前川ほまれさんの最新刊『在る。 SOGI支援医のカルテ』、吉田伸子さんによるレビューをお届けします。
前川ほまれ『在る。 SOGI支援医のカルテ』レビュー
評者:吉田伸子
リストカットやOD(オーバードーズ)は「生きたい」という声にならないサインなのでは。これまでは、そう思っていた。けれど、それだけではないのだ、ということが本書を読むとよくわかる。「生きたい」というのはもちろんなのだけど、彼らは「在りたい」のだ、と。生きて在ることを、そのまま受け止めて欲しいのだ、と。
本書の舞台は、埼玉にある富士見ウエスト病院。医療法人が経営している精神科の単科病院だ。閉鎖病棟から開放病棟まで、患者の症状に応じた病棟が7つあるのだが、ストレスケアの治療を中心に行うのが第七病棟。その第七病棟の常勤医であり、セクシュアルマイノリティの「からだ」と「こころ」の健康をサポートするSOGI支援外来を担当している海野彩乃が本書のキーパーソンだ。
物語は第一章から第四章まで、それぞれの入院患者と、彼らにかかわる医療スタッフたちのドラマが描かれている。巧いな、と思ったのは海野というキャラクタを直接描くのではなく、患者やスタッフたちからの視点で海野の人となりを浮かび上がらせているところだ。これが、物語の中で効いている。
よれよれのドクターコート、寝癖がついているミディアムヘア、銀縁の丸メガネはうっすら汚れていて、化粧っ気のない顔にはソバカスが散っている。四十代前半らしいが、童顔ゆえに若く見える。それが海野だ。もう少し身綺麗にしたほうがいいんじゃないか、と思わないでもないが、どこかお気楽にさえ見えるこの海野だからこそいいのか、とも思う。
第一章で描かれるのは小竹杏奈という高校生の患者だ。海外ではノンバイナリーとも呼ばれるXジェンダーだ。Xジェンダーには「中性」「両性」「無性」「不定性」という四つのカテゴリーがあり、杏奈は「中性」だ。男性になりたい訳ではないが、女性にも違和感があるという。
杏奈の家族、とりわけ父親は杏奈を理解しようとはせず「オトコオンナから、早く正気に戻れ」と暴言を吐く。海野が、頭ごなしに否定するのは止めて下さい、と言っても「アイツは変ですよ。普通ではないですって」と聞く耳を持たない。おい、なんだ、その差別的な発言は! と読んでいて憤慨しそうになるが、そんな杏奈の父親に海野は言う。「お父様からすれば奇異に思われるかもしれませんが、それが杏奈さんの普通であり、在り方ですので」「誰かが押し付ける普通に、苦しむ人もいますから」
この、「誰かが押し付ける普通に、苦しむ人もいる」という視点が、太い芯となって物語を貫いていて、そこがいい。第二章で描かれる、アルコール依存症の尾形佳奈38歳と彼女を担当する精神保健福祉士の岡田が、ゆっくりと距離を近づけていけたのも、第三章に登場する、急性一過性精神病性障害で第二に入院後、第七に移ってきた専門学校生の山口佑樹が兄のことを話せたのも、海野がいればこそなのだ。
加えて、本書がいいのは、精神疾患に対する正しい情報が書かれていることだ。私がはっとなったのは、第二章、アルコール依存症の佳奈が外出して、その帰りを待っている時のエピソードだ。もし、佳奈が外で飲酒をしていたとしたら残念だ、と話す岡田に、海野は言うのだ。「飲酒はアルコール依存症の症状だから」と。「たとえば、統合失調症なら幻聴や妄想。うつ病なら気分の落ち込みや意欲減退。アルコール依存症なら再飲酒。でしょ?」「依存症は、歴とした病気」なのだから、「意志の弱さやだらしなさを責めるのは、間違ってる」
この海野の言葉に、私もまたアルコール依存症に苦しんでいる人に対して、意志が弱いのでは、と思っていたこと、なんなら偏見を抱いていたことに気づかされた。同様のことは他にも沢山あって、自分の不明が恥ずかしくなると同時に、悩みや痛みを抱える彼らにとって、「在る」ことがどれだけ大事なことなのか、にも思い至る。あぁ、そうか、だから、このタイトルなのか。
問題を抱えている人、その問題を乗り越えようと今の今、苦しんでいる人たちはもちろん、私たちみんなが「在る」ことを、そっと肯定してくれる一冊だ。
作品紹介
書 名:在る。 SOGI支援医のカルテ
著 者:前川ほまれ
発売日:2025年09月26日
性の在り方に関する不調をケアする「SOGI支援外来」に勤める海野の日々
「あなたの性にまつわる在り方は、あなたが決めて良いの。どんな選択をしたって、間違いなんてないしね」
富士見ウエスト病院には、性の在り方に関する不調をケアする「SOGI支援外来」がある。同外来を担当する、第七病棟医長の精神科医・海野彩乃先生は、マイペースな人だけど患者には優しい・意外と面倒見も良いという評判で、各地から患者が集まっていて……。
『藍色時刻の君たちは』で山田風太郎賞を受賞した現役看護師作家がおくる、希望が広がる医療連作短編集。
第一章「二人のエックス」
春、富士見ウエスト病院に勤める休職明けの看護師・倉木透子が配属になった第七病棟は、ストレスケアの治療を中心におこなう「病棟に見えない病棟」。病棟医長の海野彩乃先生とは、休職前にあるやりとりをしていた。復帰した倉木が紹介された患者は、十代のXジェンダーで……。
第二章「溶ける光」
夏、精神保健福祉士の岡田樹里は、アルコール依存症患者の退院支援をしている。担当する尾形佳奈のベッドの近くには、【公正証書 謄本】と書かれた封筒があった。
第三章「反転文字の向こうで」
秋、服飾学生の山口佑樹は、急性一過性精神病性障害で入院している。病室に持ち込んだ【自分史】には、「性別不合の診断を頂けたら、ホルモン療法を開始したいです」という文言があった。
第四章「種の行方」
冬、医師の滝本政成は、新しい病院への転職を予定している。海野先生が新担当となった患者の実姉の情報は、自身の境遇のことを思い起こさせるものだった。
エピローグ「春に」
当直明けの海野は、強迫性障害を患っている担当患者の千田光一から、亡くなった大学の同級生の話を聞く。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322305000746/
amazonページはこちら
電子書籍ストアBOOK☆WALKERページはこちら