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試し読み

【試し読み】アルコール依存症の女性患者、そのベッドの近くにあったものは……。――前川ほまれ『在る。 SOGI支援医のカルテ』第一章~第四章の各章冒頭を特別公開!(2/4)

『藍色時刻の君たちは』で山田風太郎賞を受賞した、現役看護師作家である前川ほまれさん。
2025年9月26日に、最新小説『在る。 SOGI支援医のカルテ』を刊行します。

本作は、セクシュアルマイノリティの『からだ』と『こころ』の健康をサポートする「SOGI支援外来」を担当する医師・海野を中心人物とした物語。
海野が医長を務める第七病棟は、ストレスケアに力を入れている。
Xジェンダー、アセクシャル、レズビアン、トランスジェンダー……、セクシュアルマイノリティ自体に病理がなくても、現代社会の苛酷なストレス環境に苦しむ人がいる。
それぞれの「在り方」を見つめる、希望が広がる医療連作短編集。

本書の試し読みを、全4回にわたって公開します。どうぞお楽しみください。

▼ この作品の試し読み一覧はこちら
https://kadobun.jp/trial/arusogishienni/

前川ほまれ『在る。 SOGI支援医のカルテ』試し読み(2/4)

第二章 溶ける光

 見上げた掛け時計は、十一時四十二分を表示していた。この面談室に入って既に二十分以上経過しているが、目前の彼らの表情はずっと曇っている。首筋に滲んだ汗を、冷房の風が乾かしていく。心地好いというよりは、嫌に冷たい。
「あのっ……おかさん」
 呼ばれ、対面のパイプ椅子に座るグループホーム職員へ顔を向けた。年齢は聞いていないが、確実に私よりも年上だろう。彼の短髪には白いものが交じり、口元の皮膚はたるみながらシワを刻んでいる。
「やはり、ウチのグループホームとしては……もう、たけもとさんの受け入れは難しいです」
 武本さんが当院に入院するのは、今回で二度目。前回の入院と同様、再びお酒に手を伸ばしてしまったからだ。入院前に生活していたグループホームでは連続飲酒に陥り、定期的に足を運んでいたアルコール依存症の自助グループにも、顔を出せなくなっていたらしい。
「お酒のこともそうですけど……武本さんは、ウチの規則に従ってくれませんから。暴力こそありませんでしたが、高圧的な態度が散見され……怖がっているスタッフが多くて」
 前回の入院時も、武本さんの退院支援を担当したのは私だ。去年、武本さんと一緒に、このグループホームへ見学に行った際の記憶がよぎる。季節は今と同じく、夏だった。グループホームの庭に生えるの木からは、せみの鳴き声が響いていたのを憶えている。
「……岡田さん」
 力無い声を聞いて、今度は武本さんの娘さんに視線を移す。彼女は、私と同い年の二十九歳。茶髪のショートカットが印象的で、高いわしばなが母親と似ている。
「前回の入院時も話しましたが……母と同居するのは、無理です」
 娘さんはキッパリ言い切った後、目を伏せた。その表情だけで、母親の飲酒問題に長年悩んでいるのが伝わる。武本さん自身はアルコール依存症が原因で、数年前に離婚が成立していた。元夫とは一度も会ったことがないが、娘さんは前回の入院時も保証人になってくれている。今回の入院でも、緊急時の第一連絡先は彼女の携帯番号が記載されていた。まだ切れていない細い糸の存在を実感しながら、私は無理やり口角を上げた。
「お二人の意向は、承知致しました。今回の入院中に、退院後の生活に関しても再考する必要がありそうですね」
 二人がうなずくのを確認した後、同じ口調で続ける。
「病棟スタッフとも情報を共有し、今後について話し合う機会を早めに設定します。近々お二人が、都合の良い日ってあります?」
 スケジュール帳に二人が来院できる日を書き留めながら、今後のカンファレンスに呼ぶ関係者を早くも思い描く。富士見ウエスト病院からは、自分と、病棟主治医や担当看護師。地域の支援者からは、グループホーム職員と訪問看護師。そして、武本さんと関わりのある保健師やケアマネジャー。武本さんが受給している生活保護の担当者にも、連絡した方が良いだろう。もし現在契約している場所が退去となれば、新たなグループホームを探すことになる。あるいは次の退院先は、アルコール依存症の回復支援施設の方が良いだろうか。少し先のあれこれを一旦忘れ、喉に力を込めた。
「後日、改めてご連絡差し上げますので。それでは最後に、武本さんに会ってお帰りになります?」
 問い掛けの後、二人が無言で首を横に振った。

