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試し読み

【試し読み】紹介された患者は、十代のXジェンダーだった。――前川ほまれ『在る。 SOGI支援医のカルテ』第一章~第四章の各章冒頭を特別公開!(1/4)

『藍色時刻の君たちは』で山田風太郎賞を受賞した、現役看護師作家である前川ほまれさん。
2025年9月26日に、最新小説『在る。 SOGI支援医のカルテ』を刊行します。

本作は、セクシュアルマイノリティの『からだ』と『こころ』の健康をサポートする「SOGI支援外来」を担当する医師・海野を中心人物とした物語。
海野が医長を務める第七病棟は、ストレスケアに力を入れている。
Xジェンダー、アセクシャル、レズビアン、トランスジェンダー……、セクシュアルマイノリティ自体に病理がなくても、現代社会の苛酷なストレス環境に苦しむ人がいる。
それぞれの「在り方」を見つめる、希望が広がる医療連作短編集。

本書の試し読みを、全4回にわたって公開します。どうぞお楽しみください。

前川ほまれ『在る。 SOGI支援医のカルテ』試し読み(1/4)

第一章 二人のエックス

 電車がやながわに架かる橋を渡り始めると、車窓の向こうで薄紅色が舞った。川沿いの土手には、多くの桜の木が並んでいる。今は満開ではないが、あと数日も経てば花見客で賑わうはずだ。季節の移り変わりを実感するより先に、休職前に眺めた寒々しい土手が瞳によみがえる。あの頃の柳瀬川沿いには、まだ春の気配が訪れてはいなかった。
 東口から外に出て、道なりに真っ直ぐ進む。駅前のスーパーやパチンコ店を過ぎると、緩やかな下り坂が現れる。休職前は不眠と食欲不振が重なり、体重が六キロも減った。当時はこの坂を上り下りするだけで息が上がり、途中で何度も立ち止まっていた。体調を崩していた頃を思い出すと、下腹部に重苦しさが広がる。生理前のだるさとは少し違う。単純に、不安や緊張のせいかもしれない。
 歩き始めて数分もしないうちに、白い外壁の建物が目に映った。ウエスト病院の正門に近づく度に、わきの下が汗で湿っていく。外来出入り口前には、既に患者が列をなしている。見慣れた光景を横目に、三ヶ月振りに職場の敷地を踏んだ。
 職員出入り口を開錠し、IDカードで出勤の打刻を済ませてから、院内のリノリウムの廊下を進んだ。私の足音に呼応するように、心臓が早鐘を打ち始める。
くら、おはよう」
 振り返ると、背後でなかさんが小さく手を振っていた。信頼する先輩の微笑ほほえみを見て、さっきまでの不安や緊張が幾らか和らいでいく。
「おはようございます。今日は、日勤ですか?」
「そう。ってかさ、聞いたよ。もう、体調は大丈夫なの?」
「三ヶ月間、ゆっくり休めたので。気持ちも、なんとか持ち直して」
 田中さんと言葉を交わすのは、久しぶりだ。二年前に同じ病棟で働いていた頃は、毎日と言って良いほど顔を合わせていた。抱いた感傷を、今日からまた同じ病棟で働ける嬉しさが上書きしていく。
 田中さんに続いて、更衣室に入る。彼女のロッカーは、私と同じ並びだ。短い会話を繰り返しながら、それぞれの白衣に手を伸ばす。
「今回の異動って、倉木の希望?」
「はい。実は去年の春の意向調査から、第七病棟に異動希望を出してまして」
 顔色を変えず『去年の春』の部分を強調した。ささやかな噓は、かすかな耳鳴りを呼び起こす。異動を希望したのは、昨夏の出来事が切っ掛けとは思われたくなかった。取り繕うように、口数が増えていく。
「入職してからは、ずっと閉鎖病棟だったので。開放病棟も経験したいなって」
「確かに閉鎖と開放じゃ、療養環境が全然違うしね」
「それに第七って、ストレスケアに力を入れてますよね? 以前から興味があって」
