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レビュー

【解説】全身に次から次へと棘が刺さっていくような感覚を覚える物語――『棘の家』中山七里【文庫巻末解説:若林 踏】

中山七里『棘の家』(角川文庫)の刊行を記念して、巻末に収録された「解説」を特別公開!



中山七里『棘の家』文庫巻末解説

解説
わかばやし ふみ(ミステリ書評家)

 正義と悪。被害者と加害者。虐げる者と虐げられる者。その境界はあいまいなもので、人間はふとした弾みでどちらの立場にも成り得る。なかやましちはそうした不安を作品のなかでたびたび描いてきた作家だ。『棘の家』もしかり。特に本書は読者にとって、その不安が最大限に伝わる作品になっているのではないだろうか。なぜなら本書は学校、そして家庭という最も身近な集団で起こる波乱を描いた小説だからだ。
 本書は元々、「蕁麻イラクサのなる家」という題名でKADOKAWAの雑誌『小説 野性時代』に二〇一七年三月号から同年十二月号まで掲載されていた長編小説である。その後、単行本化に当たって『棘の家』と改題され、二〇二二年五月に同社より発売された。蕁麻の葉や茎にはとげがあり、触ると鋭い痛みを感じる。本書はまさしく読んでいるだけで全身に次から次へと棘が刺さっていくような感覚を覚える物語になっているのだ。
 かりしんいちという中学教師が、ひとりの生徒から相談を受けるところから本書は幕を開ける。その生徒によればクラスにいじめを受けている者がおり、その証拠をいじめている側に突き付けたいと言うのだ。しかし穂刈は生徒をなだめるだけで、何もしようとしない。机の落書きひとつでいじめの証拠にはならない、いじめている側の生徒も家庭に問題を抱えている、などなど穂刈は様々な理由を話すが、穂刈の態度はなるべく面倒を避けたいという思いがにじみ出たものになっていた。
 こうして物語の序盤では事なかれ主義の教師、穂刈の日常が描かれていく。穂刈の妻であるさとは元教師で、二人の間には中学二年生の長男・駿しゆんと、小学六年生の長女・という子供がいる。学校での出来事を妻に愚痴り、ふだん子供たちと顔を合わせる時間がないことに「世の父親たちも押しなべてこんなものかもしれない」と言い聞かせながら、穂刈は日々を送っている。問題が無いとは言えないが、さしたる大事件が起きているわけでもない。つまりは平穏だ。
 ところが、その平穏が突如として破られる時が来る。授業中、穂刈は里美から急な電話を受ける。由佳が通っている小学校の三階の窓から飛び降りて、救急病院に搬送されたというのだ。至急、穂刈は搬送先の病院に駆けつけると、そこにはばんどうと名乗る刑事がいた。坂東は事件が起きた状況を説明した後に、由佳が家庭内で思い悩んでいたような様子は無かったか、と穂刈と里美に尋ねる。二人には思い当たる節は無かったが、その次に坂東が語った言葉に衝撃を受ける。聞き込みの結果、由佳があるグループからいじめを受けていたという証言が出てきたのだという。
 幸い由佳の手術は成功し、命に別状は無かった。しかし穂刈たち家族は釈然としない気持ちを抱えたままだった。坂東の更なる聞き込みによっていじめの事実は決定的になったものの、誰が由佳をいじめていたのか、具体的なことは聞き出せない状態だった。由佳の担任にも話を聞こうとするが、歯切れの悪い言葉が返ってくるばかりで肝心なことは何も知ることができない。里美は加害者に対する憎悪を募らせ、駿は何もできない父親に対して怒りを見せる中で、事態は意外な方向へと転がっていく。
 いじめに事なかれ主義の態度を取っていた主人公が、とつぜんその被害者家族へと立場を変える。かつて穂刈自身が生徒に取ったような態度を由佳の担任に取られるという、皮肉な展開に苦い思いを感じながら、読者は穂刈一家の行く末が気になり頁をめくるだろう。先ほど記した粗筋は本書の七四頁くらいまでの内容である。物語全体の五分の一ほどの分量だが、そこから先の情報は伏せておくことにする。本書の肝は登場人物たちを不測の事態へと追いやるスリラーにあるので、なるべく事前知識を入れずに濁流のような展開へ身を委ねていただきたい。