 グループホーム職員と娘さんから聞いた内容を電子カルテに記録してから、精神保健福祉士の控室に戻った。まずは共用の冷蔵庫に近寄り、その中から弁当箱を取り出す。午後も、予定が詰まっている。既に二十分近く過ぎている昼休憩の時刻を意識しつつ、急いで窓際のデスクに腰を下ろした。
 手作り弁当の中には、普段と代わり映えのしない品を詰め込んでいた。小魚のふりかけで茶色く色付いたご飯と、切り干し大根、がんもどき、ひじき、ししゃもの南蛮漬け。最近ししゃもは高騰の一途を辿たどっているが、必ずメニューに加えていた。
「おっ、今日も手作り弁当か?」
 背後から主任の声が聞こえたが、振り返らずに切り干し大根を口に運ぶ。咀嚼そしやくしている途中で、また背中に声が触れた。
「俺なんて、三日連続でカップラーメン。もう飽きたよ」
 主任がデスクに座っている時は、白衣の下でぜいにくが段を描いている。夏の薄着では、自己管理を怠っている身体が余計目立っていた。
「今はコンビニでも、栄養バランスを考慮したそうざいやお弁当を売ってますよ」
「まぁ、そうなんだけどさ」
たまには、食堂に行ったらどうです? 定食なら、サラダが付いてますし」
 返事の代わりに、主任のデスクの方から豪快に麺をすする気配が届く。私はそれ以上の小言を飲み込むように、がんもどきを口に入れた。
「そうそう。午後は悪いけど、よろしくな」
 今度は箸を置いて、主任のデスクの方を振り返った。
「こういう時は、お互い様ですから」
「すまんね。本当、岡田さんが兼任してくれることになって助かったよ」
「いえ……とうさんの分も頑張ります」
 同僚の佐藤さんが脳梗塞で倒れたのは、先週の土曜日だった。幸いにも症状は軽く、手足のや正しい発音ができなくなる構音障害等の後遺症は残らなかったらしい。それでも二週間ほど、搬送先の病院で療養する連絡を受けていた。
「確か第七って、第二より患者は少ないですよね?」
「まぁ、そうだな。患者定数は二十人前後だし。殆どは、休息目的で入院してる」
 元々担当の第二病棟と比較すれば、武本さんのようなケースは少なそうだ。弁当箱に向き直り、今度はひじきを箸でつまむ。飲み込む前に、主任がおおに手を叩いた。
「そっか。第七が設立された三年前って、岡田さんは休職してたもんな。余計、馴染みないか」
 その話題には触れてほしくなくて、沈黙だけを返す。主任は私の想いを汲み取れず、のんな声を放った。
「第七は、離れ小島のように独立した病棟だから。本棟の病棟とは、全く違う雰囲気なんだよ」
 主任の言葉より、三年前の痛みが蘇りそうになる。箸を持ってない方の手で、白衣の上から下腹部にそっと触れた。
「岡田さんは、第七の病棟医長って誰か知ってる?」
「……海野彩乃先生ですよね? SOGI支援外来を担当してる」
「そっ。マイペースなところもあるけど、良い先生だから」
 それ以上の会話を拒否するように、残りの弁当を急いで口に運ぶ。カルシウム摂取だけを意識して詰め込んだ品々は、どれもよく知る味がした。
 昼休憩が終わると、職員出入り口から外に出た。今日は、猛暑日らしい。本棟の裏手に向かいながら、ようやくショートボブまで伸びた髪を耳に掛ける。穿いているロングスカートの下には、ふとももまで覆う弾性ストッキングを着用していた。医療用のストッキングが強く締め付ける両脚は、早くも汗ばみ始めている。
 第七病棟へ続くみちの手前で、一度足を止めた。小径は緩やかなカーブを描き、その周囲には多くの木々や花々が植えられている。色の濃い葉が風に揺れ、向日葵ひまわりの群生が夏の光を浴びていた。病院の一角というより、自然公園の通路を眺めているような気分に陥る。
 緑豊かな風景を目に映していると、虫刺されの恐怖が胸をえぐった。もし蚊柱を手で払いながら進む必要があるなら、最悪だ。着ている白衣のポケットを探り、常に携帯している虫除けスプレーを取り出す。素早く全身に振り掛けた後、下半身を優しくさすった。ロングスカートが足首まで隠しているし、本来の目的とは違うが、弾性ストッキングで皮膚はガードされている。