 ストレスケアという言葉が、苦く舌の上で滲む。看護師としてストレスケアを実施する前に、私自身がそれを必要としてしまったのは皮肉だ。自嘲気味に口元がゆがむと、休職前からロッカーに放置しているノド飴が目に留まる。個包装の封を破っていない、一個の飴玉。パッケージには緑の葉のイラストが描かれ、全体的に薄いグリーンで染まっている。子どもの頃にめて以来はつ味は苦手だが、いまだに捨てることができない。
 少し迷ってから、放置していた飴を手に取った。どこのコンビニでも売っていそうな商品だけれど、この中には薄荷の清涼感と特別な想いが詰まっている。お守り代わりとして、苦手な味を白衣のポケットに仕舞った。
 ナースシューズに履き替え、田中さんと一緒に更衣室を後にする。早速、本館を昇り降りするエレベーターがある方へ足を向けた。
「倉木、そっちじゃないよ」
「あっ、前の病棟に行こうとしてました」
 今日から所属する第七病棟は、三年前に病院敷地内の本館から独立した場所に、増設する形で運用が始まっていた。苦笑いを浮かべ、私物の入ったバックパックを背負い直す。
「一度、外に出るんでしたっけ?」
「そう。土砂降りの日は最悪だよ。病棟に着く前に、びしょ濡れ」
「えー、嫌ですね。本館の中に、新設すれば良かったのに」
「でも、あの離れ小島感が魅力の一つでもあるしさ」
 第七病棟が独立して建設されたのには、院長の強い意向があったらしい。飽くまで噂だが、精神科病院に入院することへのハードルを下げたかったと耳にしていた。本館と建物を分けることで差別化を図り、開放病棟の自由度を強調したい狙いがあったという。
 田中さんは職員出入り口を開錠すると、外に踏み出した。私も、急いで後に続く。本館の裏手に向かって進む白衣は、日差しを浴びて輝いている。今の私には、まぶし過ぎるほどに。
 第七病棟に続くみちは、灰色のコンクリートで舗装されていた。緩やかなカーブを描きながら、敷地の奥に向かって延びている。小径の周りには、多くの木々や花々が植えられていた。早朝の葉が放つ青臭さが鼻先をで、桜の薄紅やハクモクレンの白が視界を彩る。本館の無機質な廊下とは、大違いだ。
「第七って、うつ病や不安症の患者が多いんでしたっけ?」
 質問すると、隣で田中さんが深く首を縦に振った。
「それに第七には、SOGI支援医がいるから。セクシュアルマイノリティの人たちも、たまに入院するかな」
 耳馴染みのないSOGI支援医という通称を、小声で繰り返してみる。当院のホームページやパンフレットでは、SOGI支援外来を担当している精神科医と紹介されていた。今までSOGI支援医と、同じ病棟で働いたことはない。けれどあの日のことは、今も強く印象に残っていた。
「SOGI支援医って、うみ先生のことですよね?」
「そう。マイペースなところもあるけど、優しい先生だから」
 散り落ちた桜が、小径を薄紅に染めている。足元で転がる花弁をいちべつし、胸の中で「知ってます」とつぶやいた。
 緩やかなカーブを描く小径を抜けると、今日から所属する病棟に到着した。第七病棟は二階建てで、一部がガラス張りのデザインになっている。設立してから三年経過している割に、円形の美しい外観に劣化の跡はない。何度まばたきを繰り返しても病棟には見えず、モダンなブティックや小さめの現代美術館のような建物が陽の光を浴びている。
 ガラス張りの病棟出入り口の前に立つと、白衣のポケットから院内共通の鍵を取り出した。鍵穴に差し込もうとする途中で、田中さんが笑みをこぼす。
「倉木。ここは、開放病棟だよ」
「あっ、そうでした」
 取り出した鍵を再び白衣のポケットに仕舞うと、唐突にたにぐちわかさんの姿が頭の中で再生された。病棟に入ろうとしたことが引き金となって、思い出してしまったのだろうか。彼女の瞳はうつろで、生気を欠いている。胸をざわつかせる幻影を搔き消すように、軽く頰を張った。
「色々、忘れないと」
 隣で不思議そうに首を傾げる田中さんに、慌てて笑みを向ける。忘れるという行為は、救いなのかもしれない。そんなおおなことを考えながら、病棟出入り口の扉を開けた。
