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試し読み

【試し読み】病室に持ち込んだ【自分史】には、「性別不合の診断を頂けたら、ホルモン療法を開始したいです」とあった。――前川ほまれ『在る。 SOGI支援医のカルテ』第一章~第四章の各章冒頭を特別公開!(3/4)

『藍色時刻の君たちは』で山田風太郎賞を受賞した、現役看護師作家である前川ほまれさん。
2025年9月26日に、最新小説『在る。 SOGI支援医のカルテ』を刊行します。

本作は、セクシュアルマイノリティの『からだ』と『こころ』の健康をサポートする「SOGI支援外来」を担当する医師・海野を中心人物とした物語。
海野が医長を務める第七病棟は、ストレスケアに力を入れている。
Xジェンダー、アセクシャル、レズビアン、トランスジェンダー……、セクシュアルマイノリティ自体に病理がなくても、現代社会の苛酷なストレス環境に苦しむ人がいる。
それぞれの「在り方」を見つめる、希望が広がる医療連作短編集。

本書の試し読みを、全4回にわたって公開します。どうぞお楽しみください。

▼ この作品の試し読み一覧はこちら
https://kadobun.jp/trial/arusogishienni/

前川ほまれ『在る。 SOGI支援医のカルテ』試し読み(3/4)

第三章 反転文字の向こうで

 目を開けて真っ先に感じたのは、酷い口の渇きだった。上手く唾が滲まず、舌に鈍い痛みが走る。昨夜は異様に鼻が詰まって、寝つきが悪かった。深夜からは熟睡できたが、ずっと口呼吸になっていたのだろう。ぼんやりした頭で、しようとうだいの上に放置していたペットボトルを手に取る。半分ほど残っていたコーラは、炭酸が抜けていて温い。喉がうるおったというより、不快な甘さが奥歯に染みた。
やまぐちゆうさん、朝食が来てまーす。病棟ホールまで、お越し下さーい」
 ナースコールのスピーカーから、看護師の間延びした声が響いた。とつに返事をしたせいで、コーラが口元から垂れてしまう。白いシーツに描かれた茶色のシミは、嫌に目立つ。転棟翌日に早くも寝床を汚した事実が、起き抜けの気分を沈めていく。
 スウェット上下のまま病室を出て、病棟ホールへ向かった。昨日まで過ごしていた閉鎖病棟の廊下は、専門学校と同じリノリウム張りだった。けれど、この開放病棟の廊下は全面カーペットが敷かれている。それに閉鎖病棟と比較して、明らかに窓が多い。朝陽で霞む天窓には、枯葉が一枚張り付いている。外は、今日も風が強いのだろう。昨日は木枯らしが、みちの落ち葉を舞い上がらせていた。
 既に朝食を終えた患者が多く、病棟ホールに人の姿は疎らだ。廊下に停まる配膳車には、下膳されたトレイが詰め込まれている。辺りに漂う納豆の匂いを嗅ぎながら、手付かずの朝食を探す。俺の食札が載るトレイは、ナースステーションのカウンターにポツンと置かれていた。
「山口さん、おはよう」
 病棟ホールで、倉木さんが微笑ほほえんでいた。彼女は、車椅子患者の隣で腰を下ろしている。トレイを持って挨拶を返すと、看護師は手にしているスプーンを動かした。
かわさきさん。あと一口で、小鉢は食べ終わりますよ」
 倉木さんがスプーンですくったのは、ドロっとした緑色の何かだった。思わず、自分の朝食を確認してしまう。同じ小鉢には、ブロッコリーと小エビのサラダが盛られていた。
「はい。口、開けて下さい」
 二人から、少し離れた空席に腰を下ろす。河崎と呼ばれる患者は、高齢に見える。後ろで一つに引っ詰めている髪は白く、頰や口元には深いシワが刻まれていた。仮面を付けているような無表情からは、上手く感情が読み取れない。うつろな眼差しはスプーンや小鉢ではなく、どこか遠くに注がれていた。
「しっかり、飲み込んで下さいね」
 病衣姿の河崎さんは、両肩から大判ストールを垂らしていた。ストールの柄はベージュ系のタータンチェックで、生地は起毛していて暖かそうだ。ここ最近は長引いていた残暑が落ち着き、二十度を下回る日が続いている。病棟内は空調が効いているとはいえ、薄い生地の病衣だけでは肌寒い。
「河崎さん。お茶も、飲みましょうね」
 倉木さんはスプーンを替え、小鉢の次にコップの中身を掬った。お茶も、朝食と同じようにドロっとしている。水分でムセ込まないように、トロミが付けてあるのだろう。今年の夏に亡くなった祖母も、入院先ではペースト状の食事が配膳されていた。当時の祖母は加齢の影響で、飲み込む力が落ちていたらしい。祖母の主治医からは窒息やえんが起こりにくい食形態と説明されたが、全くそうには見えなかった。