 家族を題材にしたスリラー、それも苦い読み味をともなった作品は主に一九九〇年代、なみアサ、にいきよみ、いけといった作家が短編を多く手掛けたことによって浸透する。更に二〇〇〇年代半ばから後半にかけて“イヤミス”という呼称でくくられる作品群がミステリファン以外にも広く支持を集めたことで、いわゆるドメスティックスリラーと呼ばれるタイプの小説が国内ミステリの支柱の一つになっていく。そこで描かれるのは家族という小集団が抱える閉鎖性と、それゆえに生じる個人間のあつれきが生む悲劇である。言い換えれば小さな日常に生まれるゆがみを描くのがドメスティックスリラーの要なのだ。『棘の家』もまさしくその系譜に連なる作品である。付言すると本書では家族のほかにもう一つ、学校という閉鎖的な集団の様相を浮かび上がらせる。息苦しさを感じるような閉鎖空間にいることの不安が、この作品には描かれている。
 いじめに対処できない主人公がいじめの被害者側に転じる、という立場の逆転が描かれていることは先ほど書いた通りだ。本書はそうした逆転が様々な形で読者の眼前に現れる。複雑な現代社会においては不変的な立場など存在せず、常に人々は転落の危機におびえながら暮らしている。本書は先の読めない展開がスリルを生み出すだけではなく、社会の中でいつ転落するのか分からないという人間の不安もまた読者をあおり立てる要素になっているのだ。中山七里はそうした立場の逆転に関心を寄せる作家である。二〇二〇年に刊行された『夜がどれほど暗くても』(角川春樹事務所)では、大手出版社発行の週刊誌で副編集長を務める男が息子の殺人容疑によって、マスコミから追われる立場へと変わってしまう様子が描かれていた。中山は社会派ミステリの書き手でもあるという認知がされているが、筆者から見ると、正確には社会の構成員である人間の極端な心の有り様に関心を寄せる作家なのでは、と思う。
 そのことを感じさせるのが、本書におけるマスコミの過剰報道やインターネット上での悪質な書き込みによって、登場人物たちの生活が脅かされていく描写だろう。中山は『絡新婦じよろうぐもの糸 警視庁サイバー犯罪対策課』(新潮社)というインターネットやSNS上で蔓延はびこる犯罪に対処する警官の活躍を描いたミステリを二〇二三年に発表している。電子空間の向こう側にいる、誰とも知らない人間たちの悪意が集積し個人を飲み込んでいく様子は、まさに社会に潜む人間の極端な心の有り様が具現化したものだろう。『絡新婦の糸』は秩序を回復させるために動くヒーローが明確に描かれているが、本書の場合はそうではない。主人公の穂刈は一介の教師に過ぎず、それゆえに無数の悪意に成すすべもなく身を任せるしかない。もしも自分が巻き込まれたら、というリアルな恐怖もまた本書の読みどころの一つだろう。デビュー作『さよならドビュッシー』(宝島社文庫)のような音楽ミステリから『ヒポクラテスの誓い』(祥伝社文庫)のような法医学ミステリまでと中山の作風は幅広く、また驚異的な執筆スピードゆえに作品数も膨大であるため、その作家像はなかなかとらえにくい面もある。しかし本書をはじめとする多くの作品において、中山が現代における極端な心の有り様に目を向けていることは記憶に留めるべきだろう。

作品紹介



書 名:棘の家
著 者:中山七里
発売日:2025年04月25日

家族全員、容疑者。人間の裏の顔を描く家族ミステリ。
穂刈は、クラスで起こるいじめに目を逸らすような、事なかれ主義の中学教師だった。
しかし小6の娘がいじめで飛び降り自殺をはかり、被害者の親になってしまう。
加害児童への復讐を誓う妻。穂刈を責める息子。家庭は崩壊寸前だった。
そんな中、犯人と疑われていた少女の名前が何者かにインターネットに書き込まれてしまう。
追い込まれた穂刈は、教育者としての矜持と、父親としての責任のあいだで揺れ動く……。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322410000623/
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