 第七病棟の床には、全面カーペットが敷き詰められていた。ストレスケアをうたっている病棟であり、足音が響かないように配慮しているらしい。本館のリノリウムの床とは違って、靴底を柔らかく撫でるような感触は悪くない。
 ナースステーションに入ると、田中さんが奥の休憩室に案内してくれた。バックパックを下ろした後、一息ついたせいか尿意を感じた。
「お手洗いって、何処にあります?」
「職員用トイレは、二階なの。茶室のすぐ側」
 聞き間違えたような気がして、わずかに首をひねる。田中さんが、補足するように続けた。
「第七には、本格的な茶室があってさ。病棟レクリエーションの一環で、週に何度かお茶会を開催してる。患者からは、気持ちが落ち着くって好評なんだよね」
 予想外の設備に驚きながら、職員用トイレまでの道筋を改めて確認する。大まかな位置を把握し、再びナースステーションの出入り口へ向かった。
 第七病棟は一階、二階とも、回廊の造りになっている。廊下に立つと、馴染みのない静寂が広がっていた。休職前まで所属していた閉鎖病棟は、これほど静かではなかった。ここでは、うつ病や不安症の患者を多く受け入れている。患者の症状の違いが、この静けさを作り出しているのだろうか。
 辺りを見回しながら、歩みを進める。病棟ホールの一部は二階まで吹き抜けになっていて、採光は抜群だった。病棟内には、曇り一つない清潔な窓が至る所に存在している。病棟ホールの近くにはエレベーターがあったが、二階に続く幅広の階段を選択した。差し込んだ光に晒されたしんちゆうの手摺りは、人間の肌のように生温かい。
 二階の曲線を描く廊下沿いには、等間隔で病室の扉が並んでいる。回廊を進み始めてすぐ、茶室らしき場所を発見した。その部屋だけ木製の格子戸が備えられ、明らかに異彩を放っている。立ち止まりたい気持ちを抑え、すぐ隣の『REST ROOM』のプレートを見上げた。
 不意にうなり声が聞こえ、足が止まった。辺りを探ると、茶室の格子戸が少しだけ開いている。今度は「うっ」という何かを喉に詰まらせるような声が耳に届き、再び静寂が訪れた。
 嫌な予感と共に、以前所属していた閉鎖病棟の規則を思い出す。リネン室や浴室等は、患者の離院やもしもの危険行動を予防するため、使用時以外は施錠が徹底されていた。
『誕生日に、死にたいんです』
 蘇った声が、耳鳴りに変わっていく。気付くと、格子戸に手を伸ばしていた。隙間から恐る恐る中をのぞき込んでから、息を吞む。殺風景な畳の部屋で、一人の人間がうつ伏せに倒れていた。この位置からだと容貌は確認できないが、全く動く気配はない。昨夏と同じ冷たい汗が背筋を伝い、肌があわつ。
「大丈夫ですか!?」
 ナースシューズを脱ぐのも忘れ、急いで駆け寄った。倒れている人間の顔を確認すると、一気に肩の力が抜けていく。張り詰めていた周囲の空気が、一瞬で緩んだ。
「……海野先生?」
 私の声が、茶室に漂うい草の香りに交ざり合う。眠っていたSOGI支援医の口元には、垂れたよだれが白く跡を残していた。
「ん、何だ?」
「すみません……唸り声が聞こえて、患者がいるのかと思いまして」
「あぁ、ごめんなさいね。多分、あたしの寝言かも」
 部屋の隅には、丸まったドクターコートが放置されている。患者と間違えてしまった気恥ずかしさを、もっともらしい言葉で誤魔化す。
「あの……もう少しで、夜勤者の申し送りが始まる時刻になりますけど」
「えっ、噓。もう、そんな時間?」
 海野先生は素早く起き上がると、ドクターコートの方へ駆け寄った。胸ポケットから銀縁の丸メガネを取り出す仕草を、黙って目で追う。寝癖が目立つミディアムヘアは全体的にうねり、化粧っ気のない顔には砂塵のようなソバカスが点在している。年齢は四十代前半らしいが、童顔のせいでかなり若く見えた。
 SOGI支援医がドクターコートに袖を通し終えたタイミングで、軽く頭を下げる。
「申し遅れました。本日より第七病棟に異動となりました、看護師の倉木とうです」
