小説すばる新人賞デビューの新星、増島拓哉さんの最新刊『飢える骸』が、2025年12月22日(月)に発売されました。
組へのクーデターを謀る二人の極道が、「絶対に手を出してはいけない男」を利用しようとしたことで転がり始める、圧巻の極道エンターテインメント! 刊行を記念し、その冒頭を全3回に分けて特別公開します。
抗争、謀略、敵対組織、公安、裏切り、絆――全部盛り!
あの大沢在昌さんに「やりすぎ」と言わせた小説、気になりませんか?
とにかくページを捲る手が止まらないことをお約束します。是非お楽しみください!
増島拓哉『飢える骸』試し読み(1/3)
1
夜気が迫っていた。
深々と
心臓が
本宮が車の側を通り過ぎた。運転席の巌には、
扉を押し開き、車から降り立った。催涙スプレーを右手に持ち、背後から本宮に接近する。
「おい、コラ」
本宮が立ち止まり、素早く振り返る。
催涙剤を噴射した。オレンジ色の霧が、本宮の顔を覆う。
唐辛子に含まれるカプサイシンを主成分としたOCガスだ。少しでも目に入れば、斬り付けられたような痛みに襲われ、まず目を開けることはできない。吸い込めば、喉や鼻の粘膜が焼けるように痛み、声を出したり呼吸したりすることさえ、ままならない。
足許で、
左手で本宮の襟首を
本宮の腕を払い
トランクを閉め、運転席に回った。震える手でハンドルを握り、滑らかに車を発進させる。カーオーディオはアルバムの再生を終えたらしく、何の音も発していなかった。
2
目を覚ました本宮は、怒りと恐怖に満ちた表情で目を瞬かせた。衣服は全て脱がせ、両手足をベッドに拘束している。本格的なSMプレイに用いられる特殊なベッドだ。
巌は木の椅子に
「おい、ハゲ。なんや、これ。放せ!」
本宮が甲高い声で叫んだ。巌は無表情のまま、髪の毛の残っていない頭を
巌は口から
「
低い声で尋ねた。本宮が口を閉ざし、鋭く息を吸い込む。口をひくつかせ、目を見開いて凝視してきた。
「俺の娘や」
本宮が息を吐き出した。震えていた。
巌は立ち上がり、目の前の丸テーブルに置かれた工具箱を開いた。先端のサイズが一・二ミリメートルの精密マイナスドライバーを手に取る。拘束した左手の中指の爪と肉の間に、ドライバーの先端をあてがった。
「待て。おい、ちょう待て」
ゆっくりと、ドライバーを爪と肉の間に押し入れた。絶叫が
無言のまま、左手の爪を五本とも赤く染め上げていった。その都度、本宮が新鮮な叫び声を上げ、巌は
本宮が
ドライバーをテーブルの上に置き、煙草に火を
「許してください」
本宮が力なく言い、すすり泣き始めた。
巌は顔が笑い崩れるのを抑えられなかった。このときを待っていた。ずっと待ち望んでいた。十三年間、この日のためだけに生きてきたのだ。
「罪は、償ったやんけ」
本宮が悲痛な声で訴えた。突発的に怒りが押し寄せ、顔面を砕きたい衝動に駆られる。下唇を
「裕子の話をしよう。俺の娘の話や」
本宮が
「俺は三十歳で、
本宮は口を開かない。恨みがましい目が、小さく揺れ動いただけだ。
「裕子が中学のとき、俺らは離婚した。裕子が高校生のとき、明恵が脳
声が潤み始めているのに気付き、言葉を切った。鼻の奥が熱くなり、吐き気が込み上げてきた。深呼吸し、気持ちを整える。この男の前で涙を流したり、感情的になったりしたくはない。
「裕子は、こんな俺を愛してくれてん。こんなどうしようもない俺を」
「すいませんでした。ごめんなさい。何でもします。許してください」
「ホンマか。何でもすんねんな」
本宮が何度も大きく
「じゃあ、裕子、生き返らせてくれや」
本宮が全身を硬直させた。顔に浮かんだ
「俺は、クソみたいな人生やったんです」
息も絶え絶えに、口を開いた。
「母親は
「らしいな。母子家庭で虐待されて、友達も恋人もおらんかった。勉強も運動も苦手やった」
「教師も児童相談所の奴も、誰も助けてくれへんかった。誰か一人でも、俺を助けてくれてたら、あんなことせえへんかった。十三年間、ずっとそう思って反省してました。ホンマです」
「十五歳で通り魔するほど絶望するのは、普通やない。よっぽど、しんどかったんやろう」
「不思議なもんでな。裕子が死んで、お前の気持ちがちょっと分かるようになった。街で幸せそうな奴を見ると、ごっつ腹立つ。ギャーギャー騒ぎながらはしゃぎ回っとるガキとか、イチャついとる若者とか、酔っぱらったおっさん、おばはんとか、楽しそうな親子連れとか、どいつもこいつも、ぶち殺したくなった。なんで裕子は死んだのに、こいつらは楽しく生きとんねん。なんで俺は今こんなに苦しんどんのに、こいつらは幸せそうやねん。腹立った。許されへんかった。お前もそうやったんやろ。苦しくて寂しくて