「まだ、口の中に少しお茶が残ってますね。全部、飲み込みましょうか」
 河崎さんから目を離し、垂れ下がった前髪を耳に掛ける。祖母のこともあって、初めは病院食に抵抗があった。けれど、入院してからの一週間で、そんな印象は覆っている。メニューによって当たり外れがあるとはいえ、俺の好物の生姜しようが焼きやアジフライも出る。何より一汁三菜が意識された献立は、味は薄いが身体には良さそうだ。まずはワカメの味噌汁をすすって、次に小鉢に箸を伸ばす。形があるブロッコリーや小エビは、隣の食事とは違って咀嚼そしやくを求めてくる。
「この茶屋の葛切り、味がしないね」
「葛切りじゃなくて、緑茶ですよ。それにここはお茶屋さんじゃなくて、富士見ウエスト病院ですからね」
「抹茶の水羊羹は、嫌いよ」
「えー? 河崎さん、この前は大好物って話してたけどな」
 二人の嚙み合ってない会話より、河崎さんの低くて太い声が耳に残った。視界の端で、もう一度車椅子を捉えてみる。河崎さんの横顔は、童話に登場する魔女を想起させた。高いわしばなはクールで、朝食が消えていく口は大きい。眼差しは虚ろだが、吊り上がった目元は涼し気だ。車椅子に座っていて正確な身長はわからないが、座高は倉木さんよりも高い。特徴的なハスキーボイスは、酒か煙草の影響だろうか。河崎さんが醸し出す雰囲気に、良く似合っている。
「最後に、朝のお薬も飲みましょうね」
 病棟ホールの掛け時計は、八時半に届きそうな時刻を表示していた。三十分後には、日勤のスタッフが病室に顔を出すだろう。俺は急いで納豆のパックを開け、付属していたタレとカラシを垂らした。
 朝食を食べ終えて自室に戻ると、ユニットバスの洗面所で身なりを整えた。洗面鏡に映るパープルに染まった長髪は、触れなくても毛先が傷んでいるのが伝わる。それに耳周りの刈り上げや生え際には、いつの間にか本来の黒が目立ち始めていた。入院してからはトリートメントでヘアケアができてないし、伸びた部分をバリカンで整えてもいない。早く退院したい気持ちを誤魔化すように、閉鎖病棟では回収されていたピアスを両耳にぶら下げる。
 ユニットバスを後にし、クローゼットからナイロン製のトラックスーツを取り出す。入院前に古着屋で購入したもので、ジャケットの胸元には海外のサッカーチームのエンブレムが刺繡ししゆうされている。今まで一度も球蹴りに夢中になったことはないが、この服のデザインはレトロで可愛い。何より、スポーツウエアは着ていて楽だ。
 アプリゲームでもしながら暇を潰そうと、ベッドに寝転ぶ。床頭台の上で充電していたスマホには、何通かLINEが届いていた。そのうち一通は母からで、今日の十四時に外出の迎えに来ることを告げる内容だった。絵文字やスタンプも付けず『了解』と返信してから、残りの未読メッセージに目を通す。全て専門学校のグループライン内でやり取りされていて、未読メッセージは二十通近くにも及んでいる。多分、文化祭の衣装制作に関する内容だろう。かすかな焦りを覚えながら、画面を操作する。最初のメッセージの送り主は、あいだった。
『袖のフリルなんだけど、シフォンよりレースの方が良い?』
 彼女は続けて、三枚の画像を送っていた。一枚目はレース生地、二枚目はシフォン生地のアップ。三枚目は制作途中のドレスをトルソーに着せて、全体が映るように撮影してある。画面をスクロールしていくと、グループメンバーの多くはレース生地への変更に票を投じていた。昔から多数決は嫌いだ。高い確率で、少数派にまわることが多い。
 改めて、届いた三枚の画像を見比べてみる。レースよりシフォンの方が、絶対に良い。確かにレースの方が華やかさは出そうだが、制作コンセプトの『Wind』からは離れてしまう。風をまとうような服にするためには、軽さと柔らかさが特徴のシフォンやオーガンジーを選ぶべきだ。一度瞼を閉じて、袖を通した状態を想像してみる。透け感やドレープの具合だって、シフォン生地の方が上手く表現できるはず。
 あれこれ考えた末、何も返信せずにスマホを枕元に放った。入院中に長々とシフォン生地への拘りを伝えたって、グループメンバーは戸惑うだろう。そもそも、他人の衣装に口を出している余裕なんてない。グループメンバーは既に本縫いまで進んでいるが、俺は仮縫いすら終わっていない状況。制作が滞ったまま、提出期限が刻々と迫っている。