 自己紹介の後、相手が瞬時に背筋を伸ばした。海野先生の背は低い。多分、一五〇cmと少し。私も凄く背が高い訳ではないが、頭一つ分の身長差があった。
「第七病棟で、病棟医長をしている海野あやです。これから、よろしくね」
 病棟医長は微笑みを浮かべ、後頭部にできた寝癖に指を絡ませた。穏やかな口調と飾り気のない外見は、去年の夏に突然声を掛けてもらった時と、全く変わってはいない。
「起こしてくれて、ありがとう。またスタッフに、怒られるところだったよ」
 多分、私のことは忘れているはずだ。ずっと別の病棟に所属していたし、昨夏以降は言葉を交わす機会もなかった。少しの淋しさを覚えながら、白衣のポケットに手を入れる。封を破っていないノド飴の感触が、指先から伝わった。
「私、お手洗いに寄ってから戻りますので」
 一足先に、茶室を出る。最後にもう一度振り返ると、格子戸の隙間から欠伸あくびをする横顔が覗いていた。

 時計の針が午前八時半を指し示すと、ナースステーションで朝の申し送りが始まった。夜勤看護師が昨日の入退院の有無や、現在患者数を読み上げていく。その次に、師長の朝礼コメントが始まった。
「本日より新しいスタッフを一名、迎え入れることになりました」
 師長に促され、一歩前に出る。自己紹介を兼ねた短い挨拶が終わると、疎らな拍手がナースステーション内を満たした。その後は、夜間帯の患者の様子が申し送られていく。見知らぬ患者情報は、頭の中に留まらず消えていった。
 朝の申し送りが終わると、すぐに師長が近寄ってきた。
「倉木さん、どう? 緊張してる?」
「そうですね……閉鎖病棟とは、治療環境が全然違うので」
「大丈夫。すぐ慣れるわよ。第七は、経験豊富なスタッフが多いから。何かあったら、遠慮なく相談してね」
 今日は異動初日ということもあって、私はフリー業務を割り当てられていた。苦笑いを返すと、師長が早口で続ける。
「朝の師長会議が終わったら、病棟説明を行います。それまで、診察室で待機しててくれる?」
 診察室はナースステーションに併設する形で、二箇所並んでいる。廊下側とナースステーション側にドアがあり、両方から入室できる造りになっていた。指示された通り診察室に入り、空いている椅子に身体を預ける。一時だけ緊張がゆるみ、深い溜息が漏れた。
 数分後、ノックをする音が聞こえた。ドアの小窓からは、病棟医長の姿が透けている。今から患者の診察で、この部屋を使うのかもしれない。慌てて、立ち上がった。
「すみません。すぐ出ますので」
 入室してきた海野先生が、何故か手を横に振った。
「座ったままでいいよ。これから、病棟説明をするので」
「あのっ、それは師長が……」
「あたし、今週末に外部の人に向けたワークショップに参加する予定なの。ちょうど、第七病棟を紹介しないといけなくて」
 海野先生は、一台のノートPCを持参していた。それを机に置くと、改めて私の方へ向き直る。
「資料は作成したんだけど、まだ発表の練習をしてなくて。師長にはさっき、許可を取ったから」
 私の返事を待たず、身長と同じく小さな手がノートPCのキーボードを弾き始める。
「外部の人に向けた資料だから、倉木さんが既に知ってることも多いと思うけど。まぁ、復習のつもりで」
 画面には『当院のストレスケア病棟について』というタイトルが、既に現れている。エンターキーを押す音の後、スライドショーが始まった。
 冒頭は、富士見ウエスト病院の概要が続いた。医療法人が経営している精神科の単科病院であり、七つの病棟で構成されている。開院して三十年間、地域密着型の精神科病院として注目を浴び続けているらしい。
「病院の近くには、柳瀬川が流れてるでしょ。そろそろ桜が満開になるから、川沿いが綺麗に色付くの。何度かれちゃって、遅刻しそうになったな」
 練習をしたいという割に、病棟医長の口調はのんだ。
「次は第七の説明なんだけど……」
