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【解説】小池真理子の真骨頂と言える作品――『アナベル・リイ』小池真理子【文庫巻末解説:東えりか】

小池真理子『アナベル・リイ』(角川ホラー文庫)の巻末に収録された「解説」を特別公開!



小池真理子『アナベル・リイ』文庫巻末解説

解説
あづま えりか

 いくとしも幾年も前のこと
海の浜辺の王国に
 乙女がひとり暮していた、そしてそのひとの名は
アナベル・リー──
 そしてこの乙女、その思いはほかになくて
ただひたすら、ぼくを愛し、ぼくに愛されることだった。(後略)
じましようぞう編アメリカ詩人選(1)『対訳 ポー詩集』(岩波文庫)

モルグ街の殺人』や『黄金虫』など、ミステリーテイストの強い短篇小説家として世界的に有名なエドガー・アラン・ポーには、もう一つの詩人としての顔があった。
 小説の高名さに比べ、詩人としては一歩譲る物書きであったが、いくつかの作品はたいへん広くアメリカ人に知られていると、岩波文庫版を翻訳した加島祥造は「はじめに」で紹介している。たとえば「大鴉」や「鐘のさまざま」、そして「アナベル・リー」。
 六れんの詞章としてつづられた「アナベル・リー(Annabel Lee)」は四十歳で亡くなったポーが生前最後に書いた詩で、抒情詩の傑作として多くのアンソロジーに収められ、日本でもいくつかの翻訳がある。
 冒頭の一聯目のあと、物語はこう続く。
 ──愛を超えて愛し合ったぼくたちは、その愛を羨み、憎んだ天使たちによって引き裂かれ、アナベル・リイは殺されてしまう。だが魂を裂くことはできない。だから彼女の墓所にぼくは夜ごと横たわる──
 幻想的で美しい内容であるからか、日本でもおおけんざぶろう『美しいアナベル・リイ』(新潮文庫)をはじめとして、この作品からインスパイアされた小説や漫画が散見される。
 そして小池真理子もまた、この美しい詩から想起した幻想怪奇小説を生み出した。
 文芸評論家のひがしまさのインタビュー(カドブン)では、本格的な幽霊譚を書くきっかけとして憧れの作品であるスーザン・ヒル『黒衣の女』を挙げ、「アナベル・リイ」の深淵な闇のなかに落ちていくような独特な言葉選びにかれて、この物語を作り上げたと明かしている。
 とうに還暦を過ぎたえつの回顧録として、物語は進んでいく。ものごとを合理的に解釈しようとする「女の軍人」とされるような現実主義者である悦子が、四十年以上悩まされた怪奇現象は何であったのか。
 私は、悦子を慕う「」という女性に、最初は疑問を、そして嫌悪を、その後、困惑と動揺と、最後に恐怖を抱いた。なぜ、そんな行動をとるのか、何が起こっているのか、わが身に何が起こるのか。先が見えず、わからないまま事が進んでいくことが一番怖い。
 始まりは一九七八年。奔放な両親が留学してしまい、資産家の祖父が建てた家にひとり残された悦子は西荻窪にある「とみなが」というバーでアルバイトを始めた。芸術家くずれで繁盛するその店で、悦子はオーナーのとみながに気に入られ仕事を楽しんでいた。
 多恵子が密かに慕う人気フリーライターのいいぬまかずに連れられて、駆け出しの女優である杉千佳代が「とみなが」に現れたのは、悦子の26歳の誕生日であった。
 アングラ劇団の新人女優である千佳代は、新作『アナベル・リイ』で病気になった主役の代役にばつてきされた。だが評判はさんざん、失意にあった千佳代と、彼女を慰めていた飯沼は恋に落ち、入籍した。
 ほぼ同時期、千佳代は同い年の悦子へひた向きな信頼を寄せはじめる。
 ──ねえ、えっちゃん。えっちゃんてば。えっちゃん、えっちゃん、話を聞いて。えっちゃんは私のたった一人の友達なのよ。本当よ。世界中でえっちゃんだけ。他に誰もいないのよ……──
 だがある日「とみなが」で倒れた千佳代は急死する。お骨は郷里である島根の墓所に葬られた。東京に出て憧れのアングラ劇団に入り、女優を夢見ていたのに、さびしい山の中に戻され埋められた。新婚の飯沼は手元にはわずかな遺骨を残すことさえできなかったのだ。
 悦子はそんな飯沼に腹を立てていた。それは彼への思いを封印するためでもあった。
 それから三か月。「とみなが」に千佳代が姿をみせた。最初はママの多恵子ひとりに見えるだけだったのに、やがて悦子の前にも現れる。極めつけの合理主義者である悦子にも見えたのだ。なのに飯沼の前には出てこない。
 怪異現象は思いもかけない時と場所にやってきて、不幸はなぜか連続する。それは千佳代が起こしたことなのか、目の前に“いる”のは本当に千佳代なのか。