 ひとり取り残された気分を抱きながら、寝返りを打つ。レース生地について考えていたせいか、病室の隅にあるチェストの引き出しが目に留まった。一段目の引き出しは、貴重品の管理ができるように鍵付きになっている。
 ベッドから下りて、チェストの引き出しを解錠した。その中から、左上がホチキス留めされたプリントを取り出す。プリントは、全部で五枚ある。表紙の四隅はレースのイラストで彩られ、中央には【自分史】とタイトルが書かれていた。
 ベッドの端に腰掛けて、表紙をめくる。一枚目は、主に家族構成や家庭環境について記されていた。簡単な家族プロフィールの他にも、カミングアウトの有無やその時の反応も記載されている。
『弟は【好きなように生きたら】と、理解を示してくれた。母親は【聞かなかったことにする】と、明らかに動揺していた。父親には現在も、カミングアウトできていない』
 二枚目から三枚目に掛けては、保育園、小学校、中学校、高校、専門学校の順で、今まで辿たどった生活についての記述が続く。内容の多くは、当時の行動や性に関する事柄に焦点が絞られている。
『保育園の頃は女の子と一緒に人形遊びをするのが好きで、髪の毛を短く切ることに強い抵抗を感じました。小学校入学時は黒いランドセルを背負うのが嫌で、赤いランドセルが欲しいと両親を困らせてしまいました。その頃から母の化粧品に強く興味をかれ、試しに口紅を塗ってみたりもしました。七夕の短冊に【女の子になりたい】と書いたことを、今でも憶えています』
 その他にも、ペニスがぶら下がっていることへの違和感について記述してある。
『同級生の男子のように立って排尿するのが嫌で、トイレではいつも座って用を足していました』
 第二次性徴が始まった中学時代は、主に身体の変化に対する強烈な嫌悪感や拒否感について記述してある。着替えで裸を見られるのを恐れ、プールの授業や修学旅行には参加していない。
『初めて夢精をした時は、身体は男である事実を突きつけられた気がしました。その日はベッドから起き上がることができず、学校を休みました』
 自分史から一度目を離し、馴染みのない白い天井をぼんやり眺めた。目頭を軽く揉んでから、再びページを捲る。
『高校生の頃に、初めて恋愛感情を覚えました。相手は、女バスの先輩です。初恋の先輩とは付き合えませんでしたが、ジェンダーアイデンティティを隠して、クラスメイトの女子と交際しました』
 自分の性をどのように認識しているかを示す概念を、性自認。恋愛や性愛の対象がどのような性別に向いているかを示す概念は、性的指向。その二つは独立した概念であって、分けて考えなければいけない。思春期の経験から性自認は女性で、性的指向も女性に向いていることに気付いている。短く言えば、トランス女性のレズビアン。世間から見たら、確実にマイノリティだろう。
『自由な校風で、制服はありませんでした。高校では親友と呼べる存在もできて、楽しい思い出が多いです』
 高校の同級生たちは流行に敏感で、スキンケアにも詳しい者が多かった。ニキビ跡や濃くなってきたヒゲをカバーするため、薄くファンデーションを塗って登校する男子もいた。
『当時の親友は、男性でした。彼のファッションはモード系で、似合えばスカートも抵抗なく穿いていました。自分も彼を真似て、あくまで前衛的なファッションに興味があることを装い、ユニセックスな服ばかりを着るようになりました。元々細身の体型なので、レディースの服でもサイズに困ることは少なかったです。化粧はしませんでしたが、口紅の代わりに色付きリップを常に持ち歩いていました』
 それから数分かけて、五枚目のプリントに辿り着く。最後のページには、今後の希望について記述してある。
『先生から性別不合の診断を頂けたら、ホルモン療法を開始したいです。既に脱毛は始めていて、女性らしい声を出すためにボイストレーニングにも通っています。将来的には戸籍も書き換えたいので、お金が貯まったらタイで性別適合手術を受けるつもりです。カミングアウト後の通称名は、らんにする予定です。子どもの頃から、ずっと好きな花なので』
 自分史は『これから徐々に、家族以外にもカミングアウトしていきます』という一文で、締め括られている。一番上を表紙に戻して、自分史を床頭台の上に置いた。読むことに集中して強張っていた筋肉を解すように、背伸びをして首を回す。トラックジャケットがシャカシャカ擦れる音に交じって、ドアがノックされた。
