尻。あんたの鼻先から尻の先まで測りゃ45㎝になる。数字、理解できる? 成人は普通にベビーカーと同じくらい場所を取ってるんだよ。荷物を持ってなくてそのサイズで、持ってりゃもっと取るんだよ。ベビーカーが場所取ってるように見えるのは真上の空間が空いてるからで、ただの錯覚に過ぎない。分かった? 分かったらとっとと謝罪しろ。今日は天気がいいから二万で許してやるよ」
 なぜそこで金を要求する。当然ながら男は怒鳴った。「ごちゃごちゃうるせえんだよ」
「怒鳴ってるのはそっちの方だろ。絡んできたのもそっち。こっちは普通に二人で乗ってただけだよ。赤ちゃんを母親の荷物だとでも思ってんだろ? だからそんな頭の悪いこと言うんだよ」
 あんた母親じゃないけどな、と心の中でつっこんだが、なぜか前の席に座っていた八十代くらいの女性が小声で「そうだ! 言ってやれもっと!」と拳を握った。
「だいたいあんた、相手がこんなか弱くて優しそうで可憐でキュートで可愛らしい超絶美少女だから絡んできたんだろ? いくら美人でもブル中野だ(*3)ったら何も言わねえだろ? 180㎝120㎏の右プロップ(*4)とか190㎝160㎏の前頭三枚目(*5)の方がよっぽど場所取ってるぞ。そっちにも言ってみろよさっきみたいに『邪魔だよ』って」
 前の席の女性が「そうだそうだ!」と囁いた。
「だいたいバスは公共交通機関だろうが。なんでバス一つ乗るのにまわりに気を遣ってびくびくしてなきゃいけないんだよ。こっちは子供抱えて大変なんだよ。あんたみたいなのがいるから少子化が進むんだよ。そんな扱いすんなら子供産んでやんねえぞ。日本が年寄りばかりになっていいのか?」
 いろいろつっこみたいところはあったが、それよりも「これはあかんな」と思った。そもそも医師で大学医学部史上最年少の准教授で仕事で講義をしているうちの姉とそこらの親父では議論で勝負になるわけがないのだ。だがこのての男は「女に言い負かされた」となると怒鳴り声か手が出る。
 俺が危惧した瞬間、男が「黙れ」と怒鳴ってベビーカーを蹴った。
 がつ、という音が車内に響いた。これは駄目だな、と思い、俺は乗客をかき分けて車両後方に向かう。肩のバッグがあちこちに挟まって移動しにくかったが、二人の周囲の乗客たちはこんなに空けられたのか、というほど下がって空間を作っていたので、とりあえず前に出ることはできた。「姉ちゃん」
「どこいたの。じゃ、あと任せた」
 ここから任せるなよと思うが。「あーそこまで。暴力はいけません。やめましょう」
「ああん?」
 こちらを向いた男は相手の顔が自分より高い位置にあったことに一瞬戸惑ったようだったが、それでも顔を赤くして怒鳴り声をあげる。「なんだてめえ。関係ねえだろ」
「いえ、暴行罪の現行犯です」俺にとっては仕事であるし、そもそも現行犯であれば誰でも逮捕ができるから周囲の人間すべてが「関係者」になる。「ベビーカーを蹴りましたね? 直接肉体に向けられたものでなくとも、他人に向けた有形力の行使は暴行罪を構成します。次の停留所で降りていただけますか?」
「何だてめえ」
 胸倉を摑んできたので、手首を取ってねじり上げた。男は悲鳴をあげたが、叫びながらもう一方の手を伸ばしてこちらの顔を摑もうとしてきた。普通は痛みで降参するのだが、興奮して痛覚が鈍くなっているのだろう。しかし狭い車内で周囲には座席の背もたれ、顔の前に並ぶ吊り革、何より乗客たちが邪魔で蹴りどころか腕を振り回すのも危険だ。この距離でやるのか。
 男の手を払うが、近すぎて膝蹴りが出せないので足を踏みつけた。叫ぶ男に再び腕を摑まれる。マザーズバッグをかけていて左腕がうまく動かない。髪を摑み、引き寄せて顔面に頭突きを入れようとしたが、近すぎて狙いがそれ、額にしか当たらない。襟締はシャツの首元が固く締まりすぎていてできない。仕方なく耳を摑んで真下に引いた。男が「あああいててててて」と叫ぶ。引きながら腋を締めて短く掌底突き上げを入れるが次が続かない。クリンチの距離でやるこんな超接近戦は経験がなく、絞め技しか思いつかなかった。だが向かいあって絞められる技は限られている。袖車絞を入れたかったが季節柄、長袖の服を着ていない。手首を摑まれ、脛を蹴られる。肩からバッグがずれて腕がずれる。それでも耳は離さず、打撃が入る距離ではないので仕方なく虎爪で右目を引っ搔いた。相手が悲鳴をあげて顔を押さえた隙に背後に回り、パッと手を離して裸絞に移行する。完全に決まった。そのまま力を込める。男が呻き声をあげても離さず、逆に強く絞め上げる。すると降参の意を示す様子でこちらの腕を叩き始めた。恐怖感を与えるため、聞かないふりをしてもう一度絞め、相手が必死になったところでようやく放す。男が床に手をついて激しくむせる。手錠を携帯していない上に赤ちゃん連れの大荷物だ。この状態で拘束するには精神的に屈服させるしかなく、手は抜けなかった。いつの間にかバスは停まっていて、乗客たちはぎゅうぎゅうになるまで下がって背中で押し合いへし合いをしていた。さっきの女性だけが座席から身を乗り出し「いいぞ! そこだ!」とファイティングポーズをしている。
 俺は上から声をかける。「下車してください。最寄りの交番にご同行願います」
 さっきの女性が出てきた。「証人がいるでしょう? あたしがなってやろうか」
「ありがとうございます。ですが録画しておりましたので」
 胸のポケットから携帯を出す。捜査対象者にも同僚にも敵が多い立場だ。何かありそうだと思ったらすぐに録画を始める習慣がついている。
「まったく。嫌よねえこういう男」女性は男を見下ろす。「うちのろくでなしにそっくり。顔まで似てるわ。きっと高血圧で痛風よ」
「はあ」なんでやねん(*6)とつっこみたいが黙っておく。なぜか横にいた赤ら顔の男性が目をそらして頭を搔いた。
 ドアが開いた。姉が運転士に頼んだらしい。単なる喧嘩、事件性なし、で片付けたいところではあったが、バスも止めてしまった。ここまでの騒ぎになってしまっては通報が必要だ。俺は男のベルトを摑んで引き上げ、立たせた。あとから騒がれても面倒だ。最寄りの署で録画を見せ、正当防衛の説明くらいはしておく必要がありそうだった。