 恐怖が引き金となって、飯沼と悦子は結ばれた。と同時に千佳代の姿も消えた……、はずだった。
 先に紹介したインタビューのなかで、東雅夫は本書の魅力をこう語る。
 ──“特に理由がないのに”(ひたひたと怖い)というのが重要ですね。(中略)死んだ彼女が何をどうしたいか、読めば読むほどわからなくなっていく怖さがある──
「小池さんにとってホラー小説/怪奇小説とは?」という質問には「趣味です」と答えるという。いかに恐怖を美しく描くかが作家の腕の見せ所であり醍醐味だと言い切る小池真理子の真骨頂と言える作品だと思う。
 だが『アナベル・リイ』が誕生するまで、小池真理子の私生活は大きく揺れていた。「小説 野性時代」の連載が始まった二〇二〇年一月、夫で小説家の藤田宜永氏ががんで亡くなったのだ。本書は看護期間に構想が練られ、書き始められていた。
 二〇二二年「ダ・ヴィンチ」九月号で門賀美央子のインタビューを受けてこう語っている。
 ──「野性時代」で連載をというお話をいただいた頃、夫の藤田宜永の肺に癌がみつかりました。2019年暮れ、第1回の原稿をお渡しした頃には、すでに希望の光が消えるような状態になっていました──
 恋愛小説やサスペンスを書く気分にはなれなかったが、幻想怪奇小説なら現実の諸問題から遠く離れることができる。そうして始まった連載は、藤田氏の逝去で一時休載を余儀なくされた。気を取り直して何とか再開した後も、かつての精神状態とは違う次元に入ってしまったというのだ。
 私は単行本刊行時に本書を読んでいる。ちょうど、伴侶を喪失した哀しみとその後の生活を綴ったエッセイ『月夜の森の梟』(朝日新聞出版 後に朝日文庫)が大評判を取っていた時期に重なる。
 藤田氏とはお酒を飲んだりお喋りしたりしたことが何度かある。とても楽しい方だった。さらに新聞連載中から『月夜の森の梟』を読んで、かけがえのない伴侶を亡くすことがどれだけ苦しいことかと、ただ慮っていた。
 本書の終盤で、見えざる手が悦子を心配し助けるように起こる事件は、生者だけでなく死者にも愛しい人を思う気持ちがあることを描いていると理解した。ただその時は、生と死の距離にまったく実感はなかった。
 ここからは私の個人的な話になる。
 単行本刊行の二か月後、私の夫がスポーツクラブで倒れた。原因不明のまま衰弱していき、特殊ながんだと判明したときはすでに手遅れで、そこから一か月しかもたなかった。
 この間、私の心は錯乱の極みにあった。なんとか外には平静を取り繕い、彼の死の二か月後には仕事に復帰した。
 六月の新聞書評で小池さんの『日暮れのあと』(文藝春秋)を取り上げたのは偶然だ。生と性、そして死の存在を自然の移ろいに仮託して身近に描く短編集は心にしみた。
 書評が出た直後、思いがけなくも小池さんから連絡を頂戴した。共通の知人編集者から私のことを聞いたと心配してくださる手紙を読んで、私は矢も盾もたまらずお会いしに行き、胸の内を語っていた。
「ちょうど三年前の私を見るようよ」と静かに話を聞き、泣きたいだけ泣くのにまかせてくれたことを私は一生忘れないだろう。代えがたい人生の先輩を得たと思った瞬間だった。
 文庫解説で読み返した『アナベル・リイ』の千佳代は、私にとって遠い架空の存在では無くなった。もしもこのあと小池さんに不都合な出来事が起こったら、どんなことであっても私は小池さんを見守り、味方になるだろう。迷惑? そんなことは関係ない。

作品紹介



書 名: アナベル・リイ
著 者: 小池真理子
発売日:2024年10月25日

私はずっと怯えて生きてきた。彼女の影に――。幻想怪奇小説の到達点。
一九七八年、久保田悦子はアルバイト先のスナックで、杉千佳代と出会った。舞台女優を目指す千佳代は所属する劇団で、『アナベル・リイ』のアナベル役を代理で演じるが、その演技はあまりに酷く、惨憺たるものだった。やがて、友人となった悦子に、千佳代は強く心を寄せてくる。フリーライターである飯沼と入籍し、役者の夢を諦めた千佳代は、とても幸せそうだった。だが、ある日店で顔面蒼白となり倒れ、ひと月も経たぬうちに他界してしまった。やがて、悦子が飯沼への恋心を解き放つと、千佳代の亡霊が現れるようになる。恋が進展し、幸せな日々が戻って来る予感が増すにつれて、千佳代の亡霊は色濃く、恐ろしく、悦子らの前に立ち現れるようになり――。

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