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【解説】ここに立ち入る者は、すべての望みを棄てよ――『失われた岬』篠田節子【文庫巻末解説:巽孝之】

篠田節子『失われた岬』(角川文庫)の巻末に収録された「解説」を特別公開!



篠田節子『失われた岬』文庫巻末解説

解説 ここに立ち入る者は、すべての望みを棄てよ
たつみ たかゆき(慶應義塾ニューヨーク学院長)

 コロナ禍一過、ひとつのしのせつ作品がセンセーションを呼ぶ。
 二〇〇八年発表の『仮想儀礼』が、それだ。NHK BSがプレミアムドラマとして企画し、二〇二三年暮れから二四年初春まで、毎週日曜日夜に放送されたテレビドラマである。
 物語は、都庁勤務の堅い公務員だったすずまさひことゲーム会社スタッフのぐちまことが、ひょんなことから二人とも失職してしまったがために、語らってインチキ宗教を起こしていつかくせんきんを狙うという、なんともさんくさい設定で始まる。世に現代社会における宗教ないし新興宗教の意義を問うサスペンス小説は数多いので、設定だけ見たら、本作品も典型のように見える。では、いったいなぜテレビドラマ化されて、人気を博したのか?
 最大の理由としては、もちろん二二年七月にしんぞう元首相が暗殺され、その背後に潜む統一教会問題が暴き出された事実が大きいだろう。戦後、天皇を神とする大日本帝国の呪縛から解き放たれた我が国は──欧米に比べれば──基本的に無宗教に見えるが、しかしだからこそ、いまもなお新たな精神的よりどころを希求する欲望は跡を絶たない。無一文から宗教ビジネスを成功させる者もいれば、経済的成功を収めながら最終的救済をカルトに求める者もいる。それがエスカレートすれば、太平洋戦争時代の神国日本や軍神カミカゼの言説を呼び覚ますことになりかねない。
 仮に『仮想儀礼』テレビドラマ版で初めて篠田節子を知った読者は、作者が上述の統一教会問題が沸騰している時流をいかにも意識して書いたかのように邪推するだろうか。けれども、原作はあくまで二〇〇四年から二〇〇七年まで「小説新潮」に連載されていたこと、すなわち二十年も前に構想され執筆開始されたことを忘れるわけにはいかない。
 というのは、神や信仰、宗教の問題は、筆者自身が心底きようがくした初期の山本周五郎賞受賞作『ゴサインタン 神の座』(一九九六年)から『ろく』(一九九八年)、前掲『仮想儀礼』(二〇〇八年)、中央公論文芸賞受賞作『インドクリスタル』(二〇一四年)まで、篠田文学のシグネチャーとも言うべき一貫した主題であるからだ。新興宗教や限りなく新興宗教に近い共同体をめぐる現代人のさくそうした心情を描かせたら、篠田節子の右に出る作家はいない。
 本書『失われた岬』は、そうした篠田文学を代表する珠玉の傑作である。