誰でも良かった。本宮は取り調べでそう供述した。実際には、電車内で若い女を狙って刺し、二人目に女子高校生を刺そうとして、身を
「すんませんでした、ホンマに。取り返しの付かへんことをしたと思ってます。すいません」
神妙な面持ちで言い、
巌は鼻をひくつかせた。臭う。きつく、烈しく臭う。半世紀以上、極道として生き抜く中で培った
「お前を追い詰めて、凶行に走らせた原因の一端は、間違いなく社会にある」
巌は淡々と言った。本宮が
本宮が起こした事件に対して、とあるニュースのコメンテーターは「どうしても一定数、不良品は生まれてくる。その人達同士でやり合って欲しい」と口にして、批判を浴びた。別のタレントはSNS上で、「死にたい奴は一人で勝手に死ね」と書き込み、同じく批判を浴びた。
人間は工業製品ではない。テレビやSNSを通じて著名人が「不良品」などと想像力や配慮に欠けた乱暴な発言をすれば、社会や人生に絶望している者を追い込む結果になりかねない。誰の心の中にも、犯人と同じ闇が存在している―批判者達は、そうした論理を展開した。
「誰もが、あの事件の犯人になり得る。犯人と我々は、紙一重の違いしかない」
巌は厳かな口調で言った。事件当時、ニュースでインテリ文化人が口にしていた言葉だ。
本宮が曖昧な表情を浮かべていた。反応を決めあぐねているのだろう。計算高さが
巌は
「紙一重。それが、どないしたっちゅうねん」
本宮の眼差しが凍り付く。
「誰だってあの事件の犯人になり得る? だから、何や。誰だってなり得るからこそ、絶対になったらあかんのと違うんか」
本宮が喉仏を上下させた。何か言葉を発しようとしたが、遮るように強い口調で続ける。
「死にたい、誰かを殺したい。そうやって絶望してる連中は、人間や。そういう連中は不良品やないし、勝手に死ねとも思わん。何とか希望を見つけてくれ、思うわ。でも、お前は違う。お前は現に、刃物を振り下ろした。己の絶望の矛先を何の恨みもない相手に、裕子に向けよった。たった一人の、愛する俺の娘に」
巌は
「世間の連中とお前は、紙一重や。でもその紙切れ一枚は、絶対に踏み越えたらあかん。その一線を越えた奴は、もはや人間やない。そんな奴に、人権はあらへん」
「俺の苦しみは―」
「苦しみなんか、みんな抱えとる。裕子かて、抱えてた。
「まだ、十五歳やった! 俺はちっちゃい頃から!」
本宮が声を張り上げた。自分がいかに不遇な人生を送り、傷付けられてきたかを怒鳴り散らす。母親への
巌は立ち上がり、黒のフライトジャケットを脱いで、丁寧に椅子に掛けた。MA-1、かつて裕子がプレゼントしてくれたものだ。
「
工具箱の中から、電動ドリルと
「ヤクザが偉そうに、説教する資格あんのか! お前らヤクザなんか、社会のダニやろが!」
本宮が感情を
「ああ、そうやな。すまんかった。年取ると、つい説教臭なっていかんわ。自分のことばっか、棚に上げてな。話は、もっとシンプルや。やられたら、やり返す。極道やからな」
嚙み締めるようにゆっくりと言った。本宮の顔が恐怖に
「俺は屑や、お前と同じでな。お前が越えた一線なんか、とうの昔に越えとる」
電動ドリルのロックを外し、スイッチの引き金を引いた。低く澄んだ音が
(第2回は12月24日(水)18時に配信予定。お楽しみに!)
作品紹介
書名:飢える骸
著者:増島拓哉
発売日:2025年12月22日
大沢在昌氏、賞賛! 新鋭が放つ、圧巻の〈極道エンタメ〉!
大沢在昌氏、賞賛!!
「やりすぎだろ、増島。」
関西を拠点とする日本最大の暴力団・游永会。その最大派閥の若頭・瀬良は、兄弟分の森山とクーデターを画策する。それは、かつて「骸」と恐れられた元殺し屋・巌が率いる巌組と游永会の抗争激化を煽り、その混乱の中で両組織のトップを殺害するというもの。しかし瀬良たちが動き出す直前、巌は游永会組員を自発的に襲い始める。巌を抗争に向かわせる手間が省けたと喜び、これを利用しようとする瀬良と森山だったが、巌は二人の想定を遥かに超えた“化物”だった......。
小説すばる新人賞受賞の新鋭が放つ、制御不能の極道エンターテインメント!
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