 そして今に至る。幸いなことに、俺が身分証を見せると男は急におとなしくなり、しょげかえった様子で署での事情聴取にも応じたという。直接の関係者は父親の俺ということになるので姉よりも時間がかかってしまったが、当の姉は「むしゃくしゃするから研究室で論文書いてくる」と携帯にメッセージを残してさっさと帰ってしまった。そんな動機で書かれた論文が査読に堪えるのだろうかと思うが、酒を飲まないと執筆しない小説家もいると聞く。
 空を見上げる。相変わらず曇っている。空全体を同じ灰色にうっすらのっぺり染める高層雲。朧雲と言っただろうか。風はあるが軽く、雨の気配はまだ彼方に遠い。俺はガタガタとベビーカーを押して見知らぬ住宅地の路地へ進む。そういえば蓮くんは揉め事の間、全く泣いていなかった。恐怖で固まっていたならバスを降りたあたりで泣きだすはずで、保護者の怒鳴り声が聞こえてもなおのんびりしていたということらしい。古代なら「王の器」とか言われてもてはやされるところではないか。
 路地の曲がり角で「たーお!」「お水飲む?」「う!」と二言語混成のやりとりをし、ストローマグで麦茶を飲ませ、ついでにおむつのチェックをした後、再び路地の奥へ進む。どこに向かうでもない真の「散歩」。この子が生まれるまでは考えもしなかった行為だった。路地の先に、青々と茂った広葉樹に囲まれた一角が現れる。一区画だけの小さな公園だった。砂場と鉄棒とブランコ、それに階段を上って滑り降りるだけの単純な滑り台。あとは二つの、バネで揺れるロッキング遊具。なぜか足の生えたナス形とキュウリ形をしており、あんなものに乗せたら子供が彼岸に連れてゆかれはしないかと心配になる。設計段階で気付かなかったのだろうかと思うが、まあ世の中にはそういうものがわりとありふれている。

 *1 音が聴こえにくくなってしまうと業務に支障をきたすので、制服警官の雨衣はフードがないことが多い。もちろん傘も持たないため首から上は雨がそのまま当たるが、制帽はカバーをつけるため濡れない。本人の顔は濡れる。
 *2 「ラッキー・ストライク」。ブリティッシュ・アメリカン・タバコ社製の老舗ブランド。バンドマンが吸っているイメージが定着しているようだが、それ以外の人も吸う。第二次大戦中は米軍の支給物資でもあったが、こんなやばい名前(Lucky Strike!)なのによく支給していたものである。
 *3 元女子プロレスラー、現プロレス解説者。得意技はトップロープから繰り出すこともあるギロチン・ドロップや、垂直落下式リバース・スープレックス「ブルズ・ポセイドン」等。ブログのタイトルは「女帝」。本名・青木恵子。
 *4 ラグビーのポジションの一つ。左プロップ、フッカーと共に最前線でスクラムの中心となり、体を張って敵陣営を押し込む。背番号は3。
 *5 大相撲の番付の一つ。横綱を含めた最上位との取組が組まれるのは基本的にここからで、四枚目と比べて勝ち越しが大変になるが、勝ち越せば三役が狙える位置でもある。
 *6 いずれも人格とは関係ないし、遺伝的要素の大きい疾患なので本人の責任でもない。

第3回へつづく

本短篇を収録した『育休刑事 (諸事情により育休延長中)』は2023年4月24日発売!

書籍情報



育休刑事 (諸事情により育休延長中)
著者 似鳥 鶏
定価: 748円(本体680円+税)
発売日:2023年04月24日
★作品情報ページ:
https://www.kadokawa.co.jp/product/322211000499/

事件現場に赤ちゃん入ります! 新感覚本格ミステリ、続編が登場
捜査一課の巡査部長、事件に遭遇しましたが育休中であります! 男性刑事として初めての長期育児休業を延長中、1歳になる息子の成長で手一杯なのに、今日も事件は待ってくれない!?

【収録作品】
世界最大の「不可能」/徒歩でカーチェイス/あの人は嘘をついている/父親刑事
あとがき


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