 スライドショーが切り替わると、第七病棟の外観を撮った写真が画面全体に表示された。
「出入り口を施錠しない開放病棟で、ストレスケアの治療が中心。受け入れている患者は、うつ病や不安症が多いね」
 病床数は全二十五床と当院の中では少なく、静かな環境で十分な休息が取れるよう設計されていた。病室は個室が殆どで、プライバシーに配慮した構造となっている。患者の中には入院しながら通学や通勤をしている者もいるらしく、勉強や調べ物ができるように図書室やパソコン室も完備されていた。その他にも、共用のキッチンや運動スペース、先ほどの茶室の写真が次々と画面に映し出される。
「第七病棟は、陽がよく入るように設計されてるの。自然と生活リズムの改善にも、一役買ってる」
 病棟設備に関する簡単な紹介が終わると、第七病棟で実際に行われている精神療法や心理教育、病棟プログラムの説明が続いた。
「うつ病の患者に対しては、安静期、活動期、復帰準備期と、三つのステップを目安に治療を進めてる。その他にも認知行動療法を用いた心理教育や、職場復帰プログラムなんかもあってね。倉木さんも近いうちに、プログラムの司会や書記をすると思うよ」
 閉鎖病棟と比較すると、管理的なニュアンスは薄い。患者の主体性を重視する治療が展開されていた。
「最後に、第七病棟で勤務するスタッフを紹介しようかな」
 第七病棟の常勤医は、海野先生を含め三名在籍していた。その他にも看護師や作業療法士、臨床心理士や精神保健福祉士の笑顔がスライドショーに映し出される。
「第七の説明はこれぐらいにして、実際に患者たちと会ってみる?」
 私がうなずくと、ノートPCを閉じる音が聞こえた。

 ナースステーションの向かいにある病棟ホールに、患者の姿はなかった。窓から差し込む光が、テーブルの上を密やかに照らしている。
「一階の病室から順に、顔を出すね」
 先に歩き出した背中を、慌てて追う。
「すみません、挨拶まで付き合って頂いて」
「回診のついでだから、気にしないで。午後の外来までは、病棟にいる予定だったし」
 今日が、例の外来日と知った。誰かの病室を目指しながら、場を繫ぐように一つ質問してみる。
「海野先生って、珍しい外来を担当していますよね?」
「あぁ、SOGI支援外来ね」
 SOGI支援外来は、セクシュアルマイノリティの『からだ』と『こころ』の健康をサポートしている。海野先生はセクシュアルマイノリティにフレンドリーな医師として、ちまたでは知名度が高い。何度かメディアに取材されたこともあり、遠方から受診する者も多いようだ。
「SOGI支援外来に受診した人が、ここへ入院することもあるんですよね?」
「そうね。そんなに多くはないけど」
「えっと、一つ疑問なんですが……」
 喉に声が絡み、言い淀んでしまう。あまりに単純な疑問過ぎて、訊くのを躊躇ためらった。それでも恥ずかしさを押し殺し、肺一杯に空気を吸い込む。
「セクシュアルマイノリティ自体に、病理はないですよね?」
「もちろん。決して、治る治らないの病気ではないよ」
 たとえ世間からすれば少数派でも、性の在り方は多様だ。納得しながらも、新たな疑問が浮かぶ。
「病理がないなら、どうして入院を?」
「そりゃ、メンタルヘルスに不調をきたしている人もいるから」
 SOGI支援医はドクターコートのポケットに両手を突っ込むと、足を止めた。
所謂いわゆるジェンダー外来の多くは、性別に違和感を覚えてる人を診察してるの。たとえば出生時に割り当てられた性別に強い嫌悪感があって、悩み苦しんでる方ね。中にはホルモン療法や性別適合手術を施行して、望む身体に近づこうとする人もいるから」
「それは……性同一性障害の方々?」
「今は、性同一性障害とは呼ばないかな。医学的対応を希望して診断基準を満たせば、『性別不合』や『性別違和』という呼び名を使用してる」
 どちらも馴染みのない診断名だったが、言葉の響きで意味は伝わった。
