在る。 SOGI支援医のカルテ

【試し読み】自傷行為を繰り返してしまう担当患者は、「あの子を手放してしまった罰です」と口にする。――前川ほまれ『在る。 SOGI支援医のカルテ』第一章~第四章の各章冒頭を特別公開!(4/4)
『藍色時刻の君たちは』で山田風太郎賞を受賞した、現役看護師作家である前川ほまれさん。
2025年9月26日に、最新小説『在る。 SOGI支援医のカルテ』を刊行します。
本作は、セクシュアルマイノリティの『からだ』と『こころ』の健康をサポートする「SOGI支援外来」を担当する医師・海野を中心人物とした物語。
海野が医長を務める第七病棟は、ストレスケアに力を入れている。
Xジェンダー、アセクシャル、レズビアン、トランスジェンダー……、セクシュアルマイノリティ自体に病理がなくても、現代社会の苛酷なストレス環境に苦しむ人がいる。
それぞれの「在り方」を見つめる、希望が広がる医療連作短編集。
本書の試し読みを、全4回にわたって公開します。どうぞお楽しみください。
▼ この作品の試し読み一覧はこちら
https://kadobun.jp/trial/arusogishienni/
前川ほまれ『在る。 SOGI支援医のカルテ』試し読み(4/4)
第四章 種の行方
診察室の空調は、先週と変わらず効きが悪い。暖房は二十九度に設定しているが、もう一枚セーターを着込みたくなるほどの冷気が肌を
「……コンビニで買った、果物ナイフで切りました」
聞こえたか細い
「切ったところは、痛みます?」
「今は……別に」
色白の手が、ニットセーターの左袖を
「痛み止めの指示があるので、我慢せずスタッフに声を掛けて下さいね」
アームカットをした部分は、滅菌ガーゼで保護してある。創部は露出していないが、縫合した際の映像は今も瞳の中に残っていた。左前腕に刻まれた切創は長く、計十六針も縫っている。幸い果物ナイフは筋層まで達していなかったが、あと少し傷が深ければ精神科単科病院での対応は困難だった。診療情報提供書を手早く作成し、近所の総合病院に受診してもらう羽目になっていただろう。
「切った時は、想像してたより痛くて……怯んじゃいました」
坂井さんは真っ白なガーゼの表面にそっと触れ、再び口を閉ざした。ガーゼの色と対比するように、右手の中指には黒い指輪が光っている。指先のネイルはブルーで、雪の結晶のイラストが描かれていた。先月の入院時は正月を意識してなのか、お餅のイラストだった。いずれはネイリストになりたいと語っていたし、自ら描いたのだろうか。
「本当は、もっと深く傷付けたかったですか?」
「はい……今度は、成功させます」
不穏な宣言に内心動揺したが、顔色を変えずに細い息を吐く。
「院外散歩中に、何か嫌なことでもあったんですかね?」
数秒経っても返事はなく、空調のノイズが際立つ。それでも今は急かさず、待つことに決めた。彼女が
「入ったカフェの隣の席で、赤ちゃんが泣き始めて……まだ、髪の毛も生え揃ってないぐらいの」
未だ
「母親があやしても、泣き止まなくて……気付いたら、あの子のことを思い出して……」
「あの子というのは、息子さん?」
彼女が小さく首を縦に振ると、
「あの子を初めて抱いた時や……乳児院に預けた日のことが、次々と頭の中で蘇って……」
「赤ちゃんの泣き声が引き金となって、フラッシュバックが起きたのですね?」
坂井さんは否定も肯定も示さず、垂れ下がった前髪を耳に掛けた。血色の悪い唇が、再び上下する。
「自分を傷付けるのは……罰だから」
「罰?」
「あの子を手放してしまった罰です……だから薄皮一枚程度じゃ、意味ない。軽すぎる」
淡々と言い切る口調が、背筋に汗を滲ませた。自傷行為に至る患者の多くは、誰かの気を引こうとしている訳ではない。結果的に周囲を巻き込んでしまう場合もあるが、診察をしていると「血を見たら、生きている実感が湧く」とか、「不安や憂鬱を、痛みで誤魔化したい」とか、「見えない心の痛みを、身体に置き換えている」等の返答がある。自傷行為は辛くてどうしようもない今を、生き抜くための対処行動なんだろう。十六針も縫合した傷口は、彼女の声にならない言葉なのかもしれない。
「あの子、先週で一歳の誕生日だったから……」
脳裏に、一枚の写真が浮かんだ。産婦人科医や助産師に囲まれた母が、生まれた直後の僕を抱きしめている。医療スタッフたちは満面の笑みを浮かべているのに、母だけが硬い表情で
「
呼ばれ、頭の中の写真を破り捨てる。いつの間にか坂井さんが、顔を上げていた。
「私、死にたいです」
今日の天気について話すような、軽い口調だった。切迫している様子はないが、妙な真実味を感じる。たとえ自傷行為に複雑な心理が働いていても、やはり自らに刃を向けることは不健康な行為だ。放置していれば、自傷行為がエスカレートしてしまう恐れがある。最悪、死に至ることも。
「自ら死を選ぶのは、良い判断とは思えませんね」
「……どうして?」
「もし坂井さんが亡くなったら、悲しむ人がいますし」
「……そんな人、いないし」
「少なくとも僕は、とても悲しいです」
坂井さん以外の患者からも、希死念慮の表出があったことは数え切れない。けれど一度だって、相手を納得させる返答をできた実感は無かった。「家族が悲しむから」と思っても、患者の中には何年も親族と没交渉の者もいる。「せっかく
どうして、自ら命を絶ってはいけないか。
そんな簡単そうな問いに、上手く答えられない。本当のところ自ら死を選んではダメな理由なんて、誰も知らないのかもしれない。
「生きてるだけで、迷惑を掛けちゃうので……」