「山口さん、おはようございます」
 廊下から顔を出したのは、第七病棟の主治医だった。会釈を返しながら、今日も海野先生の髪型に目を奪われる。昨日と同じく、毛先はうねりながらあちこちを向いていた。頭のてっぺんには、電波を受信しているような寝癖が立っている。
「朝の回診です」
 海野先生が羽織っている白いコートは、まるで失敗作のデザイン画を一度丸めて、再び開いて伸ばしたようにくしゃくしゃだ。それに白いコートの胸ポケットには、カエルのペンが二本も挿してある。正直、センスが良いとはいえない。掛けているラウンド型メガネのレンズだって、手垢でくすんでいた。身なりに気を配れないほど、医者は忙しいのだろうか。閉鎖病棟で診察してくれた医師の小綺麗な服装を思い出し、頭によぎった考えをすぐに否定した。
「改めて見ても山口さんの髪、新鮮な巨峰みたいな色で綺麗ね」
 独特な感想を聞いて、わざとらしく口を尖らせる。
「それって、褒めてんすか?」
「もちろん。そういえば今年はまだ、ブドウ食べてないな」
「俺は入院する前に、シャインマスカットを食べました。皮のままイケるから、巨峰よりも好きっすね」
 海野先生との付き合いはまだ二日と短いが、閉鎖病棟の医師よりも話し易い。彼女の顔立ちが、ファッション経済学を担当している教員と少し似ているからだろうか。それとも、穏やかな口調が安心感をもたらすのか。明確な理由はわからないが、初対面から好感を持てた。
「新しい病棟に移って、ストレスを感じることはない?」
「ないっす。むしろ第七の方が、断然快適かな。閉鎖病棟では、スマホすら自由に持ち込めなかったし」
 それから、現在の食欲や睡眠について問われた。概ね問題ないことを答えると、今度は精神症状に関する質問が届く。
「今は変な声が聞こえたり、変なものが見えたりはしない?」
 言葉を詰まらせながら、周囲の物音に耳を澄ます。窓辺から鳥のさえずりが聞こえるだけで、嫌な気配は感じない。
「大丈夫っす。入院前は、どうかしてました……」
「今そうやって振り返られるのは、回復に向かってる証だね」
「だと、良いんすけど……」
 海野先生は両手を後ろで組みながら、更に質問を重ねた。
「入院当日は、小さなUFOが部屋の中を飛び回るのが見えたんだよね?」
「そうっす……他にも両親の話では『一角獣に殺される』って、怯えてたらしくて」
 支離滅裂な内容を放っても、主治医は全く顔色を変えなかった。正直、入院直前の記憶は断片的だ。あいまいにしか、憶えていない。
 初めて小さなUFOを見たのは、自宅で文化祭の衣装制作に励んでいる時だった。前身頃になる生地にばさみを入れようとした瞬間、視界の隅を何かが過った。顔を上げると、小さな円盤が自室を飛び回っていた。不思議と、動揺しなかったのを憶えている。小さなUFOは衣装制作の邪魔をする訳ではなく、本棚やベッド周囲を音も立てずに旋回しているだけ。窓から入り込む羽虫と、何ら変わらない気がした。あの時には既に、非現実な光景をすんなり受け入れてしまうほど、病魔に取り込まれていたんだろう。
 小さなUFOを無視して机に向き直ると、今度は背後から荒い息遣いが聞こえた。振り返ると、白い馬が四つ脚で立っていた。馬の背中からは大きな翼が生え、額からは長くて鋭いツノが鈍い光を放っていた。馬の黒目がちな瞳には獲物を狙う殺意が宿っていて、俺は叫びながらたらに裁ち鋏を振り回した。あの時は、突然現れた獣を追い払うことに必死だった。しかし一角獣は怯むことなく、槍のようなツノをこちらに向け続けた。
 俺の悲鳴を聞いて両親が駆けつけても、一角獣は自室に居座った。何度も二人に「一角獣に殺される」と訴えても、家族は眉根を寄せるだけだった。その後の記憶は曖昧だ。気付くと母が運転する車の後部座席で、父に腕を摑まれながら座っていた。
 富士見ウエスト病院の診察室にも、一角獣は現れた。俺の話す内容を聞いた精神科医は、即日閉鎖病棟への入院を勧めた。家族の同意を得て入院となってからは、すぐに尿検査が実施された。入院時は、何か違法薬物の使用を疑われていたらしい。