 きっと、大丈夫。虫には刺されないはず。
 覚悟を決め、顔を上げた。
 小径に描かれたを踏んで歩き始めると、先ほどの心配はゆうだったことを実感した。周囲に蚊は一匹も見当たらず、街中とは違って涼しい風が首筋や頰をでていく。小径沿いでは地面にツルを伸ばす野生の朝顔が、藍色や薄紫色の小さな花を咲かせていた。
「ん?」
 小径沿いに置かれたベンチに、一人の少女が腰掛けていた。第七病棟の患者だろうか。それとも面会に来た家族だろうか。歩調を緩めながら、少し先のベンチに座る人物をそれとなく観察する。切れ長な目元は大人びているが、小さな鼻や口は可愛らしい。ショートパンツから伸びる細い脚は、よく陽に焼けていた。前髪は被っているキャップの中に収められていたが、後頭部からは黒々としたポニーテールが垂れている。顔立ちを見る限り、中学生か高校生ぐらいだろう。
「こんにちは」
 すれ違う際に挨拶をすると、彼女から「……こんにちは」と返答があった。その声は弱々しく抑揚がない。なんとなく気になり、少女の前を通り過ぎてから一度振り返ってみる。その瞬間、グラッと体勢が崩れた。慌てて太腿に力を入れ、必死にバランスを保つ。なんとか転倒は免れたが、動揺したせいで呼吸が乱れ始めた。肩を上下させ、深く吸って吐いてを繰り返す。
 今、何か障害物につまずいた訳ではない。以前にも同じようなことがあったから、みの影響だろう。重くて動きの鈍い脚をゆっくり揉んでいると、今更鼓動が速まっていく。もし転んでいたらと考えるだけで、背中や脇下に冷たい汗が伝った。一旦少女のことは忘れ、今はしっかり前を向いて歩くことだけに意識を集中させる。
 慎重に小径を辿り始めると、視界の先に円形の建物が現れた。ただのビルのような本棟と比較すれば、第七病棟は異質な外観をしている。二階建てでガラス張りの箇所が多く、丸みを帯びた形は東京ドームや遊牧民が住むゲルを想起させた。病院の敷地内にあっても、病棟の一つには到底思えない。
 病棟出入り口そばの芝生が生い茂る場所には、あんどん仕立ての朝顔が横一列に沢山並んでいる。その前で、半袖の白いコートを着た人物が背を向けて立っていた。遠目にもわかる小柄な身長、常にうねっているミディアムヘア、そしてシワが寄っているドクターコート。通称、SOGI支援医と呼ばれている人物の元へ近寄る。挨拶をすると、海野先生が振り返った。日差しに照らされた丸メガネのレンズは、指紋が付着して曇っている。化粧気のない顔には、赤毛のアンのようなソバカスが点在していた。
「今日も、暑いね」
 海野先生は片手で目元に陰を作り、空を仰いだ。畝っている前髪は汗で濡れ、細い毛束が額に張り付いている。それなりの時間を、この炎天下で過ごしていたのだろうか。
「改めまして、PSW(精神保健福祉士)の岡田じゆです。元々は第二の担当ですが、佐藤が復帰するまで第七を兼任することになりました。短い間ですが、よろしくお願いします」
 お互いの簡単な自己紹介や佐藤さんを心配する言葉をやり取りした後、海野先生から本題を切り出された。
「今日はがたさんの件で、来てくれたんだよね?」
「そうです。退院支援に関する面談をしようかと」
 海野先生の身長は、多分一五〇㎝ぐらいだろうか。一六四㎝の私は、どうしても見下ろすような目線になってしまう。
「尾形さんの主治医は、あたしなの。彼女の退院日は、再来月の上旬あたりを予定してる」
 素早く、頭の中でカレンダーをめくった。退院日まで、残り約一ヶ月半。今回の入院を切っ掛けに多くのサポートの導入が必要そうなら、余裕がある日数ではない。
「第二って、疾病教育の一環でアルコール治療プログラムをやってるよね?」
「えぇ。毎週木曜日と金曜日の午前中に、実施しています。第二には、依存症の患者さんが多いので」
「もし可能ならさ、尾形さんを第二の治療プログラムに参加させたいんだよね。一応、入院してからはオンラインで参加できるAAを紹介したんだけど、彼女には合わないらしくて」
 AAはアルコホーリクス・アノニマスと呼ばれる自助グループだ。そこではアルコール依存症の当事者たちが集まり、匿名でお酒に関する体験談を語り合っている。AAや治療プログラムに参加することは、断酒継続に欠かせない有効な手段であることは間違いない。