    *

 岬はさまざまな思索を誘発する。
 それは、古今東西の文学者が深い思索を展開してきたことからもわかるだろう。
 たとえば、かつて十九世紀中葉のアメリカ・ロマン派を代表する自然文学/環境批評の先駆者ヘンリー・デイヴィッド・ソローは、『ケープ・コッド』(一八六五年)において、この「鱈岬ケープ・コッド」の浜辺に思いめぐらせ、そこに散在する腐乱した難破船やクジラのがいなど、漂着物の自然ネットワークを巧みに換骨奪胎していく漂着物拾いレッカーのライフスタイルに注目した。
 二十世紀初頭のアメリカ・モダニズムを代表するノーベル文学賞作家ウィリアム・フォークナーが我が国のカトリック作家・えんどうしゆうさくの『死海のほとり』(一九七三年)に影響したのは、ミシシッピ河大洪水を描いた二重小説『野生のしゆ』(一九三九年)だが、実際にこの大河をアメリカ内陸部で唯一「岬」を名乗るケープ・ジラルドゥーから眺めてみると、これが内部に無数の島を抱えたどうもうなる大海であることが実感される。
 フォークナーの同作品から影響を受けたもう一人の現代日本作家・まつきようは、『野生の棕櫚』へのオマージュとして書かれたSF小説『日本沈没』(一九七三年)の四百万部を超える大ベストセラーで知られるが、短篇「岬にて」(一九七五年)では、架空の島のスカル岬に集う神父やそうりよや芸術家などいんとん者たちが麻薬をたしなみつつ、そこを「地球から宇宙へ突き出した岬」すなわち「地球という船のみよし」と再定義し、深い思弁をめぐらす。
 このように、岬は、われわれの時空間をめぐる常識を覆すドラマを、さまざまに幻視させてくれる。『失われた岬』もまた、さまざまな人々が特段の理由もなくしつそうし岬へ消えていくという現象から始まりながら、読者の現実認識へ強烈なゆさぶりをかけてやまない。
 最初の舞台は二〇〇七年。主人公である四十代の主婦・まつうらかずひろの夫妻はつがはらさやりようすけの夫妻と家族ぐるみで親しく交流してきたが、栂原夫妻が北海道に引っ越してからというもの連絡が途絶え、やがて音信不通になる。なんらかの異変が起こっているのを知ったのは、栂原夫妻の娘でアメリカ留学中だったあいが一時帰国し、両親が消息不明だと美都子に連絡してきたのがきっかけだった。かくして美都子と愛子はあさひかわ空港に降り立つと日本海に近いしん町へ赴き、栂原亮介が地元のくもべつ郷土資料館で働いているのを知る。一方、清花の方は、きりはつという謎の女と知り合ったことがきっかけで、そこから船を使わなければ容易には行けないカムイヌフ岬に「自分の居るべき場所」をいだしたらしい。二十年後の二〇二七年、還暦を過ぎた美都子と再び帰国した愛子は、清花と劇的な再会を遂げるものの、彼女はいささかも歳を取っておらず、どうやら不老不死の薬の秘密を握っているようなのだ。
 次の舞台は二〇二八年前後。AIの心理療法士と対話する元青年実業家のおかむらみなみが視点人物だ。彼は二〇〇六年、父親から引き継いだレコード会社の中身を改革し、ヴァーチャルアイドルと音楽と物語を総合したコンテンツを売り物にした会社を軌道に乗せ、最初の三年で一億円もの経常利益を出し、美女たちとの交際も不自由することなく、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。ところが、ある日、財閥系企業の社長令嬢・肇子にれ込み、仕事以上に彼女にのめり込む。肇子は見た目は地味でも卓越した語学力と深い医学的知識とともに神秘的な魅力をたたえていた。ところが彼女は突如、他の男との結婚を決めるばかりか、挙式直前に失踪。その足取りを追って判明したのは、長野で大麻栽培をしながら自給自足の共同生活を営む芸術家集団に関わるも、そこからも姿を消し、北海道の新小牛田で念願の「せいひつな生活」に入ったという事実である。岡村は早速その地へ飛び、彼女を求めてカムイヌフ岬へ向かい、ハイマツの林へ足を踏み入れ、巨大なヒグマに顔を破られる。
 そして第三の舞台は二〇二九年。ノーベル文学賞受賞者のいちかずが、ストックホルムにおける授賞式直前に突如姿をくらます。担当編集者であるこまがわ書林のあいざわれいが代読したスピーチ原稿には、自分が同賞には値せず、現在の自分は全く平和な内面的自由を求めた結果「もう一つの世界」に入る決心をしたことが述べられていた。やがて作家の妻・あんから、一ノ瀬が失踪前に新小牛田町や雲別を「精神の至福を得られる場所」として語っていたと聞き、相沢は社命を帯びて北海道へ飛ぶ。そして岬にて一ノ瀬とついに再会を果たした彼は、作家が暮らす岬のけんろうな建物へ案内される。はたしてここは、戦時中に毒ガスを作っていた工場の名残りか、薬用植物の研究所か、はたまた新興宗教の教団施設か?
 以上の概略だけでも大長編の大団円に至るように見えるかもしれないが、しかしまだ全体の三分の二にも満たない。ネタバレには至っていないので、どうかご安心を。
 かつて一九八九年末のベルリンの壁崩壊、米ソ冷戦の終結に引き続き、一九九一年末にはソ連が崩壊寸前だった時期に、アルジェリア系フランス人思想家ジャック・デリダは、長く文明の先導を担ったヨーロッパという岬=先端=頭キャップが根本から変革を迫られており、「他の岬」とともに「岬の他者」を模索する必要を説いた。
 それから三十年余、篠田節子は、米中関係が緊張をはらみ極東という岬自体が危機を迎えた二十一世紀に、高度成長と最終解脱の両極から成るシステム自体を粉砕しかねないカムイヌフ岬の物語を紡ぎ出した。
 現代文明のかんせいへ解き放つ、これは鋭くも深い寸鉄の一撃である。

作品紹介



書 名: 失われた岬
著 者: 篠田節子
発売日:2024年10月25日

その欲を手放したとき、人は人でなくなった――。隠された楽園の真実とは。
ノーベル文学賞を受賞した作家・一ノ瀬が、授賞式前日に失踪した。彼の足取りを追った担当編集の相沢は、北海道のある岬の存在に辿り着く。その岬では30年ほど前から何人も消息不明になっており、得体のしれない薬草の噂まで流れていた。相沢は過酷な道のりの果てにようやく一ノ瀬を見つけ出すが、すでに彼は変わり果てた姿になっており……。人を人たらしめるものとは何か。生きる意味を問う、戦慄のサスペンス・ミステリ!

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322402000611/
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