 入院後は、ベッドとトイレしかない保護室と呼ばれる病室で過ごすことになった。室内にテレビはなく、スマホも回収された。保護室の鉄扉は外から施錠され、病棟スタッフと同伴でなければ廊下に出ることすらできない。殺風景な空間では何もすることがなく、昼夜問わず寝て過ごした。処方された薬を内服しながら二日間たっぷり睡眠を取ると、小さなUFOも一角獣も消え去っていた。
『入院前の強いストレスや不眠による、急性一過性精神病性障害だと考えられます』
 閉鎖病棟の主治医からは、そう説明を受けた。急性一過性精神病性障害は、その名の通り『急に、一時的に混乱する病』らしい。症状は幻覚や妄想が目立ち、興奮や錯乱を伴うケースが多いという。適切な治療を受ければ、短期間で改善に向かう予後良好な病のようだ。明確な原因は不明らしいが、強いストレスが関与して発症すると考えられていると聞いた。確かに、思い当たる節は幾つかあった。大好きな祖母が夏に亡くなり、まだ気持ちの整理がつかないうちに、あんな悲劇が起こった。それでも俺の混乱をよそに、日々は進んでいく。発症前は衣装制作に対する焦りも相まって、上手く眠れない日々を過ごしていた。そしていつの間にか、胸の中にあるコップの水があふれてしまったようだ。
『あと数日は、入院しながら学校に通ってみるのはどうでしょう? 当院には、開放病棟もありまして……』
 入院して一週間目に、この第七病棟への転棟を勧められた。閉鎖病棟と比較すると、ここは自由度が高い。無理なく元の生活に戻れるように、入院しながら学校や会社に足を運んでいる患者も多いという。
「山口さんは、UFOや一角獣に興味があるの?」
 ここ数日の出来事から、手垢で汚れているラウンド型メガネに焦点を合わせる。
「特別、好きって訳じゃ……ただ、学校でそんな資料を見たので」
 他のグループの一つが、オカルトや架空生物をコンセプトに文化祭展示の衣装を制作していた。興味本位でのぞき込んだ資料が、頭のどこかにこびり付いていたのかもしれない。
「山口さんは、服飾専門学校に通ってるんだよね?」
「そうっす。今は、文化祭に向けて忙しくて……」
「へぇ。文化祭では、何をするの?」
「グループコンセプトに沿って制作した衣装を、展示する予定っす。でも……俺だけ、進みが遅くて」
「今は入院してるからね。仕方ないって割り切ることも、時には大切かな」
 素直にうなずくことができない。衣装の提出期限は迫っているが、必死に作業をすればなんとか間に合う。退院への焦りが、再び燃え上がっていく。
「入院しながらでも……通学は、大丈夫なんすよね?」
「既に症状は消退してるし、可能ですよ。それじゃ、来週から通学してみる?」
 今度は深く頷いてから、一番気になっていることを訊いた。
「退院って……いつ頃に、なりそうすか?」
「数日通学して問題なさそうなら、来週中を目指しましょうか」
 今後の見通しを聞いて、俄然衣装制作に対するやる気が漲っていく。同時に、冷静さを失わないように自らを戒めた。ここで無茶をしたら、また振り出しに戻ってしまう。
「これも、学校の課題かな?」
 海野先生が、床頭台の上にある自分史を指差した。通学や退院に関するあれこれを一旦頭の隅に追いやり、下唇を軽く嚙む。結局、沈黙を返すことしかできない。
「実はあたし、SOGI支援外来を担当してるの。何かジェンダーアイデンティティや、セクシュアリティに関して悩みや困ってることがあったら、気軽に相談してね」

(このつづきは、本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名:在る。 SOGI支援医のカルテ
著 者:前川 ほまれ
発売日:2025年09月26日

性の在り方に関する不調をケアする「SOGI支援外来」に勤める海野の日々
「あなたの性にまつわる在り方は、あなたが決めて良いの。どんな選択をしたって、間違いなんてないしね」
富士見ウエスト病院には、性の在り方に関する不調をケアする「SOGI支援外来」がある。同外来を担当する、第七病棟医長の精神科医・海野彩乃先生は、マイペースな人だけど患者には優しい・意外と面倒見も良いという評判で、各地から患者が集まっていて……。

『藍色時刻の君たちは』で山田風太郎賞を受賞した現役看護師作家がおくる、希望が広がる医療連作短編集。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322305000746/
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