「他病棟に入院している患者でも、第二の治療プログラムに参加することは可能ですよ」
 そう返してから一呼吸置き、武本さんが通っていたAAを思い浮かべる。
「オンラインが合わなそうなら、当院から徒歩で行けるAAに心当たりがあります。そこは、近くのコミュニティ会館で開催してまして。かなり、アットホームな雰囲気なんです。参加メンバーは、尾形さんと同じく女性当事者が大半ですし。よければ、紹介しましょうか?」
 早口で告げると、海野先生が表情を崩した。
「本当? 助かる。ちなみに、そのAA名って?」
「えっと、リカバリーレインボーです」
 海野先生は白衣の胸ポケットに挿してあるペンを取り出し、今告げたAA名を手の甲にメモし始めた。ペン尻の部分には、カエルの小さなフィギュアが取り付けられている。このペンは確か、製薬会社がノベルティとして配布していた品だ。私も以前、同じペンをもらったことがあった。
「岡田さん。ありがとね」
「いえ。治療プログラムや外部のAAの件も併せて、彼女に情報提供しておきます」
 海野先生は頷きながら胸ポケットにペンを戻すと、再び朝顔の方へ身体を向けた。
「園芸療法の一環で、患者さんたちが育ててるの。どれも綺麗だから、目の保養になってさ。尾形さんのもあるよ」
 海野先生はドクターコートのポケットに両手を突っ込み、並ぶ朝顔の一つ一つに顔を寄せ始めている。確かに、咲いている朝顔は多彩だ。青、赤、紫と色鮮やかで、絞り染めに似た模様や縁だけが白い花弁もある。
「尾形さんが育ててる品種は、江戸風情だったな」
 初めて耳にした品種名を頭の中で転がしてから、腕時計で時刻を確認した。尾形さんの面談が終わったら第二病棟に戻って、また別の患者対応が控えている。二つの病棟を兼任している精神保健福祉士に、のんびり朝顔を眺めている余裕なんてない。
「実はこの後も、予定が詰まっていまして」
「引き止めちゃって、ごめんね。どうぞ、行って」
 軽く頭を下げ、ガラス張りの病棟出入り口を開けた。第二病棟の医師は忙しそうにしているが、第七病棟の医長は吞気に朝顔にれている。前評判通り、マイペースな人なんだろう。
 本棟とは異なるカーペット敷きの廊下を進み、まずはナースステーションに顔を出した。看護師に一声掛けてから、空いていた電子カルテにIDを打ち込む。武本さんの再入院の面談が長引いた影響で、まだ尾形さんの情報収集が満足にできていなかった。面談前に、改めて入院前の様子や現在の病状を頭に入れておきたい。電子カルテに表示された病棟マップの中に彼女の名前を発見し、まずは生活歴に目を通す。
『尾形佳奈、三十八歳、女性。未婚で挙児なし。和歌山県にて同胞二名中、長女として出生。出産時のトラブルはなく、幼少期の健診で発育の遅れを指摘されたことはない』
 精神疾患の家族歴としては、父親がうつ病を患っていた時期があったようだ。身体疾患の既往歴はなく、現在まで違法薬物の使用歴はない。
『公立高校卒業後、十八歳で上京。都内の専門学校へ入学し、介護福祉士の資格を取得。卒業後は埼玉の介護老人福祉施設に就職し、問題なく職務をこなしていた。
 パートナーとの死別体験を契機に、三十五歳頃から気分の落ち込みが目立ち始める。職場でも突然のどう眩暈めまいが出現し、過呼吸に陥ることが多々あった。大学病院で全身の精査をしたが、全て異常なし。その後は都内のメンタルクリニックを受診し、パニック症の診断を受ける。同時期より飲酒量が増え始め、処方された向精神薬とアルコールを同時に摂取する不適切な飲酒行動があった。連続飲酒の影響で仕事は休みがちになり、徐々に生活は破綻。今年七月十日、横浜市在住の実弟に付き添われ当院を初診。アルコール依存症の診断後、同日任意入院となる』
 他にも、現病歴や看護経過記録を読み続ける。入院時は第二病棟で受け入れても良い病状だったが、本人の強い意向があり、第七病棟で治療することになったようだ。多分、第七病棟が開放病棟だからだろう。本棟の閉鎖病棟と比較しても、ここは私物の持ち込みや外出泊に関する制限が割と緩い。