「つまり、トランスジェンダーの中でも医療のサポートを求める方だけが、そう呼ばれると?」
「そうね。あくまで『性別不合』や『性別違和』は、医学的な診断名だから。性別適合手術や戸籍の性別を変える時には、診断書が必要だからね」
 SOGI支援医の話では、世界保健機関(WHO)が作成している国際疾病分類が約三十年振りに改訂され、二〇二二年から『性同一性障害』が『性別不合』に改称されたらしい。これまで性同一性障害は『精神疾患』とされていたが、性別不合へと呼び名が変わることで、『性の健康に関連する状態』に分類されたという。この変化は、出生時に割り当てられた性別への違和感があっても、病気や障害ではないことを明確に宣言している。
「脱・精神病理化になって、少しでも差別や偏見が解消されることを期待してるの」
 隣の口元が、僅かに緩んだ。そんな嬉しそうな表情が伝播し、私の口角も少しだけ持ち上がる。
「海野先生の外来には、トランスジェンダーの方が多く通ってるんですね?」
「当院のSOGI支援外来は、門戸を広くしてる。セクシュアリティに関連したストレスを抱えてる方だったら、誰でも受け入れてるかな」
 レンズ奥にある瞳は、透き通っている。SOGI支援医は再び歩みを再開しながら、前髪を搔き上げた。
「セクシュアルマイノリティが、生きづらい場面があるのは事実だし。まだまだ悪気のない差別だって、多いからね」
 悪気のない差別という言葉を、胸の底に沈める。最近の動向も知らずに、全てのトランスジェンダーが性同一性障害だと勘違いしていたことを密かに恥じた。冷静に考えれば、性別を越境しながら生き生きと日々を過ごしている人もいるのに。ある種の属性を示す言葉は便利だが、時として個人を埋没させてしまう。
「挨拶、やっぱり二階から始めていいかな? 話題に出た、SOGI支援外来に通ってる患者が入院してるの」
 私は「お願いします」と返事をし、シワの寄ったドクターコートの後に続いて階段に足を掛けた。
 二階の廊下に立つと、病室の扉が陽の光を反射していた。検温から戻って来る何人かの看護師とすれ違いながら、海野先生と足音を重ねる。等間隔で並ぶ病室の扉は全て閉まっていて、患者の話し声は漏れ出していない。陽は昇っていても、まるで真夜中のような静けさが漂っていた。
「これから向かう病室には、たけあんさんっていう患者が入院してる。入院目的は、睡眠障害の改善かな」
 予想外の診断名を聞いて、鼻から小さく息を漏らす。セクシュアリティに関連したストレスが、睡眠の乱れを引き起こしたのだろうか。
「小竹さんの主訴は、頻回な中途覚醒と悪夢。三ヶ月ぐらい前から症状が出始めて、上手く眠れなくなっていったらしいの。それ以来、日中の生活にも支障をきたすようになってね」
「外来通院だけじゃ、対応が難しかったんでしょうか?」
「本人が入院を強く希望したってこともあるけど、最近は明らかに気持ちが不安定だったから。ご家族とも相談して、短期間の入院を提案したの」
 含みのある返事だった。海野先生が、丸メガネのブリッジを押し上げる。
「入院後は悪夢を見る回数も減って、今は本人の睡眠評価も悪くないね」
「これだけ静かな病棟なら、ゆっくり休めそうですね」
「そうね。そろそろ新学期が始まるから、退院の話もしてる」
 思わず、眉をひそめる。勝手に成人した患者を想像していたが、間違っていたようだ。
「……小竹さんって、まだ学生なんですか?」
「そう。この四月で、高校三年生」
 まだ十代と知り、奥歯を噛み締めた。自然と、両脚の動きが鈍くなる。正直、若い患者は苦手だ。谷口若菜さんの虚ろな眼差しが、また胸を濁らせていく。
「あそこが小竹さんの病室。申し送りを聞く限り、昨夜は良く眠ってたみたい」
 海野先生が目的のドアをノックすると、室内から「はーい」と間延びした声が届いた。
「小竹さん、入りますよ」