「迷惑を掛けずに生きてる人なんて、いないと思いますよ。勿論、僕も含めて」
「私の迷惑を掛ける度合いは……滝本先生より、ずっと酷いから……」
抑うつ気分の影響なのか、心理的な視野
「こんな役立たずで……子育てもできない女は……消えた方が良いんです……」
沈鬱な内容が、更に室温を下げていく。今日は自責感と共に、希死念慮も強い。危険な自傷行為の直後であるし、診察後に気分安定薬を加剤した方が良いだろうか。
「滝本先生にも、見捨てられるし……この先、どうしたら……」
その解釈に対しては、ちゃんと訂正しておいた方が良い。
「それは、勘違いですよ。坂井さんのことは、
「その新しい先生って……どんな人?」
「僕より、かなりベテランです。
彼女は
「新しい主治医は……海野先生じゃ、ダメ?」
坂井さんの外来主治医の名を聞いて、鼻先を搔く。新しい病棟主治医に関しては、来年度の人事を踏まえたトップダウンだ。よっぽどのことがない限り、再びの変更は難しい。
「海野先生は、第七病棟に所属してますから。転棟でもしない限り、それは厳しいです」
本当は希望通り第七病棟に入院できれば良いが、あそこは主にストレスケアに力を入れている。この第二病棟とは違って開放病棟であるし、症状が比較的軽い患者が入院対象となっていた。今の坂井さんの病状では、適応外だろう。
「なら
「まずは、海野先生の予定を伺ってみないと。でも、何故です?」
彼女の血色の悪い唇が、二枚貝のように閉じた。色白の頰を伝った涙が、顎から床に
「新しい先生は……いつから?」
「来週です。以前もお伝えしましたが、僕は二月末日付けでの退職なので」
有休消化の兼ね合いもあり、実際に出勤するのは明後日で最後だ。こちらの都合で申し訳ないと思いつつ、仕方ないと割り切る。彼女の場合、様々な病院スタッフと関わった方が良い。特定の太い繫がりは、依存関係に陥り易くもある。たとえ細くとも沢山の糸を張り巡らせていた方が、症状の回復や自立への助けになるはず。
「滝本先生って……次は、どこの病院で働くの?」
新たな質問を耳にし、去年の二月に病院見学へ行った際の記憶が蘇る。この地とは違い、氷点下の空気は内臓まで凍てつかせるように厳しかった。浴びた風は皮膚を切り裂くように痛く、外を歩けば紫煙のような白い息が空中を舞った。路肩に寄せられた雪は大人の背丈ほどの高さがあり、凍結した路上に足を取られたのは一度や二度じゃない。コートや靴を雪で湿らせながら見上げた空は広く、どこまでも陰鬱な灰色に覆われていた。
「北海道の精神科病院です」
「かなり、遠いんだね……実家が近いの?」
「いえ、実家は千葉ですので。その病院で、やりたいことがありまして」
坂井さんは何度か洟を啜るだけで、それ以上のことを訊いてくることはなかった。
「僕のことはどうだって良いんです。それより、一つ提案がありまして」
それから、他病棟で実施している治療プログラムへの参加を促した。その集まりでは若い患者が中心となって、自傷行為や希死念慮について話し合っている。参加者は坂井さんと同年代の者が多く、馴染み易いだろう。何より、テーマが合っている。
「坂井さんは診察室以外でも、誰かに気持ちを打ち明けられる場所が必要な気がします」
当事者同士の繫がりは、回復の一助になり得る。対面から小さな溜息が聞こえたが、気付かない振りをして
坂井さんが診察室から退出すると、スリープ状態だった電子カルテを起動させた。記憶が新鮮なうちに、診療記録の記載に取り掛かる。その途中で着信音が鳴り、ドクターコートの胸ポケットからPHSを取り出した。液晶画面には、『PSW 岡田樹里』と表示されている。
「お疲れ様です。滝本です」
「お疲れ様です。今って、少しお時間よろしいですか?
ちょうど患者対応を終え、第二病棟の診察室でカルテ記載の最中だったことを告げると、岡田さんがここまで来てくれることになった。今彼女は外来にいるらしく、急いで向かうという。
電話を切り、書きかけの診療記録を仮保存した。次に画面を第二病棟の患者一覧に換え、工藤亮介の名を探す。しかしもう転棟したせいか、見つからない。今度は転棟先の第七病棟の患者一覧を選択すると、目的の名を発見することができた。まだ電子カルテ上は主治医の変更が済んでおらず、『滝本
『工藤亮介、三十九歳、男性、心因性うつ病、精神遅滞。既往歴なし。現在まで違法薬物の使用なし。喫煙・飲酒歴なし。家族歴としては、実父は
カルテ情報に不足がないか、改めて生育歴を読み込む。
(このつづきは、本書でお楽しみください)
作品紹介
書 名:在る。 SOGI支援医のカルテ
著 者:前川 ほまれ
発売日:2025年09月26日
性の在り方に関する不調をケアする「SOGI支援外来」に勤める海野の日々
「あなたの性にまつわる在り方は、あなたが決めて良いの。どんな選択をしたって、間違いなんてないしね」
富士見ウエスト病院には、性の在り方に関する不調をケアする「SOGI支援外来」がある。同外来を担当する、第七病棟医長の精神科医・海野彩乃先生は、マイペースな人だけど患者には優しい・意外と面倒見も良いという評判で、各地から患者が集まっていて……。
『藍色時刻の君たちは』で山田風太郎賞を受賞した現役看護師作家がおくる、希望が広がる医療連作短編集。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322305000746/
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