 尾形さんの最終飲酒は、当院を受診する当日の朝だった。入院前は所謂いわゆるストロング系と呼ばれる缶チューハイを、毎日四本ほど飲酒していたらしい。入院初期は手の震え、頭痛、冷や汗、気分不快等のアルコールを断った影響による離脱症状に苦しんでいたようだ。現在は離脱症状を脱し、問題行動や再飲酒のエピソードはない。
 電子カルテの文字を追っている途中で、彼女と同じ病を患う武本さんの姿がチラついた。正直、アルコール依存症の患者は苦手だ。家族に見放され、退院支援が難航する場合がある。それにアルコールの影響とはいえ、武本さんのように怒りっぽい人もいる。密かに溜息をいた後、電子カルテを閉じた。
 第七病棟は一階、二階とも回廊の造りになっていた。病棟はガラス張りの箇所や天窓があちこちにあり、日中は室内灯が不要なほど夏の光が差し込んでいる。廊下に描かれた陽だまりを踏みながら、尾形さんとの面談で質問する内容を整理した。電子カルテの情報によると、現在は休職中で貯金を取り崩しながら生活しているらしい。まずは入院前の生活状況について改めて質問し、その際に復職の意思も確認しておいた方が良いだろう。横浜には弟さんがいるらしいが、実家は和歌山県と遠方。入院前の様子を加味すると、地域の支援者は皆無なのが予想できる。退院日までに、訪問看護等の社会資源の活用を提案すべきだ。それに例の治療プログラムやAAの情報提供も、忘れないようにしないと。
 あれこれ考えているうちに、尾形さんが療養している四人部屋に到着した。四つのベッドのうち三つは、病床を囲むカーテンが閉まっている。電子カルテで確認した彼女の病床だけが、カーテンが開け放たれていた。残念ながらベッド上に、人影はない。
 一応間違っていないか、病床をのぞき込んだ。ベッドネームには確かに『尾形佳奈様』と表記されている。それから、ベッド周囲に視線を走らせた。低いチェストの上には、炭酸水のペットボトルが十本以上も並んでいる。その他には、コップに入った歯ブラシやシャンプー等の生活用品が置いてあるだけ。整頓されているというより、極端に私物が少ない空間。
 ふと、ベッドの側にあるしようとうだいに目が留まった。そこには、A4サイズほどの茶封筒が置かれている。表面には【公正証書 謄本】の物々しい文字が、天井から落ちる光に照らされていた。
 公正証書は、地域の公証役場で作成できる公文書だ。その多くは、個人の権利義務に関係する内容だったはず。以前担当していた患者に、離婚に関する公正証書を作成していた人がいたのを思い出す。当時その患者は離婚を決意している訳ではなかったが、養育費や財産分与に関する内容を公文書として残していた。もしもの場合に備えて事前に公正証書を作成していれば、法的なトラブルを未然に防げたり、時には強い証拠にもなり得たりすることがあるらしい。
「あの……何か?」

(このつづきは、本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名:在る。 SOGI支援医のカルテ
著 者:前川 ほまれ
発売日:2025年09月26日

性の在り方に関する不調をケアする「SOGI支援外来」に勤める海野の日々
「あなたの性にまつわる在り方は、あなたが決めて良いの。どんな選択をしたって、間違いなんてないしね」
富士見ウエスト病院には、性の在り方に関する不調をケアする「SOGI支援外来」がある。同外来を担当する、第七病棟医長の精神科医・海野彩乃先生は、マイペースな人だけど患者には優しい・意外と面倒見も良いという評判で、各地から患者が集まっていて……。

『藍色時刻の君たちは』で山田風太郎賞を受賞した現役看護師作家がおくる、希望が広がる医療連作短編集。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322305000746/
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