 幾ら気が引けても、病棟看護師として関わりを避ける訳にはいかない。無理やりでも、前向きな言葉を頭の中で繰り返す。休職中は、十分休めた。それに気持ちを切り替えるために、病棟だって異動している。きっと、今の私なら大丈夫。ゆっくり深呼吸をしてから、SOGI支援医に続いた。
 室内はカーテンが引かれているせいで、廊下よりも薄暗かった。窓辺に置かれた椅子に、一人の少女が座っている。病衣ではなく袖をまくったミリタリーシャツを羽織り、黒いスキニーパンツを穿いていた。両耳にぶら下がっているリング状のピアスが、薄闇の中で微かに揺れている。
「小竹さん、おはようございます。今って、少し話せます?」
「いいよ。今日はいつもより、診察に来るの早いね」
 小竹さんの髪型は、センター分けのショートボブだった。側頭部と後頭部が、青くなるほど短く刈り上げられている。服装も含め、かなりボーイッシュな印象を受けた。今時の高校生の間では、こういうかつこうっているのだろうか。
「調子はどうかな? 昨夜はよく眠ってたって、聞いたけど」
「追加の眠剤はもらわなかったよ。日付が変わる頃には、ぐっすり」
「なら良かったです。退院に向けて、この調子で睡眠リズムを整えましょうか」
「わかってる。最近は昼寝を控えて、真面目に病棟リハビリにも参加してるし」
 小竹さんは得意気に告げると、椅子から立ち上がった。しようとうだいに近づき、天板に並んでいたファンデーションやマスカラを退ける仕草が目に映る。そして何故か、スケッチブックを手に取った。
「先生、最新作見る?」
「その前に、カーテンを開けようか。薄暗いと、絵をちゃんと見れないもの」
 明るくなった室内で、改めて彼女を捉える。化粧はしてなさそうだが、目元には長い付けまつ毛がカールしていた。キメの細かい肌にはニキビ一つなく、杏仁豆腐のような白いみずみずしさを呈している。
「先生、今回の出来はどう?」
 小竹さんはスケッチブックの表紙を開き、海野先生に向けて差し出した。私も、つい一緒に覗き込む。紙面には、朝食に出される牛乳パックが描かれていた。あまりの上手さに、感心する声が漏れる。
「凄い、本物みたい」
 絵は白黒で、鉛筆一本で書き上げたのだろう。立体感や陰影も克明に表現されていて、かなり写実的だった。毎朝配膳する見慣れた牛乳パックが、一つのアートとして紙の中に存在している。小竹さんの視線を感じ、私は白衣に留めている名札に触れた。
「初めまして、看護師の倉木です。今日から第七病棟所属になったので、よろしくね」
「初めてのナースさんだと思って、ガン見しちゃった」
 観察していたのは、お互い様だ。一度微笑んでから、話題を広げる。
「小竹さんって、もしかして美術部ですか?」
「そうだよ。学校行事のポスターとかも、僕が描いてる」
 照れ臭そうに目尻を下げる表情を見つめながら、小さな違和感を覚えた。彼女は今確かに、自分自身のことを『僕』と呼んだ。

(このつづきは、本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名:在る。 SOGI支援医のカルテ
著 者:前川 ほまれ
発売日:2025年09月26日

性の在り方に関する不調をケアする「SOGI支援外来」に勤める海野の日々
「あなたの性にまつわる在り方は、あなたが決めて良いの。どんな選択をしたって、間違いなんてないしね」
富士見ウエスト病院には、性の在り方に関する不調をケアする「SOGI支援外来」がある。同外来を担当する、第七病棟医長の精神科医・海野彩乃先生は、マイペースな人だけど患者には優しい・意外と面倒見も良いという評判で、各地から患者が集まっていて……。

『藍色時刻の君たちは』で山田風太郎賞を受賞した現役看護師作家がおくる、希望が広がる医療連作短編集。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322305000746/
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